第七幕


 第七幕



 俺は振り上げた両手持ちの斧を、斧自体の重量を利用して勢いよく振り下ろす。すると薪割り台の上に置かれた薪に斧の切っ先が喰い込み、薪はぱかんと言う小気味好い音と共に真っ二つに割れて地面に転がり落ちた。これで用意された全ての薪を割り終えたので、本日の肉体労働は終了した事としよう。

「ふう」

 俺は革手袋を穿いた手で額や首筋に浮いた汗を拭い、一息吐いた。しかし全ての薪を割り終えたとは言え、今度はその薪を家の中へと運び入れると言う面倒臭い作業が待っている。そしてふと気付けば、未だ夕方だと言うのに、俺の頬を撫でる冷たい冬の風には小雪が混じり始めていた。

「今夜は雪か。今年もそろそろ、本格的な冬の到来だな」

 そう独り言ちながら、俺はそこらに転がった薪を拾い集める。そしてそんな俺の言葉通り、美しくも短い夏と儚く寂しい秋はとうの昔に過ぎ去って、今年もまた暗くて長い北国の冬がロシアの大地を凍りつかせつつあった。俺の自宅の前に広がる名も無き湖の水面にも薄い氷が張り、もう少し季節が下れば、その氷もまた人が乗っても割れないほどにまで厚くなるだろう。

 それにしてもこんな小雪が舞う寒空の下で一人寂しく薪を割っていると、汗をかいた身体が芯まで冷えて、風邪を引いてしまいそうだ。

「今夜は何か、身体が温まる物でも食べようか」

 やはり独り言つように呟きながら、俺は自宅の隣に建つガレージのそのまた脇に設置された薪割り台の周囲から拾い集めた薪を抱えられるだけ抱えると、犬のナノが待っている筈の自宅へと足を向ける。ちなみに何か身体が温まる物でも食べようかと言ってみたところで、今夜の晩飯もまた冷凍のペリメニと缶詰のシチーで済ませるであろう事は火を見るよりも明らかであり、もはや口に出して言うまでもない。

「よっこいしょ、と」

 やがて薪を運び入れながら自宅とガレージを二往復ばかりもした頃に、不意に街の方角からエンジン音とクラクションが聞こえて来たので、俺は薪を抱えたまま顔を上げた。すると一台の輸送用トラックがこちらへと近付きつつある事に気付いた俺は薪を運ぶ手を一旦止めて、そのトラックへと歩み寄る。勿論言うまでもなく、そのトラックはロトチェンコ畜産場の輸送用トラックであり、乗っているのはアキムとナターリヤのロトチェンコ兄妹だ。

「よう、アキム。久し振りだな」

 俺が挨拶をすると、眼前で停車した輸送用トラックの運転席側の窓から顔を覗かせたアキムがにこやかな笑みと共に挨拶を返す。

「そうですね、お久し振りです、オレグ。今日は薪割りに精を出しておいでですか?」

「ああ。暖炉にくべる薪は、幾らあっても充分過ぎると言う事はないからな」

「ねえオレグ、あたしが言った通り、ちゃんと自炊はしているんでしょうね?」

 俺とアキムの会話に割って入るかのようにして、トラックの助手席に座るナターリヤが問い掛けた。

「ああ、まあ、程々にはな」

「本当に?」

 眉間に皺を寄せながらそう言って、ナターリヤは俺の返答の真贋を訝しむ。それもその筈、俺は彼女の助言には従わずに毎日冷凍のペリメニと缶詰のシチーの生活を送っているのだから、訝しまれるのも当然の帰結と言えた。

「それで、お前さん達は今日はどこに行ってたんだ? 街か?」

 誤魔化すように俺が尋ねると、トラックの運転席のアキムは答える。

「ええ、そうです。街の肉屋とホテルまで、豚肉を卸しに行って来ました。それでついでに食料品の買い出しもして来たんですけれど、うちもそろそろ、新しい薪を割らないといけませんね」

「ああ、そうだな。早く薪を割って乾燥させておかないと、雪が積もるまでに間に合わなくなっちまう」

 俺とアキムはそう言って、笑い合った。するとそんな俺達に嫉妬したのか、助手席のナターリヤが身を乗り出しながら会話を遮る。

「ちょっとアキム兄様、何が楽しくてそんなに笑ってるの? 早く帰らないと、厩舎の豚達に餌をやる時間に間に合わないんだからね? ほらほら、早くトラックを発進させてよ、もう」

 そう言って、早くトラックを発進させて帰宅するようにアキムを急かすナターリヤ。しかしその時、俺は不穏な者の存在に気付いてハッと息を飲んだ。トラックの運転席と助手席のちょうど中央、アキムとナターリヤの間に無理矢理身体を捻じ込むようにして、真っ黒に焼け爛れた人影が腰を下ろしているのが眼に留まる。つまりそれは俺にだけ見える幻覚の焼死体、死神ボーク・スミェールチだ。

「……!」

 呆然とする俺の視線の先で、死神ボーク・スミェールチはトラックの運転席に座ったアキムの顔を、ジッと覗き込むようにして見つめている。いつものように、責め苛むかのような目付きでもって俺の顔を覗き込んではいない。

「……お前さんは、一体何をしている?」

 俺はボソリと、死神ボーク・スミェールチの真意を探るように呟いた。するとそんな俺を訝しんだアキムが、首を傾げながら尋ねる。

「ん? 今、何か言いましたか?」

「いや、何でもない。何でもないんだ」

 そう言って、俺は彼の問いに対する答をはぐらかした。俺にしか見えない幻覚の事をどうこうと説明したところで、それを見る事が出来ないアキムには何の関係も無いし、むしろ下手に話せば俺が心に負った傷や過去の経験も含めて彼に余計な心配を掛けさせるだけだろう。

「そうですか。それでは未だ畜産場での仕事が残っていますので、今日のところはこれで失礼させていただきますね。またお会いしましょう、オレグ」

「またね、オレグ。今度会う時までにも、ちゃんと自炊は続けておきなさいよ」

「ああ、そうだな。また会おう、アキム、ナターリヤ」

 抱えていた薪を一旦地面に置き、手を振りながらそう言った俺は、アキムとナターリヤのロトチェンコ兄妹と別れた。すると彼らのトラックが俺の自宅の前から遠ざかって行く瞬間に、運転席に座るアキムの顔をジッと覗き込んでいた死神ボーク・スミェールチがこちらをちらりと一瞥したかのような気がしたが、その真相や真意は定かではない。

「……疲れているのかな」

 そう呟いた俺は地面に置いた薪を抱え直してから、再び自宅へと足を向けた。そして玄関扉を開けてみれば、開けた扉の真ん前に犬のナノがどっかと腰を下ろして座っていたので、俺はナノの身体に躓いて転びそうになる。

「おっと。どうしたんだ、ナノ? そんな所に座り込んで」

 しかし問い掛けた俺を無視したナノは、ロトチェンコ畜産場のトラックが走り去って行った方角をジッと見つめていたかと思うと、ひどく哀しげにくうんと鳴いた。するとそんなナノの鳴き声を聞いた俺はなんだかやけに嫌な胸騒ぎがしたのだが、その胸騒ぎの正体が自分でも分からずに、とにかく胸に何かがつかえたかのような不快な感覚を拭い去る事が出来ない。

「ナノ、もう閉めるぞ」

 今にもトラックの後を追って駆け出して行きそうなナノにそう言ってから、俺は玄関扉を閉めた。そして自宅内へと運び入れた全ての薪をリビングの壁沿いに積み終え、羽織っていたモッズコートと革手袋を脱ぐと、暖炉の正面に設置されたソファに腰を埋める。

「ふう」

 暖炉の火が放つ放射熱が、薪割りでかいた汗がすっかり冷え切ってしまった身体に心地良い。こうして暖かい室内に居ると、冷たい北風に小雪が舞っている戸外の寒さが嘘の様だ。そして俺が身体をぬくめていると、犬のナノが俺の膝の上に乗って来るなりごろりと寝転がって、まるで甘える子犬の様に腹を見せながら愛撫を催促する。

「この一年でお前も随分と大きくなったな、ナノ。ついこの前までは、あんなに小さな子犬だったのに」

 俺はそう独り言ちながら、すっかり成犬の貫禄と風格を漂わせるようになってしまったナノの無防備な腹を優しく愛撫してやった。すると俺の手によって愛撫される度に、ナノは長い舌を出しながら嬉しそうにへっへへっへと呼吸を荒げ、また同時に厚い毛皮に覆われたその顔に恍惚の笑みを漏らして喜び喘ぐ。

「そうかそうか、気持ちいいか。よーしよし」

 ナノの腹を愛撫してやっている内に、なんだか俺は眠くなって来てしまった。きっと薪割りで体力を消耗した事による適度な疲労と、静かに優しく燃える暖炉の火に当たって程好く身体がぬくまって来たのが眠気の要因だろう。そして俺はこっくりこっくりと舟を漕ぎ始め、やがてゆっくりと意識が遠退いて行くのを止める手立ては無い。


   ●


 ハッと気付けば、俺は戦場に居た。数名の仲間の兵士達と共に、今は瓦礫と化したビルの残骸の陰に身を隠しつつ、敵である民兵ゲリラが撃ち放って来る銃弾や砲弾やそれらの破片の雨を必死で凌いでいる真っ最中である。

「糞! 糞! 糞!」

 悪態を吐きながら、俺と仲間の兵士達はカラシニコフ式自動小銃AK-74をめくら撃ちでもって連射し、大通りを挟んだ向かいのビルを占拠した民兵ゲリラを近寄らせまいと奮闘していた。しかし形勢は、明らかに不利である。何せこちらの装備は自動小銃と拳銃、それに僅かな手榴弾だけだと言うのに、向こうは重機関銃と対戦車擲弾RPGを無尽蔵に連射して来るのだから溜まったものではない。

「撤退命令は未だか!」

「本隊が到着するまで、大尉殿はこの場所を死守しろってよ!」

「ふざけんなよ畜生! こんな眼に遭うくらいなら、チェチェン行きなんて拒否して営倉送りになった方が未だマシだったってんだ! 糞!」

 仲間の誰かが叫んだ通り、ここはチェチェン共和国の首都グロズヌイの、街の中心部からやや西側のマヤコフスコヴォ通り沿いの繁華街だ。そしてこの繁華街を占拠しているチェチェン独立派勢力の民兵ゲリラを挟撃する作戦の途上において、先行していた俺の所属する中隊は敵の主力部隊の一つとの予期せぬ遭遇戦に突入し、こうして孤立無援の状況で味方の応援を待つばかりである。

「キール! キールはどこだ! 返事をしろ、キール!」

「キールはもう死んだよ! オーシプもルカもマルクもアレクセイも、皆死んじまった! 生き残っているのはここに居る俺達四人だけだ!」

「何てこった! 畜生!」

 部下を失った俺が悪態を吐いているその間も、民兵ゲリラが設置した重機関銃の銃口は絶え間無く火を噴き、けたたましい銃声と共に50口径の銃弾を射出し続けた。そしてそれらの銃弾が俺達が身を隠すビルの残骸に次から次へと着弾しては、凄まじい破砕音と衝撃を伴いながら見る間にコンクリート片を削り取り、破片や粉塵が周囲を舞って白く煙らせる。このままここで身を隠していても、やがてはコンクリート製の壁を貫通した銃弾によって俺達は蜂の巣にされ、無残で凄惨な血まみれのミンチ肉と化すのを待つばかりだ。

「RPG《エルペーゲー》!」

 不意に仲間の一人が叫んだかと思えば、敵が撃ち込んで来た対戦車擲弾RPGが同じビルのすぐ隣の部屋に着弾し、二つの部屋を繋いでいた扉と壁の一部が爆風でもってこちらへと吹き飛んで来て床を転がる。

「皆、無事か?」

 部屋に吹き込んで来た爆風と粉塵によって視界が真っ白に霞む中、俺は仲間の無事を確認するために大声で叫んだ。すると仲間の内の誰かが返答したような気がしたが、対戦車擲弾RPGの爆発音で麻痺した俺の両耳の鼓膜にはキーンと言った耳鳴りが聞こえるばかりで、まるで要領を得ない。

「あ? 何だって? もっと大声で言ってくれ!」

「アガフォンとイヴァンがやられた! もう残っているのは俺とお前だけだ、オレグ!」

 俺の問い掛けに、俺以上の大声でもって答えたのはレフだった。そう、それは同僚で戦友のレフである。明日には街の中央を南北に縦断するシェリポヴァ通りで戦死する筈の彼もこの時は未だ生きているし、俺の顔も未だ醜くはない。

「本隊は未だ到着しないのか! 畜生!」

 繰り返し悪態を吐き続ける俺が怒りに任せて何度も壁をぶっ叩き、隣に立つレフが頭を抱えて神に祈り始めた、まさにその時。街の東の方角から聞き慣れた装甲車輌のディーゼルエンジンの駆動音が唸りを上げながら近付いて来る事に、俺達二人はようやく気付いた。

「今頃来たって遅えんだよ、畜生!」

 怒りと安堵が入り混じった複雑な声でもって叫んだ俺の視線の先に姿を現したのは、見慣れた装甲車輌である兵員輸送車のBTR-80が数台。俺と同じ部隊に所属する兵士達を乗せたそれらの車輌は搭載された機関砲や軽機関銃を散発的に乱射しながらマヤコフスコヴォ通りを前進し、俺と俺の部下達が手を焼いていたチェチェン独立派勢力の民兵ゲリラどもを一方的に蹂躙して行く。

「いいぞ! やれ! やっちまえ!」

 待ち焦がれていた援軍の到着に俺とレフは興奮し、敵を薙ぎ払いながらこちらへと向かって進攻して来る友軍の装甲車輌と兵士達をやんやと鼓舞した。装甲車輌に搭載された機関砲と軽機関銃が、これほど頼もしく思えた事は無い。するとその時、俺は視界の隅に何かを捉えた。通りを挟んだ向かいのビルの二階の窓から身を乗り出した一人の民兵ゲリラが、こちらへと近付きつつある俺の仲間達が乗った装甲車輌に照準を合わせて、対戦車擲弾RPGを構えている。

「危ねえ!」

 俺は咄嗟に手にしたAK-74を構え、その民兵ゲリラを狙って十発ばかりの銃弾を掃射した。すると射出された銃弾の内の数発が命中し、着弾と同時に体勢を崩した民兵ゲリラが、構えていた対戦車擲弾RPGともどもビルの二階の窓辺から地面へと落下する。しかしどうやら急所は外したらしく、落下した民兵ゲリラはビクビクと痙攣するかのように地面の上をのた打ち回るばかりで、致命傷ではあっても即死してはいない。そして落下の際の衝撃でもって暴発したのか、地面に転がった対戦車擲弾RPGの弾頭が明後日の方向へと向かって射出されたかと思えば、やがて誰も居ない廃墟の片隅でドカンと爆発した。どうやら友軍の高価な装甲車輌をたった一発の安価な対戦車擲弾RPGによって破壊されると言う失態は回避出来た事に、俺はホッと安堵する。

 だがその時、俺は気付いてしまった。つい先程まで対戦車擲弾RPGを構えて装甲車輌を狙い、今は俺が撃ち込んだ銃弾によって絶命しかけている民兵ゲリラが、どう見ても未だ十代前半の幼い少年である事に。

「畜生! 未だ子供じゃねえか! 畜生!」

 これで何度目になるのか分からない悪態を吐きながら壁を殴って地団駄を踏み、俺は不快感と後悔の念を露にした。いくら俺が人を殺すための訓練を受けた兵士だからと言っても、いくら相手がこちらの命を狙って来る敵だからと言っても、未だ年端も行かない子供を殺しておいて何の罪悪感も抱かない訳が無い。

「畜生!」

 俺は再度悪態を吐き、地団駄を踏んだ。そしてそんな俺の視線の先に、一層唾棄すべき悪夢がその姿を現す。それは先程の民兵ゲリラの少年よりも更に幼い痩せた少年がどこからともなく現れ、こちらへと駆け寄って来る姿だった。しかもその少年は対戦車擲弾RPGの未使用の弾頭のみをそのか細い腕に抱え、死にかけている最初の少年の傍らから使用済みの発射筒を拾い上げると、それに新たな弾頭を装填し始める。

「おい、何をする気だ?」

 困惑する俺の眼前で、新たに現れた少年は対戦車擲弾RPGの弾頭を装填し終えた。そしてその発射筒を肩に担ぎ、こちらへと迫りつつある俺の友軍、つまりロシア連邦軍の装甲車輌に照準を合わせる。

「止めろ、おい、頼むから止めてくれ! 俺に子供を撃たせないでくれ! 頼む、お願いだ……」

 かぶりを振って懇願しながらも、俺は訓練された兵士のさがとして、敵である少年に照準を合わせてAK-74を構えざるを得ない。そして未だ幼い痩せた少年の前途ある命と、彼が狙っている装甲車輌に乗った自分の仲間の兵士達の命を天秤に掛けながら、俺は構えたAK-74の引き金に指を掛けた。少年が対戦車擲弾RPGを発射してしまうその瞬間、つまり俺にとっての決断の瞬間が刻一刻と迫りつつある。

「畜生……」

 最後にそう呟いてから、俺は引き金を引き絞った。すると弾倉マガジンに残っていた全ての銃弾がフルオートで射出され、痩せた少年をあっと言う間に蜂の巣にする。蜂の巣にされた少年は全身から鮮血を噴出しながらその場にドサリと崩れ落ち、発射される事の無かった対戦車擲弾RPGもまた地面にごろりと転がった。

「畜生……畜生……畜生……」

 俺は弾倉マガジンが空になったAK-74を構えた体勢のまま一筋の涙を瞳から零し、いつまでも悪態を吐き続ける。


   ●


 不意に俺は、眼を覚ました。そして自分が今どこに居るのかが理解出来ずに一瞬だけ呆けたが、ここがチェチェンの戦場ではなく俺の自宅のリビングである事を思い出すと、ホッと安堵して胸を撫で下ろす。

「夢か……」

 そう呟いた俺はどうやら薪割りを終えた後にちょっとばかり小休止するだけのつもりが、ソファに座ったまま今の今までぐっすりと眠りこけてしまっていたらしい。窓の外がすっかり暗くなってしまっている事実から察するに、いくら冬のロシアの日照時間が短いとは言え、既に夜も更けて久しい事がうかがい知れる。

「寒いな」

 照明が点灯されていない室内は暗く、暖炉の火はとっくの昔に消えてしまっているのでひどく寒かったが、くうくうと寝息を立てながら眠り続けている犬のナノを乗せた膝の上だけが妙に暖かかった。しかし厚い毛皮を身に纏った大型犬であるナノとは違ってこちらは毛の生えていない人間様なので、この寒さは睡眠に適した気温とは言えず、このままここでジッとしていては早晩風邪を引いてしまう事は想像に難くない。

「ほら、ナノ、いい加減にお前さんも起きてくれよ」

 幸せそうな顔で眠り続けるナノの頭を俺がポンポンと優しく叩いてやると、ハッと眼を覚ましたナノは少しばかり不満げに俺の顔を見上げながらくうんと鳴いた。どうやら俺とは違って幸せな夢を見ながら熟睡していたナノは、そんな夢の最中に自身の意に反して起こされたのが気に食わないらしい。

「そう拗ねるなって。さっさと起きて飯にしようや。お前さんも腹が減っただろう?」

 そう言った俺とナノは暗いリビングのソファから起き上がるとまずは照明を灯し、明るくなった部屋の暖炉に新たな薪をくべてから、マッチを摺って火を入れた。火が入ると同時に、まるで命を吹き込まれたかのように暖かい光を放ちながら輝き始める暖炉。その暖炉の火でもって冷えた身体を温めてから、俺は晩飯の準備に取り掛かるために腰を上げ、キッチンへと向かう。

「しかし、変な夢だったな……」

 キッチンの冷蔵庫と冷凍庫の中身を物色しながら、俺は先程まで見ていた夢の内容を反芻し始めた。そしてふと、奇妙な事に気付いて手を止める。

「あんな戦闘、記憶に無いぞ?」

 俺がチェチェンで従軍していた事は紛れも無い事実だが、あんな少年兵を手に掛けた記憶は無い。いや、待て。だとしたら俺の部下であったキールは、オーシプはルカはマルクはアレクセイは、そして戦友であったアガフォンとイヴァンはいつどこで死んだのか。それを思い出そうとすると記憶が混濁し、こめかみにズキズキとした激痛が走る。

「何か、大事な事を忘れているような気がする……。何だ? 俺は一体、何を忘れているんだ? ……糞、思い出せない……。何か大事な事を忘れているような気がするんだが……」

 頭痛を堪えながら自問自答を繰り返す俺の視界は酩酊した時の様にぐわんぐわんと歪み、やがて真っ直ぐに立っていられなくなって、キッチンの床にぺたんと跪いて座り込んでしまった。そして部屋の片隅から何者かの気配を感じて顔を上げてみれば、そこにはやけに背の高い真っ黒に焼け爛れた焼死体、つまり俺にしか見えない幻覚の死神ボーク・スミェールチが立っているのが眼に留まる。

「何だ? お前は、何が言いたいんだ?」

 俺は問い掛けるが、死神ボーク・スミェールチは答えない。

「何だってんだ、こん畜生め……」

 俺は再び、頭痛を堪えるために頭を抱えた。するとその時、戸外からけたたましいクラクションの音が聞こえる。

「何だ?」

 それは聞き慣れた、ロトチェンコ畜産場の輸送用トラックのクラクションだった。つまりそれは、こちらへと向かってアキムとナターリヤのロトチェンコ兄妹を乗せたトラックが近付きつつある事を意味している。しかしこんなにまでもけたたましく、連続してガンガンとクラクションが鳴らされた事は過去に例が無い。

「どうした? 何があったんだ?」

 俺は立ち上がって玄関扉を潜り、力の入らない膝に何とか鞭打って、まるで這うようにして戸外へと歩み出た。不思議と過去の記憶を遡ろうとさえしなければこの堪え難い頭痛、つまり先程から俺を苦しめているこめかみを締め付けるようなズキズキとした激痛も走らず、記憶も混濁しない。

「オレグ!」

 やはりこちらへと向かって、ロトチェンコ畜産場のトラックが近付いて来る。そしてトラックの運転席側の窓からナターリヤが顔を出しながら、俺の名を呼んだ。と言う事はつまり、トラックを運転しているのは妹のナターリヤであって、兄のアキムではないと言う事を意味している。

「兄様が! アキム兄様が大変なの! お願い、オレグ! 電話を貸して!」

「何だって?」

 俺もナターリヤも、感情に任せて叫ぶばかりだ。


   ●


 俺の自宅から更に山間の道を進んだ先に在る、ロトチェンコ畜産場。それは簡素でみすぼらしい厩舎に平屋建ての民家が併設されているだけのお粗末な施設であって、この畜産場の主であるアキムとナターリヤには悪いが、お世辞にも立派な畜産場とは言えない。そして今、宵闇に沈んだその畜産場は数台の救急車とパトカーによって取り囲まれ、赤色灯の赤い光に煌々と照らされながら俺とナターリヤの二人は警察による事情聴取の真っ最中であった。警察から事情聴取を受けるなんて経験は、若い頃に酔っ払って酒場で喧嘩をして以来の事である。

「ご協力、ありがとうございました」

 そう言って、俺を取り調べていた警察官が立ち去った。そしてふと見れば、俺から少し離れた場所でもって、ナターリヤは未だ複数の警察官によって取り調べを受けている。つまりそれは、別々に取り調べる事によって俺とナターリヤの証言に食い違いが無いかと言う事を確認しているのであろうが、正直言ってあまり良い気はしない。何故ならば、場合によってはそれは兄を亡くしたばかりのナターリヤを殺人の容疑者扱いする、ある種の侮蔑とも受け取れる行為だからだ。

 そう、ナターリヤは兄を亡くした。彼女の最愛の兄であり、掛け替えの無い俺の友人でもあったアキム・ロトチェンコは、今から三時間ほど前に死んだのだ。それも厩舎の階段から落ちて首の骨を折り、頚椎が断裂したために呼吸が止まると言う、あまりにも惨めで無様な死に方でもって命を落としたのである。

「アキムよ……」

 俺は亡き友の名を呟きながら、万感の想いでもって天を仰いだ。しかし宵闇に包まれた真っ暗な空からは小雪がはらはらと舞い落ちるばかりで、何がしかの天啓が得られるような兆候は見られない。そして暫しの間を置いてから、ようやく取り調べを終えたらしいナターリヤもまた警察官達から解放された。

「大丈夫か、ナターリヤ」

「オレグ……」

 玄関ポーチに座ってすすり泣いているナターリヤの隣に腰を下ろした俺は彼女の肩を抱き、何がしかの慰めの言葉を掛けてやろうと口を開いたものの、兄を失った妹を慰めたり励ましたりするのに最適な文句がなかなか思い浮かばない。そしてそんな俺の腕の中で、普段は強気で勝気なナターリヤがまるで幼い子供の様に肩を震わせながら、両の瞳からぽろぽろと涙を零して泣き続けている。

「なんで、どうしてアキム兄様が死ななくちゃならないの……」

 そう言って泣き崩れるナターリヤに掛けてやるべき言葉が、やはり俺には思い浮かばない。事故で両親を失ってからは兄妹二人で力を合わせ、二人三脚で助け合いながら慎ましくも幸せに暮らして来た大事な片割れを失ったのだから、彼女の悲しみと喪失感は察するに余りある。

「元気を出せとは言わない。悲しかったら泣きたいだけ泣けばいい。しかし今は、気を確かに持て」

 俺が彼女に掛けてやれる言葉は、精々このくらいが限界だ。

「ありがとう、オレグ。でもそんな、気を確かに持つなんて、今は未だ無理……」

 蚊の鳴くような声でそう言ったナターリヤは俺の胸に顔を埋めながら、やはり幼い子供の様にわあわあと泣きじゃくる。そしてそんな彼女の肩を抱いてやっていると、不意にロトチェンコ畜産場の厩舎の扉が勢いよく開き、形ばかりの救急救命措置が施されたアキムの遺体を乗せたストレッチャーがその姿を現した。ストレッチャーに乗せられたアキムの顔色は蒼褪めるほど真っ白になるまで血の気が失せ、既に生きた人間のそれではない。

「アキム兄様!」

 兄の名を呼びながらナターリヤがストレッチャーに駆け寄り、そのまま救急隊員達と共に彼女は救急車に乗り込む。そしてアキムの遺体とナターリヤを乗せた救急車は赤色灯を点滅させながら街の病院を目指して山の小道を走り去り、主を失ったロトチェンコ畜産場の前には数人の警察官とパトカー、それに未だ晩飯も食っていない空腹の俺だけが残された。

「なあアキムよ、これから俺達はどうすればいいんだい?」

 小雪が舞い落ちて来る夜空を見上げながらそう言った俺は、ただただ途方に暮れる。

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