第九幕
第九幕
「ほらナノ、取って来い!」
そう言った俺がテニスボールを道沿いの雪原に向かって放り投げてやれば、ナノは嬉しそうに雪を掻き分けながら獲物を追って疾走し、やがてボールを口に咥えてこちらへと駆け戻って来る。
「よーしよし、いい子だいい子だ」
見事にフェッチと呼ばれる芸当ををこなしてみせたナノの頭や背中を、俺は優しく、また時には激しく撫で回してやった。もうすぐ二歳の誕生日を迎えるこのモスクワン・ガーディアン・マスティフの雌犬も飼い始めた時からは想像もつかないほどにまで大きく成長し、子犬の頃の面影は殆ど無い。そう、ナノはもうすぐ二歳になる。それはつまり、俺とナターリヤが結婚してから十ヶ月ばかりが経過し、今年もまた季節は巡ってロシアの長く暗い冬が到来した事をも意味していた。
「陽も傾いて来たし、そろそろ帰るぞ、ナノ」
俺はそう言って散歩のルートを変更し、帰宅の途に就く。するとまだまだ散歩を続けたいらしいナノはくうんと悲しそうに鳴いたが、それでもこんな山も中に取り残されたくはないらしく、渋々ながら俺の後について歩き始めた。そして三十分ばかりも小道を歩き続け、名も無き湖の畔へと辿り着くと、やがて薄暗がりの中でボンヤリと灯が灯った俺の自宅が視界に入る。
「ただいま」
俺は玄関扉を潜り、帰宅を告げた。するとリビングの暖炉の前に置かれたソファに座って編み物をしていたナターリヤがこちらを振り返る。
「おかえりなさい」
返礼を返したナターリヤ目掛けて、犬のナノが嬉しそうに飛び掛かった。
「こらナノ、そんな突然飛び掛かったりなんかしたら、お腹の赤ちゃんがビックリするじゃないの!」
本気で怒っている訳ではなくおどけるような口調でもってそう言ったナターリヤは、彼女の顔をべろべろと舐め回すナノの全身を優しく撫でてやる。そしてそんなナターリヤのお腹は大きく膨れ、ちょうど
「ほら見て、オレグ。赤ちゃんの新しいニットが編み終わったの」
「おいおい、それで何着目だ? 未だ生まれてもいないってのに気の早い奴だな、お前さんは」
「何言ってんの? 生まれてからじゃ赤ちゃんの世話が大変で、編み物をしている暇なんて無いに決まってるじゃない。だから今の内に、こうして必要な物を揃えておかなくちゃならないんでしょうよ。そんな事も分からないだなんて、ホントにオレグはお馬鹿ちゃんでちゅね、ナノ?」
俺を誹謗し、赤ちゃん言葉でもってナノに同意を求めるナターリヤ。しかし人間の言葉が理解出来ないナノはきょとんとした表情で小首を傾げながらくうんと鳴くばかりで、要領を得ない。するとそんなナノの反応が可笑しかったのか、ナターリヤは編み物をしながらケラケラと笑う。
「馬鹿な事を言っていないで、そろそろ飯にしようや。今夜は何を食う?」
「そうね。朝食べたキシュカと昼のシチーが未だ残っているから、それとカーシャを一緒に食べましょうか」
そう言ったナターリヤと俺はソファから腰を上げ、リビングと一続きになったキッチンへと足を向けた。そして彼女はカーシャを調理し始め、俺は残り物のキシュカとシチーを温め直し始める。
「残っているキシュカは全部食べちまうか? それとも明日の朝の分を残しておくか?」
「うーん、いいや、全部食べちゃいましょ。温めてから一晩置いておいたら、傷むかもしれないし」
「了解」
ナターリヤの許諾を得た俺は、朝食の残りのキシュカを全て電子レンジに放り込んだ。ちなみにキシュカとは大麦や蕎麦の実を混ぜた豚の血の腸詰めの事で、俺に言わせれば普通の肉の腸詰めよりも味が濃厚で美味い。そしてナターリヤはカップ二杯分ほどの蕎麦の実をコンロに掛けた鍋で炒ると、そこに水と牛乳と塩、それにバターを加えて煮込んでロシア風のお粥であるカーシャを拵える。
「あたしの家の伝統のカーシャには、もう慣れた?」
トマトとサーラを細かく刻み、それを鍋に放り込みながらナターリヤが尋ねた。
「ああ。しかし最初は驚いたぞ。カーシャにトマトを入れるだなんて」
「昔、あたしが未だ小さかった頃に母様が試しに入れてみたら美味しかったんで、それ以来うちのカーシャにはトマトを入れるようになったの。トマトの甘酸っぱさが、意外にも牛乳とマッチするのよね」
自信ありげに、もしくは勝ち誇ったかのような口調と表情でもってそう言ったナターリヤ。彼女が火に掛けた鍋の中身が煮立って蕎麦の実が柔らかくなれば、ロトチェンコ家秘伝のトマトのカーシャは完成だ。
「いただきます」
トマトのカーシャとキシュカとシチー、それに大量に作り置きしておいたトマトと胡瓜と玉葱のサラダを皿に盛ってダイニングのテーブルに並べた俺とナターリヤは、さっそく夕食を食み始める。勿論、どの料理にもスメタナを添える事は忘れない。
「うん、やっぱり美味いな、これは」
俺はトマトのカーシャを食みながら、素朴な感想を述べた。お粥の一種であるカーシャには塩味のカーシャと砂糖を入れて甘くした朝食向けのカーシャとがあるが、塩味の場合は確かに刻んだトマトとサーラを入れると味に深みが増して美味くなる。
「でしょう? あたしの母様の発案なんだから、感謝して食べなさい」
やはり自身ありげにそう言ったナターリヤの足元では、自分の分の餌であるドッグフードをとっとと食べ終えた犬のナノが人間様の食べ物のお裾分けを期待してか、物欲しそうな顔でこちらを見上げながらウロウロしていた。
「駄目だぞ、ナノ。あっちへ行ってなさい。人間の食べ物を食べたら、犬のお前さんは病気になっちまうんだからな。ナターリヤも、食べさせるんじゃないぞ」
「そのくらい、言われなくても分かってますってば」
ナターリヤはそう言うが、彼女が俺の眼を盗んでこっそりとナノに人間のおやつを分け与えている事を俺は知っている。しかしまあ、たまにちょっと食べさせるくらいならすぐに病気になる事も無いだろうから、眼くじらを立てて殊更に咎める必要は無いのかもしれない。それにナノが意地汚いのは俺の躾の至らなさが原因でもあるので、その点を棚に上げてナターリヤだけを責めるのは不公平かつ不公正ではなかろうか。
「ところで予定日まで後三日だが、もう入院の準備は出来ているんだろうな?」
「当然じゃない。もう着替えもタオルも洗面用具も、暇潰しのための本や雑誌だって準備出来ているんだから」
「そうか。しかしこう言っちゃ何だが、もう既に予定日三日前だってのに、もうすぐ赤ん坊が生まれて父親になるって言う実感はなかなか湧かないもんだな」
「何言ってんのよ、オレグ。あなたはもうじき父親になるんだから、そこら辺をちゃんと自覚してもらわなくっちゃ」
そう言いながらナターリヤは、臨月を迎えてパンパンに膨らんだ自身の腹を愛おしそうに撫で擦る。後ほんの数日でこの腹から赤ん坊が生まれ出づるのかと思うと、人体の不思議と言うか生命の神秘と言うか、とにかく地球人類の進化の歴史と神の為せる業に敬服するばかりだ。
「ごちそうさま」
やがて食事を終えた俺達二人は空になった食器を纏め、カーシャとシチーを煮込むのに使った鍋と一緒に流し台で洗い始める。すると不意にナターリヤが身体をくの字に曲げ、苦悶の表情を浮かべながら蹲った。
「痛っ!」
「どうした?」
最初はキシュカを切るのに使ったナイフで指でも切ったのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「痛たたたたた……」
「おいナターリヤ、もしかして……」
「うん、たぶん陣痛。急いで病院に向かうから、リビングに置いてあるスーツケースを車まで運んでくれる?」
俺は言われた通り、リビングのソファの脇にあらかじめ用意されていたスーツケースを抱えて戸外に飛び出すと、それをガレージに停められていたUAZ《ウァズ》452の後部座席に放り込んだ。そして急いで屋内へと取って返し、今度は苦痛に喘ぐナターリヤに手を貸しながら彼女をガレージまで連れ出す。
「大丈夫か? 痛むか?」
「うん。痛いけど、このくらいなら未だ大丈夫。なんとか我慢出来る」
そう言ったナターリヤは俺の手を借りながらUAZ《ウァズ》452の助手席に乗り込み、俺もまた運転席に乗り込むと、イグニッションキーを回してエンジンを始動させた。
「頑張れよ。すぐに病院まで連れて行ってやるからな」
「うん、お願い」
俺はアクセルを踏み込み、愛車であるUAZ《ウァズ》452は宵闇に包まれた山間の小道を走り始める。
●
既に午後の診察時間は終了しているので、街の総合病院の産婦人科病棟の廊下に人の気配は殆ど無い。そしてそんな薄暗い廊下の壁沿いに設置された椅子に腰掛けながら、俺は分娩室へと搬送されたナターリヤが我が子を産み落とす瞬間を今か今かと待ち焦がれていた。ちなみに俺自身が分娩室に入って出産に直接立ち会っていないのは、自分が苦しんでいる姿を見られたくないと言うナターリヤの要望を聞き入れた結果であって、俺が怖気付いた訳ではない。
「どうかナターリヤもお腹の子も、二人とも無事であってくれよ……」
神妙な面持ちでそう呟いた俺は、母子の無事を神に祈る。現代の医学をもってしても出産時に母体に掛かる負担は感化出来ず、様々な要因によって妊婦が死に至る事例も決して少なくはない上に、ましてや新生児の方が死に至る死産ともなれば尚更だ。そしてそれらの事実を熟知しているからこそ、胎児の父親であり妊婦の夫でありながら祈る事しか出来ない自分の無力さと矮小さが恨めしい。
するとその時、俺はふと気付いた。いつの間にか分娩室へと続く扉の脇に、やけに背の高い何者かがひっそりと立っている。
「よう、またお前さんか。久し振りだな」
吐き捨てるようにそう言った俺の視線の先に立っていたのは真っ黒な長身の焼死体、つまり俺だけに見える幻覚の
「頼むから、俺の事をそんな眼で見ないでくれ。そして出来れば、どこかに消えて居なくなってくれ。今日は俺の人生の中でも特に大事な記念日になる筈なんだ」
俺は
「!」
どれほどの時間が経過したのかは定かではないが、やがて分娩室の扉の向こうから伝わって来る赤ん坊の泣く気配に、俺はついと顔を上げた。最初は空耳かとも思ったが、次第に大きくなる赤ん坊の声量から鑑みて、どうやら俺の子が文字通りの意味で呱々の声を上げているのは間違い無いらしい。
「生まれた?」
俺は椅子から腰を浮かせたが、分娩室に駆け込んだものかどうか逡巡して足を止める。そして扉の前で暫くまごまごしていると、不意にその扉が開いて一人の若い看護婦が姿を現した。
「旦那さんですね? どうぞ、お入りください」
入室を促された俺が急いで分娩室に足を踏み入れてみれば、既に切開された会陰の縫合を終えたらしいナターリヤが分娩台からストレッチャーへと移され、その脇には新生児を抱いたさっきとは別の年配の看護婦が立っているのが眼に留まる。そう、彼女が抱いているのは新生児。生まれたばかりで驚くほど小さく、不細工でくちゃくちゃな顔を真っ赤にさせながらか細い声で泣き続ける、俺とナターリヤとの子供だ。
「おおお……」
言葉にならない声と共に、俺は看護婦に抱かれた新生児に歩み寄る。
「おめでとうございます。可愛い女の子ですよ」
女の子。妊娠中期以降の胎児のエコー検査でほぼ判明していた事ではあるが、改めて性別を告げられるとこちらの気持ちも新たになり、なんだかやけに感慨深い。そして性別を告げた看護婦が真っ白なタオルに包まれた新生児をこちらへとそっと差し出したので、俺は緊張でもって手を震わせながらも我が子を初めて胸に抱いた。
「女の子か……」
新生児は驚くほど小さく、力一杯抱き締めたら崩れ落ちてしまいそうなほど華奢で、儚げなほどにまで軽い。しかしそれでも自分は生きているんだとでも主張したいのか、彼女は途切れ途切れにか細い声でもって、小さいながらも懸命にわあわあと泣く。
「どう、オレグ? 赤ちゃん、可愛いでしょう?」
「ああ、可愛いな。本当に可愛くて可愛くて、他に言葉が出て来ないよ」
ストレッチャーの上に横たわったままのナターリヤが発した問いに、俺は正直な感想を述べた。
「それでは赤ちゃんは新生児室に移動させますね。奥様もこれから、個室の方へと移動していただきます」
そう言った年配の看護婦が俺の手から赤ん坊を取り上げたかと思えばいそいそと分娩室から歩み去り、ナターリヤを乗せたストレッチャーもまた移動を開始したので、俺はその後を追う。そして辿り着いた入院用の個室で病衣へと着替えた彼女はベッドに寝かされ、俺はその脇に置かれた椅子に腰を落ち着けた。
「ふう」
無事に出産と後産を終え、会陰縫合も終えて陣痛も治まったらしいナターリヤは深い溜息を漏らし、ようやく人心地つく。
「ご苦労様、ナターリヤ」
俺が労いの言葉を掛けてやると、ナターリヤはベッドの上で真っ白な歯を見せながらこちらへと笑顔を向け、腕を振り上げてガッツポーズを決めてみせた。
「見事に赤ちゃんを産んでみせたあたしをもっと称えなさいよ、オレグ」
「そうだな、本当によくやったよナターリヤ。お前さんは最高の妻であり、これからは最高の母親にもなるんだ。その記念日である今日と言う日を祝して、心の底からおめでとうと言わせてくれ」
賞賛されたナターリヤと俺はギュッと堅く抱き締め合い、唇を重ねる。
「赤ちゃん、やっぱり女の子だったね」
「ああ、小さくて可愛い女の子だったな」
「それじゃあやっぱり、赤ちゃんの名前は……」
「ああ、ヤロスラーヴァだ」
俺は事前に夫婦で話し合って決めていた、赤ん坊が女の子だった場合に命名すべき名前を口にした。
「ヤロスラーヴァ。良い名前ね」
「そうとも。きっと綺麗で元気で賢くて、優しい子に育つぞ」
そう言った俺とナターリヤは再び抱き締め合い、生まれたばかりの我が子の未来に見果てぬ夢を重ねる。
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