第7話

 何をしたいのか理解することと、実際それができるかどうかはもちろん別の話だった。


 寛は、何とかして彼女と知り合いたかったが、講義で一緒になっても後姿を遠目に眺めることしかできなかった。彼にできたのは、毎日ひたすら彼女を想い続けるということだけだった。


「ドリア、注文入ってるよ!」


 尾尻(高校中退、フリーター)がやや切れ気味に言った。


 寛は白昼夢から覚めると、あわててドリアの皿をオーブンに入れた。


 それも束の間、またしても尾尻が「なんだこりゃ!」と悲鳴をあげた。フライヤーに放り込まれたまま忘れられ、すっかり黒焦げになったポテトを引き上げたのだ。


「おれだ」寛は真っ青になってミスを申告した。


 彼は二時間分の給料を引かれた。地元小田原でのファミレスのアルバイトは、時給八五〇円だった。


「お前、飯田成美って知ってる?」


 客足が引いて暇になると、尾尻が前置きもなく言った。


 尾尻は寛と同じ小中学校に通った同級生だった。高校は中退したとのことだったが、詳しい事情は寛も知らなかった。勤続三年の尾尻はシフトリーダーだったが、深夜勤務が多かったため二人が顔を合わせる機会はあまりなかった。寛としては、その方がありがたかった。


 寛は、尾尻の口から彼が知るはずもない飯田成美の名前が出たので驚いた。飯田成美は寛の高校の同級生であり、元恋人でもあった。


「知ってるけど、なんで知ってるの?」寛は動揺して問い返した。


「世間は狭い」尾尻は詳しい説明はしなかった。


「あぁそう」


「高校のとき付き合ってたな」尾尻は事実を確かめるように言った。


「まぁ、そうかな」


 飯田成美は、寛が初めて付き合った相手だった。色々な初めてを彼女と経験した。いい思い出もあれば、そうでないものもあった。


「彼女はそんな事実はないと言ってる」尾尻はどこか面白がるようにして言った。


 寛は最初その言葉の意味するところが分からなかった。それから、意味を理解して、驚きに目を丸くして言った。


「なんで?」


「さぁ」


「どうして?」


「知らんな」


「直接聞いたのか」寛は質問の方向を変えた。


「いいや。友達の友達の友達の、そのまた友達が、その彼女と友達でね」


 尾尻を追求しても埒が明かないようだった。


「彼女は、お前がアスペだとも言ってるらしい」尾尻はさらに言った。


「なんだって?」寛は耳を疑った。


「アスペルガー」尾尻は今度は略さずに言った。


 アスペルガー症候群のことは寛も知っていた。発達障害の一つで、社会性、コミュニケーション、想像力に障害のある病気だった。人の輪の中で浮いてしまったり、暗黙の了解が理解できなかったり、分かりにくい話し方をするなどの症状があった。


「なんで?」寛は思わず強い口調になった。


「知らねぇよ」


 尾尻はそう言うと、肩を震わせていっひっひと笑った。


 寛は、小学五年生のとき、板書している担任の女性教師の太ももを食い入るように見つめていたところを、尾尻に大声で指摘されたことを突如思い出した。おかげでクラス中が彼のいやらしい行為を知ることとなり、大恥をかかされたのだった。


 なぜ飯田成美がそんなことを言うのか、まったく見当がつかなかった。寛は、自分の女運の悪さを呪った。彼の多いわけでも少ないわけでもない標準的な女性遍歴は、そのまま心の傷の歴史だった。


 大学に進学して間もない頃に付き合ったのは、百瀬桃子(フェリス女学院・音楽学部)だった。音楽サークルの交流を通して知り合ったのだ。


 もともと見栄っ張りなところのあった桃子は、彼氏が慶應生ということが何よりの自慢で、フェリスの友人たちにも寛のことをあれこれ触れ回っていた。ただし、彼女には物事を自分のいいように誇張したり脚色したりする悪癖があり、寛はいかにもそれらしい人物として描写された。


 彼は、IQ140の頭脳を持ち、自由が丘の高級マンションで独り暮らしをしていることにされたのだった。芸能人の友達が大勢いて、俳優や歌手を部屋に招いてはパーティに明け暮れているというのだ。父親は国際線のパイロットだということにされた。母親は元客室乗務員で、職場結婚という設定だった。


 桃子は、寛に対して友人たちの前に絶対に姿を現さないよう要求した。ボロが出ないようにするためだったが、寛は否応なく従わされた。そのうち、彼女は自分が友人たちに伝えている話と寛の実像とがあまりにもかけ離れていることに耐えられなくなっていった。


 思い込みの強い性格である桃子は、しまいには寛に対してまで自分のすてきな慶應生の彼氏のことを自慢するのだった。もはや寛にさえ、その幻の男と自分との共通点を見出すことができなかった。


 交際から半年ほどで寛はふられた。その際にも、彼女の友人たちの同情を買うために、彼は死んだことにされたのだった。恋人のよしみで、寛は死に方を選ばせてもらうことができた。寛が選んだ死に方は、雷が直撃したことによる感電死だった。


「そしてぼくは稲妻を自在に操るダークヒーローとして復活する」寛は言ったが、その提案はあっさり却下された。


 湯川るり子(神奈川大学・人間科学部)とは、大学二年の秋から付き合いはじめた。二日間だけの試験監督のアルバイトで知り合ったのだった。


 湯川るり子は、百瀬桃子とは打って変わって、まったくおとなしい性格だった。おとなしすぎて、寛が話しかけてもうんともすんとも反応が返ってこないことも度々だった。電話で話しているときなど、ときどき彼女がちゃんとそこにいるのか不安になって、寛は「もしもし? 聞いてる?」と問いかけずにはいられなかった。不安を掻き立てる短い沈黙のあと、彼女はか細い声で「えっ?」と返事をするのだった。


当然のこととして、デートは気詰まりになることが多かった。彼女にはどこそこへ行きたいとか、何が食べたいといった望みもなく、寛は何も話さなくて済むようによく映画に誘った。


 ストーリー展開にのめりこんだときなど、場内が明るくなってふと隣に目をやるとそこに彼女がいて、思わず声をあげて驚いたこともあった。映画に夢中になるあまり、存在を忘れてしまったのだった。


 普段はおとなしいるり子だったが、二人で会っているときに携帯に電話がかかってくると、断りもせずに出るのだった。寛が話している最中でもお構いなしだった。るり子は、彼を放置したまま平然と長話に興じた。そういうときの彼女は、ぺちゃくちゃ喋り、けらけら笑い、普段とはまったく違っていた。


 彼女が電話を切ると、寛は相手が誰なのか問いたださないわけにはいかなかった。しかし、彼女はいつも「別に。大学の子」程度にしか教えてくれないのだった。


 三年生に進級したばかりの頃、寛は大学帰りの横浜駅で偶然るり子を見かけた。彼女はどこかの知らない男と腕を組み、見たこともないような笑顔で歩いていた。寛は大きなショックを受け、それから二度と彼女に連絡しなかった。彼女の方からも何一つ連絡はなかった。


 そのあとが坂下みな実だった。


 彼女との出会いは就職活動の場だった。坂下みな実はある売れない大所帯のアイドルグループに所属していたのだが、卒業後もアイドルを続けるか、それとも就職をするかで迷っていた。


 ルックスは十人並みだったが、昨今のアイドル事情においてはそれでも十分通用した。しかし、就職活動においてはそれではまったく通用しなかった。ルックスどころか、歌や踊りも彼女より達者な素人がいくらでもいた。


 坂下みな実は、将来に強い不安を覚えて精神の安定を失った。そうしたところへ、グループ内でいじめられるという事態が起きた。それまではどちらかと言えばいじめる側だったのだが、ついに順番が回ってきたのだ。


 きっかけは、彼女が控え室でスナック菓子を貪り食べていたことだった。みな実にしてみれば、面接を控えた製菓会社の商品を試食していただけだったのだが、ダイエット中の他のメンバーがこれを無神経な振る舞いとして不愉快に思ったのだ。


 いじめに怯え、精神安定剤を乱用したみな実は、混乱した行動を見せるようになった。会社説明会では他の就活生たちに「いつも応援ありがとうございます!」と言って握手して回り、ファンとの撮影会では唐突に就職の志望動機を喋りだした。マネージャーも事務所も何もしてくれなかった。


 彼女は次第にアイドル稼業がいやになりはじめた。いったんそう感じはじめると、すぐにそれが大嫌いになった。グループのメンバーも大嫌いなら、業界も大嫌い、自分たちに与えられた歌も踊りも大嫌い、おまけにファンも大嫌いになった。


 寛だけが彼女を見捨てなかった。彼は辛抱強く彼女の話に耳を傾け、愚痴や不安に理解を示した。しかし、それでも十分ではなかった。


 みな実が「死んでやる」と言って展望台から飛び降りようとすると、寛は腰にしがみついてさせなかった。みな実が「死んでやる」と言って睡眠薬を大量に飲むと、寛は彼女の両脚を掴んで逆さに振ってすべて吐き出させた。みな実が「死んでやる」と言って車道に飛び出すと、寛は交通整理をはじめて事故を防いだ。


 その挙句、「あんたなんか大嫌い!」と言われてふられたのだった。


 結局、みな実は大学を休学した。寛は、ご存知の通り、度重なる不幸に見舞われて入院したのだった。

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