第三幕


 第三幕



 宿営地に張ったテントの中で、俺は軍医による治療を受けていた。ムスリムの女性の自爆攻撃によって破壊された顔面の左半分が痛いと言うよりもひどく熱く、ズキズキと疼く。

「先生、この顔は治りますか?」

「治らんね。左の眼球は完全に潰れているし、皮膚と肉は骨に達するまで抉り取られ、しかも重度の火傷によって爛れているので傷口は自然治癒しそうもない。整形外科で何度か手術を繰り返せば多少はマシになるだろうが、残念ながら元の色男には戻れんよ。ご愁傷様」

 俺を診断した初老の軍医はそう言いながら、無責任にかっかと笑った。

「笑い事じゃないでしょう」

「すまんすまん。不細工が更に不細工になったのかと思ったら、笑いが止まらなくてな」

 皮肉のつもりなのか何なのか、そう言いながら更にかっかと笑う軍医。こっちは顔面の左半分をズタズタにされているのだから冗談じゃないし、正直言って、笑えない。

「それで、どんな治療をしてもらえるんですか?」

 俺は痛みに耐えながら、頭髪は完全に白髪に染まって歯も半分も生え揃っていないような軍医に尋ねたが、彼はやはりかっかと笑うばかりだ。

「一応は傷口の止血と消毒をしてやるが、それ以外に出来る事と言ったら、こんな急場凌ぎの宿営地じゃ鎮痛剤と化膿止めを処方してやるぐらいだね。後は前線から後方へと後退してから、ちゃんとした病院で治療を受けるんだな」

 そう言った軍医は次の患者の治療に取り掛かり、軍属の看護婦が俺の顔面を大量の消毒液で消毒してから、包帯とガーゼでもってまるでミイラ男の様にぐるぐる巻きにする。それにしても、やけに太った無愛想な看護婦に乱暴に消毒液と止血剤を傷口にぶっかけられたので正直言って痛かったし、気分も悪い。

「参ったな、畜生……」

 俺は悪態を吐き、天を仰いだ。左眼が潰れたおかげで視界の半分は完全に失われているし、唇が千切れ飛んだおかげでまともに口を閉じる事さえ出来ない。それにこんな化け物の様に醜い顔では、仮に退役したとしても、言い寄ってくれるような物好きな女性も居ないだろう。まったくもって、俺の人生はお先真っ暗だ。

 だがしかし、ここはチェチェン共和国の首都、グロズヌイ。永きに渡って空爆と砲撃を受け続けたこの土地では、俺の様な傷痍軍人は珍しくもない。その証拠に、俺のすぐ隣の簡易ベッドの上では地雷によって両足を吹き飛ばされたばかりの若い兵士が横たわり、薬によって強引に眠らされながら苦しそうな呻き声を上げていた。

「畜生……」

 再度悪態を吐いた俺は、ふと気付く。宿営地のテントの入り口に、やけに背の高い誰かが立っていた。いや、それは「誰か」ではない。全身が真っ黒に焼け爛れて内臓が零れ落ち、殆ど骨しか残っていない痩せこけたシルエットのくせに、何故かそこだけが焼け落ちていない両の瞳を爛々と輝かせながらこちらをジッと見つめる「何か」だ。

「看護婦さん、あれは何だ?」

 俺はその真っ黒に焼け爛れた「何か」を指差しながら太った看護婦に尋ねたが、彼女の返答は要領を得ない。

「はあ? あれって、何の事を言っているの? どこにも何も無いじゃない」

 どうやら軍属の看護婦にはその「何か」が見えていないようだが、俺の眼にははっきりと見えている。それはどこからどう見ても、全身が消し炭になる寸前まで焼かれて殆ど骨しか残っていない、一糸纏わぬ全裸の焼死体だ。

「なあ先生、あんたにも見えていないのか? あの真っ黒に焼け焦げた男が」

「焼け焦げた男? さっきから一体何を言っているんだ、お前さんは? 顔面の傷口が化膿して、毒が脳にまで達しちまっているのか?」

 やはりかっかと笑いながら俺の問いに答えた初老の軍医は、こめかみに当てた指をくるくると回して、俺の頭がおかしくなっているんじゃないかとジェスチャーで示す。

「本当に見えていないのか? あの、あそこにつっ立っている真っ黒な男だ。ほら、今もこっちをジッと見ているじゃないか」

 俺は真っ黒に焼け爛れた男を指差しながら必死でそいつの実存を訴えたが、やはり軍医と看護婦にはその焼死体が見えていないらしく、埒が明かない。そしてその間も、焼死体はテントの入り口に立ったままジッとこちらを見つめ続けていて、俺はゾッと悪寒を走らせる。

「何か変な物が見えているんだとしたら、そいつはお前さんの脳が作り出した幻覚だ。なあに、見える奴には死ぬ間際に見えるらしい死神ボーク・スミェールチが、ちょいとばかり早めに見え始めちまったと思って諦めるんだな。それにもしも運が良ければ、その内に天使様アーンギルも見えるようになるかもしれんぞ?」

 無責任な口調でもってそう言った軍医は、尚もかっかと声を上げて笑った。しかし彼が言うところの死神ボーク・スミェールチとやらに魅入られた当の本人である俺自身からしてみれば、とてもじゃないがそんな悪趣味な話を聞かされても笑うに笑えない。

「ふざけんなよ……」

 そう呟いた俺はかぶりを振りながら眼を閉じ、深い溜息を漏らす。軍属の看護婦によって強引に包帯を巻かれた顔面の傷口が、ズキズキと疼くように痛んだ。


   ●


 自宅の寝室のベッドの中で静かに眼を覚ました俺は、たった今しがたまで見ていた夢の内容を脳内で反芻する。しかし反芻しようとした先から記憶がぼやけて行き、残念ながらその細部に至るまでは思い出せそうもない。とにかくあの日、チェチェン共和国の首都グロズヌイで俺は顔の左半分を失うのと同時に、何故か死神ボーク・スミェールチと軍医が呼んだ幻覚が見えるようになったのだ。その事実に関わる夢を見ていた事だけは、既に朧となった記憶の中でもぼんやりと覚えている。

 すると同じベッドの中で寝ていた犬のナノがくうんと悲しげに泣き、俺の顔をぺろりと舐めた。

「なんだ、俺の心配をしてくれるのかい、ナノ? よーしよし、お前は優しい子だな」

 そう言った俺が頭や背中を優しく撫でてやると、ナノはベッドの中で尻尾を振りながら、嬉しそうに身悶える。ふと見ればカーテンの隙間から覗く窓の外は暗く、未だ夜が明けてはいないらしい。

「よっと」

 俺は薄暗がりの中でベッドからのそりと起き上がると、頭をボリボリと掻きながら寝室を出て、キッチンへと向かった。飼い主である俺の身を案じてか、それとも何か食べ物でも貰えると期待してなのか、犬のナノもまたベッドから這い出して来て俺の背後に続く。そしてキッチンへと辿り着いた俺は食器棚の中から取り出したショットグラスにウォトカをなみなみと注いでから、それを一息に飲み干した。純度の高いアルコールが、食道と胃を焼く。

「ふう」

 ウォトカを飲み干した俺は、更にもう一杯分のウォトカをショットグラスに注ぐと、それを持って玄関へと足を向けた。上着のモッズコートを羽織るかどうか少し悩んだが、アルコールで火照った身体を冷やしたかったので、敢えて羽織らない。そして犬のナノを背後に引き連れたまま玄関扉を潜って戸外の空気に身を晒せば、雲一つ無い満天の星空には蒼褪めるほど真っ白な満月が輝いており、自宅を取り囲む山々の峰を月明かりが照らし出していた。

「もう春だってのに、この時間になるとさすがに外は寒いな」

 そう独り言ちた俺はぶるっと肩を震わせると、周囲をぐるりと見渡し、自宅の北側に広がる山脈を臨む。山裾の平野の辺りはそうでもないが、頂上付近にはまだまだ冬の間に降り積もった雪がちらほらと残っており、季節はとうに春に移り変わったと言うのにやけに寒々しい。それはまるで、永く暗く寒いロシアの冬の残滓、つまり残りカスのようなものにも見えた。しかしもう一ヶ月か二ヶ月もすればそれらの山々にも新緑が芽吹き、人々が待ち焦がれた暑く短い夏を、新たな生命の息吹でもって彩ってくれるに違いない。俺はそんな事を考えながらショットグラスの中の二杯目のウォトカを再び一息に飲み干し、腹の中が焼ける感覚を楽しむ。

 すると山裾を縫うように走る小道の先で、何かが動いたような気がした。そこで眼を凝らしてよく見れば、小さな何者かがこちらへと接近して来るのが眼に留まる。

「ナターリヤ?」

 それは猫の子一匹見当たらない深夜の山道を、まるで大地を踏み締めるかのようにのしのしと大股でもって、しかも肩を怒らせながら歩いて来るナターリヤであった。俺はたった今しがた飲み干したウォトカのアルコールが早くも脳に達し、ありもしない幻覚が見えてしまっているのではないかと眼を擦ったが、どうやらこれは現実らしい。それにしても、彼女と兄のアキムが営む畜産場はこの山道の先に在るのだから、ナターリヤがそちらの方角から歩いて来る事自体は理に適っている。しかしこんな時間にたった一人で、それも徒歩でもってここまでやって来るとは、果たして彼女の身に何が起きたと言うのだろうか。

「オレグ!」

 自宅の玄関前のポーチに立つ俺の姿に気付いたナターリヤは手を振り、俺の名を呼びながら小走りでこちらへと駆け寄って来る。それも若い女の子特有のなよなよとした走り方ではなく、逞しい少年の様な力強い足取りでもってだ。

「オレグ、あなた、こんな時間にこんな所で何をやっているの?」

「それはこっちの台詞だろう、ナターリヤ。お前さんこそこんな時間にこんな所までやって来て、一体何のつもりだ? 夜中に出歩いたら危ないだろう? それに、アキムは一緒じゃないのか?」

 俺は少しばかり語気を荒げて問うたが、こちらへと駆け寄って来たナターリヤはそんな俺なんかよりも犬のナノに興味を示す。

「あら? あらあらあら? その子、ナノ? まあまあまあ、前に会った時はあんなに小さな子犬だったのに、ちょっと見ない内にこんなに大きくなっちゃって! ほらナノ、あたしを覚えてる? 一回会ったっきりだから、もう忘れちゃった? あたしよ、あたし。前に一緒に遊んであげた、ナターリヤお姉ちゃんですよ?」

 ナターリヤがそう言ってナノに近付くと、ナノもまたわんわんと警戒心の無い声で吠えながらナターリヤの元へと駆け寄って行き、やがて両者は嬉しそうに抱き合った。そして満面の笑顔のナターリヤはナノの頭や背中を優しく、また時には激しく愛撫し、愛撫されているナノは嬉しそうに尻尾を振りながらナターリヤの顔をべろべろと舐め回す。

「この子、生まれてから何ヶ月くらい? 未だ一歳にはなっていないんでしょう?」

「今月でもう、生後七ヶ月だ」

 そう、あんなに小さなよちよち歩きの子犬だったナノも、気付けば生後七ヶ月の立派な大型犬へと成長した。勿論生後七ヶ月では未だ一人前の成犬とは呼べないが、それでもかつては闘犬として飼育されていた屈強なるマスティフ種の末裔として、日に日にその威厳と体重を増しつつある。とは言え当のナノ自身は人懐っこく温和で呑気な性格の雌犬であるし、俺はあくまでもドッグセラピーを兼ねた治療の一環として飼っているので、闘犬として他の犬と闘わせる予定は無い。

「よしよし、ナノ、可愛い子ね。ほーら、お座り出来る? お手は? ねえオレグ、他には何か芸とか教えてないの?」

 三ヶ月ぶりに出会ったナターリヤを覚えているのかどうかは定かではないが、とにかく久し振りのお客様を迎えてはしゃぎ回るナノを、ナターリヤはまるで我が子を愛しむ母親の様に可愛がる。そんな彼女の姿は俺の脳裏に、今は懐かしい故郷の教会のフレスコ画に描かれた美しくも優しき聖母様を想起させた。だが今の俺達にとって重要な事は、ナターリヤが聖母様に似ている事ではない。

「おいナターリヤ、誤魔化すんじゃない。お前さんみたいな若くてか弱い女の子が、よりにもよってこんな時間にこんな場所を一人でうろつき回っているのは何故かと俺は聞いているんだ」

 先程よりも更に語気を荒げ、詰問、つまりは問い詰めるような口調でもって俺は問うた。すると唐突に「ぶえっくしゅん!」とナターリヤが豪快なくしゃみを漏らすと、まるで小さな子供の様にずるずると鼻水を啜る。

「ねえオレグ、とりあえず家の中に入れてくれない? こんな薄着で山道を五㎞も歩いて来たもんだから、身体がすっかり冷えちゃった」

 そう言ったナターリヤが身に纏っているのは、よく見れば薄手の生地で出来た只の寝間着だ。防寒のための上着を羽織るどころか、普段の彼女が着ているロシアの女性の民族衣装のサラファンすら身に纏っていない。

「おいおい、なんて格好で出歩いてんだ、お前さんは! ほら、風邪をひく前に、早く中に入れ!」

 呆れつつもそう言った俺は、鼻水を啜りながら冷え切った身体をぶるぶると震わせているナターリヤを、一刻も早く屋内へと退避するように急かす。そして彼女は俺の自宅の玄関扉を潜ると、未だ微かに火が燻っているリビングの暖炉の前へと小走りで駆け寄り、すっかり冷たくなってしまったその肢体を温め始めた。

「あー、温かい。ありがとう、オレグ。」

 微かに残り火が燻っているばかりの暖炉に新たな薪をくべてやった俺は礼を言われたが、正直言って、それどころではない。ナターリヤは高等学校を卒業しているとは言え、未だ十代のか弱い少女だ。そんな少女がたった一人で深夜の森の中をうろうろとさ迷い歩いていたとなれば、少なくとも常識ある大人として、これを看過する訳には行かないのは当然の帰結だろう。

「ナターリヤ、もう一度改めて問おう。こんな時間に、お前さんみたいな子供が一人で出歩いているのは何故かと俺は尋ねているんだが、答えてくれないか?」

 やはり詰問するように、俺は再度問うた。するとナターリヤは眉間に皺を寄せ、唇を尖らせてぷんぷんと憤慨しながら俺に不満をぶち撒ける。

「そうなのよ、オレグ。アキム兄様ったら、本当に酷いの! あたしにね、畜産場での仕事を辞めて、街で一人暮らしをしながら大学に通えって言うの! あたしは大学なんかに通う気は無いし、それに勿論、一人暮らしをする気だって無いんだからね? それなのに、勝手にあたしの将来を決めて、願書を取り寄せて大学進学の手続きを進めようとしてたのよ? ホントに、信じらんない! 第一今のあたし達兄妹に、一人の人間を満足に大学に通わせるだけの経済的な余裕なんてどこにも無いじゃないの! 兄様は一体何考えているのかしら、まったく!」

 そう言ってひとしきり不満をぶち撒け終えたナターリヤは腕を組み、やはり唇を尖らせながらぷんぷんと憤慨し続けていた。眼を凝らせば、まるで彼女の頭から立ち上る湯気か煙が肉眼でも見えそうな気さえする。そしてどうやら、ナターリヤがこんな時間に家を飛び出して来た理由は、彼女の将来を左右する進路の如何を巡って兄のアキムと一悶着あったかららしい。

「なるほど。つまりアキムは、オットー・クーシネン大学かどこかの街の大学へと進学するように、お前さんを説得しようと試みた訳だな? そしてナターリヤ、怒ったお前さんはそれを拒否してこんな深夜に家を飛び出したのはいいが、行く当てが無いので俺の家まで歩いて来たと。そう言う事か?」

「そう、そう言う事。それで何か文句があるの、オレグ?」

 腕を組んで胸を張りながらそう言ってのけたナターリヤには悪びれた様子も無く、ましてやこうべを垂れて謝罪する気など微塵も無いようだ。

「参ったな……」

 俺はかぶりを振って嘆息すると、ナターリヤに尚も問う。

「それで、お前さんはこれからどうする気だ? 今すぐに家に戻ってアキムと仲直りしてくれれば、俺としては万々歳なんだが……」

「そんな訳に行くもんですか! アキム兄様があたしの将来を勝手に決めようとした事を反省して泣いて詫びるまで、家に帰る気なんてこれっぽっちも無いんだからね! そう、あたしはもうあの家には帰らないの! ここで暮らす! この家でオレグ、あなたと一緒に幸せに暮らして、その幸せっぷりを分からず屋の兄様に見せつけてやるんだから!」

「はあ? ここで暮らす?」

 俺は鸚鵡返しに問うた。

「そう! 一緒に暮らすの! ……いいでしょう、オレグ?」

「いい訳が無いだろうが、ナターリヤ! 一体何を考えてやがるんだ、お前さんは! そもそもお前さんみたいな年端も行かない女の子が、そんな薄着でこんな時間に俺みたいな一人暮らしのおっさんの家を訪れているってだけで、それこそ警察が出動しかねない大問題なんだぞ? それが家にも帰らないなんて言い出したら、それこそ俺は女児誘拐の罪で投獄されちまう!」

 ナターリヤの要求を俺が拒否すれば、彼女は更に憤慨する。

「何さ、オレグのケチ! いいじゃない、あたしだってもう十九歳で、後ほんの数ヶ月もすれば立派に二十歳はたちの誕生日を迎えて大人の仲間入りをするんですからね? そうなったらアキム兄様にもあなたにも、誰にもあたしのする事に文句は言わせないんですから! だから誕生日を迎える前に、ちょっとぐらいあたしの我侭に付き合ってくれてもいいでしょう、オレグ?」

「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ! そんな訳の分からない詭弁で俺を説得しようとしたって、無駄だからな! とにかく駄目と言ったら駄目だ!」

「ふんだ! ケチ!」

 そう言ったナターリヤはまるで小さな子供の様にぷうと頬を膨らませて不満を露にしながら、リビングのソファの上に置かれていたクッションを掴み上げ、そのクッションでもって俺を執拗に殴り始めた。

「おい止めろ! 止めないか! 糞!」

 凶器が綿の詰まった柔らかいクッションなのでさして痛くもないが、それでも殴られ続ければ俺だって機嫌が悪くなる。しかも、どうやら俺とナターリヤがクッションで遊んでいると勘違いしたらしい犬のナノが俺達の周りをぐるぐると走り回りながら飛び掛かって来るので、尚更鬱陶しくて堪らない。

 そしてひとしきり俺を殴り終えたナターリヤは、疲れ果てたのかそれとも溜まっていた鬱憤が晴れたのか、クッションを振り回す手を止めた。

「気は済んだか、ナターリヤ」

「うん」

 ナターリヤも納得し、俺達が互いに手を下ろすと、遊び終えたと思ったらしいナノもまた大人しくなる。

「それで、これからどうする? このまま真っ直ぐ、家に帰るか?」

 俺はソファに腰を下ろし、ナターリヤに尋ねた。

「それだけは、絶対に嫌だ。ここで大人しく引き下がって家に帰ったら、あたしが自分の思い通りになるとアキム兄様に勘違いされる。そうなったらもう一生、あたしはアキム兄様に逆らえない。そんな人生だけは、絶対に嫌だ」

 そう言って、俺と同じくソファに腰を下ろしたナターリヤは涙ぐむ。

「まあ、お前さんの気持ちも分かるさ」

 俺はそう言って、隣り合ってソファに座ったナターリヤの肩を抱いた。

「俺だって思春期の頃には、何かにつけて親の言う事には逆らったものさ。なにせあいつらの言う事にはいはいと盲目的に従い続けたら、やがて何も考えられなくなって、遂には自分の人格が否定されちまう。そんなのは、俺だって絶対に嫌だ。だから親の言う事には徹底して反抗し続けたし、時には暴力を振るう事すらあった。違うか?」

 ナターリヤは俺の言う事を、黙って静かに聞いている。

「だがな、やがて歳を取れば分かるものさ。親は親で、過去の経験を生かして自分の子供から無用なリスクを遠ざけようとしているだけなんだ」

 俺は尚も語り続けるし、それをナターリヤが拒絶する気配は無い。

「しかし、その親心が分かった頃には往々にして、もう子供は取り返しのつかない年齢に達してしまっている。それはとても悲しい事だし、出来得る限り回避すべき事でもあるんだ。だからその事に若い内から気付けたお前は幸せ者でもあるんだよ、ナターリヤ」

 既にナターリヤは、冷静さを取り戻したようだ。

「後は言わなくても分かるだろう? 兄であるアキムにお前さんが逆らうのは仕方の無い事だが、アキムの気持ちも理解してやれ。だってお前さんは、賢い子だからな。兄の真意を理解出来ない愚か者でもないし、かと言って、自分の人格を否定するような愚か者でもない。両者が得をするような選択肢を、お前さんなら必ず選べる筈だ」

 俺の言葉を聞き終えたナターリヤは、目頭に浮かんでいた涙をそっと拭う。

「ありがとう、オレグ」

 そして彼女は、素直に礼を述べた。しかし残念ながら、俺の思惑通りに事が運びはしない。

「でもね、今ここで大人しく家に帰ったりなんかしたら、アキム兄様が調子に乗るんじゃないかと思うの。だからせめて一晩だけでもここに泊めてもらって、兄様を心配させるべきなんじゃないかしら? そうでもしないとあたしの気が治まらないし、何よりもまず第一に、あたしと兄様の対等な関係が維持出来ないでしょう? だから今夜は、あたしはここに泊まるの。それだけは、絶対に譲れないから」

 そう言ったナターリヤの決意は固いようだ。

「そうと決まったらオレグ、もう夜も遅いし、あたしは寝室のベッドで休ませてもらうからね? ほら、ナノ、あたしと一緒に寝ましょうね」

「おいおいおいおい、ちょっと待てよ。誰が泊めてやるって言った?」

 制止しようとする俺を無視して、ナターリヤはクッションを持ったまま寝室へと足を向ける。俺の言葉など、聞きやしない。そして寝室に足を踏み入れた彼女は俺のベッドにごろりと横になり、手にしたクッションを枕にしたかと思えば、そのまますやすやと寝入り始めてしまった。

「おやすみなさい、オレグ。あなたも早く寝なさいね」

 一方的に就寝の挨拶を告げたナターリヤの足元では、彼女と一緒にベッドに転がり込んだ犬のナノが、涎を垂らしながら気持ち良さそうに鼾を掻き始めている。本来ならば彼女達が寝ているベッドの主である筈の俺は、部屋の隅でぽかんと口を開けたまま呆れ果て、まるで白痴の様に立ち尽くすのみだ。

「ふざけんなよ、畜生」

 溜息混じりに悪態を吐いてはみたものの、早くも寝息を立ててすやすやと寝入りつつあるナターリヤをベッドから追い出すような気力は、今の俺には無い。そこで仕方が無く、俺はリビングへと赴くと、外出時の上着であるモッズコートを毛布代わりにしてソファで寝る事にした。

「本当に、ふざけんなよ畜生」

 再度悪態を吐いた俺はソファに横になり、眼を閉じる。暖炉に火を入れたばかりなのでリビングの中はそこそこに暖かいが、このまま朝まで寝入ってしまえば、運が悪ければ風邪を引くかもしれない。まったくもって今夜のナターリヤは、とんだ疫病神だ。

「せめて、電話でアキムを呼び出せたらなあ……」

 そう独り言ちた俺の言葉通り、ロトチェンコ兄妹が経営する畜産場には今時珍しく電話線が引かれていないため、電話でもってアキムを呼び出す事は出来ないのだ。ましてや携帯電話での通話やネット回線を使った呼び出しなど、通信会社の基地局から遠く離れた田舎の山間部では物理的にも技術的にも不可能である。

「畜生」

 三度目の悪態を吐くと同時に、俺は眠りに就いた。もしも朝起きた時に風邪を引いてしまっていたならば、それはナターリヤを力尽くで家まで送り届けなかった俺の甲斐性の無さに対する神様からの天罰だと思って、甘んじて受け入れよう。

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