第六幕


 第六幕



 俺は工房の電気炉で摂氏1080度ほどにまで加熱したダマスカス鋼とVG-10ステンレス鋼を積層した鋼材を、金属製の缶に満たされたサラダオイルの中に浸した。じゅうっと言う音と共に、サラダオイルが蒸発した事によって発生した湯気がもうもうと立ち上る。

「ふう」

 焼き入れを終えた鋼材を中性洗剤で丹念に洗い流すと、俺は一息吐いた。そして額に浮いた玉の汗を作業着の袖で拭い、電気炉の電源を落とすと一旦作業を中断する。

「暑いな、糞」

 俺はボソリと愚痴を漏らすとエプロンと作業着を脱ぎ、工房のエアコンの電源も落としてからリビングへと足を向けた。そしてリビングと一続きになったキッチンに足を踏み入れると冷蔵庫を開け、よく冷やされた飲料水の缶を取り出してプルタブを開けるや、その中身をゴクゴクと飲み下す。ちなみに缶の中身は、ライ麦と麦芽を発酵させたロシアの伝統的な飲み物であるクワス。麦芽の苦味と仄かな甘味、それに僅かなアルコールを含んだ液体が喉を潤し、熱の篭った身体を冷やして行く感覚が心地良い。

「なんだ、お前さんはやけに快適そうだな」

 俺はクワスの缶を持ったままリビングのソファに腰を下ろすと、定位置である暖炉の前で寝転がっている犬のナノに語り掛けた。勿論今の季節に暖炉に火は入れていないし、それどころか暑さに弱い犬種であるナノのためにエアコンを充分に効かせているため、リビングの中はこの家の中で最も快適な空間となっている。

 そう、今はまさに盛夏。冬の間は深い雪に閉ざされるロシアが一年で一番暑くなる季節であり、短い期間とは言え山や森が青々とした草木に覆い尽くされて動物達が繁殖する、まさに生命の息吹豊かな季節である。

「こう暑くっちゃ、今日の作業は中断だな」

 俺は独り言ち、本日の業務は現時刻をもって終了する事を宣言した。そしてクワスをゴクゴクと飲み下しながら俺の脚に擦り寄って来る犬のナノの頭や背中を優しく撫で擦ってやると、ナノは撫でられたのが嬉しいのか尻尾を振りながら俺の脚の上によじ登って来て、もっと撫でてくれと身体を摺り寄せて来る。

「よーしよし、いい子だ。」

 ナノは本当に人懐こくて大人しく、それでいて甘える時には俺にべったりと甘える、この上無く良い子だ。俺の四十年強に渡る人生の中で大型犬を飼うのはこれが初めての経験だが、飯をやたらに食うのと大小便が大量な事さえ除けば、本当に手の掛からない理想的な愛玩犬である。本来はこの犬は主治医に治療の一環として飼う事を推奨されたペットセラピー的な介護犬の一種なのだが、そんな事は今ではどうでもよく、今や掛け替えの無い家族の一員として俺はナノを受け入れていた。

「よーしよし、ナノ。もうちょっとして気温が下がったら、散歩に行こうか」

 俺がそう行った時、ふと戸外から大型車輌のエンジン音が聞こえて来たので窓の外を見遣れば、見慣れたトラックがこちらへと走って来るのが眼に留まる。言うまでもなくそれはロトチェンコ畜産場の輸送用トラックだったので俺が玄関扉を開ければ、停車したトラックの助手席から降りて来たナターリヤがサラファンの胸元をパタパタと扇ぎながら、ずかずかと大股でもってこちらへと駆け寄って来た。

「暑ーい!」

 気怠げにそう言ったナターリヤは俺の脇をすり抜けて入室するや、家主の断りも無くキッチンへと赴いて冷蔵庫を開け、缶入りのクワスを取り出す。そしてプルタブを開けて缶の中身をゴクゴクと飲み下し、人心地ついた。

「はあ、生き返る」

 呆れ返る俺など眼中に無く、クワスの苦味と甘味を満喫するナターリヤ。すると彼女から少し遅れて入室して来た兄のアキムが、図々しい妹の非礼を詫びる。

「申し訳ありませんね、オレグ。躾のなっていない妹で。ほら、ナターリヤ。他人の家の冷蔵庫を断りも無く開けるもんじゃありません」

「はーい」

 兄に叱責されても、ナターリヤはクワスの缶を傾ける手を止めない。じっとりと玉の汗が浮かんだ顔に自慢のプラチナブロンドの髪がべったりと張り付いてしまっている彼女は、どうやら随分と喉が渇いているようだ。

「重ね重ね、申し訳ありませんねオレグ。実は、トラックのエアコンが故障してしまいましてね。ですからこの気温の中を何時間も走っていたら、車内は死んでしまうかと思う程の蒸し暑さでしたよ。それでまあ、家まで帰る途中でちょっと涼ませてもらおうかと思いまして、こうして立ち寄らせてもらったと言う訳です」

「成程。それは災難だったな。まあ、ゆっくり休んで行ってくれ」

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、陽が傾いて気温が下がるまで休ませていただきますね」

 そう言ったアキムもまた額や首筋に浮いた玉の汗を拭いながらエアコンの効いたリビングのソファに腰を下ろし、人心地つく。どうやらこの糞暑い中をエアコンの壊れたトラックに二時間以上も閉じ込められていた二人は、兄妹揃って随分と疲弊してしまっているらしい。

「ほら、お前さんも好きな方を飲め。水分はしっかりと補給しておかないと、熱中症でくたばっちまうぞ」

 俺がそう言いながらよく冷えたクワスとペプシコーラの缶を差し出すと、アキムは小さく会釈をしながらペプシコーラの缶を受け取った。そしてプルタブを開けるや否や缶の中身をゴクゴクと飲み下し始めたので、やはり彼もまた相当に喉が乾いていたのだろう。

「げぷ」

 ペプシコーラを一気に飲み下したアキムが、小さくゲップを漏らした。礼儀や作法に厳しい彼らしくもない失態に、アキムはその端正な顔にばつが悪そうな苦笑いを浮かべる。

「げっぷ」

 ほぼ同時にクワスを飲むナターリヤもまた盛大なゲップを漏らしたが、こちらは兄のアキムとは対照的に、悪びれた素振りも恥ずかしがる様子も無い。顔立ちや髪の色はそっくりでも、ロトチェンコ兄妹は中身はまるで正反対な兄妹だ。きっと今は亡き彼らの両親も、この兄妹、特に妹の方を育てるのにはさぞや苦労した事だろう。

「そうだ、兄様。今日はここで、オレグと一緒に晩御飯を食べてから帰りましょう」

 やがて俺達三人の肌にじっとりと浮かんでいた汗が乾く頃に、妙案が浮かんだとでも言いたげな口調でもってナターリヤが提案した。するとその提案を受けて、ソファに腰を下ろしていたアキムが俺に尋ねる。

「ナターリヤはあんな事を言っていますが、よろしいですか、オレグ?」

「俺は別に構わんが、今のうちの冷蔵庫には碌な食材が詰まってないから、どんなに頑張ったところで大した料理は用意出来ないぞ?」

 俺がそう返答すると、またしても家主の断り無しに、ナターリヤが冷蔵庫と冷凍庫を開けて中身を検分し始めた。

「まあ! また冷凍のペリメニばっかり買って! それにウォトカの空き瓶もこんなに沢山! オレグ、どうせあなた、自炊をしろって言うあたしの命令を無視して毎日碌な物を食べていないんでしょう! まったく、ちゃんと毎日三食栄養のある物を食べなくちゃ、本当に歳を取ってから病気になっちゃうんですからね? 聞いてる?」

「へいへい」

 生返事を返す俺を睨み据えたナターリヤは、唇を尖らせてぷりぷりと怒りながら地団駄を踏む。どうやら自炊をしろとの善意の忠告を完全に無視される恰好となった事が、随分と不満らしい。

「食材の心配なら無用ですよ、オレグ。ちょうど今しがた街で買って来たばかりの米や野菜がトラックに積んでありますから、それを食べましょう。今、取って来ます」

「そうか、そいつはありがたい。御馳走になるよ」

 俺がそう返答すれば、アキムはトラックに積まれていると言う食材を取りに行くために、玄関扉を潜って戸外へと出て行った。その一方でナターリヤはと言えば、キッチンで尚も冷蔵庫の中身を検分しながらいつまでもぷりぷりと怒り続けている。赤の他人の食生活の是非など気にしなければいいのにと俺は思うのだが、世話焼きでお節介な性格の彼女は納得が行かないようだ。

「お待たせ」

 やがて食材が詰まった買い物袋を両手に抱えたアキムが戻って来ると、ようやく機嫌を直したらしいナターリヤがその中身を取り出し、キッチンでの調理が始まる。

「それでは今から、プロフを作ります」

「プロフ?」

 ナターリヤが作ると言い出したプロフとは、ウズベキスタン共和国などの中央アジア諸国で広く食べられている米料理で、フランス料理のピラフと起源を同じくする古い料理らしい。

「そう、プロフ。あなただって子供の頃から食べ慣れているでしょう、オレグ?」

「いや、それが実は、殆ど食べた事が無いんだ」

「そうなの?」

「ああ、俺の生まれ育った家ではあまりアジア系の料理を食べなかったんだ。だからプロフは大人になってから外食で何度か食べた事があるくらいで、実家で食べた事は、たぶん一度も無いんじゃないかな」

 米料理を殆ど食べた事が無い俺の返答を意外そうに聞いていたナターリヤは、それならばとでも言いたげに奮起し、改めてプロフ作りに本腰を入れ始めたようだ。

「それじゃあオレグ、あたしがプロフを作るところをしっかりと見ていなさい。それで作り方を覚えたら、今度からは自分で作るんだからね? プロフなんて、簡単に作れちゃうんだから」

 そう言ったナターリヤは、プロフを作るための食材を用意し始める。メインの食材は米と豚肉、玉葱、それに大量の人参だ。

「本当ならラム肉か牛肉を使うのが一般的なんだけれど、うちは豚肉がタダで手に入るから豚肉を使うの」

 キッチンナイフを使って豚肉を適当なサイズに切り分けながらそう言ったナターリヤは、更に玉葱と人参も微塵切りにする。

「玉葱と人参は火が通り易いように、微塵切りにします。それとニンニクも、他の食材に味が染み込み易いようにうちでは微塵切りにしてから早めに入れるの。この辺は他の家庭とはちょっと違うところね」

「ふうん」

 食材の準備が整ったらしいナターリヤは米をザルにあけ、軽く水で洗ってからボウルに溜めた水に浸すと、この家で一番大きな鉄製の鍋をコンロの火に掛けた。そして彼女はサラダオイルの缶を取り出し、その中身をどぼどぼと鍋に投入する。

「油は惜しまず、たっぷり使います。そして油が温まって来たところでニンニクを入れて、油に香り付けをするの」

 ナターリヤはそう言うと、鍋の中にたっぷりと投入されたサラダオイルにニンニクの微塵切りを放り込んだ。ニンニクがパチパチと音を立てながら油で揚げられ、芳しい香りがキッチンに漂う。食欲をそそる、とても良い香りだ。

「油にニンニクの香りが付いたら、まずは一口大に切った豚肉を炒めます。そして豚肉に充分に火が通ったところで玉葱と人参を加えて、全体をよく掻き混ぜながら、野菜が柔らかくなるまでじっくりと炒めて行くの」

 やがて鍋の中に放り込まれた豚肉と野菜に火が通った頃合で、ナターリヤは調味料を用意し始める。

「味付けは塩と胡椒、それにクミンがあれば充分。……ねえオレグ、この家にガラムマサラってある?」

「ガラムマサラ? ああ、確かどこかにあった筈だが……」

 各種調味料が放り込まれたキッチンの棚を俺が漁ると、奥の方からガラムマサラの入った小さな缶が見つかった。それを受け取ったナターリヤは塩、胡椒、クミンが投入された鍋の中に、更にガラムマサラを投入する。

「ガラムマサラは隠し味。味に深みが出るの。もしももっと辛いのが食べたいんだったら、お好みで唐辛子やハバネロソースを加えてね」

 味付けが施された具材が、野菜から染み出して来た水と油によってぐつぐつと煮込まれてシチュー状になり、これだけでも充分に美味そうだ。

「さてと、それではここでようやく、お米の出番です」

 そう言ったナターリヤは、水を吸わせておいた米をシチュー状になった具材の上に一息に投入し、その表面が平らになるように木ベラでもって丁寧にならす。そしてそこに、米が万遍無く浸るくらいの量の水をたっぷりと注いでから、鍋に蓋をした。

「これで、準備は完了。後はこのまま、お米が炊き上がるまで待つだけで完成なんだから。ね、簡単でしょ?」

 一通りの調理を終えたナターリヤが、勝ち誇ったかのように胸を張りながらそう言うと、隣に立つ兄のアキムに尋ねる。

「アキム兄様、そっちの鍋の具合はどう?」

「こっちも後は煮込むだけで完成だよ、ナターリヤ」

 どうやらアキムは隣のコンロに掛けられた鍋で、ソリャンカを作っているらしい。ソリャンカと言うのはウクライナの料理で、ブイヨンとクワスで煮込まれた肉や野菜に発酵させた胡瓜の塩漬けを漬け汁ごと投入した、酸っぱくて香辛料が効いたスープの事だ。

「そう。それじゃあついでに、サラダも作りましょうか」

 ナターリヤはそう言うと、生のトマトと胡瓜、それに玉葱をまな板の上に並べた。するとキッチンナイフを巧みに使って、それらを次々と5㎜角くらいのブロック状に切って行く。そして刻まれた野菜をボウルに移し、塩と黒胡椒とマヨネーズ、それに微塵切りにしたパセリとブラックオリーブとケッパーを加えてよく混ぜ合わせれば簡単なサラダの出来上がりだ。

「さあ、そろそろプロフも炊き上がった頃だし、ちょっと時間は早いけれどそろそろ晩御飯にしましょうか」

 そう言ったナターリヤの言葉通り、気付けば立派な晩飯がキッチンを兼ねたダイニングのテーブルの上に並べられていたので、俺は少しばかり驚く。炊き立てのプロフに熱々のソリャンカ、出来立てのサラダ、それにロシアのサワークリームであるスメタナが用意されていれば、もう言う事は無い。

「いただきます」

 俺達三人は神様とマリア様に祈りを捧げてから、晩飯を食み始める。

「どう、オレグ? 簡単に出来た割りには美味しいでしょう?」

「うん、これは美味い」

 俺はナターリヤが拵えたプロフをむしゃむしゃと食みながら、満足げに答えた。クミンとガラムマサラ、それに何よりも微塵切りにされた人参と玉葱の甘味が効いていて、存外に美味い。

「コツはね、油と人参をたっぷりと、惜しみなく入れる事なの。この二つをケチっていたら、美味しいプロフなんて出来やしないんだから」

 やはり勝ち誇ったかのように胸を張りながらそう言ったナターリヤもまた、自身が拵えた炊き立てのプロフをむしゃむしゃと食んで満面の笑みを浮かべる。

「このサラダも、悪くないな」

 ナターリヤがものの五分程度でさっと拵えたサラダも、生の野菜のさっぱりとした風味が効いていて、少し油っぽいプロフの付け合わせとしては絶妙に美味い。ロシアは国民一人当たりのマヨネーズの消費量が世界一とも言われているが、やはりマヨネーズと黒胡椒、それにブラックオリーブとケッパーの愛称は最高だ。

「それでは僕が作ったソリャンカの味はどうですか、オレグ?」

「うーん、まあ、普通かな」

「おっと、それは残念」

 自身が拵えたソリャンカが、俺の独断的な判断基準ではあまり高評価を得られなかった事を残念がって、アキムが苦笑いを浮かべた。勿論彼のお手製であるソリャンカが不味い訳では無いのだが、残念ながらナターリヤが作ってくれたプロフに比べると食べ慣れている分だけ、口に運んだ時のインパクトが薄くて味気無く感じる。

「まあ、どれも美味いよ。久し振りだな、こんなに充実した食事は」

 そう言った俺とロトチェンコ兄妹の計三人は歓談しながら、少し早めの晩飯をむしゃむしゃと食み続けた。足元では犬のナノが、骨付きの生の鶏肉と余ったトマトがトッピングされたドッグフードを貪るように食みながら嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振っている。普段は安い市販のドッグフードしか食べさせてもらえないナノにとって、新鮮な生の鶏肉は御馳走に違いない。

「ごちそうさま」

 やがて俺達三人と一匹は、食事を終えた。犬のナノは滅多に食べられない生の鶏肉を食べ切ってしまった事が名残惜しくてたまらないのか、ステンレス製の餌皿をいつまでもぺろぺろと舐め続けている。そして鍋と皿を流し台で洗ってから食器棚に仕舞い終えた俺達は、リビングのソファへと移動し、腰を落ち着けて人心地ついた。

「未だ外は明るいな」

 そう呟いた俺の言葉通り、窓の外は未だ明るい。一般的には白夜と呼ばれる、夏至とその前後の期間に陽が沈まない現象の影響を受け、比較的緯度が高いこの土地もまた夏の間はなかなか陽が沈まないのだ。

「しかし、だいぶ気温は下がって来たみたいですよ」

 アキムはそう言って窓の外の様子をうかがい、ナターリヤは何か面白い番組が放送されていないかと、テレビのリモコンを操作してザッピングに余念が無い。

「それじゃあ腹も膨れた事だし、そろそろ散歩に行くぞ、ナノ」

 ソファから腰を上げながらそう言うと、俺が発した「散歩」と言う単語を聞き取った犬のナノが嬉しそうにわんと一声鳴き、寝転がっていた暖炉の前から起き上がってこちらへと駆け寄って来る。

「アキム、ナターリヤ、これからナノを散歩させに行って来るが、お前さん達も一緒に来るかい?」

「いいですね、一緒に行きましょうか」

 そう言ったアキムもまたソファから腰を上げたが、ナターリヤは座ったままだ。

「どうした、ナターリヤ? お前さんは来ないのかい?」

「んーん、あたしは今これ観ているから、行かない」

 テレビの液晶画面をジッと見つめたまま、半ば上の空と言った調子でもってそう言ったナターリヤ。どうやら今の彼女は大好きな俳優が主演を務めるドラマに夢中で、他の事に目移りしている余裕は無いらしい。

「そうか。それじゃあ留守番を頼むぞ」

 俺とアキムはそう言い残し、リードに繋いだナノを連れて自宅の外へと歩み出た。日中に比べると陽が差す角度が随分と浅くなっているため、戸外の風は明るさの割には結構涼しく、食事を終えたばかりで少し体温が上昇した肌に心地良い。そしてナノは嬉しそうに尻尾を振りながら、自分がこの群れのリーダーだとでも言いたげに、俺達二人と一匹の先頭に立っていつもの散歩道を歩き始める。

「待てよ、ナノ」

 脇目もふらずに歩き続けるナノを追って、俺とアキムもまた山裾に沿って走る未舗装の小道を歩き始めた。小道の右手に広がる鬱蒼と木が生い茂った山の方角からは小鳥達のさえずりが聞こえ、左手に広がる名も無き湖のさざ波に揺れる水面では、暮れなずむ陽の光がキラキラと絶え間無く反射しながら輝き続けている。それは瞬く間に消えて行ってしまうようなロシアの夏の姿で、とても儚く、だからこそ美しい。

「そう言えば、あなたと二人きりになるのはこれが初めてですね、オレグ」

 湖の畔を歩きながら、不意にアキムが言った。

「そうだっけか? うーん、確かにお前さんはいつもナターリヤと一緒だったから、そう言われてみればそうかもしれんな」

「ええ。僕の記憶が確かなら、これが初めての筈です」

 自信ありげなアキムに向かって、俺は少しおどけてみせる。

「そうか。それで、俺と二人きりになってどうする? 愛の告白でもする気かい?」

「はは、まさか」

 そう言って、俺とアキムはげらげらと声を出して笑い合った。しかしすぐに、彼はその端正な横顔に真面目で真剣そうな色を浮かべる。

「実はあなたに、相談したい事がありましてね。よろしいですか、オレグ?」

「ん? 俺に? 何を?」

 俺はアキムに問い返した。すると彼は少し遠い眼をしながら、ゆっくりと口を開く。

「相談したい事と言うのは妹の、ナターリヤの事です」

「ふうん?」

 俺なんかに、ナターリヤに関する何を相談すると言うのだろうか。

「ナターリヤは小さい頃から、ちょっと変わった子でしてね。不肖の兄である僕なんかよりもずっと賢くて勉強の出来る子でしたが、如何せん、人付き合いが苦手な子でもありました。決して無愛想ではないし、口下手でもないし、ましてやイジメられている訳でもないんですが、気付くと周囲から孤立しているような子だったんです。しかも勝気で強引な性格の上に短気で直情的な性分ですから、年長者や男の子とも平気で殴り合いの喧嘩を始めてしまう、そんな困った妹でしたよ。なにせ素行不良で両親が学校に呼び出されるなんて事が、しょっちゅうでしたからね」

 そう言ったアキムは昔を懐かしむような苦笑いを漏らしながら、語り続ける。

「ですからあなたもご存知の通り、僕は彼女に大学への進学を勧めたんです。人付き合いが苦手ですと田舎では生き辛いですし、それならばせめて学業でもって身を立てて、やがては都会で一旗揚げてみてはどうかと思っての兄なりの心遣いのつもりだったんですが……あえなく失敗しました。あの子は僕と一緒に、この土地で生きて行く事を選択したようです」

「今時珍しい、兄想いの殊勝な子じゃないか。すぐに故郷を捨てて都会に出たがる頭が空っぽの尻軽女なんかよりも、ずっといい」

 俺はそう言って笑ったが、残念ながら当事者であるアキムは笑ってもいられないようだ。

「若い頃だけであれば、まあ、それでもいいでしょう。しかし人は誰しも年老いて、やがては天に召される運命からは逃れられませんし、それは僕とナターリヤもまた例外ではありません。いつまでも兄妹二人だけの生活が成り立つ筈もありませんから、やがて僕達は事業を続けるか否かを決断すると同時に、結婚適齢期を迎えて子孫を残すべき時が来るでしょう。しかし今の僕には、妹が結婚する姿がどうしても想像出来ないのです」

「と、言うと? ナターリヤは美人で背も高いから、真っ白な花嫁衣裳が似合いそうなもんだが?」

「それは、結婚する相手が居る場合に限りますよ、オレグ。つまり僕が妹であるナターリヤの花嫁姿を想像出来ないのは、結婚する相手が想像出来ないからなんです。なにせ妹はあの性格ですから、昔から男性と交際して上手く行ったためしがありません。兄である僕の眼から見ても彼女は結構な器量良しなので、その姿を見初めて言い寄って来る男性は数限り無く居ましたし、その内の何人かとは交際もしたのですが……その全てが短期間で破局を迎えています」

「そんなにまでもか」

「ええ。初デートで交際相手と殴り合いの喧嘩になって、血みどろの流血騒ぎから警察沙汰に発展した事もありましたよ。……まあ、その頃に比べたら、今は彼女も少しは落ち着きましたが」

「そいつはまた、すごいな」

 俺の脳裏に、交際相手である筈の男性の腹に馬乗りになって、その男の顔面を完膚無きまでに殴打するナターリヤの姿がありありと想起される。きっと彼女は、自分を一人の確固たる人格を持った人間ではなく、外見が綺麗なだけのお飾りの女として見た男が許せなかったに違いない。

「まあ、その方がナターリヤらしいか」

 俺は笑うが、問題児である妹を身内に抱えたアキムはそうも言っていられないようだ。

「笑い事じゃありませんよ、オレグ。そんな事を言っている間にも、結婚適齢期を迎えつつあるナターリヤは、確実に婚期を逃しているんですから」

 そう言ったアキムは道端に落ちていた小枝を拾い、それを放り投げると、犬のナノがその小枝を拾いに山間の小道の脇へと走って行く。そして小枝を咥えたナノが尻尾を振りながら嬉しそうに駆け寄って来たので、アキムはナノの身体を優しく撫でてやった。

「でもね、オレグ」

 ナノの身体を優しく撫でてやりながら、アキムが言う。

「最近、ナターリヤが一人の男性に興味を抱いたらしいんですよ」

「へえ、それは誰だい」

 俺は何気無く、世間話のついで程度の気軽さと気安さでもって尋ねた。

「それはオレグ、あなたです」

 アキムの返答に、俺はきょとんと呆ける。

「はあ? 俺?」

「そうです。あなたですよ、オレグ」

 突然そんな事を言われても俺は困惑するばかりだが、アキムは語るのを止めない。

「最近のナターリヤはですね、あなたがどうしているかが気になって仕方が無いようなのです。畜産場での仕事中にはオレグも今頃は働いているのだろうか、食事の時にはオレグはちゃんとご飯を食べているだろうかと、そんな事ばかり言っていますよ。はっきり言いますが、彼女がこんなにも異性を気に掛けている姿なんて、兄である僕ですら過去に一度も見た事がありません。そのくらい、今のナターリヤはあなたに夢中です。これは間違い無く、恋ですよ」

「いやいやいや、ちょっと待てよアキム」

 俺は狼狽しながら、アキムを制した。

「俺の事を気に掛けているからと言って、それを安易に恋愛感情だと断定するのは早計に過ぎるだろう。ご覧の通り俺の顔面がズタズタだから、単に介護が必要な怪我人として心配してくれているのかもしれないし、仮に好意を抱いているとしても、それは父親や兄であるお前に対する好意にも似た親近感の延長だ。どちらにせよ、こんな親子ほども歳の離れたおっさんに寄せる好意なんてものは、恋愛や結婚に結びつくような特別な感情じゃない」

「果たして、そうでしょうか?」

「そうに決まっている」

 俺は断ずるが、アキムはそんな俺の顔を見つめながら意味深にほくそ笑んでいる。

「どう思うかは、あなたの自由です。それでも万が一の時は妹を頼みますよ、オレグ」

「万が一の時って?」

「僕に何かがあった時とか、ナターリヤの方からあなたにプロポーズした時などです」

「縁起でもない事を言うなよ」

 そう言った俺は苦笑いを浮かべるが、アキムはやはり意味深かつ楽しそうに、悪戯っぽくほくそ笑むのを止めない。そして気付けば俺達二人と一匹は湖の畔を抜けて林道に達し、その林道を一周してから再び湖の畔に戻って来ると、本日の散歩を終えた。

「ただいま」

「おかえり」

 片手間にそう言ったナターリヤは、玄関扉を潜って帰宅した俺達を出迎える事も無く、リビングのソファにごろりと寝転がったままテレビを見続けている。すると散歩を終えて上機嫌な犬のナノが彼女の元へと駆け寄り、撫でてくれと言わんばかりにその身体を摺り寄せながら、嬉しそうにわんと鳴いた。

「もう、ドラマは観終わったのかい、ナターリヤ?」

 俺が尋ねると、ナターリヤはナノの頭や背中を撫で回しながら答える。

「うん。後半はレナートが出て来なかったから、つまんなかった」

 唇を尖らせながら、不満げにそう言ったナターリヤ。レナートと言うのは彼女が贔屓にしている若手俳優の名前で、どうやらドラマの後半ではその俳優の出番が無かった事に、ひどくご立腹らしい。

「ナターリヤ、外も涼しくなって来た事ですし、そろそろ家に帰りますよ」

 兄であるアキムがそう言うと、妹のナターリヤは「はーい」と素直に返事をしてから起き上がった。そして別れを惜しむように犬のナノの全身を撫で回してやってから、兄が待つ戸外へと躍り出る。

「それじゃあまたね、オレグ、ナノ」

「また会いましょう、オレグ。今度は是非、僕達の家にも来てくださいね」

 ロトチェンコ兄妹の二人はそう言って、彼らのトラックの運転席と助手席に乗り込んだ。

「ああ、また会おう」

 手を振りながら別れの挨拶を口にする俺の視線の先で、アキムとナターリヤを乗せたロトチェンコ畜産場の輸送用トラックが走り去り、山の木立の陰へと消えて行く。俺の隣で一緒に見送っていた犬のナノが、寂しげにくうんと鳴いた。

「さあナノ、家に入ろう」

 トラックが走り去った先を名残惜しげに見つめ続けるナノにそう言うと、俺は踵を返して自宅へと足を向ける。すると自宅の玄関ポーチに、やけに背の高い真っ黒な人影が立っていた。

「……よう、またお前さんかい、死神ボーク・スミェールチさんよ」

 まるで俺を責め苛むかのような視線でもってこちらをジッと見つめ続けている、焼死体の幻覚。果たしてこの幻覚が俺に何を訴え掛けようとしているのか、少なくとも今の段階では、その答を知る術は無い。

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