隔世遺伝の非科学

今神栗八

★★★

 ウィッテンの主張通り、М理論の線分の一方に我々の宇宙、他方に暗黒物質が乗っているなら、重力による十一次元時空での相互作用は、ⅡB型の理論でメンブレーンの量子化をした方がうまくいくんだ。私がひらめいた、この方程式に、神岡XMASSエックス・マスの最新データを代入すれば、それが正しいと証明されるはず……。


――これは、宇宙が、裸になるぞ。


 私は少なからず興奮していたので、妻が個室に戻ってきて何と言ったのか聞き逃した。


「なんだって?」


「明日は夜八時には帰ってきて下さいって先生が」


 妻は、また私がベッドサイドテーブルに白い紙と例のハンカチを広げ、鉛筆の先をねぶっているのを見て顔をしかめた。


「それ、明日は晴香はるかの前で出さないでくださいよ。メモ用紙代わりにされたなんて知ったら、あの子、ショックで泣きだして運動会どころじゃなくなるわ」


 一般人である妻には理解してはもらえまいが……。


「これは、宇宙を解き明かすカギになる大事な……」


 案の定、妻は私を遮って、たしなめるように小言を継いだ。


「たった一人の孫娘が、なけなしのお小遣いでプレゼントしてくれた還暦祝いだから大事だとおっしゃってくださいな。それを、こともあろうに散歩中に……」


「書くものがある時だけ都合よくひらめく訳じゃない」


 私は広げられた赤い綿のハンカチに目を落としながらそこに書かれた方程式に再び想いを馳せ始めた。


「なら、散歩に行かれる時は、ボールペンとは反対側の耳に、メモ用紙を一枚、細長く丸めて挟んでおけばよろしいのではありませんか」


――非科学的な議論だ。いや、科学的なのか?


 私は目を上げないまま苦笑した。


「ともかく、明日の外出許可証はここに戴いてきましたからね。美紀たち夫婦が八時半に駅まで迎えに来てくれるそうですから、八時三分の電車に乗りましょうか」


「ああ」


 妻はまるでベテラン看護師のように、自分の腕時計を抗がん剤点滴のチャンバーに寄せて、流量を確認し終えると、棚の周りを整頓し始めた。


「そうそう、今朝、学長さんから電話があって、後任の客員教授が決まったって」


「ああ」


「それから、ゼミの学生さんたちが明日お見舞いに来たいって言って下さったけど、明日は留守しますのでってお礼だけ言っておきました」


「ああ」


「あなた、大丈夫? 今日は良くないの?」


 私が生返事を繰り返すものだから、妻は、書類整理の手を止めて心配そうに私を見つめた。


「いいや、計算してた」


 元気な細胞も一緒に攻撃しているのだから、気分がすぐれないのは当たり前だ。髪の毛が抜けたところで一向に差し支えない。食欲が衰えて痩せてはきたが、まだ自力で普通に立ち歩きできる。御の字だ。


「まことにお気の毒ですが……」


 余命を告げる主治医の沈痛な面持ちが非科学的で滑稽に思えた。


 死ぬことは、いい。


 どうってことはない。星もいつかは死ぬ。人も同じだ。それだけのことだ。問題は、いつ死ぬかだった。今の私は一日でも長く生きていたかった。あと少しでたどりつけるのだ。宇宙物理学界を震撼させるであろう発見に。


 あるいは、最期の日が変えられないというのなら、可能な限り、考えるための時間に割きたかった。今の私は一分が惜しかった。


 だが、非科学的かも知れないが、だからといって、もう二ヶ月近くも毎日世話をしてくれている妻に、用が済んだら帰れ、一人にしてくれ、とは言えなかった。妻は整頓を終えると病室のテレビをつけて、お茶をすすった。


「あら、雨かしら」


 雨雲が、黄昏にはまだ早い空をどんより覆っていた。


「ちょっと家に戻って、洗濯もの取り込んできます」


 私はしめたと思ったが、妻が出て行くとすぐに携帯が鳴った。自分の時間が邪魔されるのが嫌で、家族にしか教えていない私の携帯に、晴香から電話がかかってくるとは思ってもみなかった。初めてのことだった。


「あのね、おじいちゃん。宇宙って、何歳?」


「ほう」


 自分が晴香ほどの歳の頃、同じ質問を親父にしたなあと思い出した。なぜそんな質問をと訊けば、友達とおしゃべりしていて、そういう話題になったらしい。ママに訊いたら、そういうことはおじいちゃんが詳しいからと。


「明日、運動会が終わってから教えてあげよう」


「分かった。わたし、楽しみにしてる」


 電話を切ったら、妻がつけっぱなしにしていったテレビが天気予報を流していた。降水確率五十パーセント。


 どれくらい経っただろう。昨夜は方程式の解を考え続けてあまり寝ていなかったためか、私は夢とうつつをうとうと徘徊していた。


 ある大きさの恒星は最期には超新星爆発を起こす。私は星だった。最後に華々しく論文を発表すれば、この世ともおさらばだ。そのあとに残ったちっぽけな核に、ガスや塵が集まって、やがてまた新しい星になるのだ。


 宇宙屋の娘は、ついに宇宙屋ではなかったが、孫娘が宇宙屋にならないと誰が言いきれる?


「あら、てるてる坊主」


 見回りに来た看護師に見つけられてしまったか、と私は意識の奥底でおぼろげに思った。赤地に数字柄のてるてる坊主は、近いうちに孫の手に戻れば本望。だがもうしばらくは「希望」として手元に置いておきたい。そう願うのは非科学的か。


(了)

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隔世遺伝の非科学 今神栗八 @kuriyaimagami

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