第十幕


 第十幕



 俺は工房の作業机の上に厚さ2.5㎜の茶色く染色された馬具用の天然のなめし革、つまり専門用語で言うところのサドルレザーの一枚革を拡げた。

「今回の注文はスキニングナイフのNo.12っと……」

 独り言つようにそう呟きながら昨日作り終えたばかりのナイフのシースの型紙を取り出した俺は、拡げたサドルレザーの適当な位置にその形を写し取り、更に革細工用のラウンドナイフを使って写し取った形の通りにそれを切り出す。そしてまずは革を折り曲げる部分の裏側にあらかじめ溝を掘り、それからシースとベルトループとを繋ぐためのリング状の金具を固定してカシメると、いよいよ中子なかごの接着だ。

「接着剤が残り少ないな。今度街に行った時に買い足しておくか」

 中子なかごに使うのは滑らかな表皮を敢えて削ぎ落とした、靴の踵などに使う革の硬くて分厚い真皮の部分。それをナイフの刃の形に合わせて切り出してから、やはり革細工用の接着剤でもって袋状に折り曲げたサドルレザーと接着する。

「これでよしっと」

 サドルレザーの接着した箇所を目玉クリップで固定した俺はそう呟いて、一旦作業の手を止めた。後は接着剤が乾くのを待ってから菱目打ちで穴を開け、蝋引きした糸で縫ってからコバを処理すればシースの完成となる。

「ふう」

 俺が作業の手を止めてペットボトル入りの水を飲んでいると、不意にコンコンと工房の入り口の扉がノックされ、俺の返事を待たずにその扉が開いた。

「お父ちゃん、お父ちゃん」

 開いた扉の先に居たのは三歳くらいの小さな可愛らしい女の子で、輝くような純白の肌とプラチナブロンドの頭髪が眩しい。

「こらこら、ヤロスラーヴァ。工房に入って来ちゃ駄目だって言ってるだろう?」

「未だ入ってないもん!」

 憤慨しながらそう言った少女、つまり俺の愛娘であるヤロスラーヴァは確かに工房へと続く扉を開けただけで、工房そのものに足を踏み入れてはいなかった。

「ああ、ごめんよ。確かにお前さんは言いつけを守っているな。お父ちゃんが間違っていたよ」

 俺はそう言いながら作業用のエプロンを脱ぎ、ヤロスラーヴァに歩み寄る。

「それでヤロスラーヴァ、何の用だい?」

「あのね、お母ちゃんがね、お父ちゃんを呼んで来てって言ってたの」

「ナターリヤが?」

 どうやらヤロスラーヴァの言葉によると彼女の母親、つまり俺の妻であるナターリヤが俺を呼んでいるらしい。

「そうか。それじゃあお父ちゃんと一緒に、お母ちゃんの所まで行こうな」

 そう言って工房の照明を落とした俺は小さなヤロスラーヴァを抱っこすると、そのまま廊下を渡ってリビングへと足を向ける。そしてリビングへと到着すれば暖炉の前に設置されたソファに犬のナノと共に腰を下ろしたナターリヤが、母親譲りの裁縫の腕前を存分に発揮して、何か縫い物をしながら鼻歌を歌っていた。

「何か用かい、ナターリヤ」

 俺が尋ねると、こちらを向いたナターリヤがリビングの壁沿いに積み上げられた薪を指差しながら要請する。

「暖炉の薪がそろそろ無くなりそうなの。ガレージに積んである薪を割って、補充しておいてちょうだい」

 言われてみれば確かに、備蓄された薪が残り少ない。

「分かった。ちょっと外で割って来るから、待っていてくれ」

「お願いね、オレグ」

 そう言ったナターリヤのお腹はパンパンに膨れ、サラファンの上からその形状がうっすらと見て取れる左右の乳房もまた随分と大きく膨れていた。それはつまり、娘であるヤロスラーヴァを産んでから三年余りが経過した今、彼女が再び俺の子を身篭っている事を意味している。

「お父ちゃん、お外に出るの? あたしもお外で遊んでいい?」

「ああ、いいよ。風邪を引かないようにコートを着たらね」

 娘にそう言った俺もまた愛用のモッズコートを羽織って革手袋を履くと、言いつけ通りにコートを羽織ったヤロスラーヴァを背後に従えながら、玄関扉を潜って戸外の空気にその身を晒した。

「ふう、今日も寒いな」

 名も無き湖の畔に建つ俺の自宅の周囲は真っ白な雪に覆われ、まだまだ春は遠い事を否応無しに実感させる。そしてガレージへと足を向けた俺は、小さなヤロスラーヴァと一緒に犬のナノがついて来ている事に気付いた。

「どうしたナノ、お前も俺達と遊びたいのか?」

 俺の問いにわんと鳴いて返答したこの雌犬も五歳の誕生日を迎え、マスティフ種の大型犬らしく今ではすっかり大きくなり、既に子犬の頃の面影は全くと言っていいほど見受けられない。

「それじゃあヤロスラーヴァ、ナノ、危ないから少し離れて遊んでなさい。ただし、お父ちゃんの眼の届かない所まで行っちゃ駄目だからね。それと、氷が割れるといけないから湖にも近付かないように」

「はあい」

 俺の言いつけを快諾したヤロスラーヴァは、お目付け役でもある犬のナノと共に、ガレージから少し離れた空き地でもって雪遊びを始める。彼女が生まれてから今日までずっと遊び相手を務めてくれているナノは番犬としては全く役に立たないが、愛玩犬として、また同時に幼い子供の友人としてはこの上無い適任者であった。それ故に治療の一環として犬を飼う事を勧めてくれた精神科の主治医に、俺は今でも深く感謝している。

「さてと」

 雪遊びを楽しむ愛娘と愛犬を横目に、俺は斧を片手にガレージに積み上げてあった薪を運び出すと、薪割り台の上でもってそれらを割り始めた。ロシアの長く暗い冬はもう暫くは続きそうなので、暖炉にくべる薪を絶やす訳にはいかないし、またそれらを割るのは一家の家長たる俺の役目でもある。だからこそ俺はその責務を全うするために斧を振るい、時が経つのも忘れて、山の様に積まれた薪を一心不乱に割り続けた。勿論その間、空き地で遊ぶヤロスラーヴァから眼を離し、彼女を見失うような失態を犯したりはしない。

「ふう」

 薪割りを開始してから、一時間ばかりも経過しただろうか。俺はガレージに積み上げられていた薪の半分ほどを割り終え、額に浮いた汗をモッズコートの袖で拭いながら手を止める。まだまだ春は遠く、また春になっても暫くは暖炉を使い続けるので、何も今の内に全ての薪を割っておく必要は無い。そう考えた俺は、今日の薪割りは現時刻をもって終了する事とした。

 ガレージに斧を仕舞い、割り終えた薪の束を自宅の中へと運び入れながら、俺は愛娘であるヤロスラーヴァを改めて見遣る。すると彼女が犬のナノと共に雪原を元気良く走り回ったり、雪玉を転がして小さな雪ダルマを拵えてみせたりする姿が眼に留まった。

「本当に可愛いなあ」

 顔を綻ばせながら呟いた俺の言葉通り、ヤロスラーヴァは可愛らしい。いや、可愛過ぎると言っても過言ではないだろう。幸いにも母親であるナターリヤに似た彼女の顔立ちは端正でありながら聡明さに溢れ、また同時に明るい鳶色の瞳と桜色の唇が魅力的でもあり、もしも父親に似た不細工に育ってしまったらどうしようかと言う俺の懸念は杞憂に終わった。

「お父ちゃん! 見て! 雪ダルマ出来た!」

「ああ、見てるよ。可愛い雪ダルマだな」

 小さな雪ダルマが完成した事を嬉しそうに報告するヤロスラーヴァに、俺は微笑みながら手を振る。しかし次の瞬間、ある事実に気付いた俺の表情は凍りついた。果たしていつからそこに居たのか、雪遊びに興じるヤロスラーヴァのすぐ背後に、俺にしか見えない幻覚の焼死体である死神ボーク・スミェールチが立っている。

「……ヤロスラーヴァ、そろそろ家に入りなさい」

 顔を強張らせながら、俺は愛娘に命令した。しかし命令されたヤロスラーヴァはぷうと頬を膨らませながら、地団太を踏んで不満を露にする、

「やだ! もうちょっと遊ぶ!」

「我侭を言っちゃいけません。もうそろそろ暗くなって来たから、身体を冷やして風邪を引かない内に暖かい家の中に入りなさい。ほら、お父ちゃんが抱っこしてあげるから」

 俺はそう言いながらヤロスラーヴァに歩み寄り、未だ遊び足りないらしくて不満げな彼女を優しく抱え上げると、自宅へと足を向けた。そして玄関扉を潜りながら背後の死神ボーク・スミェールチを一瞥すれば、奴は真っ白な雪が降り積もった空き地に立ち尽くしたまま、やはり責め苛むかのような眼差しでもってこちらをジッと見つめている。

「お帰りなさい、ヤロスラーヴァ。お外は楽しかった?」

「うん! 楽しかった!」

 俺に抱っこされたまま帰宅したヤロスラーヴァは床に降り立ってコートを脱ぐと、元気な返事と共にソファに座ったナターリヤの元へと駆け寄り、最愛の母である彼女に抱きついた。

「あらあら、こんなにお手手を冷たくさせちゃって。ほら、もっと暖炉に近寄りなさい」

 ナターリヤに促されたヤロスラーヴァは犬のナノと共に暖炉の前の床に座り込んで、雪遊びですっかり冷え切ってしまった身体を温める。全身が分厚い毛皮に覆われたナノはともかくとして、未だ三歳になったばかりの幼い少女であるヤロスラーヴァが風邪を引いてしまわないか、少し心配だ。

「お帰りなさい、オレグ。薪割りご苦労様」

「ああ、ただいま。これでもう暫くは薪割りはしなくて済むな」

 モッズコートと革手袋を脱いだ俺はそう言いながらナターリヤの隣のソファに腰を下ろすと、片方の手でそっと優しく彼女の肩を抱き、もう一方の手でもって新たな我が子が眠る大きなお腹を撫で擦る。

「もうすぐだな」

「ええ、もうすぐね」

 何がもうすぐなのかは言わずもがな、第二子の出産予定日が近いのだ。

「お前さんも、今度はやっぱり男の子だと思うかい?」

「勿論。だってヤロスラーヴァの時とは違って、この子は物凄く強くお腹を蹴って来るんですもん。きっと元気で健康な男の子に決まってるって」

 お腹の中の子の性別について俺とナターリヤが意見を交わしていると、暖炉の前に座っていたヤロスラーヴァがやおら立ち上がり、俺達が座るソファの上に飛び乗って来た。そして彼女もまた母親であるナターリヤの大きなお腹を撫で擦りながら、生まれて来る子に思いを馳せる。

「あのね、あたしね、弟が生まれたら一緒に遊んであげるの! それでね、ナノと一緒にお散歩してね、皆でおっきな雪ダルマを作るの!」

「そうかそうか、それは楽しみだな、ヤロスラーヴァ。それじゃあお前さんももうすぐお姉ちゃんになるんだから、弟の手本になるように、もっともっと良い子にしていないといけないぞ?」

「うん! あたし、良い子にしてる!」

「よーし、お父ちゃんと約束だ」

 俺はそう言って、小さなヤロスラーヴァをギュッと抱き締めた。すると抱き締められたヤロスラーヴァもまた、こんなにも醜い顔の俺の事をギュッと抱き締め返し、その柔らかくて温かい頬を摺り寄せて来てくれる。こうして愛娘と抱き合っていると血を分けた我が子の愛おしさに心が満たされ、この子のためならどんな苦しみにも耐えられるような気持ちになり、まさに天にも昇る思いで胸が一杯だ。

「ねえ、お父ちゃん」

「何だい、ヤロスラーヴァ?」

「ご本を読んでくれる?」

 幼い子供と言うのはいつだって移り気で、絶えずじっとしてはいられない。さっきまでは戸外で雪遊びに興じ、今しがたまでは未だ見ぬ弟と一緒に遊ぶと言う夢を語っていたヤロスラーヴァは、今度は本を読んでくれと父である俺にせがむ。

「勿論読んであげるよ。それで、何の本を読んでほしいんだい?」

「あのねあのね、うさちゃんのご本がいいの!」

 元気良くそう言ったヤロスラーヴァは壁沿いの本棚から一冊の絵本を持ち出すと、それを手にしたまま俺の膝の上にぴょんと飛び乗った。そしてその絵本、つまり彼女のお気に入りである二羽の兎達が仲良く暮らす姿が描かれた絵本の『しろいうさぎとくろいうさぎ』を開き、未だ字が読めない自分に代わって俺に文章を読んでもらうのをわくわくしながら待っている。

「それじゃあオレグはヤロスラーヴァと一緒にご本を読んでいてね。その間にあたしは、晩御飯の用意をしちゃうから」

 そう言いながらソファから腰を上げたナターリヤは、晩飯の準備のためにキッチンへと足を向けた。そして俺は一度咳払いをして喉の調子を整えると、膝の上に乗ったヤロスラーヴァの期待に応えるべく絵本を音読し始める。


   ●


 カラシニコフ式自動小銃AK-74を手にした俺達は息と足音を殺しながら歩き続け、真っ暗な闇夜の中をゆっくり静かに前進していた。頭上の夜空には厚く重い暗雲が垂れ込めており、ちょうど新月なのも重なって、何かしらの人為的な光源無しには一m先の足元すらも覚束無い。しかもこの辺り一帯、つまりチェチェン共和国の首都グロズヌイの旧市街とその周辺は電力の供給が絶えたが故に住民が退避して久しいため、人気の無い民家も商店も街灯が消えた街道もその全てが深い深い闇の中に沈んでいた。

 しかしそんな闇夜の中を、先頭を歩く俺と仲間達はまるで白日の行軍の様に順調に前進し続ける。それも全て、夜空の星一つ分の光源があればそれを増幅して視界を確保してくれる、パッシブ方式の微光暗視ゴーグルのおかげだ。

「!」

 暗視ゴーグルが装着されたヘルメットを被った俺は不意に足を止め、無言のまま手信号でもって後方の仲間達にも立ち止まるように命ずる。そして更に手信号で全員に姿勢を低くするように命じてから、部下であるキール伍長とマルク伍長、それにアガフォン軍曹を呼んだ。すると呼ばれた三人が俺の元へと集結し、指示を仰ぐ。

「前方に光が見える。たぶん、目標である敵の野営地だ。お前達三人は右翼から背後に回り込んで待機し、可能であれば事前に敵の車輌と機関銃を無力化して、挟撃に備えろ。必要なら部下をもう五人ほど連れて行け」

 俺が小声でそう指示するとキール伍長達三人は無言で頷き、五百mほど前方に確認出来る仄かな明りを目指して静かに闇の中に消え、気付いた時にはもう気配が消えていた。

「良く仕上がった部下達だ、アレンスキー曹長。素晴らしい」

 耳元で誰かがそう呟いたので、俺は振り返る。するとそこには俺の直属の上官であり、また同時にこの大隊の最高指揮官でもあるゲラシム・クラシコフ大尉が音も無く立っていた。

「お褒めに預かり光栄であります、大尉殿」

 俺は上官に対して、小さく敬礼する。

「うむ。引き続き、前線の指揮は任せる」

 そう言ったクラシコフ大尉はやはり音も無く後方へと姿を消し、つい今しがたまでそこに立っていた筈の彼の痕跡は何一つとして残されてはおらず、只静かに深遠なる闇が広がるばかりであった。

「さすがは大尉殿。前線叩き上げは伊達じゃないな」

 俺は自分にしか聞こえないほどの小声でもってそう独り言ちてから手信号で背後の部下達を立たせると、暗視ゴーグルに搭載された光電子増倍管越しの緑色に輝く視界を再確認し、前方に見える仄かな明りを目指して闇夜の進軍を再開する。そしてその明りの灯っている地点、つまりは敵であるチェチェン独立派の民兵ゲリラの野営地に夜襲を仕掛けてこれを制圧する事こそが、今の俺達に課せられた使命だ。

「ここで二手に別れ、左右から同時に攻撃を開始する。本隊はこのまま俺に続け。別隊はレフが指揮を執る。くれぐれも、同士討ちにだけは注意しろ」

 手信号でそう伝えれば、訓練された部下達の半分ばかりが副官であるレフに連れられて左翼に展開し、残り半分は俺の指揮の下で右翼に展開する。そして目標である敵の野営地まで後ほんの百mばかりと言うところで、俺は部下達を引き連れたまま旧市街の民家の陰に身を隠した。

「オーシプ」

 俺はオーシプ上等兵を呼ぶと、彼に命令する。

「お前に斥候を任せる。敵の数と装備を確認して来い」

 俺の命令に無言で頷いたオーシプ上等兵は、静かに闇の中へとその姿を消した。そして俺とその他の部下達が装備の点検を終えて待機していると、やがて三十分ばかりも経過した頃に、斥候に出ていたオーシプ上等兵がやはり静かに闇の中から帰還する。

「明りの灯ったホテルの跡地が、敵の野営地に間違いありません。歩兵の数はおよそ百から二百。その半数は既に就寝しているため、制圧は容易かと思われます」

「よし。敵の装備と車輌の数は?」

「歩兵の装備は自動小銃と軽機関銃のみ。それにトヨタのテクニカルが六輌確認され、どれも重機関銃か、もしくは対空機関砲が搭載されていました。また数は不明ですが、対戦車擲弾RPGも相当数用意されているものと推測されます」

「ご苦労だったぞオーシプ、良くやった。お前は別隊に合流し、今の内容をレフ達にも伝えろ」

 俺はそう言って、斥候で得た情報を報告してくれたオーシプ上等兵を激励した。そして彼はレフが指揮する別隊を追って、再び静かに闇に消える。

「如何に早く、重機関銃が積まれたテクニカルを制圧出来るかが鍵だな。俺達が突入する前に、キール達が無力化してくれていればいいんだが……」

 やはり誰にも聞こえないような小声でもって、俺は独り言ちた。ちなみにテクニカルと言うのは機銃やロケット砲による武装が施された民間車輌の俗称で、日本のトヨタ社や合衆国のGM《ゼネラル・モーターズ》社製の中古のピックアップトラックが利用される例が多い。そしてこれらテクニカルは元は民間車輌とは言え、その機動性の高さから、装甲車輌が進入し難い市街地における戦闘では充分な脅威となり得る。

「よし、時間だ。行くぞ」

 俺は再び手信号でもって、背後の部下達に号令を下した。そして敵の野営地への夜襲を仕掛けようとしたその時、何者かが俺の名を呼ぶ。

「オレグ!」

 一体俺の名を呼ぶのは、どこの誰なのだろうか。そんな大声で呼ばれては、野営をしている敵の民兵ゲリラどもにこちらの所在を悟られかねないと言うのに。

「オレグ! 起きて! オレグ!」

 その何者かは、尚も俺の名を呼び続ける。


   ●


「オレグ! ねえ、オレグ! 起きてったら!」

 自分の名を呼ぶ声に、俺はハッと眼を覚ました。そして自分が今どこに居るのか理解出来ずに一瞬だけ呆けたが、すぐにここが闇に包まれたチェチェンの戦場ではなく、自宅の寝室のベッドの上である事に気付く。

「あ、ああ、どうしたナターリヤ?」

 俺の名を呼び、肩を揺すって起こしたのはナターリヤだった。そこで何があったのかと問えば、彼女は臨月を迎えてパンパンに膨れた腹を押さえながら要請する。

「陣痛が始まったみたいなの。病院に行くから、急いで車を出してちょうだい」

「そうか。分かった」

 状況を瞬時に理解した俺はベッドから飛び起きると急いで外出着に着替え、その途中でチラリと時計を一瞥すれば、現在の時刻は午前三時。未だ夜も明け切らぬこんな時間に陣痛が始まってしまうとは、俺もナターリヤもよくよくツキが無い。

「大丈夫か? 一人で歩けるか?」

 苦悶の表情を浮かべるナターリヤに尋ねると、彼女は気丈な振る舞いでもって答える。

「うん、大丈夫。痛いけど、このくらいなら何とか歩けそう」

「そうか。それじゃあ先にガレージまで行って、車に乗っていてくれ。俺は荷物を運んでから、ヤロスラーヴァを起こして来る」

 俺はそう言って先行するナターリヤの背中を見送ると、事前に準備を終えていた入院に必要な荷物が詰まったスーツケースを担ぎ上げてからガレージへと向かい、愛車であるUAZ《ウァズ》452の後部座席にそれを積み込んだ。助手席には、既にナターリヤが乗り込んでいる。そしてスーツケースを積み終えた俺は自宅へと取って返し、今度は二階の自室で寝ている筈のヤロスラーヴァを呼んで来るために、彼女の部屋へと足を踏み入れる。

「ヤロスラーヴァ、ヤロスラーヴァ」

 名を呼びながら肩を揺すると、ベッドの上ですやすやと眠っていたヤロスラーヴァが眼を覚ました。

「お父ちゃん、おはよう」

 眼を覚ましたヤロスラーヴァは眠たそうに眼を擦りながら半身を起こすが、窓の外が未だ暗い事に気付いたらしく、何故自分がこんな夜中に起こされたのかが理解出来ずにきょとんとしている。

「ヤロスラーヴァ、よく聞きなさい。赤ちゃんがもうすぐ生まれそうだから、これから皆で街の病院に行きます。だからお前さんも着替えて、お出掛けの準備をしなさいね」

「赤ちゃん、もう生まれたの?」

「未だ生まれてないよ。だけどもうすぐ生まれそうだから、皆で病院に行くんだ」

 そう言った俺の言葉をようやく理解したらしいヤロスラーヴァは、ベッドから飛び降りると寝間着から外出着へと着替え始めた。そして着替えが終わってコートを羽織ると俺と一緒に戸外へと足を向け、ガレージに停められたUAZ《ウァズ》452の後部座席にちょこんと腰を下ろす。

「それじゃあ留守は頼んだぞ、ナノ」

 さすがに病院に犬は連れて行けないので留守を任せる事になったナノにそう告げると、妻と娘に続いて、夫であり父でもある俺もまたUAZ《ウァズ》452の運転席に乗り込んだ。そしてイグニッションキーを回してエンジンを始動させると、一路街の病院を目指して愛車を発進させる。

「ナターリヤ、病院に着くまで我慢出来るか?」

「うん、大丈夫。途中で破水しちゃうかもしれないけれど、初産じゃなくて二人目だもんね。我慢しなくっちゃ」

 ナターリヤはそう言って強がってみせるが、彼女の額や首筋にはじっとりと脂汗が滲み、遠からず我慢出来ないほどにまで陣痛が激しくなる事を予感させた。

「そうか、それじゃあ急ぐぞ」

「駄目よ、オレグ。急いじゃ駄目。ヤロスラーヴァも乗っているんだから、山道で無理に急いで事故なんか起こしたら悔やんでも悔やみ切れない」

「……成程、それもそうだな」

 たしなめられた俺はバックミラーをちらりと一瞥し、後部座席に座っている筈のヤロスラーヴァを見遣る。すると彼女はシートベルトを締めたまますうすうと寝息を立てながら寝入ってしまっていたが、ヤロスラーヴァは未だ三歳の幼女なのだから、睡魔に勝てなかったとしても無理は無い。

「よし、分かった。安全運転を心がけた上で、可能な限り急ぐぞ」

 そう宣言した俺はアクセルを踏み込み、いつもよりもほんの少しだけ速度を上げながら、愛車であるUAZ《ウァズ》452を走らせ続けた。そして一時間半ばかりも経過した後にようやく俺達は最寄りの街へと至り、やがて最終的な目的地である総合病院の門を潜る。

「それじゃあオレグ、ヤロスラーヴァをお願いね」

「ああ、任せておけ。お前さんも頑張って元気な子を産んでくれよ、ナターリヤ」

 総合病院の産婦人科病棟へと案内された俺達親子三人は、ストレッチャーでもって分娩室へと運ばれるナターリヤと、彼女が第二子を生み落とすその瞬間を夢見ながら廊下で待機する俺とヤロスラーヴァの二手に別れた。勿論小さなヤロスラーヴァは未だに睡魔に打ち勝つ事が出来ずに寝入ったままなので、椅子に腰を下ろした俺に抱っこされながらすうすうと寝息を立てている。

「これが二度目とは言え、やはり慣れないものは慣れないな。どうかナターリヤもお腹の子も、二人とも無事であってくれよ……」

 病院の廊下でヤロスラーヴァを抱っこしたまま、俺は独り言ちた。そして改めて、我が愛娘の可愛らしい寝顔にうっとりと見惚れる。彼女の真っ白な肌も艶やかなプラチナブロンドの髪も桜色の頬や唇も、どれも母親であるナターリヤにそっくりだ。

「お前さんもとうとうお姉ちゃんになるんだぞ、ヤロスラーヴァ」

 俺がそう呟きながら優しく髪を撫でてやれば、小さなヤロスラーヴァは寝惚けたように首を左右に振って、俺の手を振り払おうとする。果たしてこの可愛らしくも美しい少女は、これから生まれて来る彼女の弟と仲良く暮らして行けるのだろうか。そして幾星霜の年月の後に、果たしてヤロスラーヴァはどのような女性へと成長を遂げるのだろうか。我が子の来し方行く末を夢見る一人の父親として、俺の期待と不安が尽きる事は無い。

 そして俺は、またしても気付いてしまう。ヤロスラーヴァが生まれた三年余り以前と全く同じ分娩室へと続く扉の脇に、やけに背の高い真っ黒な焼死体である死神ボーク・スミェールチが立っている事に。

「よう、またお前さんか。いい加減にどこかに消えてくれないかな、まったく」

 深い溜息を漏らしながら、俺は吐き捨てるように呟いた。ここ最近はこの幻覚の焼死体が見える事も無かったので安心していたのだが、よりにもよって待望の男の子が生まれるかもしれないと言うこの特別な日にコイツが現れるとは、何かの悪い前兆の様な気がして不吉極まりない。

「そんな眼で見つめたって俺には何もしてやれないし、そもそもお前さんは何をしてほしいんだ? 教えてくれよ、なあ?」

 そう問い質してみたところで真っ黒に焼け爛れた死神ボーク・スミェールチからの明確な返答など期待するべくも無いし、それどころか幻覚の焼死体は只静かに責め苛むかのような眼差しをこちらへと向けるばかりでまるで埒が明かないので、俺は心底うんざりしながらそっと眼を逸らして溜息を漏らす。

「……う……ん?」

 死神ボーク・スミェールチを問い質す俺の呟きが聞こえたのか、それとも俺が漏らした溜息が想像を絶するほどにまで臭かったのか、どちらにしてもすうすうと寝息を立てながら寝ていた筈のヤロスラーヴァが不意に眼を覚ました。

「お父ちゃん、ここ、どこ?」

「ここは、街の病院だよ」

「赤ちゃん、もう生まれた?」

「未だ生まれてないけれど、もうすぐ生まれるからね。だからお前さんは気にしないで、ゆっくり寝てなさい」

「うん」

 そう返答したヤロスラーヴァが再び眠りに就こうとした、まさにその時。分娩室の扉の向こうからおぎゃあおぎゃあと赤ん坊の泣き声が聞こえて来たので、俺はヤロスラーヴァを抱っこしていた事も忘れて反射的に椅子から立ち上がる。

「おっと」

 立ち上がった俺の膝から転げ落ちそうになったヤロスラーヴァを咄嗟に抱きかかえて体勢を整え直すと、俺は分娩室の扉をジッと凝視した。そして全身を緊張させて聞き耳を立てながら、とっくの昔に午後の診察時間を終えた薄暗い産婦人科病棟の廊下でもって静かに状況を見守る。すると数分後に扉がゆっくりと開いたかと思えば、やはりヤロスラーヴァが生まれた時と同じように若い看護婦が姿を現した。

「旦那さんですね? どうぞ、お入りください」

 そう言われた俺が分娩室へと入室してみれば、分娩台の上に横たわったままのナターリヤが見事な笑顔と共にガッツポーズを決めてみせる。

「喜んで、オレグ! ヤロスラーヴァ! 元気な男の子よ!」

 彼女の言葉通り、生まれたばかりの第二子は真っ赤な顔を皺くちゃにしながらわあわあと大きな声で泣き喚く元気な男の子であった。

「おおお……」

 年配の看護婦によって抱きかかえられた、生まれたばかりで未だ顔もくちゃくちゃな赤ん坊を眼の前にした俺は感動でもって声も出ない。

「赤ちゃん! 赤ちゃん!」

 俺に代わって歓喜の声を上げたヤロスラーヴァが、少しでも赤ん坊の顔を間近で見ようと年配の看護婦の元へと駆け寄る。すると赤ん坊を抱きかかえた看護婦が身を屈めて姿勢を低くしてくれたので、小さなヤロスラーヴァは生まれたばかりの自身の弟の顔をまじまじと至近距離から見つめる事が出来た。

「赤ちゃん、生まれた! あたしの弟!」

「そうとも、お前さんの弟だよ、ヤロスラーヴァ。小っちゃくってまだまだ不細工で、堪らなく可愛いなあ」

「うん、赤ちゃん可愛い!」

 本当に嬉しそうに、わあわあと泣くばかりの弟の顔を覗き見るヤロスラーヴァ。きっと彼女は彼女の弟と一緒に、誰からも愛される幸せな生涯を送るに違いない。そしてその夢を叶えるためならば、俺はどんな犠牲でも払うだけの覚悟がある。

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