第4話 向けられた恋心

 ――とんでもないものを拾ってしまった……と、かつて〈蒼き死神〉と呼ばれた男、ジルフォード=エル=クライシスは、大きな溜息を吐いた。

 拾ったのは物ではなく、人間だ。それも、どれだけ高価な宝石をもってしても敵わないだろう美しさを持つ娘。偶然にも賊から救い出した娘が、過去の異名を知っていたことには驚いた。しかし、その容姿を見て、ジルフォードは納得した。ジルフォードはとことんあの血筋に振り回される運命の下にあるようだ。


「ジルフォード様?」

 熱のせいか、潤んだ赤い瞳がジルをじっと見つめている。丸く大きな瞳は髪と同じピンクパールの色をした長い睫毛に縁取られ、ジルフォードの理性を崩壊させようと瞬いている。彼女に誘っている自覚はまったくないようだが。

(これは何かの拷問か)

 ジルフォードは二十九歳だ。見た所、エレノアは十代後半。一回りも歳が離れている。もしジルフォードが彼女の言葉を本気にして手を出せば、犯罪だろう。

「……熱のせいだな。寝て、頭を冷やせ」

 エレノアがジルフォードを好きだなんだと言うのは、賊に襲われ、怪我をしたせいだ。怖い思いをすれば、誰でも頭が混乱してしまう。命を救われれば、恋と勘違いすることもあるだろう。ジルフォードはそう結論づけた。エレノアも、そのうち今の気持ちが錯覚だと気づくはずだ。

 ジルフォードは、ベッドに横たわろうとしないエレノアを半ば無理矢理ベッドに倒す。ふわり、と柔らかな髪がベッドに広がった。その姿に、かつての記憶が一瞬蘇ったが、ジルフォードはすぐに意識から消し去った。

「……信じてくださらないのですか?」

 彼女は冷静に、悲しげにジルフォードを見つめた。その目はとても真剣で、ジルフォードはどうしていいか分からなくなる。彼女の想いが本物だったとしても、ジルフォードがそれに応えることはできないのだ。

「俺みたいな男を好きになるな」

「ジルフォード様だから、好きになったのです」

「悪いな。俺は、誰も愛する気はない」

 彼女の想いが真剣ならば、きちんと答えなければならない。だから、ジルフォードは本心を告げた。その言葉に、彼女はショックを受けているようだったが、涙を流し取り乱すこともなく、わかりました、と頷いた。

「俺のことよりも、自分のことを考えろ。夜中に姿を消せば、家族も心配しているだろう。家まで送るが?」

「いいえ。私は家出をしてきた身。あの家に戻る気はありません」

 エレノアは、きっぱりと言い切った。その瞳に宿る意志は強い。しかし、彼女が一人で外の世界を生きられるはずがない。無謀にも家出をしたことを怒ることもできるが、何か理由があるのだと思えば、ジルフォードは怒る気にはなれなかった。

「そうか。なら、今は怪我を治すことだけ考えていろ」

 そう言って、ジルフォードは掛布をかぶせた。

「ありがとうございます」

 掛布から顔をのぞかせ、エレノアがやわらかく微笑んだ。しかし、その双眸は不安そうに揺れていた。

「安心しろ。眠るまで側にいる」

 ジルフォードは、部屋にあった椅子をベッドの側へ持って行く。彼女の顔が見える位置に座り、頼りなさ気に伸ばされた手を握った。すると、エレノアの頬は真っ赤に染まった。自分を好きだという女性に対して、これは期待を持たせてしまう行為だったかもしれない。しかし、このまま放ってはおけなかった。

 握った彼女の手は細く、硝子細工のように繊細だった。

「ジルフォード様は、ずるいですね。でも、やっぱり好きです」

 そう言って、彼女は目を閉じた。

 ジルフォードがどんな人間かも知らないのに、エレノアは好きだと言って頬を染める。本気で、自分に恋をしている。そのことに、気付きたくもないのに気付いてしまった。会ったことはないはずだ。エレノアのように目を引く少女を一度でも目にしていたら、忘れられるはずがない。しかし、彼女はジルフォードを知っていた。接点は、昨日の夜だけなのに。

 しばらくして、エレノアが眠ったのを確認し、ジルフォードはそっと手を離した。離れる手のぬくもりを取り戻そうと、エレノアの手は無意識に伸ばされたが、ジルフォードはもうその手を握らなかった。


 エレノアに与えられたバールトン邸の客間を出ると、テッドが声をかけてきた。頃合を見計らって来てくれたらしい。

「ジル、彼女はやはり……」

 いくら屋敷の中とはいえ、どこに耳があるか分からない。テッドは途中で言葉を消したが、ジルフォードはその意図することを理解していたので短く頷いた。いつもは女のことばかり考えているどうしようもない馬鹿だと思っているが、本来テッドは頭が切れる優秀な男だ。バールトン侯爵家の長男という肩書がなくとも、彼はその頭脳だけでそれなりの地位を得ることができただろう。それだけ、ジルフォードはテッドのことを評価していた。なによりも、友人として、テッドのことは信頼している。

「……色々と複雑そうだね」

 そう言って、テッドは肩をすくめた。その言葉には、エレノアのことだけでなく、ジルフォードのことも含まれている。


 〈蒼き死神〉と呼ばれていた頃、ジルフォードはカザーリオ帝国の将軍だった。帝国軍の精鋭部隊である【白銀】を率いていた。そして、ジルフォードの右腕としてテッドも共に戦場にいた。

 その頃は、まだ『帝国』と名乗りはじめたばかりで、周辺国からはなめられていた。それらを蹴散らし、カザーリオ帝国を勝利に導いたのは、ジルフォードが率いる【白銀】に所属する騎士たちである。しかし、カザーリオ帝国が勝利し、強大な力を得るたびに、皇帝カルロスの様子は変貌していった。恐怖によって周辺国を支配し、カルロスは冷酷非道な皇帝だと言われるようになった。まだ帝国となる前までは、心優しい王であったのに。皇帝と近い位置にいたジルフォードは、何度もカルロスに進言しようとしたが、聞き入れてもらえず、最終的には酷い裏切りに遭い、帝国軍を去った。

 八年ぶりに〈蒼き死神〉と呼ばれ、ジルフォードの頭に過ぎったのは戦場での記憶だった。いい思い出など、ひとつもなかった。どこにいても、何をしていても、自分が奪った者たちの命を忘れることはできないだろう。その怨念を背負い、血に濡れた死神を、エレノアは好きだという。それは、ジルフォードのことを何も知らないからだ。知れば、きっと恐怖する。戦場で、ジルフォードを死神だと恐れた者たちのように。

「そんな難しい顔するなよ。ジル、お前はもう軍に縛られていない。自由に生きればいいんだ」

 テッドの気遣いに、ジルフォードは自嘲気味に笑う。

「死神の俺が自由に生きていいはずないだろう」

 テッドの言うように、ジルフォードはもう帝国軍に縛られてはいないが、奪った命の重みに縛られている。このまま、その重みを忘れて、自分の人生を生きることなど、ジルフォードにはできなかった。ジルフォードが強さを求めたのは、強くならなければ生きることができなかったからだ。自分の弱さに、打ちのめされていたからだ。そうして強さを求めるなかで大切なものができて、守りたいと思った。自分なら、守れると思った。将軍になり、すべてを守れる気でいた愚かな死神は、守りたかったものすべてを失った。

 ジルフォードの心はまだ、過去にとらわれている。


「だからって、軍の仕事をジルがやることはないだろう」

 そう言ったテッドの顔は呆れていた。

「お前、やっぱり知ってたのか」

 ジルフォードは、近頃帝都を騒がせている【新月の徒】という犯罪組織を追っていた。そうして、エレノアが襲われているところに遭遇した。もちろん、帝国軍も賊の集まりである彼らを追っている。テッドは今でも帝国軍に残って指揮を執っているので、【新月の徒】のことも把握しているのだろう。賊を見つけては捕まえている男がいることも。そのことを知った時点で、勘のいいテッドはすぐにジルフォードの仕業だと気づいたに違いない。それでも、何も言わなかったのは友情のためだろうか。

「僕が注意しても、ジルはやめないだろうし、帝都に配属している騎士たちよりも仕事が早くて正確だからね。街の安全のためにも、気付かないふりをしてたんだ」

「そうか。なら一つ言っておく。もう少しあいつらの訓練を厳しくした方がいい」

 かつては部下を指導し、訓練する立場にいたジルフォードの言葉に、テッドは苦笑まじりに頷いた。

「俺は店に戻る。ロイスも心配だしな」

 数年前から側に置いている少年を思い出し、ジルフォードは頬を緩めた。きっと、ロイスはジルフォードに文句を言うために待っているだろう。ジルフォードの帰る場所は、もう戦場ではない。罪滅ぼしのつもりで始めた小さな店で、店主であるジルフォードを待つ者がいる。それだけで、ジルフォードの重い心は少しだけ軽くなる。

「え、彼女を置いて行くの?」

 まさかこのまま帰ると思っていなかったのか、テッドが慌てた様子で追ってくる。

「俺がいない方がいいだろう」

 姿を見なければ、そのうち忘れるはずだ。〈蒼き死神〉に恋をしても、幸せにはなれない。それに、本来であればエレノアは、ジルフォードのような人間と口を聞く立場ではないのだ。


(それにしても、どうして守られているはずの皇帝の娘が外に出ているんだ)


 世間には隠された存在である、皇帝の娘。

 皇帝の護衛をしていたジルフォードは、何度か話を聞いたことがあった。皇帝は愛する宝石を大切に〈宝石箱〉で保管している、と。

 その名前は知らなかったが、宝石箱と揶揄される宝石の種類は知っていた。ピンクパールの髪、ルビーの瞳、パールの肌。そんな容姿の人間がそう存在するはずがない。ピンクパールのような輝きを放つ髪を見て、ルビーのように赤い大きな瞳を見て、ジルフォードはエレノアが皇女だと気づいたのだ。

 皇帝の娘が、皇帝の怒りを買った〈蒼き死神〉に恋をしている。

 そのことを皇帝カルロスが知ればどうなるか。ジルフォードは、エレノアが心配だった。あの皇帝には、昔の面影がまったくない。娘であろうとも、酷い仕打ちをするだろう。

 だから、ジルフォードが側にいない方がいい。ジルフォードが側にいなければ、恋心はきっとすぐに忘れられる。それに、もう軍を離れたジルフォードよりも、帝国軍の指揮官であるテッドの側にいた方が安全だろう。隠されているとはいえ、エレノアはこの帝国の姫なのだ。貴族であるテッドの屋敷ならともかく、ジルフォードのような庶民の側にいてはいけない。


「テッド、彼女のこと頼んだぞ」

「いくら友人の頼みとはいえ、それはできないな。ジルに任せる、と僕は言ったはずだよね」

「俺には彼女を守れない」

「本当に彼女のことを思うなら、僕の屋敷は安全とは言えないよ。父上が帰ってきたら、きっと彼女のことを聞かれる。〈鉄の城〉の話をされて、皇帝陛下の名が出るかもしれない。そうなれば、僕はきっと国のために彼女を差し出すよ」

 テッドの目は本気だった。彼が仕えているのは、カザーリオ帝国皇帝だ。その娘ではない。忠誠を誓った主の命には絶対だ。かつてはジルもそうだった。だから、ジルフォードはテッドを責めることはできない。

 エレノアの不安そうに揺れた瞳を思い出し、ジルフォードは覚悟を決めて溜息を吐いた。

「わかった。俺が彼女を保護しよう」

 そう言うと、それでよし、とテッドはにっこり笑った。

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