第五幕


 第五幕



 俺は自宅のキッチンのテーブルに着き、一人静かに朝食を食んでいた。献立は代わり映えする事も無く、スライスしたチーズとサーラと胡瓜の塩漬けをライ麦パンで挟んだだけの簡素なサンドイッチと、ミルクは多めで砂糖は少なめの紅茶が一杯。つい二ヶ月ほど前にナターリヤから食生活に関して説教されたばかりだが、結局自炊の習慣が身に付く事が無かった俺は、今朝もこうして男の一人暮らしを体現したかのような食事でもって腹を満たす。まあそれでも、多少は野菜を食べようと思って胡瓜の塩漬けをサンドイッチの具材に足した事だけは、僅かながらの進歩と言っても良いだろう。もっとも、ライ麦パンを焼くのも面倒臭がって市販のパンを買って来て食べているので、その点がバレたらナターリヤにこっぴどく叱られるかもしれない。

「ごちそうさま」

 やがて食事を終えた俺は工房へと向かう前に、すっかり大きくなって成犬の貫禄を漂わせ始めた犬のナノを連れて玄関扉を潜ると、戸外の空気にその身を晒した。すると暖かくて爽やかな初夏の風が俺の頬を撫で、芽吹き始めた新緑の青臭くも芳しい香りが鼻腔をくすぐり、ロシアの短い夏の訪れが近い事を実感させる。

「ナノ、早く済ましちまってくれよ」

 そう言った俺の眼前で、ナノがいかにも大型犬に相応しい大量の大便と小便をぶりぶりと排泄し終えた。毎日二回、朝と夕方の散歩の際に自宅から少し離れた窪地で用を足すのが俺とナノの習慣であり、また日課でもある。人間とは違って水洗トイレで用を足せない点ばかりは、愛玩動物を飼う際に手間の面でも衛生面でも大きなネックであり、なんとも悩ましい。そして排泄行為を終えたナノを連れた俺は自宅の前に広がる名も無き湖の周囲をぐるりと一周し、これで取り急ぎ、朝の散歩は完了した事とする。

「それじゃあスマンが、昼飯まではここで大人しくしていてくれよ、ナノ」

 散歩から帰還した俺はそう言いながらナノの頭を撫でてやると、ナノはくうんと少しだけ寂しげに鳴いた後に、定位置であるリビングの暖炉の前にごろりと転がって不貞寝を決め込んだ。その一方で俺は作業着に着替え、自宅の廊下を渡って工房へと足を踏み入れると、難燃性の布で出来た作業用エプロンを纏う。

「今日の注文は、ダマスカス鋼のハンティングナイフっと……ちょっと面倒臭いな。ついでだから、二本分纏めて作っちまうか」

 工房の壁に掛けられたホワイトボードを一瞥し、本日の作業内容を確認した俺はボソリと独り言ちた。そして各種の鋼材を保管している塩化ビニール製の密閉容器から、必要な鋼材を取り出す。

 ダマスカス鋼。それは普段作っているナイフの素材である出来合いのステンレス鋼とは一味違う、ちょっと変わった、そして用意するのに幾分手間が掛かる鋼材だ。

 ダマスカス鋼のルーツに関しては諸説あるが、一般的には古代から中世にかけてのインドで精製されたウーツ鋼を素材に、シリアの都市ダマスカスで製造された刀剣が勇名を馳せた事からこの名が付いたとされている。つまりダマスカス鋼とは、実質的にウーツ鋼の別名と言う事だ。

 しかし残念ながら、この本来のウーツ鋼を精製する技術は既に失われて久しい。精製方法の再現に成功したと言う報告が大学の研究所や鉄鋼メーカーによって為された例も少なくはないが、今のところ、完全なる再現に至った例は無いと言うのが定説だ。つまり今から俺が鍛造するダマスカス鋼は古代インドの本来のウーツ鋼ではなく、後世になってから見た目だけを模倣した模造品と言う事になるが、依頼主もそんな事は百も承知だろうから問題無い。

「440Cにニッケルと……」

 俺は密閉容器の中から、幅4㎝、長さ8㎝、厚さ5㎜に切り揃えられた440Cステンレス鋼の板を四枚ほど取り出した。そしてまた別の容器を開けて、同じサイズに切り揃えられたニッケル合金の板も四枚取り出す。つまりこれから鍛造するのはステンレス鋼とニッケル合金を積層した、俗にニッケルダマスカス鋼と呼ばれる合金だ。

「さてと、まずは溶接か」

 そう独り言ちた俺はステンレス鋼の板とニッケル合金の板を交互に重ね合わせ、その結果として出来上がった計八層、厚さ4㎝の直方体の金属のブロックを、作業机に設置された万力で挟み込んでしっかりと固定する。それからアーク溶接機を用意し、保護マスクを被ると、重ね合わせた計八枚の金属の板を接合した。バチバチと言った音と共に金属を接合して行くアーク放電の光が、保護マスク越しにも眩い。そしてステンレス鋼とニッケル合金の接合を終えれば、この後の鍛造作業をし易くするための持ち手として、金属の棒もまた一本接合する。この金属の棒は特にこれと言った特徴も無い、ビルの建設現場などでよく見かける、鉄筋コンクリートのまさに鉄筋として使われる只の鋼の棒だ。

「これでよしっと」

 俺は溶接し終えた金属の板と棒をコンコンと叩き、しっかりと接合されている事を入念に確認する。溶接作業はあまり得意ではないので、念には念を入れて確認しなければならない。そうでないと、鍛造の作業中にうっかり接合面が剥がれ落ちるような不測の事態を招きかねないからだ。そんな初歩的なミスを犯しては、他のナイフメーカーやディーラーに笑われてしまう。

「熱っ!」

 溶接作業を終えた俺は自作のコークス炉にコークス、つまり蒸し焼きにした石炭をくべて火を入れたが、その際に少しばかり指先を火傷してしまった。そして火傷した指先を水道の蛇口から流れる流水でもって冷やしている間にも、自作のコークス炉の炉心は真っ赤に燃えて、鍛造に必要な火力を充分に得る。

「ようし」

 真っ赤に燃えるコークス炉の中心に、俺は計八枚の金属板を溶接したブロックを放り込んだ。すると金属板のブロックに炉の熱が伝わってじわじわと赤熱し、やがて仄白いオレンジ色の光でもって眩く発光し始める。そして充分にブロックが赤まったところで、俺はホウ砂を主成分とする鍛接剤の白い粉末をスプーンで大匙二杯分ほども万遍無く振り掛けてから、その赤熱した金属板のブロックを金床アンビルの上に移動させた。当然ながら赤熱するブロックをそのまま素手で持つ事は出来ないので、事前に持ち手として溶接しておいた鉄筋を持ち、予防のために手には耐熱素材で出来た手袋を嵌めている。

「そうら!」

 掛け声一閃、俺は渾身の力を込めて、金床アンビルの上に置いた金属板のブロックを鋼鉄製のハンマーでもって打ち叩いた。カーンと言う甲高い金属音と共に火花が散り、打ち叩かれた金属板のブロックが僅かに凹む。

「ふん! ふん!」

 その後も幾度となく、俺は積層した金属板のブロックを鋼鉄製のハンマーでもって打ち叩き、気付けば仄白く赤熱していたブロックは僅かに薄く引き延ばされながらも冷めて輝きを失っていた。そこで俺は再びコークス炉の中にブロックを放り込んで、改めて熱し始める。そして充分に熱された後は、同じ工程を何度も繰り返して、只ひたすらに打ち叩くまでだ。

 こうして金属の塊を打ち叩き、表面が融解した金属同士を接合する事を鍛接、また同時に不純物を排出して純度を高めながら成型する事を鍛造と言う。

「ふう」

 鋼鉄製のハンマーによって打ち鍛える工程を幾度か繰り返し、気付けば金属板のブロックは半分ほどの薄さにまで圧縮され、そのかわりに長さが倍ほどに延伸されていた。そこで俺はもう一度ブロックを赤めると、丁度長さが半分になる位置にタガネで切れ目を入れてから折り返し、再び最初と同じサイズのブロックになるように成型する。ただし同じサイズとは言っても、一旦折り返して重ね合わせているので、最初はステンレス鋼とニッケル合金で八層だったのが今度は倍の十六層になっている点に注目しなければならない。つまりダマスカス鋼とは、こうして何度も折り返す事によって幾重もの層を為した鋼材の呼称なのである。

「やっぱり、スプリングハンマーを買った方がいいのかなあ」

 俺はじっとりと額に浮かんだ玉の汗を作業着の袖で拭いながら、愚痴るように独り言ちた。スプリングハンマーとは電動式のモーターで上下するハンマーヘッドによって金属を絶え間無く打ち鍛え、鍛接や鍛造をより効率的に行える工業機械の事である。少し高価で場所を取るが、今後もダマスカス鋼を扱い続けるのならば、思い切って購入を検討するべきなのかもしれない。

「ここで捻る、と」

 俺が何度も折り返しながら打ち鍛えた金属板のブロックはステンレス鋼とニッケル合金の計百二十八層にまで積層され、厚さと幅がそれぞれ3㎝、長さが10㎝ほどの細長い直方体のブロックとなった。そしてそのブロックを再度コークス炉で熱して仄白く輝くまで赤めてから、ブロックの下の端を万力で挟み込んでしっかりと固定する。それから大振りなモンキーレンチを用意すると、そのモンキーレンチでブロックの上の端、つまり万力で固定されたのとは逆の端を挟み込んだ。つまり直方体のブロックの下の端が万力で、上の端がモンキーレンチで固定された恰好となる。

「ふん!」

 気合いの掛け声と共に俺は渾身の力でもってモンキーレンチを手前に引き寄せ、万力で固定されたブロックを中心にして回転させた。言葉では説明し難いが、要は水を含んだ雑巾を絞るような感覚と要領でもって、積層された金属板のブロックを捻っているところを想像してほしい。言うまでもない事だが、たとえ融解寸前まで熱して柔らかくなっているとは言え、440Cステンレス鋼もニッケル合金もどちらも硬い金属だ。人間の力で捻ろうとしても、そうそう簡単には捻じ曲がってくれない。そこで俺は少し捻ってはコークス炉で熱し直し、熱し直しては少し捻るのを何度も繰り返す事によって、やがてブロックを元の状態と比較して二回転分ほども捻る事に成功した。捻り終えたブロックは、一見するとまるで太く短いネジの様にも見える。

「ふう」

 ひとしきりの力仕事を終えた俺は額に浮いた汗を拭いながら、作業机の上に置かれたデジタル時計を一瞥した。

「もう昼か」

 気付けばもう時刻は正午を過ぎていたので、俺は鋼鉄製のハンマーとモンキーレンチを振るう手を止める。そして自宅の廊下を渡ってキッチンへと辿り着けば、リビングの暖炉の前で不貞寝を決め込んでいた犬のナノが待ってましたとばかりに尻尾を振りながら駆け寄って来たので、俺はナノの頭や顎や腹を優しく撫でてやりながら一人と一匹分の昼食の準備に取り掛かった。勿論、そんなに手の込んだ料理を作る気は無い。

「よーしよし、ナノ。いい子だいい子だ。ほら、沢山お食べ」

 俺はそう言って、ナノに向かってステンレス製の餌皿を差し出した。すると皿に盛られた市販の安いドッグフードを、ナノは美味そうにがつがつと貪り食う。本当にこの子は大型犬ながらも手の掛からない、優しくて大人しい良い子だ。

「さあ、俺もさっさと飯を喰っちまわないとな」

 そう言った俺は、冷蔵庫の中の残り物でもって手早く昼食を拵える。市販のライ麦パンにスライスしたチーズと塩漬けの豚の脂身であるサーラ、それに塩漬けの胡瓜を添えただけの、簡素なサンドイッチ。とりあえず腹を満たす事だけが目的であれば、この程度の食事で充分ではなかろうか。

「ごちそうさま」

 あっと言う間に昼食を食べ終えた俺は、ナノの餌皿を流し台で洗ってから工房へと取って返す。午後の作業も引き続き、ダマスカス鋼の成型だ。午前の段階で既に鋼材の積層と捻りまでは終了しているので、ここからが本格的に、只の金属のブロックをナイフの形状へと整えて行く作業となる。

「ふん!」

 まずはブロック状になっている鋼材を叩いて延ばし、薄い板状にしなければならない。そこで再び俺は鋼材のブロックをコークス炉で赤めてから金床アンビルの上に乗せ、鋼鉄製のハンマーでもって打ち鍛える。そして打ち鍛えている間に、午前中の作業の最後に何故俺が鋼材のブロックを捻ったのかを説明しておきたい。

 現代のナイフ界において、ダマスカス鋼で出来たナイフは実用品と言うよりもむしろ嗜好品だ。純粋に機能面のみを重視するならば、ダマスカス鋼よりも構造が単純でありながら科学的に最適な状態を維持されたステンレス鋼や炭素鋼の方が、あらゆる点で優れている。ではダマスカス鋼の利点は何かと問われれば、それは純粋に、その見た目の美しさの一点に集約されるのではないだろうか。

 異なる種類の鋼材を何層にも積層したダマスカス鋼をナイフの素材として斜めに削り出すと、まるで天然の木の木目か波間に浮かぶ水の波紋の様な独特の模様が、その断面に浮かび上がる。この独特の模様こそが、ダマスカス鋼が現代においても多くの人々の心を魅了して止まない美の本質と言っても過言ではない。

 ここで、少し話を戻そう。解説すべきは、何故俺が積層された鋼材のブロックを二回転分ほども捻ったかだ。

 前述した通り、ダマスカス鋼の美しさの本質とは、これを研削した際に生じる断面の模様に他ならない。そこで研削する前に敢えて鋼材を捻る事によって、この断面の模様に不規則性を与えようと言うのが俺の狙いだ。つまり木の木目で言えば瘤の部分の様な荒々しさ、水の波紋で言えば荒れ狂う濁流の様に力強い模様が、捻られた金属の表面には浮かび上がるのである。勿論この作業は刃物としての実用性のみを重視するなら全く必要が無い、純粋に装飾性を高めるための工程に過ぎないが、こう言った商品に付加価値を与える行為こそが俺の様な個人で活躍するナイフメーカーに求められている事を忘れてはならない。

「さてと」

 そうこうしている内に、俺は捻れたブロック状だった鋼材を薄い板状に圧延し終えたので、一息つく。コークス炉が放つ放射熱のせいで、エアコンを効かせていても工房の中はちょっとした蒸し風呂状態だ。そして幅5㎝、長さ50㎝、厚さ8㎜ほどの薄くて細長い板となった鋼材を、俺は手持ち式のディスクグラインダーを使って持ち手である鋼の棒から切り離し、更に半分の長さでもって二つに切り分ける。こうして俺の手元には、長さ25㎝のダマスカス鋼の板が二枚用意された。ついでにハンマーで打ち鍛えた痕跡が残っているこの二枚の板の表面を、フライス盤を使って正確に厚さ5㎜の真っ平らな板に成型すれば、ここでようやくナイフの刃となるVG-10ステンレス鋼の出番となる。

「もう一息だな」

 俺は独り言ちながら、厚さ5㎜に揃えられた二枚のダマスカス鋼の板で同じく厚さ5㎜に成型されたVG-10ステンレス鋼の板を挟み込んで、それぞれの鋼材がちゃんと平らに成型されているか確認した。これからこの三枚の板の表面を熱して融解させ、打ち鍛えながら鍛接し、成型する。そのためにはまず第一に、これらの鋼材を自作のコークス炉で赤めなければならない。

「ようし」

 コークス炉に三枚の鋼材を放り込んで加熱すると、それらの表面温度は徐々に上昇し、次第にオレンジ色に輝き始めた。そして丁度良い温度になったところでまずはダマスカス鋼を一枚取り出して金床アンビルの上に置き、その上からVG-10ステンレス鋼を乗せ、最後にもう一枚のダマスカス鋼も重ねる。勿論それら三枚の鋼材の表面に、たっぷりの量の鍛接剤を万遍無く振り掛ける事を忘れない。こうして二枚のダマスカス鋼の中心にVG-10ステンレス鋼を挟み込んだ鋼材のサンドイッチが出来上がったら、そのサンドイッチをヤットコで挟み、金床アンビルの上でもって鋼鉄製のハンマーで打ち鍛える。今回はダマスカス鋼を鍛えた時の様に何度も折り返したりはしないので、若干力を抜き気味にハンマーを振るい、万遍無く叩いて確実に鍛接させる事の方が大事だ。

 そして気付けば、三枚の鋼材のサンドイッチは幅10㎝、長さ25㎝、暑さ7㎜ほどの薄い板状となった。これを再びディスクグラインダーを使って半分の幅に切断すれば、ナイフの原型となる鋼材が二枚、俺の手元に揃った事になる。この鋼材をナイフの形状に削り出すと、中心のVG-10ステンレス鋼の部分には鋭利な刃が付き、それを左右から挟み込んだダマスカス鋼の表面には美しい模様が浮かび上がると言う仕掛けだ。

 ここで一旦、俺は二枚の鋼材を焼きなます工程に入る。焼き鈍しと言うのは焼き入れの逆の工程で、焼き入れが熱した鋼材を急速に冷却して硬くするのに対し、熱した鋼材をゆっくりと時間を掛けて常温まで冷やす事によって柔らかくするのが焼き鈍しだ。そして焼き鈍された鋼材は柔らかい分だけ加工がし易いので、今後の作業が楽になる。

「ほいっと」

 俺はコークス炉で二枚の鋼材を真っ赤になるまで熱すると、それらを炉の脇に置かれた大きなブリキの缶の中に突っ込んだ。その缶は元々は焼き入れ用のサラダオイルを購入した際の容器だった物だが、今はリビングの暖炉の薪の燃え滓を集めて砕いた灰で満たされている。そして灰には保温効果があるため、熱された鋼材はこの灰の中でゆっくりと時間を掛けて温度が下がり、焼き鈍されて行くと言う寸法だ。つまりその焼き鈍しが終わるまでの数時間ばかり、良くも悪くも作業は中断されざるを得ない。

「ようし、一旦小休止にするか」

 そう呟いた俺は手を休め、コークス炉の火を落とすと、耐熱手袋とエプロンと作業着を脱いでリビングへと足を向けた。するとリビングの暖炉の前で不貞寝を決め込んでいた犬のナノがボールを咥えて駆け寄って来るなり俺に飛びつき、一緒に遊んでくれと急かす。

「よーしよし、ナノ。いい子だいい子だ」

 俺はナノの頭や顎や背中を優しく撫でてやり、ボールを投げて遊んでやりながら犬用のビーフジャーキーやチーズ等のおやつを与えてやった。するとナノは喜び、俺の周りをグルグルと駆け回りながらじゃれ付いて来て、歓喜の表現に余念が無い。そこで俺がナノを撫で回してやりながら更なるおやつを与え、ボールや縫いぐるみを投げて遊んでやっていると、不意に自宅の前の小道に車が停まる気配を感じて手を止める。窓から差し込んで来るヘッドライトの光に戸外の様子をうかがえば、一台のタクシーが自宅の前に停まったのが確認出来た。

「こんな時間に訪ねて来るなんて、一体誰だ?」

 俺が訝しみながら玄関扉を潜って迎えに出ると、一人の老人が杖を突きながらタクシーから降り立ち、俺と相対する。

「久し振りだな、アレンスキー曹長」

 そう言った老人は、歳の頃は七十歳くらいの、さほど背は高くはないが肩幅などはがっしりとした体格の良い老人だった。そして俺は彼の素性に気付くと姿勢を正し、敬礼しながらその老人を迎える。

「クラシコフ大尉殿、お久し振りであります!」

 すると老人は返礼を返したが、それをすぐに解くと、苦み走るようなその顔に朗らかな笑みを浮かべた。

「構わんよ、アレンスキー曹長。私もお前も、既に退役した身だ。そんなにかしこまる必要は無い」

 そう言った老人の背後で、彼を乗せて来たタクシーはゆっくりと山の小道を走り去って行く。俺の事を名前ファーストネームではないアレンスキー姓で呼ぶ人物は、今となっては珍しい。そしてその老人、つまり俺の軍人時代の上官であるゲラシム・クラシコフ大尉は、杖を突きながらこちらへと歩み寄って来た。

「アレンスキー曹長、済まんが、少し手を貸してくれるか? 義足の身には、山道は歩き難くてな」

 俺はかつての上官に手を貸し、彼が俺の自宅まで足を踏み入れるのを介助する。

「ここまで訪ねて来てなんだが、もしもお前が居なければそのままタクシーで真っ直ぐ街まで引き返すつもりだったよ。せっかくのタクシー代が、無駄にならなくて助かった」

 そう言いながらリビングに足を踏み入れた老人、つまりクラシコフ大尉は、「よっこいしょ」と言いながらソファに腰を下ろした。

「度々済まんな、断りも無く座って。なにせ義足だと、真っ直ぐに立っているのもままならん」

「いいえ、お気になさらずに。部下に対して遠慮は無用です」

 そう言った俺に、かつての上官は微笑む。

「そうか、私を未だ上官として扱ってくれるか。しかし残念ながら、私も去年、軍を退役して隠居した。だから今は、一民間人に過ぎん。一応は退役直前に少佐に昇進したが、まあ、年金を少しでも多くしてやろうと言う上層部の計らいに過ぎんよ。結局退役してみれば、たとえ将軍だろうと提督だろうと、歳を取った只のよぼよぼの爺さんだからな。しかも私は片足が不自由な障害者と来ているから、尚更老いぼれの感が否めんね」

 そう言ったクラシコフ大尉改めクラシコフ少佐は自身のズボンの裾を撒くって義足である右脚を露にすると、硬質樹脂で出来たそれをコンコンと叩いてみせた。

「それで少佐、本日はどのような御用向きで、このようなむさ苦しい所まで足を伸ばされたのですか?」

 直立不動のままの俺が訪ねると、少佐は腰を下ろすように勧める。

「気にせず座りたまえ、曹長。それに、私相手には堅苦しい敬語も不要だ。お前みたいな若者が、こんな老人に払う敬意もあるまい」

「それでは、失礼します」

 俺はそう言って、少佐の対面のソファに腰を下ろした。互いに退役して一線を退いた身とは言え、やはり元軍人としては、自分よりも遥かに階級が上の人間と相対すればそれなりに緊張する。もっとも俺とは対照的に犬のナノは全く緊張していないらしく、初めてこの家を訪れたお客様である少佐の顔を興味深げに見上げ、くんくんと彼の匂いを嗅ぐ事に余念が無い。

「……酷い傷だな」

 暫しの沈黙の後に、クラシコフ少佐が俺の醜い顔をまじまじと見つめながら言った。

「承知しております」

 俺が返答すると、そう言う意味じゃないとでも言いたげに少佐は首を横に振って溜息を吐き、またしても黙りこくってしまう。

「それで、ええと、繰り返しになりますが本日はどのような御用向きで?」

「なに、たいした用があって来た訳じゃない。私も退役してからこっち、ずっと暇で暇で仕方が無くてな。それで暇に飽かせて、こうして趣味の旅行がてら、かつての部下達がどうしているのかを訪ね歩きながらロシア全土を諸国漫遊しているのさ。まあ、しがない老人の悪ふざけだと思って、大目に見てくれ」

「はあ、成程」

 納得行ったような行かないような、曖昧な気分だ。

「ところで、アレンスキー曹長。ええと、すっかりド忘れしてしまったんだが、お前の下の名前ファーストネームは何だったかな?」

「オレグです」

「そうだ、オレグだ。オレグ・アレンスキー曹長。どうも歳を取ると、物忘れがひどくてかなわん」

 そう言ったクラシコフ少佐は、反省を促すかのように自身の頭をコンコンと叩く。

「それでオレグ曹長、お前は結婚はしているんだったかな?」

「いえ、恥ずかしながら独身です」

「そうか、私と同じ独り身か。しかしそれならば、今からでも遅くはないから相手を探して、一日でも早く結婚した方がいい。人生には伴侶が必要だ。その必要不可欠な伴侶を得る機会を逃したら、私の様に一人寂しい余生を送る羽目になってしまう。そんな私と同じ轍をお前に踏ませたくはないから、老婆心ながら忠告させてもらうよ」

「ご忠告痛み入ります、少佐。しかし残念ながら自分はこんな酷い顔ですから、結婚してくれるような物好きな女性なんてどこにも居りません」

 俺はズタズタに引き裂かれて焼け爛れた自分の顔の左半分を撫で擦りながら、自嘲気味に言った。

「なに、そうでもないさ。お前と同じくらい酷い傷を負いながらも結婚出来た例を、私は幾つも見て来た。要は結婚とは、人と人との縁結びだ。だから今のお前がすべき事は、その縁が少しでも早く結ばれるように、可能な限り色々な人々と交流しなさい。……まあ、この歳になっても結婚出来なかった私が言っても説得力は無いだろうがな」

 そう言ったクラシコフ少佐もまた、自嘲気味に笑う。

「少佐、一つよろしいでしょうか?」

「何だ?」

「先程、かつての部下達を訪ね歩いていると仰られていましたが、チェチェンやアフガンで一緒に戦った仲間達は今はどうしているのでしょうか? 自分が退役した後も、皆元気に軍務に従事していたのでしょうか?」

 俺が尋ねると、少佐はその苦み走った顔に、少し悲しげな表情を浮かべた。そして暫し熟慮した後に、着ていたジャケットの胸ポケットからタバコの紙箱とライターを取り出すと、俺に尋ねる。

「曹長、灰皿を貸してくれるか?」

 しかし俺は、彼の要求に応えられない。

「申し訳ありません、少佐。自分は退役と同時に喫煙の習慣を断ちましたので、残念ながらこの家には灰皿は一つたりとて存在しないのです。ですので灰皿の代わりとなる空き缶か何かをすぐにご用意しますので、少々お待ちください」

「ああ、それなら構わん。別に、どうしてもタバコが吸いたくてたまらんと言う訳でもないからな。単に、話を切り出すきっかけが欲しかっただけだ」

 そう言うと、クラシコフ少佐は取り出したタバコとライターを胸ポケットに仕舞い直した。そしてゆっくりと口を開く。

「お前が退役した後も、多くの者が軍に残ったよ。しかしそんな者達が直面した戦場はあまりにも過酷で、容赦と言う言葉を知らない地獄だ。戦場で散った者もさる事ながら、私の様に肉体を欠損し、一生涯不自由な生活を強いられた者も数知れない。そしてオレグ、お前の様に心を傷を負った者は更に多く、これまでに私が知る限りでも二十人あまりの部下達が自ら命を絶った。誰も彼もが、勇敢に戦った立派な兵士だったよ」

 自殺者の数に、俺は少しばかり絶句した。

「……少佐は、自分の病気の事をご存知でしたか」

「ああ、一応な。お前が退役間近の頃に精神科を受診していた事は私にも報告が挙がっていたし、それに他にも似たような症状を訴える者は多かったので、気に掛けていたよ。それで、その後の調子はどうだい? 確か報告によると幻覚が見えるとか言っていたらしいが、それは今も見えるのか?」

「はい。時々、奇妙な物が見えます」

「奇妙な物……と言うと?」

「自分は死神ボーク・スミェールチと呼んでいますが、何故か全身が真っ黒に焼け爛れた焼死体が見えるんです。それもボンヤリとではなく、やけに生々しくてはっきりとした焼死体が」

「ふうん?」

 クラシコフ少佐は小首を傾げて髭を撫でながら、質問を続ける。

「その焼死体に、見覚えは? 以前に会った事があるどこかの誰かとか、何かしらの心当たりは?」

「いえ、それが全く身に覚えが無いんです。戦場では多くの死体を見て来ましたし、焼け焦げた人間も見た事はありますが、あんな風に両眼だけが焼け残っているような焼死体は記憶にありません」

 少佐の問いに、俺は正直に答えた。実際問題として、俺にも俺を診察した精神科医にも、あの死神ボーク・スミェールチの正体が何なのかさっぱり分からない。

「成程。……ああ、すまんな。私とした事が柄にもなく、精神科医かカウンセラーの真似事なんかをしてしまった。医者でもないこんな老人風情が事情を知ったところで、何の助けにもなってやれないと言うのに、馬鹿げた事だ」

「いえ、久し振りに自分の抱えている悩みを他人に打ち明けられて、少しだけ気が楽になりました。ありがとうございます、少佐」

「そうか、それは良かった。……ところで曹長、お前は退役してからこっち、どうしているんだ? 独身なのはさっき聞いたが、他に家族は? 仕事は何を? それにこんな辺鄙な山の中に住んでいるだなんて、探すのに随分と苦労したぞ?」

 改めて問われたので、俺も改めて答える。

「少佐もご存知でしょうが、自分はこの顔の傷を理由に軍を退役しました。とは言っても傷の深さ云々よりも、むしろ左眼を失明したために最前線で兵士として軍務に従事するのは難しいと医局に判断されたからです。勿論、前線で戦えないなら後方への転向はどうかとも提案されました。ですが自分はデスクワークが得意な人間ではありませんし、養わなければならない家族も居ません。ならばいっそ退役して一から人生をやり直そうと決意した結果、こうして縁も所縁ゆかりも無い土地で独立したと言う訳です。幸いにも、傷痍軍人として老後の年金が保障されたのも理由の一つですが」

「ああ、そうだったな。それで今は、何の仕事をしているんだ?」

「鍛冶師です。今風に格好付けて言えば、カスタムナイフメーカーと言う奴ですかね。主に狩猟用や観賞用のナイフを作って、ネット経由で通信販売をしています。よろしければ後で、これまでに作った作品のカタログをお見せしますよ」

「ほう」

 少し驚いたらしい少佐が、興味深そうに身を乗り出す。

「ナイフ作りか。お前にそんな特技があったとはな。どこかで専門的な勉強を?」

「はい。元々手先が器用な方だったのと、死んだ父が狩猟が趣味でナイフを集めていた影響で、学生時代に趣味も兼ねて学校でナイフ作りを始めました。ちょうど通っていた学校が工業系だったので、設備が整っていたのも好都合だったので。その後、軍に所属している間はナイフ作りからは離れていましたが、退役したのを機に一念発起してプロのナイフメーカーを志したと言う訳です。まあ、商売として成立するようになったのはここ一年か二年くらいの話ですが」

「そうか。手に職を付けるのは良い事だ。しかし、人里離れたこんな場所で一人きりで暮らしていると言うのは、あまり感心しないな」

「それは、その、弁解のしようもありません。人付き合いが苦手なので住宅密集地を避けて、ついでに工房から出る機械の騒音が周囲の迷惑にならないような一軒家の物件を探していましたら、この別荘ダーチャが安く売りに出されているのを発見しまして……こうして移り住んだと言う訳です」

 俺は申し訳無さそうに返答し、頭をボリボリと掻いた。

「まあ、とにかくお前が息災そうで何よりだ。安心したよ、曹長」

 そう言ったクラシコフ少佐の義足の匂いをずっと嗅いでいた犬のナノが、ソファに座った少佐の太腿の上に顎を乗せると、まるで「撫でてくれ」とでも言いたげにくうんと鳴いて催促する。

「こら、ナノ。馴れ馴れし過ぎるぞ」

 俺はナノの頭をぽんと軽く叩くと、飼い主のかつての上官に対する非礼を諌めた。しかし太腿の上に顎を乗せられた少佐はにこりと微笑むと、まるで初孫を慈しむ好々爺然とした柔和な表情でもって、犬のナノの頭を優しく撫でてやる。撫でられたナノも尻尾を振りながら少佐の手に頭を摺り寄せ、嬉しそうだ。

「気にするな、曹長。人懐こくて可愛い犬じゃないか。名前はナノと言うのだな? おお、よしよし。この歳にもなると、小さな動物や子供が可愛くて仕方が無い」

 そう言ってクラシコフ少佐が頭や背中を撫でてやれば、調子に乗ったナノは少佐の上半身に飛びついて彼の顔をぺろぺろと舐め始めたので、さすがに無礼が過ぎるのではなかろうかと俺は肝を冷やす。しかしどうやら犬好きらしい少佐はナノの馴れ馴れしい態度を意に介する素振りも無く、むしろ顔を舐められて嬉しそうですらあった。そこで俺は安堵の溜息を漏らし、リビングの壁に掛けられた時計をちらりと一瞥してから問う。

「少佐、今夜はこれから如何される予定で? 夕食は未だ召し上がっておられないでしょうし、街の方に宿は取っておられますか?」

「いや、宿は取っていない。そう言った事前の準備をしない、行き当たりばったりで無計画な、放浪でもするかのような旅を続けているからな。まさに、放蕩老人と言う奴だ」

 おどけるようにそう言いながら、少佐ははははと軽妙に笑った。

「それでは、街まで車でお送りしましょう。今の時間なら未だ、レストランが閉まる前に繁華街まで辿り着ける筈です」

 そう言って腰を上げようとする俺を、少佐はナノを撫でながら制する。

「そう急かすな、曹長。老いぼれてからは朝には強くなったが、その反面、夜にはすっかり弱くなってしまってな。こんな時間から街に戻っていては、宿を探している途中で道端で寝てしまいかねん。そこで、かつての部下にこんな事を願い出るのも面目無いが、今夜の飯と寝床を貸してくれないか? なあに、私は見ての通り、一兵卒から成り上がった前線叩き上げの元軍人だ。野営には長けているから雨風を凌ぐ屋根と壁さえあればどこででも寝られるし、どんなに不味い糧食でも喜んで食べてみせよう」

「食事と寝床を提供する事はやぶさかではありませんが、上官には野営をさせておいて部下だけがベッドで寝ていては、軍法会議に掛けられてしまいます。どうぞ、私のベッドをお使いください」

 野営云々や不味い糧食のくだりを軽いジョークだと解釈した俺は、敢えて恭しく返事をしてみせた。するとクラシコフ少佐はにんまりと意味深かつ満足げに笑ったので、やはり彼の発言をジョークと判断したのは正解だったのだろう。

「それはありがたい。しかし突然押し掛けて来て食事をご馳走してもらった上に、厚かましくも家主のベッドまで奪うようでは、上官と部下の関係以前に人間としてお終いだ。お前は自分のベッドで寝て、私はここのソファでも貸してくれればそれでいい。それ以上の施しを求めるような贅沢を言っていたら、それこそ私の方が軍法会議に掛けられてしまうからな」

「了解しました、少佐。それでは毛布と枕をご用意いたしますが……その前にお食事ですね?」

「ああ、頼む。簡単な物で構わんよ」

「ご心配なさらずとも、この家には今、簡単な物しかございません。なにせ、四十路を迎えたと言うのに結婚の一つも出来やしない、モテない男やもめのねぐらと来ていますからね。ですから本日の献立は冷凍のペリメニと缶詰のシチー、それに硬くなったライ麦パンとチーズになりますが、如何でしょうか?」

「いいじゃないか、どれも私の好物だ」

「それに食後はよく冷えたウォトカと、マスタードと黒胡椒たっぷりのサーラもご用意しております」

「素晴らしい。益々気に入ったよ、曹長。それではさっそく、食事の用意に取り掛かってくれたまえ」

 互いに架空の客と給仕を装いながらの寸劇を終え、俺とクラシコフ少佐は屈託無く笑い合った。人間の言葉が分からない犬のナノも俺達の楽しそうな雰囲気を察してか、尻尾を振りながらリビングの中をぐるぐると駆け回る。そしてとっぷりと日が暮れた山間の別荘ダーチャである自宅の片隅で、俺は久し振りの客人との夕飯に心を躍らせた。


   ●


 バスルームでは洗面台の鏡に向かったクラシコフ少佐が紳士然とした態度でもって緩んだネクタイを締め直し、寝癖が残る頭髪と顎鬚を水道の蛇口から流れる水で濡らしながら整え直している。その一方で俺はと言えば、シチーを煮るのに使ったホーロー引きの鍋と皿、それに飲み残しのウォトカで濡れたショットグラスをキッチンの流し台で軽くさっさと洗っては食器棚に放り込んでいた。そして洗い物を終えて窓の外を見遣れば今日も空は澄み渡り、針葉樹の木々の隙間から差し込んで来る初夏の陽射しが自宅の前に広がる湖の水面に反射して、未だ少し昨夜の酒の酔いが残る眼にちりちりと痛い。

 つまり今は朝であり、クラシコフ少佐が尋ねて来た翌日でもあり、また同時に少佐が街へと帰るなり次の目的地へと向かう日でもあった。

「待たせたな、曹長。そろそろ行こうか」

 身嗜みを整え終えたクラシコフ少佐が杖を突きながらバスルームから出て来ると、そう言って玄関へと足を向ける。すると散歩に連れて行ってもらえるとでも勘違いしたのか、犬のナノが少佐の足元をうろちょろと駆け回りながら彼の顔を見上げ、物欲しそうにくうんと鳴いた。

「ははは、すまんが散歩じゃないんだ、ナノ。またいつの日にか、再びお前と会える日を楽しみにしているよ」

 そう言いながらナノの頭を優しく撫でてやる少佐は、昨夜は結構な量のウォトカを煽るように飲んだ上に片足は義足だと言うのに背筋をピンと伸ばして、足元がふらつくようなだらしのない素振りは一切見せない。そしてそんな軍人の矜持を今も忘れないかつての上官と共に玄関扉を潜った俺は、彼を街まで送るための車を用意しようと、自宅の隣に建てられたガレージへと足を向けた。

 するとその時、山の方角からトラックのエンジン音とクラクションが聞こえて来たので、俺と少佐は音のした方角へと眼を遣る。

「オレグ!」

 山間の小道をこちらへと向かって走って来るのはロトチェンコ畜産場の輸送用トラックであり、その助手席の窓から顔を覗かせたナターリヤが、大きく手を振りながら俺の名を呼んだ。

「よお、ナターリヤ。それにアキムも」

 ロトチェンコ兄妹の名を呼び返した俺の視線の先でゆっくりと停車し、エンジンの回転も停止させた輸送用トラック。その運転席からは兄のアキムが、そして助手席からは妹のナターリヤが降りて来ると、二人は軽い会釈と共にクラシコフ少佐に挨拶する。

「初めまして、僕はアキム・ロトチェンコ。オレグのお客様ですか?」

「ああ、私はゲラシム・クラシコフだ。初めまして、アキム」

 物腰柔らかく礼儀正しいアキムが、クラシコフ少佐と握手を交わした。そこで俺は二人の間に入り、それぞれの素性を紹介する。

「アキム、ナターリヤ、紹介しよう。こちらはクラシコフ少佐。俺の軍隊時代の上官殿だ。そして少佐、こちらはアキムとナターリヤのロトチェンコ兄妹。この先の山の中で畜産場を営んでいる、自分の隣人であります」

「成程、曹長の隣人か。私の元部下がお世話になっているようで、深く感謝します」

「こちらこそ、尊敬すべき将校閣下と出会えて誠に光栄です」

 互いの素性を知ったアキムとクラシコフ少佐が改めて固い握手を交わし、微笑み合った。

「ほら、ナターリヤもこっちに来て挨拶なさい」

 そう言って実の兄に促されたナターリヤもまた、にこりと微笑みながら少佐と挨拶の言葉を交わす。

「初めまして、少佐さん。ナターリヤ・ロトチェンコです」

「初めまして、ナターリヤ。これはこれは、実に美しいお嬢さんだ。……しかし今時、若いお嬢さんがサラファンを着ているとは珍しい。それともこれから、どこかでお祭りか結婚式でも?」

 どうやらナターリヤがサラファンを着ている点に、クラシコフ少佐は興味を抱いたらしい。それもその筈、ロシア北部の伝統的な民族衣装であるサラファンを日常的に着ている若者など、俺の知る限りでもナターリヤぐらいのものだ。彼女以外の一般的なロシアの若い女性は、少佐が訝しんだように、何かの民族的なイベントか結婚式の時くらいにしかサラファンは着ない。もっとも今時は、サラファンを基にしてアレンジを加えた若者向けのファッションもあるらしいが、それらはナターリヤが着ているような古典的なサラファンとは一線を画す。

「いいえ、あたしは普段からこの恰好なんです。それで、少佐さんはこれからどちらに行かれるんですか?」

「私はこれから街に出て、そこから先は宛ても無い放浪の旅だ。本当に何の宛ても無い、自由気ままな贖罪の旅に出る」

 そう言ったクラシコフ少佐は遠い眼をして、空の彼方をジッと見つめていた。きっと彼はこの後も、かつての部下を訪ね歩くような気ままな旅を続けながら、独り静かな余生を送り続けるに違いない。そして俺はそんな彼の後姿を静かに見つめながら、自分自身の人生の行く末を案じて深い溜息を吐く。

「どうしたの、オレグ?」

「何でもないさ。ところで、お前さん達の方こそこれからどこに?」

 俺はナターリヤに問い返した。するとその問いに、兄のアキムが答える。

「僕達はこれから、街に商品を売りに行くところです。それでここを通ったら、たまたまあなたが家から出て来るのが眼に留まったと言う訳ですよ、オレグ。ああ、そうだ。良かったら何か、うちの商品を買って行きませんか? いつも買ってもらっているサーラもありますよ」

 そう言ったアキムが彼のトラックの荷台を指差したので、俺はその中を覗き込んだ。そこには解体された豚肉や鶏肉、鶏卵、それにベーコンやソーセージなどの加工食品が所狭しと詰め込まれている。

「それじゃあサーラとベーコン、それにサラミを貰おうか」

「お買い上げありがとうございます」

 俺は代金を支払い、アキムから商品を受け取った。するとそんな俺の顔を、ナターリヤが怪訝そうに覗き込む。

「ねえ、オレグ?」

「何だ、ナターリヤ?」

「あなた、ちゃんとあたしが教えたように毎日自炊しているの? 自炊しているんだったらそんなお酒のつまみになるような物ばかりじゃなくて、もっと卵やお肉なんかのちゃんとした食材を買う筈でしょう?」

「ああ、うん、自炊は続けているよ。今はたまたま、卵や肉が間に合っているんだ」

 俺は嘘を吐いた。するとナターリヤは、今度は俺ではなくクラシコフ少佐に尋ねる。

「少佐さん、オレグの言っている事は本当ですか? 本当に彼は、ちゃんと自炊していますか? 自炊しているとしたら、昨夜の晩御飯は何を食べましたか?」

「ああ、彼が言っている事は本当だよ。昨夜は豪勢にも、ロシア料理のフルコースを振る舞ってくれたからね」

 少佐は俺の嘘を補完してくれたが、ナターリヤはむしろ懐疑と疑念の色を深めながら、尚も俺の顔を覗き込むのを止めない。

「本当に? どうにも信じられないなあ」

「まあ、そんな事は今はどうでもいいじゃないか、ナターリヤ。それよりも、これからお前さん達は街に向かうんだろう? だったら俺も少佐を街の駅まで送り届けるところだったし、ちょうどいいから一緒に行かないか?」

「いいですね、一緒に行きましょう」

 アキムは俺の提案を了承してくれたが、ナターリヤは未だ納得行かないようだ。

「オレグ、あなたちょっとお酒臭くない? もしかして、少佐さんと二人で朝からウォトカを飲んでたんじゃないでしょうね? もしそうだとしたら、飲酒運転を見逃す訳には行かないんですけど?」

「さすがに俺だって、朝っぱらから飲んじゃいないさ。昨夜はちょいとばかり深酒をしちまったから、その匂いが未だ残っているんだろう」

「本当に? 嘘臭いなあ」

「嘘じゃないって。なんなら、神様に誓ってもいい」

「ふうん、本当かしら?」

 怪訝そうな表情で俺の胸を小突きながら、問い詰めて来るナターリヤ。彼女と俺が問答を繰り返していると、こちらへと歩み寄って来たクラシコフ少佐が微笑みながらナターリヤに語り掛ける。

「お嬢さん、随分とオレグと仲が良いようですな。今後もずっと、彼と仲良くしてやってくれるとありがたい。そしていつまでも末永く、肩を寄せ合いながら幸せになってくれる事を心から願っていますよ」

「え? あ、はい」

 突然の少佐の言葉に、俺とナターリヤはきょとんと呆けた。確かに俺とナターリヤは仲の良いご近所さんではあるが、末永く肩を寄せ合いながら幸せになれと言われると、もっと特別な関係なのではないかと勘ぐられているようにも思える。しかしそんな俺達二人を、少佐はにこにこと微笑みながら慈しむように見守り続けるばかりだ。

「さて、それでは皆さんそろそろ出発しましょうか」

 アキムの一声で、俺達四人はそれぞれの車に分乗する。俺のUAZ《ウァズ》452の運転席には俺が座って、隣の助手席にはクラシコフ少佐が乗り込み、ロトチェンコ畜産場の輸送用トラックの運転席と助手席にはアキムとナターリヤが乗り込んだ。そして二台の車輌はゆっくりと発進し、山の小道を走り始める。

「少佐、少しお聞きしてもよろしいですか?」

「ん? 何だ、オレグ?」

 俺は先程、クラシコフ少佐が自分の旅は贖罪の旅だと言っていた事の真意を尋ねようと口を開いた。しかし何か嫌な予感がしたので口篭ってしまった俺は、それ以上言葉を重ねる事が出来ない。

「……いえ、何でもありません」

「そうか」

 無用な詮索をせずに、俺はUAZ《ウァズ》452のハンドルを握り続ける。

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