第5話

 寛は、ある大手銀行のセンタービルに大学のOBを訪ねた。その銀行は、慶應義塾大学出身の職員が多いことで知られていた。


 面会を快諾してくれた宮田(慶應義塾大学・商学部卒)は、弱冠二十六歳にして幹部となった出世頭だった。


「見てくれ」宮田はビル内を案内しながら惜しげもなく言った。「好きなだけ見てくれ」


 寛の目の前を、現金をたんまり積んだ網かご台車が横切った。まさしく札束の山だった。これほどの量の現金を生で見たことがなかったので、寛は圧倒されて言葉を失った。


「八億ある」宮田は得意満面になって言った。「厚みでいくらか分かるようになる。もちろん、重さでも分かるようになる」


 寛は、八億円の札束を乗せた網かご台車を物欲しげな目つきで見送った。見るからに屈強そうな警備員が二名同行し、鍵も厳重にかけられていた。とても近づける雰囲気ではなかった。


「今、法に抵触するようなことを考えたね?」宮田がからかうように言った。


「いえ、滅相もありません」寛はあわてて否定した。


 しかし、図星だった。床に紙幣を敷き詰めて、げらげら笑いながら裸で転げまわり、群がる女たちの頬を札束で張るという夢想をしたのだ。


「毎日毎日、三十億から四十億の金が動いている」宮田は言った。「我々の金さ」


「わ、我々の金」寛は、使ってみたい言葉だったので、自分でも言ってみた。そうしながらも、若干の疑問がわくのを抑えることはできなかった。


「しかし、それは預金者の金では」


「はっはっは」宮田は軽快に笑ってその考えをいなした。「あるいはそうとも言えるだろう。しかし、そう厳密になる必要はない」


「そうなんですか」寛は合いの手のつもりで言った。


 だが、それは宮田には反抗的な態度に映ったようだった。


「きみは、どうも素直じゃないところがあるな」宮田は寛を横目に見て、不信感をにじませて言った。「本当にぼくの後輩なんだろうね」


「もちろんです。よろしければ学生証を」寛はあわてて財布を取り出した。


「よしたまえ!」宮田はそれを制して言った。


「は」寛は恐縮し、媚びへつらうように言った。「しかし、間違っても早稲田の学生などではありませんので」


「なに?」宮田が眉根を寄せ、険しい顔になって言った。「今、なんて?」


「え?」寛は、何かまずいことを言ったかとまごついた。「いや、あの、早稲田の学生などでは……」


「おーーーっと、っと、っと、っと、っと、っと、っと、っと、っと、っと!」


 宮田は一つひとつの「っと」にやたら力を込めて、大袈裟につまずいて言った。これが冗談などではないということは、それに続く口調から明らかだった。


「言ってはいけない言葉を言ったな」


「は」寛はとにもかくにも恐縮し、しどろもどろになった。「しかし、一体何が……」


「きみは、今、言ってはいけない言葉を言った」宮田はもう一度厳しく指摘した。


「早稲……」寛には何が起きたのか分からなかった。全然分からなかった。


「ハッ!」宮田は、手のひらをばっと突き出し、寛が愚かにも再び口にしかけた言葉を気合で封じた。


 寛は出かかった言葉を無理やり飲み込まされ、涙目になって口をつぐんだ。


「そんなものは存在しない。きみが言おうとしている言葉は、この世に存在しない。言葉自体も、それが指し示す対象も存在しない。つまり、まったく存在しない」


 宮田が殺気に満ちた目つきで言った。


「そ、そうでした」寛はわけが分からないながらもすくみあがって同意した。


 宮田が右手の人差し指をぴんと伸ばし、目玉をくりぬこうとするかのように突きつけてきた。


 寛は思わず後ずさりした。心臓が激しく脈打っていた。


「知っているだろう」宮田は言った。「その言葉を言った者にはペナルティが課せられる」


「ペ、ペナルティ」


「一万」


「いいい、一万」


「ちょうどうまい具合に、きみの財布には万札が一枚入っている」宮田は残虐非道になって言った。「人相を見て分かるようになる」


 宮田の見立てが完全に正確だったので、寛は身震いした。


「きみは二十二条を知らないのか」宮田が続けて言った。


「二十二条!」寛はどきりとして、床から三センチ飛び上がった。


「ある者が我々の一員であるなら、彼もしくは彼女はそれらしく振る舞わなければならない。それらしく振る舞えないのなら、その者は我々の一員ではない。我々のように振る舞い、我々が知っていることを知っているなら、それは我々の一員であり、我々である」


「そ、そうでした。ぼくとしたことが」


 寛はもごもごと口ごもった。それから、学生証を出そうとして手に持ったままだった財布からなけなしの一万円を取り出し、両端を指でつまんで恭しく差し出した。


「気をつけることだな」宮田は何のためらいもなく札を掴むと、目にも止まらぬ速さで上着の内ポケットにしまった。「実際、これについてはどれだけ注意してもしすぎるということはない」


「は」寛は、両手を身体の脇にぴたりとつけて、気をつけの姿勢になって恐縮した。


「これは我々の金さ」宮田は仕切り直して言った。


「左様でございます」寛は追従した。


「そうだとも」宮田は心地よさそうに言った。


 しかし、今度は別の疑問が寛をとらえたのだった。彼は、言ってしまった直後に言わなければよかったと激しく後悔することになる疑問を口にした。


「我々とは誰のことなのですか?」


「なんだって?」宮田はぎょろりと目を剥いた。


「いや、あの……」寛は居たたまれない気持ちになって、身体をもぞもぞ動かした。


「今なんて言った」宮田は容赦なく追及した。


「我々というのが、誰のことなのか分からないのです」寛は度重なる失敗に恥じ入りながら小声で言った。今すぐこの場から消えてしまいたかった。


 宮田はもはや疑問に答えてくれなかった。

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