第2話 危険な夜

 結果的に、エレノアの脱出計画は成功した。

 しかし。夜を待ち、〈鉄の城〉を抜け出したまではよかったのだが、賊に遭遇してしまった。

 おそらく、最近帝都を中心に力をつけてきたという【新月しんげつの徒】だろう。


「っはぁ、なんで、こう、なるの……!」

 広すぎず、狭くもない部屋で十七年間ずっと閉じ込められていた姫が、あらゆる悪事を働いてきた賊から逃げきれるはずもない。

「お嬢ちゃん、もう追いかけっこはおしまいだ」

 気が付けば、数人の男たちに囲まれていた。月明かりに浮かぶ男たちの目は、どれもエレノアを獲物として認識していた。

 自分の容姿が人目を引くことは分かっていたのでフードを被ってはいたが、男たちにとっては女というだけで価値があるらしい。一応皇女であるエレノアにとっては、理解しがたい下品な言葉が飛び交っている。この集団のリーダーらしき髭面の男が、エレノアを見てにっと笑う。とても厭な笑みだ。

「そのフードを取って、よく顔を見せな」

 エレノアが無言で拒否すると、男は剣の先でフードを簡単にとってしまった。すると、男たちから声が漏れる。しばらく男たちはエレノアに見惚れていたが、リーダーの男はすぐに思考を切り替えたらしかった。

「……これはまた、暗がりの中で見ても分かるほど、美しい。さっき、〈鉄の城〉から出て来たよな? お嬢ちゃん、何者だ?」

 自分がカザーリオ帝国皇帝の娘だとバレては厄介だ。とはいえ、皇帝には兄である第一皇子しかいないことになっており、エレノアの存在は公表されていない。ここで皇女だと言ったところで笑われるだけかもしれない。

「何者でもありませんわ。ごめんなさい、急いでいるの。私のことは放っておいて」

 もちろん、放っておいてと言ったところで彼らが引く訳がない。男たちは当然のように武器をちらつかせ、じりじりとエレノアに詰め寄ってくる。

「大人しくついて来れば、傷つかずにすむぜ」

 エレノアは生まれてからずっと、同じ部屋で大人しく生きてきた。せっかく愛しい彼に会うために外に出たのに、何故また大人しく捕まらなければならないのか。


(私はまだ〈蒼き死神〉様にお会いしていないのに!)


 そう、エレノアが城を出たのは、〈蒼き死神〉に会うためだ。それなのに、何故こんな野蛮な男たちの言いなりにならなければならないのか。

 エレノアの何かがぶちんと切れた。

「馬鹿言わないで! か弱い乙女を集団で脅すなんて、最低のクズだわ。〈鉄の城〉付近で騒ぎを起こすとどうなるかご存じ? 皇帝カルロス様の威厳を穢した罪で処刑されるの。冷酷非道な皇帝に処刑されたいのなら、勝手に死ねばいいわ! 私を巻き込まないで!」

 エレノアはいっきに捲し立てた。他人に本気で怒鳴ったのは、初めてのことである。

 その美しい顔は怒りに彩られていたため、より一層迫力があった。しかし、賊にとってその反抗は痛くも痒くもない。怒りを露わにしているエレノアを面白がって、男たちは鼻で笑っている。

「きれいな薔薇には棘がある、ってことだな。俺は処刑なんて御免だから、お嬢ちゃんに大人しくなってもらおう。無理矢理にでも」

 エレノアが咄嗟に避けるよりも早く、髭面の男は剣を振り下ろした。焼けるような痛みと衝撃が、エレノアの右足に走る。体勢が崩れて、エレノアは地面に倒れ込んだ。

 “悪魔の花嫁”となるために、傷一つなく、女官たちの手によって美しく保たれていたパールの肌に、赤い鮮血が垂れる。右足のふくらはぎを斬られたのだ。初めての痛みに、エレノアは気を失いそうだった。しかし、このままでは男たちの好きにされてしまう。エレノアは大声で助けを呼ぼうとしたが、その口は当然のように塞がれた。痛みによる涙で視界が歪む。


 どうして、自分の人生はこうなのだろう。

 物心ついた時には、自分は悪魔の花嫁なのだと言われ、どうしてかと問うと世話係りの女官は何も答えなかった。

 だから、エレノアはその女官の記憶を覗いた。

 そして知ったのだ、父であるカルロスが悪魔に娘を売ったのだ、ということを。

 悪魔の花嫁だからなのか、エレノアには不思議な力があった。触れたものの記憶を視ることができるのだ。

 部屋の中しか知らないエレノアが外の世界を知るためには、誰かの記憶によって知るしか方法はなかった。

 この力のことは、誰にも話していない。自分が普通ではない力を持っていると気づいた時には、すでに心を閉ざしていたからだ。

 エレノアの元には、皇帝カルロスに逆らわないように、とカルロスに逆らった者の死を決定づけるものが定期的に届けられていた。それらは、エレノアがカルロスに逆らわないように、恐怖を植え付けるためのもの。エレノアが拒否しようとしても、強い怨念が宿った遺品からは、恐ろしい記憶が流れ込んできた。その度に、エレノアは自分の心を殺してきた。そうしなければ、壊れてしまいそうだったから。

 しかし、そうしてエレノアの元に届けられた遺品のひとつに、〈蒼き死神〉を見た者の記憶が宿っていたのである。

 遺品の記憶の中で、エレノアは〈蒼き死神〉に出会った。

 だから、心の底では分かっていた。彼はもうこの世に存在していないかもしれない、と。

 抜け出そうと思えば、エレノアはいつでも城を抜け出せた。女官や護衛騎士の記憶を覗けば、抜け道などいくらでも把握できる。ずっと部屋の中に閉じ込められていても、エレノアは鉄の城の全体像を頭に入れていた。

 それでも城に留まっていたのは、彼が存在しないという事実を確かめるのが怖かったからだ。他人の記憶の中で、エレノアは何度も何度も死んでいく者を見てきた。怖くて、苦しくて、心が痛かった。もう誰の死も見たくない。そう思っても、父の残虐な侵略は止まらない。エレノアの声など届かない。

 だからこそ、最強の〈蒼き死神〉ならば、父を止められるのではないかと思った。彼は、死神と呼ばれながらも他人の死を悼む涙を流せる人だから。きっと、優しい心を持っている。こんな血にまみれた世界を憂いている。エレノアと同じ。

 しかし、その彼がもういないかもしれない。

 十八歳の誕生日が近づいて、エレノアはようやくその可能性に向き合う覚悟ができた。

 たとえ死んでいたとしても、彼のことを知りたい。彼に、エレノアの想いを伝えたい。

 そうしなければ、悪魔にこの身をささげることなどできそうになかった。

 本気で、エレノアは〈蒼き死神〉に恋をしていたから。



「お、ようやく大人しくなったか」

 エレノアの足を斬りつけた男が、にっと笑う。

 〈蒼き死神〉に心を奪われてから、エレノアは他人の記憶を覗くことをやめていた。幼い頃は流れてくる記憶の渦を止めることはできなかったが、今では視ようと思わなければ視ることはない。恋をして、感情を思い出したエレノアは、彼に胸を張って会える女でありたかったのだ。

 しかし、このまま男たちに利用されたくはない。エレノアは、その手を男に伸ばす。エレノアは、触れることでその者の記憶を視ることができる。賊の弱味を握ることができたなら、脅すことも交渉することもできるかもしれない。

(〈蒼き死神〉様、ごめんなさい……)

 愛する人に内心で謝罪し、エレノアの指先は髭面の男の足に触れた。

 触れたのは、ほんの一瞬だけ。

 その瞬間に視えたのは、【新月の徒】の男たちが集まって何かを話し合っているところ。その中心には、顔のほとんどを仮面で隠した男がいた。仮面は真っ黒で、何か模様のようなものがあったようだが、よく見えなかった。

 あの黒い仮面の男が、【新月の徒】のリーダーなのだろうか。

「な、なんだっ! ……うごぇ」

 頭の中で記憶を再生していたエレノアの意識は、男の呻き声で現実に戻る。

 一体何が起きているのか。倒れていたエレノアが周囲を確認しようと顔を上げた時、信じられないものが視界に入ってきた。

 思わず、エレノアは足の痛みも忘れて叫んでいた。


「あ、〈蒼き死神〉様っ!」


 視界に入った鮮やかな蒼は、エレノアが何度も思い返し、恋い焦がれてきたもの。

 こちらに向けられた群青色の双眸は、エレノアが何度も自分を見て欲しいと願っていたもの。

 生きていた。彼は、生きていたのだ。思わず、目に涙が浮かぶ。

 エレノアは記憶の中ではなく、現実に存在する彼を見て、状況も、立場も、賊のこともすべて忘れて彼に釘付けになっていた。本当に会えるとは思っていなかったので、エレノアの頭は一瞬でパニックに陥った。


「私、あなたにずっと恋していたんです! 結婚してください!」


 何の脈絡もなく、エレノアはずっと抱いてきた想いを口にした。

 しかし、八年間恋い焦がれてきた彼の返事を聞くことなく、エレノアは意識を手放してしまった。緊張と、痛みと、貧血と、興奮のせいである。


 突然求婚された〈蒼き死神〉は、唖然としながらも気を失った彼女を宝物のようにそっと抱き上げた。

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