第四幕


 第四幕



 生暖かくて湿った物体が顔面を這い回る感触に、俺の意識はゆっくりと覚醒した。そして潰れていない方の右の眼を開けてみれば、今月で生後七ヶ月になる犬のナノが熱心に、俺の顔面をべろべろと舐め回している。

「おはよう、ナノ」

 そう言いながら頭を撫でてやると、喜んだナノは更に熱心に俺の顔を舐め回し始めるので、その舌による愛撫から逃れるべく俺は半身を起こした。そしてそれと同時に、ここが俺の本来の寝床である自宅の寝室のベッドの上ではなく、リビングのソファの上である事に気付く。

「ああ、そうか。昨夜はソファで寝たんだっけ」

 俺はそう独り言ちると、ソファからのそりと起き上がった。そしてリビングから一続きになったキッチンへと眼を遣れば、ナターリヤがコンロの火に掛けたホーロー引きの鍋の中身をゆっくりと掻き混ぜている。

「あら、やっと起きたの。おはよう、オレグ」

 眼を覚ました俺に気付いたナターリヤは、起床の挨拶を口にした。この若干十九歳の小娘のせいで昨夜の俺はリビングのソファで震えながら寝る破目になったと言うのに、その原因を作った当の本人である彼女に悪びれる様子は無い。

「本当にあなたの家の冷蔵庫は、冷凍のペリメニとビールばっかりね。以前来た時に言った筈でしょう? ちゃんと生の新鮮な野菜やお米を買って来て、自分で調理して食べなさいって! それなのに、あなたは人の言う事を全然聞こうとしないんだから、まったくもう! このままじゃ本当に、栄養が偏って病気になっちゃうんだからね? ……ああ、それと昨日あたしが寝たベッドのシーツもちょっと臭かったから、朝一番に洗濯しておいたの。これからはちゃんと、週に一回は自分で洗濯しなさい! 分かった?」

 俺のズボラぶりを非難し終えたナターリヤは、ホーロー引きの鍋が掛けられたコンロの火を止めた。そして鍋の中身を二人分のスープ皿に盛ると、ダイニングを兼ねたキッチンのテーブルへとそれらを運んでから俺を呼ぶ。

「ほらほら、そんな所で突っ立ってないで、朝御飯にするからさっさとそこに座りなさい。ぐずぐずしていたら、せっかくのシチーが冷めちゃうんだから」

「ああ、うん」

 色々と彼女に言いたい事はあるのだが、とりあえず俺はナターリヤに言われるがままに、キッチンのテーブルに着いた。朝食の献立はライ麦パンと、たっぷりのスメタナを乗せたシチーに、サモワールから淹れた熱い紅茶。ライ麦パンにはスライスしたチーズとドクトルスカヤのソーセージ、それに細かく刻んだ胡瓜のピクルスが大量に挟んである。

「本当はもっとちゃんとした料理を作りたかったんだけど、この家の冷蔵庫の中に残っている食材と調味料じゃ、これが限界。ハチャプリを焼こうにも、小麦粉も卵も無いんだもん。ホント、やんなっちゃう」

 呆れ顔のナターリヤが言うハチャプリとは、スルグニと呼ばれるチーズを挟んだパン生地に卵とバターを乗せてオーブンで焼いた、ロシアの隣国グルジアの伝統的な料理の一つだ。そしてそのハチャプリはチーズ好きな俺の好物でもあるのだが、そう言えばもう随分と食べていない。

「悪かったな、冷蔵庫の中身が貧相で。俺の顔と同じで、みすぼらしかっただろう?」

 俺は不貞腐れながら敢えて嫌味っぽくそう言ってみたのだが、ナターリヤはそれを意に介する素振りも無く俺の向かいの席に腰を下ろす。

「まったく、本当に貧相な食生活なんだから。男の一人暮らしって、誰でも皆こんな感じなの? そうだとしたら、あたしが街の大学に通うために家を出てアキム兄様を一人にさせるなんて、益々考えられない。そうでしょう、オレグ?」

「へいへい、仰る通りで」

 生返事を返した俺とナターリヤは、キッチンのテーブルを挟んで朝食を食べ始めた。シチーもライ麦パンのサンドイッチも、俺が作った場合のそれと比較して、特に美味くもなければ不味くもない。何故ならシチーは缶詰の中身を水で二倍に希釈して温め直しただけのインスタント食品だし、ライ麦パンのサンドイッチも出来合いの食材をスライスして挟んだだけなのだから、誰が作っても同じ味になるのは至極当然の帰結と言える。

「ねえオレグ、これを食べ終わったら街に買い物に行くから、あなたも一緒に来なさい」

 唐突に、ナターリヤに命令されてしまった。

「はあ? 買い物? いや、俺はこれから工房に篭もって、夜までに今日の分の作業を終わらせなきゃならない予定があるんだが」

「そんな予定は先送りにして、明日になってからいつもの二倍頑張ればいいじゃないの。とにかく、あなたはこれからあたしの買い物に同行しなさい。ちゃんとした食事のためには何を買わなくちゃいけないのか、一から教えてあげるんだから。いい? 分かった? 返事は?」

「へいへい、分かりましたよ」

 再び俺は生返事を返し、肩を竦めながら溜息を吐く。有無を言わせない口調でもって命令して来るナターリヤの言葉に、大人しく屈服した格好だ。勿論少しばかり屈辱的ではあるが、か弱い女の、それも未だ子供の我侭に付き合ってやるのもまた大人の男の責務なのだろう。

「ごちそうさま」

 やがて俺達二人は、どちらからともなく朝食を食べ終えた。そして熱い紅茶で喉を潤し、洗った鍋と食器を片付け終えると、外出の準備を始める。しかしナターリヤは昨夜この家まで歩いて来た際と同じく薄手の寝間着姿のままなので、何かしらの外出着に着替えなければならない。

「オレグ、悪いけど服を貸してちょうだい」

「ああ、クローゼットの中に入っているのなら全部洗ってあるから、シャツでもズボンでも適当に着な」

 俺から了承を得たナターリヤは寝室のクローゼットを漁り、自分でも着れる服を探す。彼女と俺の身長差はほんの10cm程度なので、男物の野暮ったいデザインの服である事さえ気にしなければ、サイズの面ではさほどの問題は無い筈だ。

「お待たせ」

 そう言いながら寝室から出て来たナターリヤが着ていたのは、俺の所持品の中では比較的明るい色のニットのセーターと、膝丈までのハーフパンツ。勿論どちらも男物なので、特にハーフパンツは腰周りがやけにブカブカだが、そこは革のベルトで強引に締め上げる事によってなんとか履きこなしている。

「そう言えば、お前さんがそんな格好をしているところを見るのは初めてだな」

 普段のナターリヤは民族衣装のサラファンばかり着ているので、ラフなハーフパンツ姿の彼女を眼にするのは俺にとっても新鮮な経験だ。

「そうだっけ? でもまあ、確かにこんな丈の短いハーフパンツを履くのは随分と久し振りかも」

 自分の服装を再確認しながらそう言ったナターリヤの前で俺は愛用のモッズコートを羽織り、予備のモッズコートを彼女に投げ渡す。すると外出の気配を感じ取った犬のナノが食後の散歩に連れて行ってもらえると勘違いしたらしく、わんわんと吠えて嬉しそうに尻尾を振りながら、モッズコートに身を包んだ俺達二人の周りをぐるぐると走り回り始めた。

「御免な、ナノ。散歩じゃないんだ。可哀想だけれど、お前は残って留守番だよ」

「ナノ、御免なさいね。あなたの分のおやつも買って来てあげるから、大人しくお留守番していてね?」

 俺達の言葉をそれとなく理解したのか、どうやら自分は連れて行ってはもらえないと察したらしいナノは、悲しげにくうんと鳴く。そして暖炉の前で丸まって、背中をこちらに向けたまま不貞寝を始めた。

「さあ、それじゃあそろそろ出発しましょうか、オレグ」

「その前にナターリヤ、お前さんは一旦家に帰った方がいいんじゃないか? アキムが家で心配しているだろう?」

「いいのいいの、アキム兄様には今日一日、一人ぼっちで寂しく過ごしてもらう事に決めたの! そうすればあたしを家から追い出そうとした事を後悔して、少しは反省する筈なですからね!」

「そうかい。お前さんみたいな兄想いの妹を持って、アキムは幸せ者だな」

 俺の皮肉交じりの言葉に気が付かなかったのか、それともさして気にも留めなかったのか、もしくは言葉通りの意味で受け取ったのか、ナターリヤは特に反論もせずに玄関へと向かう。

「ちょっと待て、ナターリヤ。せめてアキムに、書き置きでも残して行ってやれよ。多分あいつはこの家までお前さんを捜しに来るだろうから、可愛い妹が無事である事くらいは教えてやってもいいだろう? そうでないと、お前さんが森で冬眠明けの熊にでも喰われたんじゃないかと思ったアキムが、余計な心配をするからな」

「……そうね。そのくらいは、してやってもいいでしょう」

 ナターリヤの了承を取り付けた俺は、キッチンの壁に掛けてあったホワイトボードを取り外して持って来ると、そのホワイトボードと付属のペンを彼女に手渡した。するとナターリヤは素早く、そこに兄へのメッセージを書き記す。曰く、「アキム兄様へ。オレグと一緒に街まで行って来ます。帰るのは夜です。それまでは一人ぼっちで反省する事。ナターリヤより」との内容だ。このホワイトボードさえリビングのテーブルの真ん中に置いておけば、尋ねて来たアキムもその内容を読んで安心するに違いない。

「それじゃあ改めて、出発しましょうか」

 そう宣言したナターリヤは背後に俺を引き連れたまま玄関扉を潜り、爽やかな春の風が吹く戸外へと躍り出た。

「今日もいい天気じゃない。ねえ、オレグ?」

「ああ、そうだな」

 ナターリヤの言う通り、今日もまたとても天気が良い。頭上から降り注ぐ柔らかな春の陽射しが俺の自宅を取り囲む森の中では美しい木漏れ陽と化し、眼前に広がる名も無き湖の湖面ではキラキラと光を反射しながら、ゆっくりとたゆたうように揺れている。しかも森では様々な種類の小鳥がさえずり、湖では水鳥が泳ぎながらその翼を折に触れて羽ばたかせ、まるでお伽噺の挿絵の様な光景が視界を埋め尽くしていた。ロシアの永い冬はもう終わったんだなと、俺は今更ながらに実感する。

「どうしたの、オレグ? 早く車を出してちょうだい」

「あ、ああ」

 風景と情景の美しさに暫し見惚れていた俺は、ナターリヤの言葉にハッと我に返ると、自宅の隣に建てられたガレージへと足を向けた。そして愛車であるUAZ《ウァズ》452の運転席に乗り込み、鍵穴に刺しっ放しになっているイグニッションキーを回してエンジンを起動させれば、ナターリヤもまた助手席に乗り込んで来て出発の準備は整う。

「それで、とりあえず街まで行けばいいんだな?」

「ええ。今日は街で買い物をしたついでにお昼御飯に何か美味しい物でも食べて、それから家に帰ったら、晩御飯には家でちゃんとしたお料理を自炊するんですからね! 異論は認めないんだから!」

「へいへい」

 やはり生返事を返した俺はハンドルを握ると、アクセルを踏み込んで愛車を発進させた。自宅の前を走る小道に、UAZ《ウァズ》452のタイヤの跡がうっすらと残る。


   ●


 二時間ばかりも車を走らせ、やがて最寄りの街へと辿り着いた俺とナターリヤは、食料品でも衣料品でも何でも売っている大型スーパーマーケットへと足を向けた。地上三階建て、地下一階建ての計四階建ての店舗は存外に広く、よほど専門的な素材や工具でなければ、とりあえず必要な物は何でも揃う。そこで俺達は買い物カートを押しながら店内を散策していたのだが、ナターリヤは色々な商品に目移りしてうろうろするばかりで、気付けばどこかに行ってしまって姿が見えない。

「まったく、ナターリヤの奴はどこに行きやがったんだか……」

 俺は愚痴を漏らし、買い物カートを押しながら店内をうろうろとしていた。俺が押す買い物カートの中にはナターリヤが選別した生野菜や生肉に卵、それに小麦粉や調味料などが山の様に詰め込まれており、既に結構な量の商品を購入しなければならない状況と化している。こんなに食料品を買い込んで、今夜は俺の家でホームパーティーでも開催する気なのだろうか、ナターリヤは。

「ま、たまにはこんな豪勢な買い物も悪くはないか」

 俺はほくそ笑みながら、それとなくレジでの会計待ちの列に並び、自分の番が回って来るのを待つ。俺の番が回って来るまでにナターリヤが戻って来ればそのまま会計を済ませればいいし、彼女が間に合わなければ、また列の最後尾に並び直せばいい。どちらにせよ、年頃の女の子の買い物に巻き込まれた中年オヤジに出来る事と言えば、只ひたすらに辛抱強く待つ事だけだ。

「ん?」

 買い物カートを押しながらレジの会計待ちの列に並んでいた俺は、何者かの視線にふと気付く。視線の先を辿れば、俺の前には未だ一歳半くらいの幼い子供をおんぶ紐でもって胸に抱いた若い女性が並んでいた。外見からだけでは子供の性別ははっきりしないが、可愛くデフォルメされた恐竜のイラストがプリントされた青色の子供服を着ている事から、おそらくは男の子に違いない。また彼を抱っこした若い女性は、その母親だと思われる。

 そして抱っこされた男の子はその顔に不思議そうな表情を浮かべたまま、向こうを向いた母親の肩越しに俺の顔をまじまじと凝視していた。

「?」

 ゴミか何かが付着しているのかと俺は自分の顔を撫でてみたが、どうやらそうではないらしい。

「どうした、坊主? 何か、俺の顔に付いてるか?」

 抱っこしている母親には聴こえないくらいの小声でもって、俺は男の子に尋ねた。勿論幼児を怖がらせたりしないように、人付き合いが苦手な俺なりに満面の笑みは絶やさない。すると男の子は抱っこ紐の中で可能な限り背伸びをすると、彼が凝視し続けている俺の顔を触ろうと必死で手を延ばす。

「何だ? ん?」

 母親の眼を盗んでちょいと幼児をあやしてやろうか程度の軽い気持ちで、俺はこちらに向かって手を延ばす男の子に顔を近付けた。彼の小さくて柔らかな手が、俺の大きくて硬い顔に触れる。すると男の子は俺の顔を不思議そうに幾度か撫で回してから、ハッと何かに気付いたかのように両眼を真ん丸に見開くと、その小さな手を素早く引っ込めた。心なしか、彼の可愛らしい顔が幼児らしからぬ困惑と狼狽の色で染まっているようにも見える。そして次の瞬間、男の子はボロボロと涙を零して絶叫しながら、まるで火が点いたかの如くぎゃあぎゃあと泣き出した。これは不味い事をしてしまったぞと俺は心の中で自らの粗忽な振る舞いを悔いるが、いくら悔い改めたからと言って、時間は巻き戻ってはくれない。

「何? どうしたの、ルカ?」

 突然の我が子の啼泣に驚いた母親が、どうやらルカと言うらしい男の子の名を呼んだ。そしてどうにかしてルカをあやそうとするのだが、彼は一向に泣き止まない。

「あのう……すいません」

 俺がかしこまりながら母親に声を掛けると、彼女は振り返って俺の顔を見るなりギョッと驚いて身を竦め、不審者から身を挺して庇うかのように我が子をギュッと抱き締めた。まあ、ルカの母親が驚くのも無理は無い。自分のすぐ背後に顔面の左半分がズタズタに裂けて焼け爛れた上に眼球が抉り取られた、まるで化け物の様な面構えの男が音も無く立っていたら、俺だって驚く。

「何? 一体何なの、あなた? ルカに何をしたの?」

 少しばかり不躾な口調でもって、母親は俺に問うた。

「ええと、その、どうやらその子は俺の顔を怖がって泣き出したみたいなんですよ。それで、その、何と言うか……申し訳無い」

 おそらくルカと言う名の男の子は、俺の顔があまりにも醜いので、まさかこれが生身の人間の顔だとは思わなかったのだろう。きっとゴムで出来たマスクか何かの、作り物の顔だと思った筈だ。しかし彼が実際にその手で触れてみて、この化け物の様な面構えが作り物ではないと知った時、幼児が許容出来る範囲を遥かに超えた恐怖と驚愕に泣き出してしまったに違いない。勿論俺にはルカを泣かせる気は無かったし、ルカもまた俺の顔が醜い事を殊更に囃し立てる気も無いのだろうが、まあ、これが不幸な巡り合わせと言う奴なのだろうか。

 しかし改めて考えてみると、果たして今の俺が加害者なのか被害者なのか、少しばかり判断に迷う状況だとも言える。とは言えとりあえず今の俺に出来る事はと言えば、子供を泣かせてしまって申し訳無かったと、ルカとその母親に平謝りする事のみだ。

「本当に申し訳ない。その、ゴメンな坊や」

 そう言った俺は泣きじゃくるルカの頭を撫でてやろうとしたが、彼の母親は胸に抱いた我が子を醜い顔の不審者、つまり俺から遠ざけようとする。

「……酷い顔! うちの子に、近寄らないで!」

 ルカの母親が、俺の顔を睨み据えながら吐き捨てるように言った。顔の事を悪く言われるのには慣れているし、実際問題として俺の顔が醜悪なのは紛れもない事実なのだが、やはり改めて他人から罵倒されれば俺だって傷付く。だが傷付いたからと言って、こちらもまた罵倒でもって応酬してはならない。そんな事をしても建設的な人間関係を築く事は出来ないし、むしろ状況を悪化させるだけだからだ。

 しかしその時、俺の意に反して思わぬ横槍が入る。

「ちょっとあんた! さっきから黙って見ていれば、その言い草はなんだい!」

 背後から聞こえて来た声に振り返れば、俺の後ろでレジの会計待ちをしていたらしい小柄な白髪の老婆が、見るからに怒り心頭と言った面持ちでもってルカの母親に詰め寄る。

「この人はね、何も悪い事なんてしてないよ! その子供が勝手に怖がって、勝手に泣き出しちまったのさ! それを何さ、あんたはさっきから! 何様のつもりか知らないけれど、人様の顔を、それも怪我人の顔を悪く言うなんて人として最低だよ!」

 どうやらこの老婆は俺を擁護し、庇ってくれているつもりらしいが、それにしては少しばかり語気が荒くて口が悪い。自分一人だけが悪役に準じる事でこの場を穏便に取り繕おうとしていた俺にとっては、むしろ老婆の言動は逆効果なのではなかろうか。

「突然横から何ですか! あなたには関係無いでしょう? それに、こっちは子供を泣かされているんですからね!」

「だから、その子が勝手に泣き出しちまっただけだって言ってんでしょうに! それを人様のせいにして、あまつさえ顔の事を悪く言うもんじゃないよ! それに見てごらん、この人の顔を! 事故に遭ったのか何だか知らないが、酷い怪我じゃないの! それを悪く言うだなんて……あんたには怪我人をいたわる人の心が無いのかい?」

 ルカの母親も老婆も、この一件の本来の当事者であるべき俺とルカを差し置いて、女二人だけで勝手に忿怒の度合いを増して行く。そして気付けば俺達四人は、それなりの人混みでもって混雑するスーパーマーケットの一角で衆目を集めており、野次馬による人垣が周囲にうっすらと形成されつつあった。

「参ったな……。なあ、出来ればお二人さんとも、ここは文字通り俺の顔に免じて冷静になってくれないか? ほら、俺の顔が怖くて子供を泣かせちまったのは、事実なんだからさ?」

「いいからあんたは黙ってな! こんな性根が腐った女を放っておいたら、そこの子供が不幸になるんだよ! だからこれはあんたのためだけじゃなくて、その子のためでもあるのさ!」

「何ですって! あなたみたいな皺くちゃの婆さんに、あたしの子育ての良し悪しをどうこう言われる筋合いは無いんですからね!」

 事態の収束を願う俺の言葉に耳を貸す事も無く、ルカの母親と老婆は互いを悪し様に罵り合うばかりで、まるで埒が明かない。見れば母親の腕に抱かれたルカは今尚泣き喚き続けているが、どうやら今となっては俺の顔の美醜など関係無く、公衆の面前で見知らぬ老婆相手に怒鳴り散らす母親の姿に慄いているようだ。

「はあ……」

 俺は溜息を漏らし、肩を竦めて項垂れる。当事者でさえなければ今すぐにでもこの場から立ち去ってしまいたいが、残念ながらそうも行かない。

「ちょっとオレグ、どうしたの? この騒ぎは何? 一体、何があったって言うの?」

 不意に、誰かが俺の名を呼んだ。そこで項垂れていた顔を上げてみれば、俺達を遠巻きに取り囲んだ野次馬による人垣を掻き分けながら、右腕に鳥肉の塊、左腕に米が詰まった袋を抱えたナターリヤがこちらへと駆け寄って来るのが眼に留まる。

「ナターリヤ! どこに行ってたんだ?」

「いつも買っているお米が見つからなくって、探し歩いていたらあなたを見失っちゃったの。それで一体、何があったの?」

 俺達四人の元へと駆け寄って来たナターリヤが、改めて問うた。そこで俺は、ルカの母親と老婆による女の修羅場が如何にして形成されたか説明しようと口を開きかけたが、それを制するかのようにして老婆が口を挟む。

「お嬢ちゃん、この人の連れ合いかい? だったら丁度いい、聞いておくれよ。この女がね、あんたの連れ合いの顔を酷い顔だとか気持ち悪いとか何とか、悪く言うんだよ!」

「何ですって! 酷い!」

 どうやら老婆の言葉が、比較的燃え易いナターリヤの闘争心に火を点けてしまったらしい。それとさすがにルカの母親も、俺の顔を気持ち悪いとまでは言っていなかったように思うのだが、俺の聞き間違いである事を祈る。

「あのねえ、オレグはこう見えても元軍人で、この顔の傷は戦場で負った名誉の負傷なんですからね! それを他人にどうこう言われる筋合いなんて、これっぽっちも無いんですから!」

「あらまあ、あんた兵隊さんだったのかい。そうだとすると、お国のために戦って怪我をしたんだね。それじゃあ益々、その顔を悪く言うこの女が許せないじゃないのさ!」

「そうよそうよ!」

 女の修羅場にナターリヤが参戦し、俺を擁護する老婆を更に援護する格好となった。その一方で二対一の状況へと追い詰められる格好となったルカの母親は自らを劣勢と判断したのか、俺や老婆を罵倒する言葉の歯切れが悪くなり、徐々に後退りを始める。

「何さ、このキチガイども! Пошёл на хуй!」

 捨て台詞として最後に一際下品な罵声を口にすると、ルカの母親は商品の詰まった買い物カートをその場に残したまま、スーパーマーケットの店内から足早に立ち去って行ってしまった。結果的に痴話喧嘩に負けて敗走する格好となった彼女だが、決して悪気があって俺を罵った訳ではなく、単に自らの子供であるルカを見知らぬ不審者から守ろうとしただけに過ぎない。その事実を重々承知しているだけに、次第に遠ざかって行くルカの母親の背中を見つめる俺はひどく面映く、ばつが悪かった。

「泣かせてゴメンな、坊主」

 俺がそう言って手を振ると、母親の腕に抱かれたルカがそれに気付き、未だ少しぐずりながらも手を振り返してくれた事だけが救いと言える。

「まったく、あんな女に育てられた子供がちゃんと真っ直ぐに育つのか、あたしはそれだけが心配だよ」

 俺とは違って未だ怒り覚めやらぬ様子の老婆は愚痴るようにそう言ったが、痴話喧嘩に勝利した彼女の顔は少しばかり晴れやかで、誇らしげだった。そして彼女は俺の顔に触れて傷を撫でながら、憐れむように言う。

「それにしても、ひどい怪我だねえ。でも、顔の傷は前を向いて最後まで戦った男の勲章だよ。胸を張りな。……それで、あんたくらいの若さだと、この怪我を負ったのはアフガニスタンでかい? それともチェチェンでかい?」

「チェチェンです」

 老婆の問いに、俺は答えた。

「そうかいそうかい、チェチェンで怪我をしたのかい。あたしの父親も大祖国戦争でお国のために戦って、スターリングラードで名誉の戦死を遂げたんだよ。当時未だ子供だったあたしはそれはもう悲しくて悲しくて仕方が無かったけれど、最後まで勇敢に戦った父親が誇らしくもあったものさ。だから戦争で怪我を負ったあんたの顔を悪く言うだなんて、あの女は本当に許せないね!」

「そうよ、オレグ。あなたは立派な軍人だったんですから、もっと自分に自信を持たなくちゃ!」

 老婆とナターリヤはそう言って、俺を励ますと言うか鼓舞すると言うか、とにかくこの顔の傷を名誉の負傷だと言って称えてくれる。しかし俺は彼女達の言葉を、素直に飲み込む事が出来ない。なにせこの傷は、敵との戦闘ではなくムスリムの女性による自爆攻撃で負った傷だ。果たしてそんな傷を誇ってもいいものかと、俺は自問自答する。

「しかし、お嬢ちゃんは連れ合いとは違って、実に綺麗な顔をしているねえ。神々しくって、まるで天使様みたいだよ」

 老婆が、ナターリヤの器量の良さを天使に例えて賞賛した。すると賞賛されたナターリヤも満更ではないらしく、鶏肉の塊と米の袋を抱えたまま嬉しそうに微笑む。

「ありがとう、お婆ちゃん。でもあたしとオレグはご近所さんってだけで、別に夫婦とか恋人同士とか、そう言う関係じゃないの」

「あら、そうなのかい? あたしはてっきり、仲の良い夫婦だろうと思ってたんだけどさ。もしも二人とも未だ独身なら、あんたら結婚しちまいなよ」

「やだもう、お婆ちゃんたら。あたしは未だ十九歳なんだから、結婚するには早過ぎるって」

「そんな事無いよ。あたしが若い頃には、十代で結婚するなんてのは珍しくもない普通の事だったんだからさ。むしろ嫁に行き遅れて一人ぼっちで寂しく歳を重ねるくらいなら、少しくらい早めに結婚した方が女にとっては幸せってもんじゃないか。ねえ、あんたもそうは思わないかい?」

「はあ」

 老婆に同意を求められた俺は、気の無い返事を返した。しかしそんな俺を半ば無視する格好でもって、老婆はナターリヤと楽しそうに世間話に花を咲かせる。

「やれやれ……」

 俺は溜息を漏らし、買い物カートを押しながらレジでの会計待ちの列に並び続けた。列の脇には、ルカの母親が残して行った買い物カートが一つ、カゴの中にぎっしりと商品が詰め込まれたまま放置されている。幼きルカと、名も知らぬ彼の母親には本当に悪い事をしてしまったなと、俺は罪悪感に駆られて胸を痛めるばかりだ。


   ●


 俺とナターリヤを乗せたUAZ《ウァズ》452は、碌に舗装もされていない山の小道を走り続ける。

「あのパスタ、美味しかったねえ」

 不意に、助手席に座ったナターリヤがうっとりとした声で言った。どうやら昼食として食べたイタリア料理のパスタの味を、舌の上で反芻しているらしい。そして運転席でハンドルを握る俺もまた、ちょっと奮発して入ったイタリア料理屋で供された魚介類の味を反芻する。

「そうだな。パスタも美味かったが、あの海老と貝を煮込んだ奴も美味かったな。確か、アクアパッツァ……だっけ?」

「うん。確か、そんな名前だった。それにあたし、イカ墨って初めて食べたんだけど、想像していたよりもずっと美味しくてびっくりしちゃった。でもイカ墨ばっかり食べていたら、イタリア人は皆、歯が真っ黒になっちゃわないのかしら?」

 そう言ったナターリヤは、俺に向かって敢えて歯を見せつけるように、にかっと笑った。およそ三時間前に食べたリゾットに含まれていた大量のイカ墨によって真っ黒に染まった彼女の白く健康的な歯と歯茎は、今では大分元の白さを取り戻したとは言え、未だ少しばかり黒っぽい。

 つまり俺とナターリヤの二人は街の大型スーパーマーケットでの買い物を終えた後にイタリア料理による昼食を満喫し合い、食後に公園で少しばかり散歩を嗜んでから、今は車で帰還の途に就いていると言う訳だ。

「しかし、スーパーでの一件は参ったな」

 俺が溜息混じりに呟くと、何の事を言っているのか分からなかったらしいナターリヤはきょとんと呆けるが、ルカとその母親との一件だとすぐに気付く。

「ああ、あの子連れの母親の事? 酷いよね、オレグの顔の事を悪く言うだなんてさ! まったくもう、本当に許せないんだから!」

「まあ、そう言うなよナターリヤ。彼女だって、自分の子供を守ろうと思って必死だっただけなんだから。そんな親心を責める事は出来ないさ」

「それでもやっぱり人様の、それもオレグみたいな戦争で傷付いた人を悪く言うなんて論外よ、論外! 女として、人として間違っているんだから!」

 怒りがぶり返して来たのか、ナターリヤは眉間に皺を寄せながら拳を振り上げ、ぷうと頬を膨らませた。そんな彼女の表情に、俺は愛車を運転しながらはははと笑う。他人のためにこれだけ感情的になれるナターリヤは、やはり善良で、心の綺麗な良い子だ。そしてそんな良い子が、果たしてこんな醜くて冴えないおっさんなんかと一緒に居てもいいものなのだろうかと言う葛藤が、俺の脳裏にじわりと去来する。

「……なあ、ナターリヤ」

「ん? 何、オレグ?」

「思うんだが、お前さんはこんな俺みたいなおっさんと呑気に買い物なんかしてないで、そろそろ若くて格好良い恋人の一人でも作った方がいいんじゃないのか? それで週末にはその恋人とデートでもしながら結婚について相談し、やがては家庭を持って、お前さんの行く末を案じているアキムを安心させてやればいい。どうだ? 俺なんかと一緒に居て世間から悪い印象を持たれるのに比べたら、悪い話じゃないだろう?」

 俺が諭すようにそう言うと、ナターリヤは益々をもって頬を膨らませ、俺の頭をぽかぽかと叩き始めた。運転席でハンドルを握っている俺は叩かれる度にハンドル操作を誤りそうで、危なっかしくて仕方が無い。

「いてっ! 何だよナターリヤ、痛いし危ないじゃないか!」

 俺が不平を訴えるとナターリヤは手を止めたが、彼女は鼻息も荒く憤慨しながら口を開く。

「あたしはね、あなたと一緒に居たいから、自分の意思であなたと一緒に居るの! だからそれを否定されるって言う事は、あたしの自意識を否定されるのと同じ事なんですからね! そんな事はたとえオレグにだってさせないし、決して許さないんですから! それに、あたしがオレグと一緒に居る事をどうこう言う人達がいるのなら、そんな奴らには勝手に言いたいように、思いたいようにさせておけばいいの! こっちが譲歩する必要なんて、これっぽっちも無いんですから!」

 そう主張したナターリヤは、ぷいと顔を逸らした。そして助手席で腕組みをすると、やはり頬を膨らませて唇を尖らせながら、ぷりぷりと憤慨している。そんな彼女を横眼に見ながら、自分の意思で一緒に居たいんだと言われた俺は嬉しいやら申し訳ないやらの、なんだかひどく複雑な気分だ。本当に彼女の様な美しい若者がこんなおっさんと一緒に居る事を望んでいるのかどうか、俺は未だ信じられない。

 するとそうこうしている内に、俺達二人を乗せたUAZ《ウァズ》452は名も無き湖の畔に建つ俺の自宅へと辿り着いた。そして良く見れば、その自宅の前を走る小道の脇に、ロトチェンコ畜産場の輸送用トラックが停められている。つまり今、ナターリヤの兄であるアキムがここまで来ているのだ。

「着いたぞ、ナターリヤ。荷物を運ぶのを手伝ってくれ」

「うん」

 素直にそう返事をしたナターリヤは、ガレージに停めた車のトランクに積んであった荷物を運ぶのを手伝ってくれる。どうやら移り気で気分屋な彼女は、もう既に機嫌を直したらしい。

「あら、アキム兄様。やっぱり来てたの」

 ナターリヤを先頭にして、街のスーパーマーケットで買い込んだ荷物を両腕に抱えながら自宅の玄関扉を潜ってみれば、やはりリビングの暖炉の前に置かれたソファにアキムが腰を下ろしていた。

「ナターリヤ」

 妹の名を呼びながらソファから腰を上げたアキムがナターリヤの元へと歩み寄り、難しい顔でジッと彼女の瞳を見つめる。

「何よ」

 アキムと対峙したナターリヤもまた、難しい顔でもって実の兄の瞳をジッと見つめ返した。そして暫しの静寂の中、兄と妹は睨み合う。しかし先に根負けし、視線を逸らして深い溜息を漏らしたのは、兄であるアキムの方だった。

「分かったよ、ナターリヤ。今回は僕の負けだ。街の大学に進学しろと言った僕が悪かったし、もう二度とそんな事は言わない。だが、心の片隅にくらいは留めておいてくれ。お前の兄は、お前が持って生まれた自分の才能をもっと発揮出来るであろう道に進んでくれる事を、心から願っているんだ」

「うん。それは理解したから安心して、アキム兄様。でもあたしは今の暮らしが気に入っているし、兄様を一人ぼっちにさせたくもないの。だから当分の間は、ここから離れて街で一人暮らしをする気は無いからね? 分かった、兄様?」

「ああ、分かったよ」

 どうやら一晩に渡って続いた兄妹喧嘩と家出騒動は、妹のナターリヤの勝利でもって幕を下ろしたらしい。

 しかし正直言って、彼らロトチェンコ兄妹の背後に控える俺には、兄妹喧嘩の行く末を見守る余裕など無かった。と言うのも、ナターリヤと対峙するアキムの更に背後のリビングの隅に、やけに背の高い真っ黒な焼死体が立っていたからである。つまり俺だけに見える幻覚の死神ボーク・スミェールチが、その両の瞳を爛々と輝かせながら、まるで俺を責め苛むかのようにジッとこちらを見据え続けているのだ。

「止めろ、そんな眼で俺を見るな」

 俺は小声で呟き、死神ボーク・スミェールチから眼を逸らす。

「ん? オレグ、何か言った?」

「いや、何も言ってないさ。きっと気のせいだよ」

 俺の呟きを耳ざとく聞きつけたナターリヤが問い掛けて来たが、俺は有耶無耶にして返事を誤魔化した。

「そう。それじゃあ買って来た食材をキッチンに運んで、ちょっと早いけど、さっそく晩御飯の準備に取り掛かりましょうか」

 そう言ったナターリヤは、俺を背後に引き連れてキッチンへと向かう。するとリビングの暖炉の前で腹を上にして呑気に寝ていた犬のナノが眼を覚まし、きょろきょろと周囲を見渡して俺達が帰宅した事に気付くと、嬉しそうに尻尾を振りながら飼い主である筈の俺ではなくナターリヤに擦り寄り始めた。やはりこの犬は、醜く粗野なおっさんである俺なんかよりも、美人で優しいナターリヤの方が好きらしい。

「さて、まずはパンを焼きましょうか」

「そこから始めるのかい。こりゃ大変だな」

 俺が驚くと、ナターリヤは最初きょとんと呆けたが、すぐに表情を変えて呆れたように言う。

「何を他人事みたいに言ってるの、オレグ? あなたはあたしがパンを焼くのをちゃんと観察して手順を覚えて、明日からは自分一人で焼かないといけないんですからね? そこら辺、理解出来ているのかしら?」

「マジかよ」

 ナターリヤの言によると、どうやら俺は、明日から自分の分のパンを自分で焼かねばならない宿命を課せられたらしい。

「最初に、ライ麦の全粒粉を用意するの。オレグ、その袋を取ってちょうだい」

「へいへい」

 命令された俺は、ライ麦粉の詰まった袋を買い物袋の中から取り出すと、それをナターリヤに手渡した。あまり手の込んだ料理を作らされない事を、俺は神に祈る。


   ●


「ごちそうさま」

 そう言って、俺は食事を終えた。ナターリヤとアキムのロトチェンコ兄妹もまたほぼ同時に食事を終え、俺達よりもずっと早くに市販のドッグフードを食べ終えた犬のナノはと言えば、やはりリビングの暖炉の前で寝転がって呑気に寝ている。

「どう? 出来立ての手作りの料理は、美味しかったでしょ?」

「ああ、そうだな」

 実際に彼女が用意した料理は美味かったので、ナターリヤの問い掛けに対して俺は賛同せざるを得ない。

 ちなみに今日の晩飯の献立は、出来合いの缶詰とは違って煮崩れていない新鮮な鶏肉と野菜がゴロゴロと入ったシチーと、豚の挽肉をキャベツで包んでからトマトソースで煮込んだガルブツィー。それに挽肉と米を混ぜて団子状にしたロシア風ミートボールのヨージキが添えられ、更に焼き立ての自家製ライ麦パンが並び、ダイニングを兼ねたキッチンのテーブルの上は久し振りに華やかな雰囲気に包まれていた。

「さてと、それじゃあ食後のデザートとお茶にしましょうか。焼いておいたコブラシカも、そろそろ良い具合に冷めて、味が馴染んでいるでしょうから」

 そう言ったナターリヤは鼻歌交じりにキッチンのオーブンへと足を向け、ドライフルーツをカッテージチーズを混ぜ込んだ生地で包んで焼いたケーキであるコブラシカと、ミルクと砂糖がたっぷりと入った紅茶の準備を始める。しかし正直な事を言わせてもらえば、俺は晩飯の味がどうとか、これから用意されるであろうデザートとお茶の支度がどうとか言っている余裕は無かった。と言うのも、食事の用意をしている間も食事中も、リビングの隅に立った真っ黒な焼死体である死神ボーク・スミェールチがずっとこちらを見据え続けているのである。そんな事をされては、たとえどんなに美味く豪奢な宮廷料理を用意されたとしても、まるで食べた気がしない。

「はい、オレグ。ミルクは多めで、砂糖は少なめだっけ?」

「ああ、ありがとう」

 俺はそう言って、ナターリヤから紅茶の注がれたティーカップと、美味そうなコブラシカが盛られた皿を受け取った。俺の隣の席に座るアキムもまた、妹であるナターリヤからティーカップとコブラシカの皿を受け取る。しかしその間も、やはり彼らロトチェンコ兄妹にも犬のナノにも、こちらをジッと見据える死神ボーク・スミェールチが見えている気配は無い。とすると、やはりあの焼死体は、俺にだけ見えている幻覚なのだろうか。

「どうしたの、オレグ? コブラシカは嫌い?」

「いや、なんだ、その、何でもない」

「ふーん」

 俺は訝しむナターリヤの問い掛けをはぐらかし、彼女が焼いてくれたコブラシカを食む。カッテージチーズの芳醇な風味とドライフルーツの甘味と酸味が口の中で溶け合って、存外に美味い。これで死神ボーク・スミェールチさえ居なければと願うのだが、俺がコブラシカを食んでいる間も、奴はリビングの隅からジッとこちらを見据え続けていた。

「ふう、ごちそうさま」

 今度こそ本当に俺達は食事を終え、ナイフとフォークを置く。そして三人で協力しながら皿や鍋を洗い、それらを食器棚に仕舞い終えると、新たに淹れ直した紅茶が注がれたティーカップを持ってリビングのソファへと移動した。ここからは、大人の歓談の時間を楽しむとしよう。

「最近、仕事の方の景気の具合はどうなんだい、アキム?」

「相変わらず、芳しくありませんね。大手の会社に比べると、うちみたいな零細は小売に対しての発言力もありませんから、どうしても取引の際に不利なんですよ。付加価値を付けて高く売りたい商品も、なんだかんだで値切られてしまう。やはり為替とか株とかに出資して、僕も何か金融関係の副業を始めるべきなんでしょうか?」

「金融か……。あれらは結局、体の良い公営ギャンブルだからな。知識と人脈が豊富で、資金や時間が潤沢ならば未だ勝機はあるが、そうでないなら素人が迂闊に手を出さない方がいい。いや、勿論何の苦も無く大金を稼ぎ出す可能性も否定は出来ないが、そんなのは宝くじがたまたま当たったようなものだ。俺みたいな半分無職のおっさんがどうこう言える立場じゃないが、よほど信頼出来るトレーダーかファンドマネージャーに伝手つてがあるならともかく、そうでないならお勧めは出来ないね」

「そうですか。まあ、そうでしょうね。土地と家畜を担保にして銀行からお金を借りられたとしても、それら全てを失ってしまう可能性も考慮したら、そうそう軽い気持ちで金融に手を出すべきじゃないんでしょう。ありがとうございます、オレグ。もう一度、再検討してみます」

「そうだな。それがいい」

 俺とアキムはその後も、仕事や生活に関する話題で互いの意見を交換し合った。一方で、そんな俺達など眼中に無いらしいナターリヤはと言えば、ボールやぬいぐるみを使って犬のナノとじゃれ合いながら楽しそうに遊んでいる。するとナノと遊んでいた筈のナターリヤが、かくんとこうべを垂れたかと思うと、床に突っ伏すようにしてすうすうと寝息を立て始めてしまった。

「おいおい、ナターリヤ。こんな所で寝るんじゃないよ」

 兄のアキムが妹を窘めながら彼女の肩を揺するが、ナターリヤはそんな兄の腕を振り払って、尚も床で寝ようとする。昨夜は森の中を長時間歩いて今日も買い物でよく歩いたので、もう随分と疲労が溜まっていたのであろう彼女は、どうやら既に睡魔に完敗してしまったらしい。

「そろそろ潮時らしいな。今夜はこれでお開きにしようか」

 俺はそう言って、ソファから腰を上げた。そしてアキムと力を合わせながら、このまま床で寝ようとしているナターリヤをなんとか立ち上がらせ、表に停められたトラックまで運ぼうと奮起する。

「まったく、手の掛かる天使様だな」

 俺とアキムは愚痴を漏らし漏らし、気を抜けばすぐにでもその場で寝ようとするナターリヤを、やっとの思いでトラックの助手席に座らせた。すると座らせた途端に、彼女はトラックのダッシュボードに突っ伏して寝始める。

「それではオレグ、今夜はこれで失礼させていただきます。また今度お会いした時にでも、ゆっくりとお話しましょう。……ああ、それとこの服はその時に、洗濯してからお返ししますね」

「ああ、また会おう。それと、服の事はそんなに気を使わなくてもいいから、こっちを持って帰るのを忘れないでくれ」

 そう言った俺は、昨夜ナターリヤが着ていた寝間着を畳んでアキムに手渡した。今のナターリヤが着ている俺のニットとハーフパンツは、まあ、彼女にくれてやっても何の問題も無いだろう。

「じゃあな」

「ええ、それでは」

 アキムとナターリヤを乗せて次第に遠ざかって行くロトチェンコ畜産場のトラックを、俺は手を振りながら見送った。隣では犬のナノも、名残惜しげにくうんと鳴きながら山の方角に向かって消え入りつつあるトラックを見送る。そして気付けば夜の湖の畔は静寂に包まれ、まるで先程までの賑やかさが嘘の様に、俺とナノの一人と一匹だけがぽつんと取り残されていた。春の夜風はまだまだ肌に冷たく、満天の星空すらも物悲しい。

「さあナノ、もう家に入ろうか」

 もう一度くうんと名残惜しげに鳴いたナノを背後に従えながら、俺は自宅の方角へと足を向けた。そして玄関扉を潜って帰宅すると、真っ直ぐにリビングへと向かい、暖炉の前に置かれたソファに腰を下ろして人心地付く。しかしそんな俺を、ジッと見据え続けている者が居た。

「なあ、死神ボーク・スミェールチよ」

 リビングの片隅に立ち、夕食を食んでいる間もアキムと歓談している間もずっとこちらを見据え続けていた焼死体に向かって、俺は問い掛ける。

「お前さんは、一体どうしたら消えてくれるんだい? それと、何故俺をそんな眼で見るんだい? なあ、いい加減に教えてくれよ、死神ボーク・スミェールチよ」

 俺は問い掛けたが、当然ながら死神ボーク・スミェールチからの返答は無い。奴は只ジッと、全身の中で何故か唯一そこだけが焼け残っている両の瞳を爛々と輝かせながら、まるで責め苛むかのように俺を見据え続けるだけだ。

「勘弁してくれよ……」

 俺はそう呟いてかぶりを振るが、幻覚が見えていない犬のナノはそんな飼い主の苦悩を察する素振りも無く、こちらを見上げながら不思議そうに小首を傾げる。

 未だ当分、俺の心に平穏が訪れる事は無いらしい。

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