第4話

 この四年間という意味では、寛はまったく楽しめていなかった。しかも、退院してみると大学から留年決定の通知が届いていた。彼は二十二歳になっていた。


 寛は自分が何をしたいのか分からないでいたが、それを知るために何をしたらいいのかもまた分からなかった。とりあえず就職活動を再開してみたものの、何をしたいのか分からないということが意識されると、それは去年にもまして苦痛なものとなった。


 エントリーシートを書くことからしてひどく難しかった。少しでも気を緩めると、企業を批判してしまうのだ。そうでなくても曖昧な物言いばかりが並んだ。例えば「もし通信サービスというものが機能しなくなったら、社会はどれほどの混乱に陥ることでしょう」などというように。


 寛は、未完成だからということとは別に、卒論のタイトルも明かさない方が賢明なのではないかと考えた。それは「商業主義の終焉、すべての主義の終焉、そして依然として世の中は金」といった。反発を招くだけになりそうだった。


 そうなると面接での会話も弾まなかった。彼を面接したある企業の人事部員は、「実を言うと、富田林さんがうちで働きたがっているようには見えないのです」とやんわり非難した。否定できなかった。


「聞いた話によると、きみは昨年いくつかの企業の面接を連絡も入れずにすっぽかしているね」沼尾教授(慶應義塾大学・経済学部教授)は慇懃に言った。


 寛は、就職のことをこの教授に相談したのは間違いだったと感じながら言い訳した。


「プライベートで色々ありまして」


「大学の評判を落とす行為だ」沼尾教授は、耳を貸す素振りも見せず、忌々しげに口元を歪ませた。「そしてもちろん、私の業績にも響いてくる。きみが私の学生だということを忘れてもらっては困る」


「は」寛は恐縮した。


「他の学生たちはもう全員内定をもらっている。きみは一体何をしているんだ」


「は」寛は恐縮した。


「この話はもういい。来週のゼミなんだが、プリンストン大の教授を招いて御茶ノ水の経済研究センターでやることになったから、間違いのないように」


「は」寛は恐縮した。


 翌週、寛は御茶ノ水の経済研究センターを訪れたが、そこでは沼尾教授のゼミなど開かれていなかった。プリンストン大の教授もいなかった。それ以前に、経済研究センターなどという建物自体が存在しないのだった。


「昨日、御茶ノ水に行きました」その翌日、寛は教授に抗議した。


「なぜ」沼尾教授は取りかかっていた書類から目を上げて、疎ましげに彼を見た。


「経済研究センターでゼミをやると仰ったので」


「御茶ノ水にそんなものはない!」教授は一喝した。


「では、どこに」寛は狼狽して言った。


「知らんね」教授はそっけなく言うと書類仕事に戻った。


 寛は納得が行かないまま、その場に立ち尽くした。


 就職がうまくいかなかったら、引き延ばし策として大学院に進学するという手もあった。しかし、とりわけ成績優秀でもない彼が大学院に進むためには、担当である沼尾教授の推薦が不可欠だった。寛は、そうなったときにこの教授は推薦状を書いてくれるだろうかといぶかしんだ。


 三分後、沼尾教授は再び目を上げた。「のわっ!」教授は寛がまだそこに立っていたことに驚き、熱狂的に万歳するかのように両手を上にあげて仰け反った。


「は」寛は不信を押し隠して言った。


「仕事は決まったのかね」教授はすばやく動揺を鎮め、乱れた髪を整えながら高みからものを言った。


「いいえ」


「ハローワークに行ってみるといい」教授はまるでその方角にハローワークがあるとでもいうように、人差し指で一方を指さした。その方角にあるのはドアだった。


「よろしいでしょうか」寛は出て行く前に是非とも訊きたいことがあった。


 教授は何も言わず、ただ睨むように彼を見た。


「いったい、あなたはどういった業績が認められて教授の地位に就かれたのですか」


 大学教授になる道はひどく険しい。特に、この大学の教授になる道はひときわ険しい。世良から聞いたところによれば、沼尾教授はこれまでろくに論文を発表したことがなく、発表した数少ない論文でも話題になったものは一つもないということだった。この男には目立った業績は一つもなく、その一方でもっと優秀な人材はいくらでもいた。それなのに、なぜこの男が教授なのか。


「私は何もしていないよ」それが沼尾教授のよこした返事だった。

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