第9話

 富田林茂(小田原市内の公園管理事務所勤務)と素子(主婦)の夫婦は、寛の両親であった。


「自分だけ特別だみたいな顔をするな!」父親はだらしのない息子を叱り飛ばした。


 寛がこれまで経験したあらゆる苦痛と苦悩は、父親から「そんなもの悩みのうちにも入らん!」と一蹴されるのが常だった。


「悩みがあるのはみんな同じ。他の連中の方がよっぽど悩んでいる。お前は何も分かってない!」茂はそう怒鳴りつけては息子の訴えを封じ込めた。


 そもそも、寛は己の悩みをわざわざ報告するつもりなどなかった。ところが、茂が「悩みがあるなら言ってみろ」としつこく迫るので、仕方なしに、就職が思うに任せないことや人付き合いがうまくいかないことを打ち明けたのだった。罠にはめられたようなものだった。


 不条理だとは分かっていても、寛はこの暴君と面と向かうと繰り返し電気ショックを与えられたモルモットのように萎縮して、何も口答えできなくなるのだった。


 茂は、説教をして悦に浸るたびに「お前は間違っとる!」と宣告した。客観的に判断すると、だいたいいつも寛の方が正しかったが、そうすると子供が親よりも正しいということ自体が間違いだとされるのだった。


 母親の素子は「お父さんの言うことが正しいよ」と言うばかりで何の助けにもならなかった。それどころか、彼女は幼少期から現在に至るまでの寛の失敗を面白がって近所中に話して回り、息子に大恥をかかせていた。


 息子に対するひたすらの否定を重ねることを、富田林家では教育と称していた。寛が将来何をしたいのか未だに分からないでいるのも、この教育と無縁のことではなかった。


 息子に偏差値の高い大学へ進学することを望んだのはまさにこの両親であったにもかかわらず、いざ寛が本当に偏差値の高い大学へ進学すると、彼らは途端に息子を敵視しはじめたのだった。しかも、留年した今となっては、寛はこの家で文字通りの冷や飯を食わされていた。


「お前がこれまでにやった一番の親孝行が何か知ってるか」父親は言った。


「いいえ」寛は、何も分かっていない能無しという割り当てられた役回りを演じて、言葉少なに答えた。


「お前の行ってるその何とか大学の学費が、他と比べて少しだけ安かったことさ」父親は嫌味たっぷりに言った。「私立にしてはな」


 寛は天を仰いだ。こうして天を仰ぐたび、それが数センチずつ降下してきているのを彼は察知していた。やがて落ちてくる天に押し潰される日も、そう遠くなさそうだった。

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