第十二幕
第十二幕
俺は自宅の夫婦の寝室のベッドの脇に腰を下ろし、枕で背中を支えながらベッドの上でかろうじて半身を起こしたナターリヤのか細い手首に指を当て、彼女の脈を診る。ベッドの隣に置かれた小さなベビーベッドの上では一歳になったばかりのヴァジムがすうすうと寝息を立て、その可愛らしい顔から時折笑みが漏れる事から察するに、きっと幸せな夢を見ているに違いない。
「よし、脈は正常だな」
そう言った俺の言葉は、真っ赤な嘘だ。実際のナターリヤの脈は日に日に弱まって行く一方だし、若干ながら不整脈の症状も見て取れる。しかしそんな残酷な事実を、寝たきりになってしまった今では枯れ木の様に痩せ細り、かつてはあんなに
「ありがとう、オレグ。それじゃあ今日はなんだか疲れちゃったから、あたしは先に寝るね。おやすみなさい」
俺の嘘を知ってか知らずか優しく微笑みながらそう言ったナターリヤは、起こしていた半身をベッドに横たえて枕に頭を乗せると、そっと静かに眼を閉じた。そして安らかなる眠りに就こうとしている彼女の横顔は、たとえ病魔に冒されて痩せ衰えた今でも凛として美しい。
「おやすみ、ナターリヤ。俺は寝る前に、もう一度だけヤロスラーヴァの様子を見て来るよ」
既に眠りに落ちたらしいナターリヤにそう告げた俺は夫婦の寝室を後にすると、二階の子供部屋へと足を向ける。そして物音を立てないようにそっと静かに扉を押し開けてみれば、子供部屋の照明は既に落とされており、真っ暗な部屋の壁沿いに置かれたベッドの上ではつい最近四歳になったばかりのヤロスラーヴァがすうすうと寝息を立てながら熟睡していた。
「ぐっすりおやすみ、ヤロスラーヴァ」
俺は彼女を起こさないように小声でそう呟くと、寝ているヤロスラーヴァの額から前髪の生え際にかけてをそっと優しく撫で上げる。すると撫でられたヤロスラーヴァは寝言の様に「ううん」と小さな声を漏らしながら俺の手を払い除けたが、幸いにも眼を覚ました様子は無い。そして俺は来た時と同じようにそっと静かに扉を閉めて、子供部屋を後にした。
「ナノも、おやすみ」
彼女の定位置でもあるリビングの暖炉の前で丸まって寝ている犬のナノにも就寝の挨拶を告げた俺は、家中の照明を全て落として戸締まりを確認してから、再び夫婦の寝室へと足を向ける。そして寝室へと戻って来た俺は夫婦共用のダブルベッドの、既に寝入っているナターリヤをうっかり起こしてしまわないように注意しながら彼女の隣にごろりと横になると、誰に言うでもなく「おやすみ」と一言呟いてから静かに眼を閉じて就寝の体勢に入った。明日はほんの少しだけでもナターリヤの容態が良くなっていてくれる事、また同時にヤロスラーヴァとヴァジムがいっそう健やかに育ってくれる事を切に願いながら、俺の意識はゆっくりと混濁して行く。
●
ハッと意識を取り戻した俺は、自分の視界に映る全ての物体が鮮やかな緑色の光でもって照らし出されていたので、一瞬だけ何が起きているのか分からずに混乱した。しかしその一瞬の後に、視界が緑一色なのは月の無い真っ暗な闇夜にパッシブ方式の暗視ゴーグルを装着しているからであり、ここはチェチェン共和国の首都グロズヌイの旧市街である事を思い出して平静さを取り戻す。
「よし、前進するぞ」
俺は誰にも聞こえないような小声で呟くと、手信号でもって背後の部下達へと前進を命じた。すると民家の陰に身を隠していた熟練の兵士達が一斉に前進を開始し、目標であるチェチェン独立派の
「総員停止。散開し、各自の持ち場に着け」
そして俺は物陰から、敵の野営地の様子をそっとうかがう。すると斥候に出したオーシプ上等兵の報告通り、およそ百数十人ばかりの
「よし、行くぞ」
今が好機と判断した俺は、タクティカルベストの胸の部分に固定されていたスタングレネードを二つばかり毟り取ると、それらの安全ピン抜いてから
「うわっ!」
「ぎゃあっ!」
スタングレネードの爆発によって眼と耳を潰される恰好となった
「ロシア連邦陸軍だ! 全員動かずに武器を捨て、手を頭の後ろで組んで地面に腹這いになって伏せろ!」
そう叫んだ俺は、手にした自動小銃の銃口を右往左往する
「撃て!」
無情なる俺の合図でもって、俺の部下達がAK-74、もしくは一世代前のカラシニコフ式自動小銃であるAKMを一斉に正射する。するとグロズヌイの夜の旧市街に反響する壮絶なる銃声と眩いマズルフラッシュと共に、抵抗を試みていた
「撃ち方止め!」
再び俺が手信号と共に命じると、カラシニコフ式自動小銃を構えていた俺の部下達がその手を下ろし、銃声がぴたりと止む。そして気付けば抵抗していた半数ばかりの
「よし。投降した捕虜を全員拘束しろ」
「素晴らしい。見事な手腕だったぞ、アレンスキー曹長」
やがて
「お褒めに預かり光栄であります、大尉殿」
俺と俺の部下達は立ち上がって姿勢を正し、背筋を伸ばしながらの最敬礼でもってクラシコフ大尉を迎える。すると返礼を返した大尉がこれを解いたので、それを確認した俺達もまた最敬礼を解いた。
「まったく、理想的な仕上がりっぷりだな、アレンスキー曹長。このまま行けば本格的に雪が降る前に、いや、さすがにそれは無理でも、来年のクリスマスまでにはチェチェン全土を掌握出来るだろう」
少しばかり希望的観測が過ぎるような気がしないでもないが、確かに現在の俺達の侵攻速度を鑑み、それを今後も維持出来れば、来年のクリスマスまでに敵の最終拠点を制圧する事も決して夢ではない。ちなみに、グレゴリウス歴を採用している他の多くのヨーロッパ諸国とは違ってユリウス暦を採用しているロシアでは、クリスマスは新年を迎えて以降の一月七日から開催される。
「それでは大隊指揮下の者は拘束した捕虜を外に連れ出し、待機しているトラックに搭乗させろ。途中で抵抗する者や逃走を企てる者があれば、任意で射殺しても構わん。それとアレンスキー曹長、お前には次の任務に関して事前に話しておきたい事があるので、耳を貸せ」
「了解しました、大尉殿。それで、話しておきたい事とは何でしょうか?」
「そうだな……。ここでは他の兵士達にも聞かれる恐れがあるので、少し場所を変えようか、曹長」
周囲をぐるりと見渡してからそう言ったクラシコフ大尉は、今しがた制圧したばかりのチェチェン独立派の
「誰だ!」
俺は叫び、手にしたAK-74の銃口を男子トイレの入り口へと向けた。
「糞!」
「畜生!」
ロシア語とチェチェン語の違いこそあれど、俺と少年はほぼ同時に同じ意味合いの言葉を叫び合いながら、やはりほぼ同時にそれぞれが構えた銃の引き金を引き絞った。深夜の廃ホテルの薄暗い廊下が互いの銃口から漏れ出たマズルフラッシュによって散発的に明るく照らし出され、乾いた銃声が壁や天井を反響する。
刹那の遭遇戦で発射された銃弾は、全部で五発。その内の三発は俺が構えたカラシニコフ式自動小銃AK-74から射出され、痩せたチェチェン人の少年の右の肩から二の腕にかけてを撃ち抜き、皮膚と肉を削いだ。そして残りの二発は少年が構えたRPD軽機関銃から射出されたが、彼の右腕が俺の放った銃弾によって破壊されるのが一瞬だけ早かったがために照準が逸れ、指揮官であるクラシコフ大尉の心臓を狙っていたであろう銃弾は狙いを
「ぐあっ!」
しかし銃声が止んだ後に、クラシコフ大尉は苦悶の声を漏らしながらその場に崩れ落ちた。狙いを
「畜生! よくもやりやがったな、この糞ガキ!」
直属の上官をカタワにされた俺は激昂し、床に転がって苦悶するクラシコフ大尉をその場に残したまま、男子トイレへと駆け込んだ。そしてそのトイレの中で
「ごぼっ……」
今度は顔面を蹴り上げられた少年の喉から苦悶の声が漏れ、潰れた鼻からは真っ赤な鼻血が噴出した。そして右腕が半分千切れ落ち、鼻っ柱が完全に潰れて血まみれになった彼はタイル敷きのトイレの床を転がり、その手から取り落とされたRPD軽機関銃もまた床を転がる。
「この糞ガキが! 死ね!」
再びの怒声と共に、俺は手にしたAK-74の銃口を少年に向けて構え、今度は確実に息の根を止めるために眉間の中央を狙って引き金を引いた。しかし何度引き金を引こうとも、一向に銃弾は射出されない。どうやら先程射出した三発を最後に、
「糞!」
俺は銃弾が尽きたAK-74を手にしたまま、悪態を吐いた。すると不意に、俺の眼前のトイレの床に血まみれで転がる痩せたチェチェン人の少年が、情に訴えるような涙声のロシア語でもって命乞いを始める。
「止めて……お願いだから殺さないでえ……」
しかしこの俺が、そんな負け犬の
「嫌だあ……死にたくないよお……」
右腕が半分がた千切れ落ちた少年の喉から漏れたその言葉を敗北宣言と受け取った俺は、手にしたマカロフ拳銃の引き金を躊躇無く引いた。一発、二発、三発、四発、五発。一発撃つ毎に、パンと言う乾いた銃声と真鍮製の空薬莢が床を転がる甲高い金属音を狭いトイレの中に反響させながら射出された、計五発の銃弾。それらが少年の頭部を見る間に破壊し尽くし、未だあどけなさの残る少年然とした彼の顔は壁に叩き付けられた腐ったトマトの様にぐちゃぐちゃに砕け、見る影も無い。そして当然ながら、頭部を失った少年は床に崩れ落ちて事切れ、絶命する。彼の痩せた身体が自らの力でもって立ち上がる事は、二度と無い。
「ったく、面倒掛けさせやがって」
俺は無残な姿を晒す少年の死体を見下ろしながら鼻息も荒くそう言うと、手にしたマカロフ拳銃の
「あ……」
視線の主は、ランタンの灯りに照らし出された他ならぬこの俺自身だった。つまり廃ホテルの男子トイレの壁面に設置された大きな鏡に映る俺自身がこちらを見据えており、鏡の向こうの世界の俺とこちらの世界の俺との視線が交錯しながら、互いに見つめ合う恰好となっている。そして鏡の向こうの世界の俺はやけに楽しそうで嬉しそうな下卑た表情でもって、口角を吊り上げて歯を剥きながらニタニタと笑っていた。しかし俺はそんな自分の表情が信じられずに己の顔をぺたぺたと触ってみるも、やはり鏡のこちら側の世界の自分もまた、ニタニタと下卑た表情でもって笑っている。そう、俺は年端も行かない十代の子供を殺しながら、笑っていたのだ。
するとその時、二つの疑問が俺の脳裏によぎる。果たして俺はいつから笑っていたのだろうかと言う疑問と、いつまで笑い続けているのだろうかと言う疑問だ。そんな根源的な疑問を胸に抱きながら、俺は己の大脳辺縁系の海馬に刻まれた過去と未来の記憶の海に潜り始める。
やがて俺は、気付いてしまった。自分は過去から現在、そして未来に至るまで、ずっと笑い続けていたのだ。つまりマヤコフスコヴォ通り沿いの繁華街で
しかしそんな残忍な性分にもかかわらず、負傷を名目に除隊した後は記憶を封印もしくは改竄し、今の今まで一介の善良な市民を気取りながらのうのうと生き延びて来た己の姿に俺は改めて戦慄する。いや、いっそ吐き気を催すと言ってよい。
「げえええええええ……」
すると例えや比喩ではなく、俺は実際にその場で嘔吐した。廃ホテルのタイル敷きの床に黄土色の吐瀉物がびしゃびしゃと撒き散らかされ、頭部を失った痩せたチェチェン人の少年の死体を飛沫でもって汚す。
「そんな……そんな……」
己の正体を思い出した俺は吐瀉物で汚れた口から言葉にならない声を漏らしながら、まるで見えない何かに助けを求めるかのような覚束無い足取りでもって、廃ホテルの男子トイレから退出すべくよろよろと歩き始めた。しかし気付けば周囲は闇に閉ざされ、とうの昔にトイレの外に出た筈なのだが歩けど歩けどどこにも辿り着かず、無限に続くかとも思われるような暗闇の中を彷徨い続ける。
「助けてくれ……赦してくれ……」
赦しを求めながら彷徨い続ける俺の両の瞳からはぼろぼろと大粒の涙が零れ落ち、どうやら気付かない内に号泣していたらしい。そして感極まった俺は力無く跪くと、喉も張り裂けんばかりの大声でもって絶叫する。
●
「!」
俺はベッドの上で絶叫すると、被っていた毛布と羽毛布団を跳ね除けながら勢いよく飛び起きた。そして真っ暗な寝室の中で胸に手を当ててみれば心臓はドクドクと早鐘を打ち、滂沱の汗でもって全身はびっしょりと濡れ、ぜえぜえと呼吸は荒い。
「夢……? ああ、そうか、夢か……」
薄暗がりの虚空に向かって独り言つようにそう呟いた俺は、ホッと安堵の溜息を漏らしながら胸を撫で下ろした。そして全ての事実を悟り、また同時に自分自身の隠された本性を骨身に染み入るまで理解した事によって、背筋に悪寒を走らせながらゾッと戦慄する。つまり真っ暗なチェチェンの廃ホテルで号泣しながら彷徨っていた事は確かに夢なのだが、そのチェチェンの戦場で笑いながら人を殺していた事ばかりは夢ではなく、俺は人を殺す事に至上の悦びを見出すような悪辣非道な人非人だったのだ。
「ううっ……うううう……」
未だ夜も明け切らぬ自宅の夫婦の寝室に反響する、強引に押し殺したかのような俺の嗚咽。そして俺はベッドの上でぼろぼろと涙を零して嗚咽を漏らしながら、不意に気付く。俺の枕元に、まるで夢枕に立つ祖先の霊の様な恰好でもって、俺にしか見えない幻覚の焼死体である
「そうか。それがお前さんの正体だったんだな、
全てを悟った俺がそう呟くと、今の今までまるで責め苛むかのような眼差しでもってこちらをジッと見つめ続けていた真っ黒な焼死体は
「どうしたの、オレグ? 今の大きな音は何?」
俺の隣で寝息を立てていた筈のナターリヤが寝惚け眼でもって眼を覚まし、眠たそうにあくびを堪えながら尋ねた。そしてベッドの上で半身を起こした体勢のままぼろぼろと涙を零して泣き続ける俺の姿に気付いた彼女は、ひどく驚くと同時に改めて尋ねる。
「どうしたの、オレグ? 何をそんなに泣いているの? 怖い夢でも見たの?」
そう尋ねたナターリヤを、俺は唐突に抱き締めた。そして彼女を抱き締めたままぼろぼろと涙を零しながら釈明し、懺悔する。
「ああ、ナターリヤ! 赦してくれ! 俺は本当は酷い奴なんだ! 俺は人を殺す事に悦びを見出すような、極悪非道な人殺しなんだ! 俺にはお前さんやヤロスラーヴァやヴァジムを愛するような資格も無いし、愛されるような価値も無い、虫けらの様な人間の屑なんだ! こんな俺を、誰が赦してくれるもんか!」
まるで駄々を捏ねる幼子の様に泣きじゃくりながら、俺は声を張り上げて慟哭し続けた。するとそんな俺の言動にナターリヤも最初は面喰らっていたが、多少なりとも事情を察したらしい彼女は俺をギュッと抱き締め返すと、やはり泣きじゃくる幼子をあやすかのようにぽんぽんと優しく背中を叩いてくれながら赦しの言葉を囁き始める。
「大丈夫よ、オレグ。あなたは決して、極悪非道な人殺しなんかじゃない。あたしや子供達に愛される価値が無いような、そんな人間の屑じゃない。只ちょっとだけ、兵士としての使命に囚われ過ぎたのと、武器と言う名の力を得た自分の万能感に酔い痴れてしまっただけなの。だから心配しないで、自分が自分らしくある事を誇らしく思いなさい。それにあたしや子供達はあなたが何者であろうとも、あなたを永遠に愛し続けるんだから」
「……こんな俺でも赦してくれるのか、ナターリヤ?」
「ええ、赦しますとも。それに、仮にあなたが神様にすらも赦されないような罪深い人間だったとしても、その罪の全てをあたしが背負ってあなたの代わりに地獄に落ちてあげるから、安心なさい」
「ナターリヤ……」
俺は愛する妻の名を呼びながら、より一層の力でもって彼女をギュッと抱き締めた。するとそんな俺を抱き締め返してくれるナターリヤの腕も体躯も枯れ木の様にか細く、その力もまた弱々しかったが、これほどまでに彼女の存在を頼もしく思えた事は無い。
「さあ、涙を拭いておやすみなさい、オレグ。きっと明日は、あなたの人生にとって最良の一日になるでしょうから」
「愛してるよ、ナターリヤ」
「あたしも愛してる、オレグ」
窓から月明かりがうっすらと差し込む薄暗い寝室のベッドの上で、俺とナターリヤは愛を確認し合い続ける。
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