第八幕


 第八幕



 アキムの葬儀はつつがなく、厳かに、そしてしめやかに執り行われた。街外れの墓地に集まった参列者の数は決して多くはなかったが、皆が皆沈痛な面持ちでもって悲しみながら彼の冥福を祈っている事に、誰からも愛されたアキムの優しい人柄がうかがい知れる。

「アミン」

 ギリシア正教における神様への肯定を意味する言葉を司祭が唱え終えると、それを合図にしてアキムの遺体が納められた棺はあらかじめ掘ってあった墓穴へと下ろされ、やがて葬儀の参列者全員でもって上から土がかけられた。勿論土がかけられるのは死者との別れを告げるための儀礼的な慣習であって、最終的に墓地を整備して墓標を立てるのは石屋と墓守達の仕事である。

「安らかに眠れよ、アキム」

 俺は棺に土をかけながら、ボソリと呟いた。かつては戦場で散って行った多くの部下達や同僚達を見送って来た俺だが、やはり何度経験しても、葬儀の席と言うのは居心地が悪い。想像するにこの居心地の悪さと言うのは、おそらくは自分なんかがのうのうと生き延びている事が死者に対して申し訳無いと思ってしまう、そんな遺憾の念から逃れようと足掻いているが故の気不味さなのだろう。

「ナターリヤ……」

 俺はナターリヤの名を呼びながらぐるりと視線を巡らせ、どこか近くに居る筈の彼女の姿を探した。すると墓地の一角で親戚と思しき年長の男女や司祭達に取り囲まれて哀悼の言葉を掛けられながら、最愛の兄を亡くした悲しみに暮れて今も尚泣き続けているナターリヤの姿が眼に留まる。

「……」

 俺は口を噤み、それ以上彼女に近寄る事は無かった。どうせ声を掛けたところで今の俺にはナターリヤを励ましてやれるような言葉も思い浮かばないし、それをすべきは彼女を取り囲んでいる親戚の面々であって、俺の様な近所に住んでいると言うだけの赤の他人の役目ではない。

「自分より若いモンの葬儀に参列するってのは、何度経験しても慣れないねえ……」

 そう独り言ちた俺は一人きりでとぼとぼと歩き始め、やがて墓地の向かいに路上駐車してあった愛車であるUAZ《ウァズ》452に乗り込むと、イグニッションキーを回してエンジンを始動させた。

「ふう」

 最後に深く溜息を吐いてからアクセルを踏み込み、俺が運転するUAZ《ウァズ》452はゆっくりと墓地から遠ざかって行く。


   ●


 ロシアの暗く長い冬も峠を迎え、戸外の山並みは深い雪に覆われつつも、アキムの葬儀が執り行われてから既に一ヶ月ばかりが経過した。人間誰しも歳を重ねると時間の流れが速く感じられるもので、気付けばあっと言う間に時は流れ、過去の出来事は思い出の彼方へと葬り去られてしまうものである。そしてこの一ヶ月の間にナターリヤが俺の自宅を訪ねて来た事は一度として無かったし、俺が一度だけ様子を見ようとロトチェンコ畜産場まで愛車で訪ねた際には、彼女は出掛けていてトラックごと不在だった。最愛の兄を亡くした心の痛みから早まった事をしなければ良いのだがと俺は祈るが、いくら祈ったところで神様もマリア様も沈黙を守ったきりで、明確な答を返してくれるような気配は無い。

「ごちそうさま」

 兎にも角にも、人生は非情だ。食い扶持を稼ぐためにも、俺は今日も働かなければならない。そこで昼食のサンドイッチを食べ終えた俺はライ麦パンとチーズとサーラ、それに胡瓜の塩漬けを切るのに使ったペティナイフを洗って包丁立てに仕舞うと、作業用のエプロンを纏ってから工房へと足を向ける。

「さてと」

 工房へと足を踏み入れた俺は、ベルトサンダーの電源を入れた。そして午前中にダマスカス鋼のナイフの鍛造と鍛接、そしてその焼き鈍しを終えて鋼材を灰の中で冷ましている真っ最中なので、午後からは昨日の内に接着を終えていた別のナイフのハンドルの成型に着手する。

「レザーワッシャーは削り過ぎが怖いから、慎重に作業を進めないとな」

 独り言つようにそう呟くと、俺はナイフのハンドルを高速回転するベルトサンダーの切削面でもって削り始めた。そして今日削るべき素材は、レザーワッシャー。それはその名の通り輪切りにされた動物の革を積層した素材であり、一般的にナイフのハンドル材として使われる天然の木材や樹脂を浸透させた繊維であるマイカルタなどに比べると柔らかく、どちらかと言えば実要性重視ではなく鑑賞目的として採用される事が多い。

「慎重に、慎重に……」

 手元が狂って削り過ぎないように注意しながら、俺は作業を進める。ちょっとでも削り過ぎてしまえばやり直しはきかず、ここまでの作業の全てが水泡に帰してしまうのだ。

「よーしよし、いいぞ、そのまま慎重に削り続けるんだ……」

 積層された動物の革であるレザーワッシャーは削られるに従って独特の模様と風合いを醸し出し、コレクターが心を奪われるに相応しい美しさと機能性に富んだ野性味を表出し始める。

「よーし、そのままそのまま……」

 やがてレザーワッシャーのハンドルを削り終えようとした、まさにその時。不意に自宅の外からトラックのクラクションがけたたましい音量でもって鳴らされ、そのあまりの喧しさに驚いた俺は、もう少しで手元が狂って全ての作業が台無しになるところだった。

「何だ?」

 俺は切削作業の手を止め、工房を出て自宅の廊下を渡ると、玄関扉から戸外へと顔を出す。するとそこには予想通り、ロトチェンコ畜産場の輸送用トラックに乗ったナターリヤが鎮座していた。

「オレグ!」

 トラックの運転席側の窓から顔を覗かせたナターリヤが俺の名を呼んだが、満面の笑みを浮かべた彼女の顔の血色は良く、ほんの一ヶ月前に実の兄を失った悲壮さや哀愁の念は微塵も感じられない。

「よう、ナターリヤ。元気そうじゃないか。それで今日は何か、俺に用かい?」

「ええ、オレグ。そうね、とりあえずは荷物を運び入れるのを手伝ってちょうだい」

 そう言ったナターリヤはトラックから降りると、車体後部の荷台へと足を向ける。

「荷物?」

 訝しみながらも彼女の背後に付き従ってトラックの荷台を覗き込んでみれば、そこには大量の鞄やスーツケース、紙袋、それに段ボール箱や束ねた本などが所狭しと詰め込まれていた。

「何だこりゃ? お前さん、これからどこかに引越しでもする気なのか?」

「そうね、まさにその通り。引越しに来たの。今日からあたし、あなたと一緒にこの家で暮らす事にしたから」

「はあ? 何だって?」

 きょとんとすると言うかぽかんとすると言うか、とにかく突然の事態に茫然自失とする俺を完全に無視したナターリヤは、トラックの荷台に積んであった荷物の数々を勝手に俺の自宅の中へと運び入れ始める。

「おいおいおいおい、ちょっと待てよ、ナターリヤ。今日からここに住むって、それは一体何の冗談だ?」

「ん? 言っておくけど、冗談なんかじゃないからね? あたしは本気で今日からこの家に住むつもりだし、確か一階の一番奥の部屋が空いていた筈だから、とりあえずはそこに荷物を全部運び入れてちょうだい。ほら、早く! 急いで!」

「だから、急いでじゃなくってだな。ここは俺の家であって、お前さんの家じゃない。それに俺達二人が一緒に暮らす理由も無ければ根拠も無いんだから、お前さんはとっとと荷物を纏めて自分の家に帰りなさい。分かったか?」

 呆れるやら憤慨するやらの俺が帰宅を要請すると、ナターリヤはさも当然とでも言いたげな口調でもってそれを拒否する。

「悪いけど、それは出来ないの。あたしの前の家と土地は、もう売っちゃったから」

「何だって? 売った?」

「そう、売っちゃった。不動産屋に。買い手がつくまでに一ヶ月も掛かっちゃったけれど、ようやく一昨日売れたの。とは言ってもあんな山奥の土地じゃ二束三文にしかならなかったし、家そのものには価値が無いって言われちゃったけれど、解体や撤去の費用を請求されなかっただけでも運が良かったと思わなくっちゃね。まあどちらにしても、もうあたしにはこの家しか帰る場所が無いの。それを理解したら、さっさと荷物を運び入れてちょうだい」

「おい待てよ、ナターリヤ。お前さん、自分が何を言っているのか理解出来ているんだろうな? 結婚もしていない若い男女が一つ屋根の下で暮らすだなんて破廉恥な真似が、よりにもよってこんなド田舎で許される筈が無い事くらい、いくらお前さんでも理解出来るだろう?」

 俺は呆れ果てながら力説するが、ナターリヤがトラックに荷物を戻す気配は無い。それどころか彼女は着ている白い革のジャンパーのポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出し、それを俺に向かって差し出すと、むしろ彼女の方が呆れ果てているかのような口調でもって事も無げに言う。

「だーかーらー、あたしがあなたと結婚してあげるって遠回しに言ってるんじゃないの。まったく、なんでそれが理解出来ないかな? 男って、ホントにそのあたりが鈍いんだから、やんなっちゃう。ほら、これ。婚姻届。昨日役所で貰って来てあたしの分はサインしておいたから、あなたの分もさっさとサインしちゃってよ。それで今から街まで行って役所に提出すれば、陽が沈む前に帰って来られるからさ」

「はあ?」

 俺はあんぐりと口を開けて呆けたまま、頓狂な声を上げた。突然婚姻届を手渡されてサインしろとか、ましてや結婚してあげるなどと言われても、只々頭の中が混乱するばかりで状況が飲み込めない。

「ほら、オレグ。そんな所で突っ立ってないでちゃっちゃとサインして、荷物を運び入れるのを手伝いなさい! 急いで!」

「待て待て待て、ナターリヤ。親子ほども歳の離れたこの俺と結婚するだなんて、お前さん気は確かか? それに、そんな人生の一大事を本人の了承も無しに一方的に決められてたまるかってんだ! そうだろう?」

「あら、何なのオレグ? あなた、あたしとの結婚が不満なの? せっかくこんなに若くて綺麗な女の子がわざわざ自分からお嫁に来てあげるって言っているのに、身の程も弁えずにそれを邪険に扱ったりなんかしたら、きっとマリア様が怒って天罰を下すんですからね?」

「自分で自分を若くて綺麗な女の子だとか言っちまうとは、一応自覚はあったんだな、お前さんも」

 もはや呆れ果て過ぎた俺は、なんだか細かい事が気になってしまう。

「それじゃあオレグ、ここらで一旦、はっきりさせましょうか。あたしとの結婚の、一体何が不満だって言うの? ちょっと強引なあたしのやり方が気に入らないのはそれとなく理解したけれど、最終的にあたしと結婚したくないって言うのなら、その理由をちゃんと今この場で言葉で説明してちょうだい。あたしの事が嫌い? あたしがお嫁に来たら迷惑? そこら辺、どうなのよ」

「どうって言われてもなあ……。そりゃあ勿論、俺だってお前さんの事が嫌いな訳じゃあないし、嫁に来られて迷惑かと言われたら微妙なところだが……。どちらにせよ、あまりにも唐突過ぎる。そうだ、唐突なんだよナターリヤ。もっとこう、男女が出会ってから逢瀬を重ねる内に次第に愛を確かめ合うとか、そう言った恋愛のプロセスってもんが存在して然るべきだろう? それをお前さんは一気にすっ飛ばして、いきなり結婚してあげるとか言いやがる。俺は一人の大人として、その短絡的な行動が気に喰わないんだ」

「あら、いいじゃないの。面倒臭い途中経過なんてものは省略しちゃって、どうせなら一息に結論に達しちゃった方が後腐れが無いんじゃないかしら? 大体、あたしはこれまでにも何度か同年代の男性と交際してみたけれど、一度として碌な眼に遭った事が無いんだからね? だったらいっその事、最初から潔く堂々と結婚しちゃって、大手を振って幸せな家庭を築く事に注力すべきだと思うの。どうかしら? あたし、何か間違った事を言ってる?」

「いや、まあ、間違ってはいないのかもしれんが……」

 俺はそう言って、頭を抱えた。そしてまた同時に、抗い難きこの世の真理にも気付いてしまう。それはつまり、どう頑張ったところで、男が女に口喧嘩で勝てる訳が無いと言う純然たる事実だ。しかもナターリヤの様な二十歳そこそこの若い小娘などが他人の意見に耳を貸す筈も無いし、ましてや俺の様なおっさんの言う事なんてまともに聞きやしない。そして万策尽きた俺は天を仰ぎ、腹の底から絞り出すような溜息を漏らしながらその場にしゃがみ込んでしまってから、かぶりを振って諦める。

「……分かったよ、分かりましたよお姫様。それで、まず最初に俺は何をすりゃいいんだい?」

 やがて自暴自棄になった俺は、半ばヤケクソ気味な口調でもってそう言った。するとナターリヤは勝ち誇ったかのように鼻をふふんと鳴らし、至極満足そうな、そしてまた同時にひどく狡猾そうな笑みを漏らしながら命令する。

「そうね。それじゃあまずは、トラックに積んである荷物を全部、この家の一番奥の部屋に運び入れてちょうだい。それから婚姻届にサインしたら、それを役所に提出するためにあたしと一緒に街に行くの。勿論、あなたが運転する車でね。それで何か不手際が無ければ今日の内にあたし達の結婚が成立する筈だから、そうしたらお祝いに、以前一緒に行ったイタリアンレストランで食事にしましょう。あの時食べたイカ墨のパスタがもう一度食べたいから、これは絶対ね。うん、絶対に食べに行きましょう。ああそうそう、あたしの分の家具や寝具や食器も買って来なくっちゃ」

「はあ」

 俺は地面にしゃがみ込んだ体勢のまま、年甲斐も無くぶすりと不貞腐れながらナターリヤの言葉を聞いていた。彼女が夢見るかのように語り続ける未来予想図によって、俺の将来設計は見る間に覆されて行く。そして俺は本当にこんな自分勝手な女と結婚しなければならないのかと思うと、深く深く、本当に地獄の底から沸き上がって来るかのように深くて陰鬱な溜息を漏らさざるを得ない。

「本当に、どうなっちまうのかなあ……」

 そう呟いた俺は、再度天を仰いだ。


   ●


 俺は一応はギリシア正教の信徒だが、決して敬虔と言う訳ではなく、教会にも滅多に行かない。そんな不信心な俺がこんな短期間に二度も協会を訪れる事になろうとは、まさに異例の事態と言える。

 つまり今からほんの一時間ばかりも前に、先月アキムの葬儀が執り行われたのと同じ街の教会において司祭の前で永遠の愛を誓い合った俺とナターリヤの二人は、晴れて正式な夫婦となった。勿論指輪も交換したし、誓いのキスとやらを衆人環視の中でやらされた俺は少しばかり機嫌が悪く、面映い。

「結婚おめでとう、アレンスキーさん。いやあ、綺麗なお嫁さんを貰えたあんたが羨ましいよ」

「それはどうも、ありがとうございます」

 俺はウォトカの注がれたグラスを傾けながら声を掛けて来た太った初老の男性にそう言うと、ぎこちない作り笑顔でもって応対した。ちなみにその太った男性がどこの誰なのかはよく覚えていないのだが、確か街の商店会の会長だったか何だったかだと記憶している。そしてその太った男性はナターリヤとも言葉を交わした後に自分の席に戻ると、レストランが供する祝いの席の料理と酒を堪能する作業を再開し始めた。

 そう、ここは街の商店街の一角の、ロシアの伝統的な郷土料理を提供する事で知られたレストラン。教会で永遠の愛を誓わされた俺とナターリヤと結婚式の参列者達はこのレストランへと移動し、貸切になった店内で歌ったり踊ったり用意されていた御馳走に舌鼓を打って祝宴に興じている。

「ああ、可愛いオレグ。あなたがこうして結婚出来て、あたし達は本当に嬉しくて仕方が無いんだからね! きっとこの日を迎えられた事を、お義姉さん達も天国で喜んでいるでしょうよ!」

 感涙しながらこちらへと歩み寄って来て俺の手を握るなりそう言ったのは、今は亡き俺の母親の弟の妻、つまり叔母だった。そして叔母の隣にはその夫である叔父もまた随伴していたが、こちらは生来物静かな人なので、特に感涙する事も無く無言でニコニコと微笑んでいる。二人とも今日のために遠くニジニノヴゴロドからわざわざ来てくれたので、俺は感謝する事しきりだ。

「ありがとう叔母さん、叔父さん」

 礼を述べた俺と熱い抱擁を交わした叔母と叔父は、少し離れた場所で知人達と談笑しているナターリヤにも歩み寄り、やはり彼女とも熱い抱擁を交わす。さっきの太った商店会長も言っていたが、ナターリヤの様な美しい女性が家族の一員に加わった事を、叔母と叔父も誇らしく思っているに違いない。その証拠に式に参列していた俺の親戚や友人知人は俺への挨拶もそこそこに、皆一様に花嫁衣裳に身を包んだナターリヤの周囲にばかり集って、愛想を振り撒いていた。まあ、ナターリヤは黙っていさえすれば傾国の美女と言っても過言ではない美貌の持ち主なので、誰もが彼女と親密になりたいと願うのは当然の事と言える。

 しかし眉目秀麗なナターリヤの好評ぶりとは対照的に、この俺自身はどうかと言えば、大衆からの支持はまるで無かった。特にロトチェンコ家の親類縁者からの不人気ぶりは顕著であり、まるで不審者にでも遭遇したかのような怪訝そうな眼でもって遠巻きに観察されている気配と視線がひしひしと伝わって来る。

 まあ、彼女の親戚がそんな眼で俺を見るのも仕方が無い。何せ俺は花嫁であるナターリヤとは親子ほども歳の離れた中年のおっさんで、特に金持ちでもなければ社会的地位が高い貴族様でも政治家でもないし、おまけに顔面の左半分がズタズタに引き裂かれて焼け爛れた醜男と来たもんだ。そんな俺がナターリヤみたいな若く美しい自慢の親戚と結婚するともなれば、一体どんな手を使って彼女をたぶらかしたのだろうかと訝しまれるのも致し方無い事だろう。

「どうしたの、オレグ? せっかくの結婚式なんだから、もっと楽しそうな顔をしなさいよ」

 テーブル席に腰を下ろしたまま仏頂面でウォトカのグラスを傾けるばかりの俺に、こちらへと足早に駆け寄って来たナターリヤが忠告した。

「なあに、ちょっと世の中の残酷さと不公平さについて考えていてな」

 自虐の意味も込めた皮肉を漏らす俺だったが、その真意がナターリヤに伝わった様子は無い。

「何を訳の分からない事言ってんの? それよりもこっちに来て、皆と一緒に踊りましょうよ。今日はあなたとあたしが主役なんだから、ここに居る誰よりも楽しまなきゃ損じゃない」

 溌剌とした声でそう言ったナターリヤは俺の手を取り、腰を下ろしたテーブル席から半ば強引に立たせると、レストランのフロアの中央へといざなおうとした。するとそこに一人の男が杖を突きながら近付いて来て姿勢を正し、軽い会釈と共に俺とナターリヤを祝福する。

「アレンスキー曹長、それにお嬢さ……いや、今はもうアレンスキー婦人か。二人とも、結婚おめでとう」

「少佐」

 その男は俺のかつての上官であり、今は退役軍人として諸国を漫遊していると言うゲラシム・クラシコフ少佐だった。

「お久し振りです、少佐。まさかお越しいただけるとは思いもしませんでした。ご列席ありがとうございます」

「いや、礼を言うのはこちらの方だ。良くぞ知らせてくれたな、曹長。感謝する。それにしても招待状が届いたのはほんの三日前だったが、ちょうど私が自宅に居る時で良かったよ。旅に出ている最中だったら、今日の式には間に合わなかっただろうからな」

 そう言ったクラシコフ少佐と俺は、熱い抱擁を交わす。

「今日はあたし達の結婚式に参列していただきまして、本当にありがとうございます、少佐さん」

 ナターリヤもまた感謝の言葉を述べ、少佐と抱擁を交わした。

「これはこれは、綺麗な花嫁さんだ。こんな綺麗な花嫁さんを貰えるなんて、曹長が羨ましい限りだな」

「嫌だ少佐さんたら、お世辞がお上手なんだから」

「いやいや、本当の事ですよ、アレンスキー婦人。しかし、私の予想も半分方しか当たらなかったようだ。私はきっと曹長とあなたが親密な関係になるだろうと踏んではいたのだが、まさかこんなに早く結婚するとは思いもしませんでしたよ。いやあ、私の勘も鈍ったもんだ」

 そう言って笑うクラシコフ少佐を、ナターリヤはダンスに誘う。

「そうだ、少佐さん。よろしければあたしと一曲、踊っていただけませんか?」

「はっはっは、申し出は嬉しいが、生憎と老骨に鞭打ってこの脚で踊るのは少々酷でしてね。誠に残念ながら、今回は辞退させていただこう」

 少佐はズボンの右裾を捲り上げ、露になった義足を杖でコンコンと叩きながら言った。

「あら、ごめんなさい。義足だとは知らなかったものですから」

「お気になさらずに。花嫁であるあなたは私なんかに構っていないで、花婿である曹長と一緒に心行くまで踊るといい。そうして幸せな姿をこの場に列席した観衆に見せつける事こそが、今のあなたが為すべき義務なのですから」

「それでは、お言葉に甘えて。……さあオレグ、一緒に踊りましょう」

「あ、ああ」

 改めて俺の手を取ったナターリヤは人垣を掻き分け、レストランのフロアの中央に文字通り躍り出る。すると主役の到着を待ち侘びていた観衆からわっと喝采が上がり、ダンスと音楽が仕切り直された。

「参ったな。俺、ダンスは苦手なんだよ」

「そんなに堅苦しく考えないで。音楽に合わせて適当にステップを踏んでいればいいだけなんだから」

 レストランにはアマチュアバンドの楽団が呼ばれており、アコーディオンの一種であるリヴェンカやギターの一種であるバラライカによって古典的な民族音楽や少し古い流行歌などが生演奏されている。そして俺はナターリヤの助言に従い、演奏される音楽に合わせて見よう見真似のステップを踏んだ。

「なんだ、結構上手いじゃないの」

「そうか?」

 不器用ながらになんとか踊り続ける俺と、流麗なステップを踏むナターリヤ。俺達以外にもおよそ十組ほどの男女がレストランのフロアの中央で踊り、やがて宴は佳境を迎える。そしてふと気付けば、壁沿いの席に腰を下ろしたクラシコフ少佐がこちらを見つめながら優しく微笑んでいるのが眼に留まったので、俺もまた彼に向かって微笑み返した。

「嬉しそうね、オレグ」

「そりゃ嬉しいさ。何せ、この俺自身の結婚式なんだからな」

 俺とナターリヤは、音楽に合わせてステップを踏み続ける。


   ●


 山間の小道を走り続け、やがて辿り着いた俺の自宅の前でUAZ《ウァズ》452は停車した。いや、今はもう俺一人だけの自宅ではなく、俺とナターリヤの二人の自宅なのだと思うと少しだけ感慨深い。

「オレグ、着いたよ。……寝てるの?」

「ああ、分かってる。寝てないさ」

 そう言った俺は車の助手席から降りると、眠気を退散させるために自分の頬を数回ぴしゃぴしゃと叩く。結婚式後のレストランで結構な量のウォトカを飲んでしまったので、ここに帰って来るまでの運転はナターリヤに任せたのだが、他人が運転する車に乗っているとついつい眠たくなってしまうのは何故だろうか。

「ただいま」

 俺が帰宅を告げながら玄関扉を潜ると、留守を任されていた犬のナノが嬉しそうにこちらへと駆け寄り、その大きな身体で飛び掛かって来るなり俺の顔をべろべろと舐め回す。しかしガレージに車を停めていたナターリヤが少し遅れて入室すれば、ナノは踵を返して彼女に飛び掛かり、今しがたまで再会を喜び合っていた筈の俺には眼もくれない。

「まったく、俺が育ててやったのに恩知らずな犬だ」

 溜息混じりにそう言った俺はリビングの暖炉に薪をくべて火を入れると、ソファに腰を下ろした。そしてほんの数時間前まで執り行われていた俺とナターリヤとの結婚式を心の中で反芻し、殊更に深い溜息を漏らす。

「どうしたの、オレグ? 溜息なんか漏らしちゃって?」

「なんと言うか、その、もう引き返せない所まで来ちまったんだなと思ってさ」

 隣に座ったナターリヤの問いに、俺は答えた。すると彼女は俺を小突きながら、不満げな声でもって再度問う。

「何それ? もしかしてあなた、あたしとの結婚を今になって後悔しているんじゃないでしょうね?」

「後悔なんかしちゃいないさ。しかしいざ結婚式まで挙げちまうと、急に現実感が増して来てね。もしかしたら全てが夢だったんじゃないかって可能性を潰されたと言うか、そんな気持ちかな」

「それってやっぱり、後悔しているって事じゃないの?」

「違うさ。只何と言うか、所帯を持った男としての現実感と責任感でもって肩が重くて仕方が無いってだけの話だよ。きっと俺の親父も爺さんもひい爺さんも、男は皆、結婚した時はこんな気持ちだったに違いない」

「ふうん、変なの」

 人の気持ちをあっさりと「変なの」扱いしたナターリヤは、暖炉の前の床に寝転がった犬のナノの腹を撫でてやる作業を再開した。無防備な腹をわしわしと撫でられているナノは嬉しそうで、その姿からは番犬としての誇りや矜持は微塵も感じられない。そしてそんなナノの餌を用意してやろうと俺が腰を上げると、不意にナターリヤが妙な事を言い始める。

「ねえ、オレグ。外で焚き火をしてもいい?」

「焚き火? 別に構わんが……何故こんな時間に? もう外は真っ暗だぞ?」

「うん。今の内に燃やしておかなくちゃいけない物が有るの」

「ふうん」

 俺の許諾を得たナターリヤは、彼女の荷物が放り込まれている一階の一番奥の部屋に姿を消すと、やがて大きな段ボール箱を抱えて戻って来た。そしてその段ボール箱を抱えたまま戸外に出ると自宅の前の空き地に小さな穴を掘り、そこに薪を何本か放り込んでから火を着けると、やがて薪が燃え上がって焚火ふんかと化す。

「燃やしておかなくちゃいけない物ねえ……」

 俺は訝しみながらも、焚き火の前に立つナターリヤを静かに見守っていた。オレンジ色の炎の光に照らされた彼女もまた美しく、その姿はこの世の者ならざる荘厳さを秘めている。そして抱えていた段ボール箱をおもむろに開けたナターリヤは、その中身を燃え盛る炎の中へ次々と放り込み始めた。

「それは?」

 俺が箱の中身の正体について尋ねると、ナターリヤが静かに答える。

「……アキム兄様が着ていた服」

 彼女の言葉通り、それはアキムがかつて着ていたのであろう男物の服だった。シャツ、ズボン、それにコートや肌着。それらが次々と火にくべられては、黒煙と火の粉を巻き上げながら真っ白な灰と化して行く。

「いいのか?」

「……いいの。今の内に燃やしておかないと、きっとあたしはアキム兄様を忘れる事が出来なくなっちゃうから。アキム兄様が忘れられずに、それ以上前に進めなくなっちゃうから。だからこれらは、今の内に燃やしておかないといけないの」

「そうか」

 やがて段ボール箱の中身を全て灰にし、更にもう一箱分の段ボール箱の中身も燃やし終えたナターリヤは、今は亡き実の兄の匂いが染み込んだ服が燃え上がって行く光景をジッと見つめながら静かに泣いていた。おそらくは彼女が流している涙こそが、死者との決別を意味する涙なのだろう。

「終わったかい」

「うん」

 やがて全ての衣服を灰にし終えたナターリヤは涙を拭うと、俺と共に自宅へと足を向けた。そして玄関扉を潜って帰宅し、泣き腫らした顔をバスルームの洗面台で洗った彼女は、さっきまで泣いていたのが嘘の様に溌剌とした表情を見せる。

「さあ、オレグ。これから頑張らなくっちゃね!」

「頑張る? 何を?」

「何言ってんの! これからあなたとあたしの初夜でしょうが、初夜! まさか、勃たなくなるまで飲んだんじゃないでしょうね?」

「ああ、そう言えば……」

 そんな事は、すっかり忘れていた。俺は今夜、ナターリヤと行為に及ばなければならない。先月の末に役所に婚姻届を提出し、法律上は夫婦になって以降も俺はナターリヤに肉体関係を要求してはおらず、その件に関しては彼女の方が何故行為に及ばないのかと痺れを切らしているのだ。

「覚悟しなさいよ、オレグ。結婚式を挙げたら幾らでもセックスしてやるって約束は、絶対に守ってもらうんだからね!」

「おいおい、若い娘がそんな下品な言葉を大声で言うなよ」

「いいじゃないの、どうせあたし達以外には誰も聞いてやしないんだから」

「そりゃそうかもしれんが、少しは恥じらいってものをだな……」

 いくら抗言してみたところで、何にせよ俺は今夜、ナターリヤと行為に及ばなければならないのだろう。彼女の様な美人と結ばれる事を夜の男性諸氏は羨むかもしれないが、俺は少しばかり気が重い。

「ところで、どうしてあなたは今まであたしに手を出さなかったの? まさか、インポテンツなんじゃないでしょうね?」

「違うよ。人並みに性欲はあるし、インポテンツでもない。ただまあ何と言うか、喪も開け切らぬ内から結婚しちまった事に対する、俺なりのアキムへの義理立てみたいなものかな。せめてちゃんと結婚式を挙げるまでは、妹には手を出さないってのがさ」

「ふうん、変なの。男の人って時々、変に真面目になる時があるよね」

「まあな。男ってのはそう言う生き物なのさ」

 そう返答した俺にナターリヤは抱き付き、やおら唇を重ねた。そしてひとしきり舌を絡めた後に、勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる。

「さあ、それじゃあシャワーを浴びてからベッドルームで本番よ!」

「だから、若い娘が下品な言葉を使うなってば」

 こうしてナターリヤに先導される恰好でもって、この夜俺と彼女とは結ばれた。ちなみにナターリヤは処女ではなかったが、俺もまた童貞ではないので、今夜の勝負は両者痛み分けと言ったところだろう。

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