第8話
バイトのあとに立ち寄った市立図書館で、寛は飯田成美(東海大学卒・練り物屋の事務員)にばったり出くわした。
「なんでおれがアスペルガーなんだよ」寛は食ってかかるように言った。
「よしてよ、こんなところで」飯田成美は人目をはばかるようにして彼を表に連れ出した。
「噂を流しているのは本当にお前か」寛は昔の恋人を改めて問いただした。
「誰から聞いたの」
「バイト仲間の、友達の友達の友達の、そのまた友達が、お前から聞いたと言ってる」寛は、そう口に出してみると、自分の言ってることがひどく根拠薄弱に思えて弱気になった。
「私はそんなこと言ってません」成美はきっぱりと否定した。
「じゃあどうしてそんな噂が立つ」
「私って現実主義者なの」成美は、まるでそう言えば何をしても正当化されるとでもいうように、己の主義を標榜した。
高校時代に彼女と一年近く付き合った寛だったが、それでも彼女が現実主義者だったかどうか思い出せなかった。彼女ばかりでなく、同級生の誰も、どんな主義も持っていなかったような気がした。いずれにしろ、寛自身にはどんな主義もなかった。彼は何も信じられなかった。そのことは最近になって発見したわけではなかった。物心ついて以来、寛には信じられることなど何一つなかった。
「どうしてこんなこそこそ話さなきゃいけない」寛はバカげてると思って言った。人目をはばからなければいけない理由など何もなかった。
「大きな声出さないで!」
成美は鋭い語気で咎め、怯えたように周囲を見回した。まるで、こんなところを見つかったが最期、もうこれまで通りには生きていけないとでも言いたげだった。
「私が今何してるか知ってるの?」彼女は責め立てるように言った。
「いや」寛は少なくともこの一年、彼女を思い出したこともなかった。
「働いてるの」
成美は、大学卒業と同時に地元でよく知られた練り物屋に就職し、事務員として働いていた。彼女は、学生時代も今も実家に暮らしていた。現在交際中の恋人も、やはり地元に暮らし地元で働く二歳年上の会社員なのだという。
「邪魔されたくないの。分かるでしょ」
彼女の生活の基盤はここ小田原にあるということが言いたいようだった。
しかし、寛には分からなかった。彼もまた地元で暮らしていた。まだ身分こそ学生だったが、小田原市の住民だった。彼女の言い分はまったくの自分本位にしか聞こえなかった。それに、邪魔するも何も、今更彼女に何かしようなどと考えたこともなかった。
寛にとって、飯田成美は思い出の一つでしかなかった。だが、この女は二人が付き合っていたという事実自体がなかったと触れ回っているのだ。否定しているが、噂を流しているのはやはり彼女自身に違いないと寛は確信した。
「あなた、留年したんでしょ」成美は冷たく言った。
「どうして知ってる」寛は思いがけない反撃にあって動揺した。
「みんな知ってるわよ」成美は、なぜそこまでというほど、よそよそしく言った。
「どうして。誰から聞いた」
「友達の友達の友達の、そのまた友達から」
先ほどと同じ質問と同じ答えが、話者を入れ替えて発せられた。寛の劣勢だけが変わらなかった。
「おれに一体どうしてほしいんだ」寛は苛立って言った。
邪魔者扱いされなければならない謂れなど、どこにもないはずだった。どこかで話が食い違ってしまったに違いない。寛は原因を究明したかった。
「あなたって、基本的に私たちをバカにしてるのよね」成美は、昔のよしみなど微塵も感じられない、何とも疎ましげな目つきで寛を見た。
「何の話だ」
「留年までして、まだ大学生でいたいわけ。慶應義塾大学の」
彼女の口調は今や百万本の針のように尖っていた。高校時代に別れ話をしたときでさえ、こんなものの言い方をされた覚えはなかった。
「卒業できなかったんだ!」寛は成美の皮肉をはねつけた。「それに就職だって決まってなかった」妥協して、その事実も付け加えた。
「慶應義塾大学。画数の多い漢字ばっかり!」成美は攻撃の手を休めなかった。
「いいかげんにしてくれ!」寛はあからさまな当てこすりに我慢できなかった。
「言わせてもらうが、だいたい、大学なんて行きたくて行ってるわけじゃない。お前だってそうだろ。普通そうだろうが。大学に限らず、高校でも何でも。会社だって同じだろ。行きたくて行くわけじゃないだろ」寛は常日頃から感じていた不満を述べ立てた。
「そりゃ私が行った大学なんて行きたくないでしょうね、誰だって」成美は自分の好きなように解釈した。「東海大学。小田急線の東海大学前駅にあるのよ。駅から歩いて十五分。ずっと上り坂」
彼女はその道のりを四年間通った過去を思い出し、猛烈に頭に来たようだった。東海大学が小高い山の上にあることは寛も知っていたが、それは間違っても彼のせいではなかった。しかし、成美はそれさえ彼のせいにしそうな勢いだった。
「そういうことじゃなくて」寛は彼女の曲解を正そうとした。
「あなたの行ってる大学なら、誰だって行きたがると思ってるんでしょ」
「そんなこと言ってないだろ」寛は否定した。
「やっぱり。まるで自分の学校が優秀だみたいな口ぶり」成美は寛の発言を捏造した。
「だからおれはそんなこと言ってない!」寛は思わず声を荒げた。
「言いました」成美は確信に満ち満ちて言うのだった。
「なんて言いがかりだ」寛は、うっかり攻撃すると分裂して増殖するRPGのモンスターを相手にしているような気分になった。
「言っときますけど、そんなの思い上がりもいいところよ。私たちをバカにしないで」
何を言っても無駄だった。話せば話すほどすれ違い、憎み合っていくようだった。そのとき、寛はふいにまったく別の疑問にとらわれた。
「その私たちというのは誰のことだ」
「は?」
「私たち、と言った。私たちをバカにしないで」
「私たちは私たちよ」
寛は、つい最近どこかでその「私たち」という言葉と似た言葉を耳にしたような気がした。すぐに思い出した。それは「我々」という言葉だった。
「それは、我々ということか」
「は?」
「私たちというのは、我々のことか」寛は、自分がとんちんかんな疑問を口にしていることに気がつく余裕もなかった。
「同じことでしょ。どっちにしろ、あなたはそこに入ってないけど」成美は皮肉たっぷりに言った。
「なぜ」寛は歯軋りしながら言った。
「なぜでも」成美は間髪入れずに答えた。
「入れてくれと頼んだら?」寛はそのサークルの正体が掴めないまま、仲間に入りたいと熱望していた。
「無理」成美はあっさりはねのけた。
「なぜ」
「なぜでも」
寛の脳裏を、もう一つの恐ろしい言葉がかすめた。
「まさか、二十二条か」彼はたじろぎながら言った。
「二十二条?」成美は一瞬怪訝な表情を浮かべた。
「違うのか?」寛は一縷の望みを持って彼女を見た。
「いいえ」成美はやはり否定した。「違わない。二十二条よ」
寛は絶望の淵に立たされたような気持ちになった。
「あなたにはあなたの仲間がいるでしょ」成美は冷たく突き放して言った。
「いいや」寛は熟考してから答えた。「いないと思う」
「そんなことありえない」成美はそう言って去っていった。
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