第十一幕


 第十一幕



 工業用のダイヤモンドペーストを使って傷一つ無い完全な鏡面仕上げになるまで丹念に磨き上げ、更にダイヤモンド砥石で研いで鋭利な刃を付けた、動物の皮を剥ぐためのスキニングナイフ。そのスキニングナイフと付属のシースをそれぞれ油紙で包み、手頃なサイズの段ボール箱に納めてから発泡スチロール製の緩衝材を隙間に敷き詰めると、俺はその段ボール箱をダクトテープでもって厳重に梱包した。そして梱包を終えた段ボール箱を前に、運送会社の国際便用の伝票に送り先の住所や差出人の氏名などの必要事項をボールペンで記入する。

「これは台湾からの注文か……。YouTubeのおかげで、俺の仕事も随分とワールドワイドになったもんだな」

 そう独り言ちた俺は段ボール箱に伝票を貼り付けると、既に発送の準備を終えていた他の段ボール箱の山の上にそれを重ねた。重ねられた段ボール箱は、全部で八つ。これら八つの段ボール箱の中に納められた計八本のナイフこそが、この一ヶ月間で俺が注文を受諾して完成させたナイフの全てである。

「さてと、それじゃあ荷物は明日街に行った際に発送するとして、今日の作業はこれでお終いっと」

 俺は再びそう独り言つと、手にしていたボールペンを作業机の上に置いた。そして机の引き出しからノートPCを取り出し、OSとブラウザを立ち上げてから動画投稿サイトであるYouTubeにログインすると、自分が投稿したナイフの製作工程を事細かに解説したプロモーション動画の再生数とコメント欄を確認する、すると俺の動画に興味を抱いてナイフを発注したいと言う旨のコメントが新たに数件届いていたので、その詳細を確認して返答する事にした。

「こちらのサイトのフォームから、発注を承ってますよっと」

 そうコメントに返信すると同時にURLを貼り付けて、コメントを寄せてくれた視聴者を自分が運営するサイトの注文フォームへと誘導する。サイトの運営は以前から行っていた事だが、数年前にYouTubeを利用してプロモーション動画を公開してからと言うもの、世界中の各国各地域からのナイフ製作の発注件数は眼に見えて増加した。

「まさに、YouTube様々だな」

 このまま発注件数が増加の一途を辿ってくれれば、俺と俺の家族の生活は未来永劫に至るまで安泰と言えるだろう。しかし残念ながら、この世に永遠の栄光を保障された不滅の存在など有ろう筈も無い。だから俺は常に新たな動画をYouTube上に公開し続け、俺の製作したナイフに対価を支払っても良いと言う新規の顧客を開拓し続けるのだ。

「とにかくこれで、来年までのスケジュールがほぼほぼ埋まったな。景気の良い合衆国からの注文も多いし、為替相場の差額も勘案すれば、今年度の収益に問題は無いだろう」

 そう独り言ちた俺はノートPCを閉じ、引き出しの中に仕舞い直すと、照明を落とした工房を後にする。

「お父ちゃん、お父ちゃん」

 工房を後にして廊下へと足を踏み出せば、そこにはマスティフ犬のナノと共に愛娘であるヤロスラーヴァが座り込んでいた。

「こんな所でどうしたんだい、ヤロスラーヴァ」

「あのね、お母ちゃんがね、お父ちゃんを呼んでるの」

「なんだ、そんな事だったら工房の中にまで声を掛けてくれればよかったのに」

「うん、でもね、お父ちゃんの仕事の邪魔をしちゃいけないって思って、ここで待ってたの」

 そう言って、少し申し訳無さそうに笑うヤロスラーヴァ。今から半年余り以前に弟が生まれてからの彼女は遠慮がちと言うか引っ込み思案気味と言うか、とにかく出しゃばったり我侭を言ったりする事が少なくなり、それはどうやら幼い弟に恥じない立派な姉になろうと言うヤロスラーヴァなりの努力の現われらしい。

「そうかそうか、お前さんは優しくてお利口さんだな、ヤロスラーヴァ。だけどナターリヤが呼んでいる時には遠慮しないで、大きな声でお父ちゃんを呼びなさい。ただし、一人で工房に入っちゃいけないよ?」

「うん、分かった!」

「よーしよし、良い子だ」

 俺はヤロスラーヴァの頭を優しく撫でてやると、犬のナノを連れた彼女と一緒に廊下を渡って夫婦の寝室へと足を向ける。そして足を踏み入れた寝室のベッドの上には寝間着姿のナターリヤが横になっており、その隣に設置されたベビーサークルの中では息子のヴァジムがすやすやと寝ていた。

 そう、彼の名はヴァジム。もうすぐ生後七ヶ月になる俺とナターリヤの息子であり、ヤロスラーヴァの小さな弟。そんなヴァジムは最近ようやく乳歯が生え始め、毎日美味しそうに離乳食を食べるその姿は、例え百万の言葉をもってしても言い表せないほどにまで愛おしい。

「どうしたんだい、ナターリヤ?」

 俺が問い掛けると、ナターリヤはベッドの上でゆっくりと半身を起こす。

「ごめんなさいねオレグ、お仕事中に呼び出しちゃって。たいした事じゃないんだけれど、只ちょっと、今日もまた晩御飯の準備をお願い出来ないかと思ったの。いいかしら?」

「それは構わないが……未だ具合が優れないのかい?」

「うん。もうだいぶ良くなったんだけれど、未だちょっと眩暈がして意識が遠くなる事があるから、念のためにね。煮立った鍋を持っている時に倒れたりなんかしたら、大変ですもの」

「ああ、確かにそうだな。それじゃあ俺が晩飯の準備をしてやるから、お前さんは安心してゆっくりと休んでいなさい。……ただし言っておくが、俺に作れるのは冷凍のペリメニと缶詰のシチー、それにサーラとチーズを挟んだサンドイッチだけだからな? その点だけは、覚悟しておいてくれよ?」

 俺がおどけたようにそう言ってみせれば、ベッドの上で半身を起こしたままのナターリヤはくすくすと笑った。しかしそんな彼女の笑顔も素振りも言葉遣いも以前に比べるとまるで儚げで頼りなく、昔の元気だった頃のナターリヤを知っている身としては寄る辺無い気持ちでもって胸を締め付けられるばかりであり、如何ともし難い。

「それじゃあお願いね、オレグ」

「任せておけよ、ナターリヤ。お前さんはここで、ヴァジムの世話を頼んだぞ」

 そう言葉を交わした俺とナターリヤは、軽くそっと唇を重ねた。そして俺はヤロスラーヴァとナノを背後に引き連れたまま、再び廊下を渡って今度はキッチンへと足を向ける。

「ヤロスラーヴァ、晩飯の準備を手伝ってくれるかい?」

「うん、あたし手伝う!」

 快活な声でそう答えたヤロスラーヴァと共に、俺は晩飯を拵え始めた。とは言っても冷凍庫から取り出した袋詰めの冷凍ペリメニをコンロの火に掛けた鍋で茹で、また別の鍋でもって缶詰のシチーを二倍に希釈してから煮込めば、後はチーズとサーラのサンドイッチを拵えるだけの簡素な晩飯に過ぎない。そして晩飯を拵える過程の随所随所、例えば鍋に冷凍ペリメニを放りこんだりシチーの缶詰のプルタブを開けてもらうなどの簡単な工程を、俺はヤロスラーヴァにやらせてあげる。すると両親の仕事のお手伝いをしてあげたい年頃の彼女は、嬉々としてそれらの工程を手伝ってくれた。俺も幼い頃は両親のお手伝いをして褒めてもらうのが嬉しくて堪らなかった事を思い出すと、ヤロスラーヴァの笑顔が殊更に眩しく見える。

「ヤロスラーヴァ、お前さんはナイフを使うには未だ小さ過ぎるから、チーズとサーラを切るのはお父ちゃんに任せておきなさい」

 そう言った俺は包丁立てからキッチンナイフを取り出し、塊のままのチーズとサーラを薄くスライスしてから、それらを挟み込んだライ麦パンを手頃な大きさに切り揃えた。するとサンドイッチを拵え終えたタイミングで冷凍ペリメニと缶詰のシチーにも火が通ったので、俺はそれらを皿に盛る。後はヴァジムが食べる分の出来合いの離乳食を電子レンジで温めれば、晩飯の準備は完了だ。

「よし。それじゃあそろそろナターリヤとヴァジムを呼んで来てくれ、ヤロスラーヴァ」

「はあい」

 快諾したヤロスラーヴァは、夫婦の寝室へと駆けて行く。そして離乳食が温まり、俺が紅茶を淹れ終えた頃合で、息子のヴァジムを胸に抱いたナターリヤがヤロスラーヴァに連れられて姿を現した。勿論彼女達の足元には自分の餌を求めてやって来た犬のナノも一緒であり、ドッグフードを早く餌皿に盛ってくれとでも言いたげに期待に満ちた眼差しでもってこちらを見つめながら、嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振っている。マスティフ種の成犬としてすっかり大きくなった今でも、相変わらず食い意地の張った犬だ。

「いただきます」

 やがて家族全員がダイニングに集ったところで、俺達四人と一匹は晩飯を食み始める。

「ゆっくり良く噛んで、沢山食べなさい、ヤロスラーヴァ」

 俺がそう言うまでもなく、ヤロスラーヴァはむしゃむしゃとペリメニとシチーを頬張り、幼い幼女ながらも健啖家ぶりのアピールに余念が無い。このまま彼女が育ち盛りである成長期を迎え、立派な大人の女性へと発育してくれる事を望むばかりだ。

「ヴァジムも、沢山食べなさい」

 息子のヴァジムにもそう言って聞かせてはみたものの、彼はようやくはいはい歩きが出来るようになったばかりの未だ一歳にも満たない赤ん坊なので、俺の言葉を理解してくれた様子は無い。しかしそれでも出来合いの離乳食が思いの外美味しかったのか、ヴァジムはナターリヤがスプーンでもって掬い取ってあげたそれをむしゃむしゃと美味しそうに食みながら、満面の笑顔をこちらへと向ける。

「そうかそうか、美味しいか、ヴァジム」

 俺もまたそう言って微笑みながら、ペリメニとシチーとライ麦パンのサンドイッチを食み続けた。すると不意に、ヴァジムに離乳食を食べさせていたナターリヤがゴホゴホと咳き込み、彼女が手にしていたスプーンが取り落とされて床を転がる。

「どうした? 大丈夫か、ナターリヤ?」

「うん、大丈夫。ちょっとせただけだから」

 ナターリヤはそう言って強がってみせるが、彼女の体調は俺や医者の予想以上の速度でもって日に日に悪化しており、気管支や消化器官が弱って食べ物を普通に嚥下する事すらもままならないのだ。

「ゆっくりでいいから、栄養だけはしっかりと摂っておけよ」

「うん、大丈夫。心配しないで」

 やはり気丈にそう言ってみせるナターリヤだったが、彼女の健康状態はすこぶる悪い。今からおよそ七ヶ月前に息子のヴァジムを産んで以降、産後の肥立ちが悪いと言ってしまえばそれまでだが、かつての天真爛漫で元気溌剌としていた姿が嘘の様にナターリヤの肉体は衰弱する一方だ。勿論俺達夫婦はこの七ヶ月間で様々な健康療法を試し、充分な栄養の摂取や睡眠によって心身の回復に努めたが、今のところそれらの努力は全く実を結んでいない。むしろ、それらの療法が却って悪影響を与えているのではないかと勘ぐってしまうほどにまで、ナターリヤの体調は悪化の一途を辿っている。しかしそれでも彼女は満身創痍の病体に鞭打ち、粉ミルクに頼る事無くヴァジムの授乳期を終え、母乳でもって息子を育てる事に終始拘こだわった。粉ミルクよりも母乳で育てた方が赤ん坊の免疫力が鍛えられると言うのがその根拠であったが、その結果としてナターリヤの体調をより悪化させたかもしれないと思うと、俺の胸中は複雑である。

「ごちそうさま」

 やがて俺達一家は、食事を終えた。そして俺は家族全員分の食器と鍋を洗い、食器棚へとそれらを仕舞う。スプーンやフォークなどの落としても割れない類の食器を仕舞うのは小さなヤロスラーヴァの当番であり、彼女は幼いながらも率先して家事を手伝ってくれる、本当に良く出来た娘だ。

「無理はするなよ、ナターリヤ。具合が悪いようなら、お前さんは寝室で寝ていてもいいんだからな?」

 食後にリビングのソファへと移動し、むずがるヴァジムをあやしてやっているナターリヤに俺が助言すると、未だ生後七ヶ月である幼い息子を胸に抱いた彼女は微笑みながら言う。

「心配しないで、オレグ。無理はしてないから。それにもっとヴァジムやヤロスラーヴァに接しておいてあげないと、この子達が大きくなってから、母親との楽しい思い出が足りなくなっちゃうでしょ?」

 確かに、ナターリヤの言う通りかもしれない。しかも幼い頃に両親を亡くした経験を持つ彼女の言葉には、言い知れぬ説得力がある。しかしだからと言って、育児による疲労が原因で母親であるナターリヤが身体を壊してしまっては、本末転倒もいいところだ。

「だがな、ナターリヤ……」

「お願いオレグ、あたしの好きにさせて。この子達を育てる上で、後悔だけはしたくないの」

 少しばかり語気を荒げた口調でもってそう言われてしまっては、俺は二の句が告げない。するとそんな俺達の様子をうかがっていた小さなヤロスラーヴァが、心配そうにオロオロしながら涙声で問う。

「お父ちゃん、お母ちゃん、どうしたの? 喧嘩してるの?」

「ああ、違うんだヤロスラーヴァ。別に俺とナターリヤは、喧嘩をしている訳じゃないんだ。心配させてごめんよ」

「そうよ、ヤロスラーヴァ。あたし達はね、ちょっと話し合いをしていただけなの」

 俺とナターリヤはそう言って弁明し、今にも泣き出してしまいそうなヤロスラーヴァを必死でなだめた。すると涙を堪えたヤロスラーヴァは本棚から一冊の絵本を取り出し、ソファの上にぴょんと飛び乗ると、息子のヴァジムを胸に抱いたナターリヤにせがむ。

「それじゃあお母ちゃん、ご本読んで!」

 何が「それじゃあ」なのかは良く分からないが、たぶんヤロスラーヴァにとっては一緒に絵本を読む事が仲直りの証なのだろうと推測出来た。そこで俺もまたソファに腰を下ろし、ナターリヤと俺とでヤロスラーヴァの肩を抱くと、家族揃って絵本を読み始める。勿論読むのはヤロスラーヴァのお気に入りの兎の絵本である、『しろいうさぎとくろいうさぎ』だ。

「しろいうさぎとくろいうさぎ、二ひきのちいさなうさぎが、ひろいもりのなかに、住んでいました……」

 ナターリヤが絵本を読み始めると、彼女の隣に座るヤロスラーヴァだけでなく、むずがっていた筈のヴァジムもまた母の声に笑顔を向ける。それは俺達四人家族の、ささやかな団欒の時間。こんな幸せな時間がずっと続いてくれる事を、俺は神様に祈るばかりだ。


   ●


「ナターリヤ・アレンスキーさん。医者である私としましては今すぐに入院し、長期療養に励まれる事をお勧めします」

 そう忠告した主治医の言葉に俺はひどく落胆し、頭を抱える。勿論それは、街の総合病院の診察室内で俺の隣に座るナターリヤ本人もまた同様だ。

「検査の結果はそんなに悪いんですか、先生?」

 俺が尋ねると主治医は一旦掛けていた眼鏡を外し、レンズをよく拭いたそれをゆっくりと掛け直してから、改めて口を開く。

「はっきり申し上げまして、結果は相当に深刻なものと理解してください。複数の臓器に炎症や機能不全が認められますし、甲状腺や副腎皮質から分泌される各種ホルモンの数値も正常値を遥かに逸脱しています。このままでは早晩、命にかかわる合併症や感染症を引き起こして死に至る可能性が否定出来ません」

「そんな……」

 俺は再び、頭を抱えた。そしてちらりと、隣に座るナターリヤを見遣る。すると彼女は背筋を伸ばして姿勢を正し、胸を張って真っ直ぐ前を見据え、ぱっと見た限りの立ち居振る舞いは相変わらず凛として美しい。しかしその頬はこけ、手足は痩せ細り、かつては健康的な桜色に輝いていた筈の唇の血色も悪い上に皮膚はガサガサに荒れている。これらの外見的変遷からも見て取れる通り、確かにナターリヤの病状は深刻だ。

「それで先生、あたしはどのくらい入院すれば治るんですか?」

「どの程度の期間で完治するかは、残念ながら明言出来ません。あなたの肉体を蝕んでいる極度の体調不良の原因が特定出来ない以上はこれと言った治療法を試みる事も出来ませんし、その上で出来る事と言えば、かつての結核患者の高地療養の様に安静にしながら肉体の自然回復に期待する事のみです。私も一人の医者として悔しく思いますが、これが今の医学の限界だとご理解ください」

「かつての結核患者の高地療養……。それはつまり、手の施しようが無いので緩やかな死を待てと言う事ですか?」

 ナターリヤの問いに、主治医は口篭る。いや、口篭っているのは彼だけではない。俺もナターリヤも主治医も看護婦も、その場に居合わせた四人全員が言葉を失って沈黙し、狭い診察室内には暫し静寂の時が流れる。

「入院はしません」

 やがて沈黙を破ってはっきりとそう宣言したのは、誰ならぬナターリヤだった。そして彼女は背筋を伸ばして姿勢を正したまま、覚悟を決めたかのような確固たる口調でもって自らの主張を述べる。

「完治する事が確約されないのであれば、あたしは一分一秒でも長く自宅に留まり、家族と一緒の時を過ごします。子供達を自宅に残したまま病院で一人寂しく最期の時を迎えるような事は、考えられません」

「しかしナターリヤ……」

 何かしらの反論をしようと俺は口を開いたが、己が身に降りかかる過酷な未来と運命をジッと見据えるかのような彼女の眼差しに圧倒され、それ以上の言葉が出ない。

「つまり、自宅療養を望まれると言う事でよろしいですね?」

「はい」

 再確認する主治医に対して、夫である俺の意見を聞く事も無く、きっぱりとナターリヤは断言した。こう言った芯の強さと言うか我の強さと言うか自分勝手さは、俺と初めて出会ったばかりの、彼女が未だ十代の少女に過ぎなかった頃と少しも変わらない。

「それでは、当院とそこに勤務する医療従事者の免責事項が記載されたこちらの同意書をよくお読みいただき、納得されましたらサインをお願いします。気分を害されるかもしれませんが、当院としましても自宅療養を望まれる方の健康状態までは責任を取れませんので、悪しからず」

 そう言いながら主治医が差し出した同意書を受け取ったナターリヤは、そこに記載されている内容に一通り眼を通すとそれにサインし、躊躇う事無く主治医に返却する。そして勿論と言うかやはりと言うか、同意書を受け取ってからそれを返却するまでの一連の動作の間に、彼女が俺に意見や同意を求めるような事は一切無かった。自分が何をすべきかは全て自分一人で決定し、その責任の全てもまた自分一人で負う。他人の意見に自身の決意が左右される事は無いし、また同時に責任を転嫁するような事も無い。これらの主義主張を一貫して守り続け、決して曲げない事こそが、ナターリヤにとっての自己の尊厳を保つ唯一無二の方法なのだろう。

「同意いただきまして誠にありがとうございます、ナターリヤ・アレンスキーさん。それと誤解なさらないでいただきたいのですが、当然ながら我々も治療には最善を尽くし、自宅療養中のあなたに対して可能な限りのサポートはいたします。ですから少しでも容態に変化がありましたら、すぐに当院か、もしくは私個人宛にご連絡ください。そしてとりあえずは今出されている薬と栄養剤を毎日欠かさず摂取する事を忘れないように、ご注意を。お大事に」

 事務的な口調でもってそう言った主治医と看護婦に促され、俺とナターリヤは診察室を後にした。そして待合室も兼ねた病院の廊下に出てみれば、そこに並べられた椅子の一つにちょこんと腰掛けて俺達を待っていたヤロスラーヴァが椅子から飛び降り、こちらへと駆け寄って来る。

「お父ちゃん、お母ちゃん、病院、終わった?」

「うん、終わったよ。後は薬局でお薬を貰ってから、皆で一緒に帰ろうね」

 俺は笑顔でそう言いながら小さなヤロスラーヴァを抱え上げ、ギュッと胸に抱いた。彼女が言うところの「病院」とは、未だ「診察」や「診療」と言った難しい言葉を覚えていないが故の、言葉足らずな幼児語の一種に違いない。そして本当に心からの笑顔ではなく、空元気を奮い立たせるための作り笑顔を愛娘に向けなければならない今の自分の実情を、俺は誰にも悟られないように心の中で嘆く。

「ヴァジムは寝ちゃってるみたいだけれど、あたしが居ない間に泣いていなかった、ヤロスラーヴァ?」

「うん、ずっと静かに寝てた! ヴァジム、とってもお利口さん!」

 病院側が用意してくれた移動式のベビーベッドに寝かされたヴァジムの様子をうかがいながらナターリヤが発した問いに、俺の腕の中に抱かれたヤロスラーヴァが胸を張って自慢げに答えた。きっと彼女は泣いて両親を困らせる事の無い弟のヴァジムの姿が、たいそう誇らしくてならないのだろう。そして今度はそんなヤロスラーヴァが、心配そうに母に問う。

「お母ちゃん、えっと、お母ちゃんの病気はもう治ったの?」

 愛娘からそう問われたナターリヤは、少し困ったような表情でもって俺の方をちらりと一瞥した。そして俺が抱きかかえたヤロスラーヴァの美しい髪や桜色の頬を優しく撫でてやりながら、申し訳無さそうに弁解する。

「ごめんなさいね、ヤロスラーヴァ。申し訳無いけれどお母ちゃんの病気は、未だ治ってないの。だからもうちょっとだけあなた達に迷惑掛けちゃうけれど、我慢してくれるかしら?」

「うん、分かった! あたし我慢するし、もっともっとお母ちゃんとお父ちゃんのお手伝いをして、頑張るの! だからお母ちゃんは、早く病気を治してね? 約束だよ?」

「そうね、約束よ、ヤロスラーヴァ。お母ちゃん、近い内に絶対に病気を治してみせるから」

 ヤロスラーヴァにそう言って約束してみせたナターリヤの目尻には、うっすらと涙が浮いていた。するとヤロスラーヴァはそんな母親の胸の内を察してか、やがてぽろぽろと涙を零し始めたナターリヤをギュッと抱き締める。そして彼女達の夫であり父でもある今の俺に出来る事と言えば、抱き締め合う二人そっと静かに見守ってやる事だけであり、そんな己の無力さと不甲斐無さが恨めしくてならない。

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