第3話 愛しい人の名
エレノアは夢を見ていた。
長年待ち焦がれていた、〈蒼き死神〉に会えた夢だ。
彼は生きていた。それに、エレノアを救ってくれた。やはり、優しい人なのだ。エレノアはますます彼を好きになっていた。そして、思わず告白していた。しかし、彼の答えを聞く前に、エレノアは目が覚めてしまった。
ぱちり。目を開いて見えた天井は、いつもの天使たちではなかった。ベッドの感触もいつもと違う。何かおかしい。エレノアは、首を横に回す。
「ここは、どこなの?」
まだ寝ぼけているのか、と思い何度も目をこすったが、見える景色は変わらない。エレノアが眠っていたのは赤い天蓋付きのベッドで、部屋は赤い薔薇模様の壁紙や絨毯で統一されていた。センスは悪くはないはずなのだが、エレノアはあまり好きではなかった。
ベッドから少し離れたところに、薔薇が刻まれた扉が見えた。とりあえず、部屋を出ようと思い、エレノアは起き上がる。
「いぃっ……!」
身体を動かした途端に、右足に激痛が走った。涙目になりながら、エレノアは自分の足を確認する。ドレスの裾をめくると、右足には丁寧に包帯が巻かれていた。
「もしかして、夢じゃなかったの……?」
足の痛みで、少しずつ昨日の夜の記憶が蘇ってきた。〈蒼き死神〉に会うために城を抜け出し、賊に遭遇。
そして、賊からエレノアを救ってくれたのは……。
「〈蒼き死神〉様っ!」
見間違いなどではなく、昨日エレノアを救ってくれたのは彼だった。心臓が震える。彼が、エレノアを救ってくれたのだ。この手当も、きっと彼がしてくれたのだ。この薔薇だらけの部屋も、彼の趣味なのだと思えば、エレノアはもう気にならなかった。
「ようやく、会えたのね……」
エレノアが胸を躍らせた時、コンコンとノックの音がした。彼かもしれない、とエレノアは居住まいを整える。
(まずは、助けてくれたお礼。そして、私の想いを伝える……)
心の中で何度も言葉を考え、そわそわと手を動かす。昨夜、咄嗟に〈蒼き死神〉に求婚したことを、エレノアはきれいさっぱり忘れていた。
彼に会えることが嬉しいのに、緊張のせいで胸が苦しい。どきどきしながらも、エレノアはノックに返事をした。
かちゃり、と扉が開く。
まず目に入ってくるのは、彼の蒼い髪、そしてその鍛えられた身体……かと思っていたエレノアは、しばし扉から入って来た人物を前に固まっていた。
「失礼するよ。傷の具合はどう?」
そう言って柔らかな笑みを浮かべたのは、金髪碧眼の美しい男だった。彼が入った瞬間に、部屋の中はまるで舞踏会のような華やかな空気に変わった。この部屋の薔薇は、彼を引き立てるためのものだったらしい。背が高く、すらりとした彼は簡素なシャツとズボン姿でも見事に着こなしていた。
しかし、いくら彼が美青年でも、エレノアが求めていた人ではない。警戒心を強くして、エレノアは男を見つめた。
「そう睨まないでほしいな、美しい人」
女性を虜にするような甘い声でそう言って、彼は片目を瞑ってみせた。
「あなたは、誰ですか」
「あぁそうだった、自己紹介がまだだったね」
そう言うと、彼は颯爽とエレノアの前に跪いた。
「僕の名前はテッド=スエル=バールトン。二十八歳、残念なことに独身だ。あなたのような美しい姫君に会えて僕はなんて幸運な男だろう」
うっとりと、彼はエレノアを見つめて言った。
しかし、エレノアはまったく彼を見ていなかった。
(バールトンって、あの、バールトン侯爵家の?)
カザーリオ帝国皇帝に仕える貴族の中で、最も力を持っているのがバールトン侯爵家だ。隠されている第一皇女の存在も、バールトン侯爵家ならば知っているかもしれない。それに、彼はエレノアを「姫君」と言ったのだ。女性に対する口説き文句かもしれないし、本当に皇女だと知っての言葉かもしれない。せっかく逃げてきたのに、あっという間に捕まってしまったのだろうか。
しかし、エレノアにとって重要なのはそんなことではない。
「テッド様、私を賊から助けてくれた方は、どこにいますか?」
エレノアは、ただ一言でもいい。〈蒼き死神〉と会って話がしたいのだ。そうすれば、もう心残りはなくなる。
しかし、テッドはおや、という顔をして口を開いた。
「あなたを助けたのはこの僕ですよ」
テッドは気遣うような笑みを浮かべて言った。
「いいえ、私を助けてくれたのは〈蒼き死神〉様でした」
「〈蒼き死神〉? 誰ですか、それは。きっと怖い思いをして幻でも見たのでしょう?」
その言葉を聞いて、エレノアは咄嗟にテッドの手に触れていた。
目を閉じて、その記憶の中に彼がいないか探す。
(……いた!)
蒼い髪の男が、気を失ったエレノアを大事そうに抱きかかえている。その光景を見て、エレノアの頬は熱くなる。しかし、彼はテッドにエレノアのことを任せると背を向けて行ってしまった。俺のことは何も言わないでくれ、と言い置いて。
目を開き、エレノアは呼吸を整える。視えたのは、昨日の記憶だ。テッドは彼に頼まれたから、その存在を隠そうとしているのだ。
〈蒼き死神〉は、自分のことを知られたくないようだった。
しかし、ようやく出会えた彼を、エレノアは簡単に諦めるつもりはなかった。
「そうですね。ではテッド様、お世話になりました。私は〈蒼き死神〉様を探します」
まだ右足は痛むが、歩けないほどではない。気合いでなんとかなりそうだ。
「僕も手伝いましょう」
「いいえ、結構ですわ」
「でも、その怪我では。それに、女性が一人で出歩くなど……」
「私、こう見えて結構丈夫ですの!」
心配して声をかけてくれるテッドを黙らせるべく、エレノアはベッドから飛び降りた。なんだか傷が開いたような気がするが、もうどうでもいい。
〈蒼き死神〉を探しに行くのだ。
「〈蒼き死神〉様の友人の方に、会えてよかったです」
驚きに目を開くテッドの横をすっと通り過ぎ、エレノアは扉を開けた。すると、そこには今まさに探しに行こうとしていた〈蒼き死神〉がいた。
長かった蒼い髪は短くなっていたが、群青色の瞳も、精悍な顔立ちも、内に秘める強い意志も、記憶の彼と同じ。
何と言えばいいのか、急なことでエレノアの頭は真っ白になる。あわあわと口を動かしていると、彼が溜息まじりに口を開いた。
「傷が開いている。まだ寝てろ」
そう言って、彼は軽々とエレノアを抱き上げ、ベッドまで運んだ。その様子を見て、テッドが苦笑を零した。
「隠しとけって言ったくせに、やっぱり気になって様子を見に来たのか」
「頼れるのがお前しかいなかったが、急に不安になったんだ。女たらしのお前に任せても大丈夫だったのか、とな」
「僕は女性を傷つけたことは一度もないよ」
というテッドの言葉は無視して、〈蒼き死神〉はエレノアの傷を確かめていた。女官以外の他人に素肌を晒したことも、触らせたこともない。右足にそっと触れる彼の手を感じて、エレノアは顔を真っ赤に染めていた。壊れ物を扱うように優しく、包帯が巻き直されている。無骨な手なのに、その動きはとても繊細で、エレノアはどきどきしっぱなしだった。
「〈蒼き死神〉様、昨日は助けていただいて本当にありがとうございました」
包帯を巻き終わった彼に、エレノアは頭を下げる。すると、彼は少し眉間にしわを寄せた。
「俺は、〈蒼き死神〉様ではなく、ジルフォードだ。昨日も思ったが、何故俺を〈蒼き死神〉と呼ぶ?」
〈蒼き死神〉という異名は、彼にとっていいものではないのだろう。しかし、彼を怒らせてしまったというのに、エレノアは喜んでいた。
ジルフォード。
ずっと知りたいと思っていた、彼の名前を知ることができた。それに、泣き顔ではない彼の表情を見ることができている。エレノアの中の〈蒼き死神〉は、あの泣き顔だけだった。やはり、他人の記憶の中で見るのと、自分の目で見るのは違う。彼の表情の変化や、その想いを直に感じられる。
エレノアは、自然と笑みを浮かべていた。
「何がそんなにおかしい?」
「いえ、あの……ジルフォード様に出会えたことが嬉しくて。私、ジルフォード様のことが好きなのです」
「……は?」
しばしの無言の後、ジルフォードは声を発した。顔には、理解できない、と書いてある。
「私は、エレノアと申します。もしよければ、少しの間でもいいんです。私と一緒にいてくれませんか?」
「…………」
「ジル、女性から誘わせるなんて駄目だなぁ。ほら、さっさと返事する」
無言で固まっている友人の肩をテッドがぽん、と叩く。しかし、それでもジルフォードは動かない。
「エレノアちゃん、大丈夫だよ。君のことはこいつに任せるから」
それじゃあね、と言ってテッドは部屋を出て行った。
残されたのは、告白をしたエレノアと、無言で立ちつくすジルフォード。
エレノアとしては、ずっと想い続けていた彼と話ができただけでも幸せだ。
「……ジルフォード様、大好きです」
本人を目の前にすれば、想いはどんどん溢れてくる。
エレノアの中には、八年分の想いが蓄積されているのだ。エレノアが悪魔の嫁になるのは、そのすべてを彼に伝えてからだ。
自分がどれだけの破壊力を持つ笑顔と言葉を彼に向けているのかも分からずに、エレノアは何かに耐えているジルフォードを見つめていた。
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