第一幕


 第一幕



 ハッと眼を覚ました俺は自分がどこに居るのか、果たして今が一体いつなのかが理解出来ずに、一瞬だけ困惑した。未だ自分はあのチェチェン共和国の首都グロズヌイの戦場に居るのではないかと焦り、背筋にゾッと悪寒を走らせ、額には冷たい汗が滲む。しかしすぐに、ここがチェチェンからは遠く離れた自宅のベッドの中である事を思い出すと、ホッと安堵した。

「……もう朝か」

 ベッドの中で半身を起こした俺は、カーテンの隙間から差し込んで来る陽の光の眩しさに眼を細める。そして気付けば、ベッドの脇の絨毯を敷いた床の上にちょこんと座った一匹の子犬が尻尾を振りながら俺の顔を見上げて、何やら期待に満ちた眼差しをこちらに向けていた。

「俺が起きるのを待っていたのかい、ナノ。よーしよし、いい子だ。それじゃあすぐに、朝飯にしようか」

 俺はナノと呼んだ子犬の頭を優しく撫でてやると、ベッドから起き出してバスルームへと足を向ける。ナノは主治医の勧めで先月から飼い始めた生後四ヶ月ばかりの子犬で、犬種はモスクワン・ガーディアン・マスティフ。今は未だ俺のベッドの上にも飛び乗れないような小さな子犬だが、分類上は大型犬の一種なので、一年もすれば今の十倍ぐらいの体重になるらしい。そしてバスルームへと向かう俺の背後をちょこちょこと嬉しそうについて来るナノの姿はこの上なく愛らしく、純真無垢で、また同時に少しだけ小憎たらしくもある。

「ふう」

 バスルームにて身を切るような冷たさの水で洗顔し、濡れた顔をタオルで拭い終えた俺は、洗面台の前の壁に設置された鏡を正面から見据えた。するとそこには、人生における悲喜交々や艱難辛苦に翻弄され続けた結果としてすっかりくたびれ果ててしまった中年男性の、ひどくみすぼらしい顔が映っている。そしてその中年男性のみすぼらしい顔こそが自分自身の顔そのものである事実を否定する言葉を、残念ながら俺は持たなかった。

 つまり、俺の顔は醜い。元々幼少の頃から異性にモテるような恵まれた容姿ではなかったが、今の俺の顔面、特にその左半分の醜さは常軌を逸していると言ってもよいのではなかろうか。何せ皮膚も肉もズタズタに引き裂かれた上に焼け爛れ、部分的に骨が露出するほどの深い傷と火傷でもって、まるでハリウッド映画に登場する半分腐ったゾンビの様な様相を呈している。しかも左の眼球は瞼ごと抉り取られて眼窩は落ち窪み、唇が千切れ飛んだ結果として口を閉じていても常に歯が露出してしまうので、呼吸する度に歯茎と舌が乾いて仕方が無い。

「この化け物め」

 鏡に映る自分の顔の醜さに改めて落胆した俺は、自嘲気味に呟いた。こんな化け物の様な顔と一生付き合い続けなければならないのかと考えると、文字通りお先真っ暗な気分でウンザリする。

「さてと」

 しかし、いくら顔が醜いからと言っても、大の大人がいつまでもウンザリしてはいられない。気を取り直した俺はバスルームからリビングへと移動し、壁沿いに積み上げられた薪を二本ばかり手に取ると、それを消えかけていた暖炉の火にくべた。新たな薪に火が燃え移るにしたがって、寒かった部屋の中がゆっくりと暖まり始める。そしてカーテンを引き開けて窓の外を臨めば既に陽は高く、灰色の空には小雪が舞っていた。

「ほらよ、ナノ。ゆっくりとよく噛んでお食べ」

 リビングからキッチンへと移動した俺はステンレス製の餌皿に安い市販のドッグフードを盛り、嬉しそうに尻尾を振りながら足元をうろちょろしている子犬のナノに向かってそれを差し出すと、ナノはがつがつと貪るように餌皿の中身を食べ始める。そして子犬のナノの餌の次は人間である自分の分の朝食だが、蛆が沸くほどの男やもめでしかない俺の食事ごときに、そんなに手間暇を掛けてはいられない。そこでホーロー引きの鍋の中に残っていた昨夜のシチーを温め直し、それに硬くなったライ麦パンとチーズを数切ればかり添えれば、あっと言う間にご機嫌な朝食の完成だ。ちなみにシチーは自分で一から調理したものではなく、水で二倍に希釈して温めるだけの、出来合いの缶詰入りのものでしかない事をここに宣言しておこう。

「本当によく食うな、お前は」

 自分の分のライ麦パンを数切れ千切って、それらをドッグフードを食べ終えた子犬のナノに向かって投げ与えながら、俺は呟いた。とうの昔に四十路を迎えた中年男性の俺とは違って、今がまさに育ち盛りであり食べ盛りでもある子犬のナノは、与えられた食べ物は何でもよく食べる。

「ごちそうさま」

 やがて朝食を食べ終えた俺は、キッチンに常備してあるサモワールから注いだ熱い紅茶を一杯飲むと、作業着に着替えた。そしてリビングを出て廊下を渡り、自宅の一部を改装して造った工房に足を踏み入れ、難燃性の布で出来た作業用のエプロンを纏う。それから壁に掛けられたホワイトボードを一瞥し、ネット経由で受注したオーダーの内容と、今日すべき作業の手順を確認した。

「必要な鋼材は、VG-10の厚さ5mmっと……」

 錆を防ぐための乾燥剤シリカゲルと共に保存されていた鋼材を塩化ビニール製の密閉容器から取り出し、念のためにノギスで厚さを確認してから作業机の上に置くと、その長さ30cm、幅5cm、厚さ5mmのVG-10の板の表面に青ニスを塗る。ちなみにVG-10と言うのは刃物用のステンレス鋼の一種で、比較的高炭素なために切れ味が良く研ぎ易い一方、刃物の天敵である腐食にもそこそこ強い。

「今日の注文は刃渡り12cmのハンティングナイフで、ヒルト材はステンレス、ハンドル材はデザートアイアンウッド、ボルトはステンレスのシュナイダーボルトか……」

 声に出して指差し確認しながら、今日の作業で必要な素材を一つずつ棚から取り出して作業机の上に並べると、ここから先はナイフ職人の領分だ。

「よし、やるか」

 まずは青ニスを塗った鋼材にアクリル樹脂製の板で作ったナイフの型を当て、罫書き針でそのシルエットとピンやボルトの位置を写し取ってから、作業机の隣に据え付けられた大型のベルトサンダーの前に立つ。

「危ないから、お前はこっちには近寄って来るなよ、ナノ? 分かったな? 返事は?」

 念のため、工房の隅に置かれた電気ストーブの前で寝ている子犬のナノに忠告するが、ナノは舌を出しながら嬉しそうに微笑むばかりで要領を得ない。やはり未だ生後四ヶ月の子犬に人間の言葉を理解しろと言うのは、無理な注文なのだろうか。

「やれやれ、本当に分かってんのか、お前?」

 そう呟いた俺はベルトサンダーを始動させ、手にした鋼材を削り始める。最初は罫書いた線を目安にしてナイフ全体のシルエットを削り出し、それが終わると専用の道具を使って刃先となる鋼材の厚みの中心線を新たに罫書いてから、ベベルと呼ばれる刃先に向かって斜めに落ち込んで行く斜面を削り出した。

「ふう」

 言うだけなら簡単だが、ここまでの作業をこなすのに、大型のベルトサンダーの力を借りても二時間程度は掛かる。しかも僅かにでも手元が狂って削り過ぎてしまえば修復は不可能なのだから、一瞬も気を抜く事が出来ずに根気と集中力が必要とされ、精神的な疲労もまた看過出来ない。その証拠に、窓の外では小雪が舞うほどの寒さだと言うにもかかわらず、俺の額にはじっとりと玉の汗が浮いていた。

「そろそろ、少しばかり休憩するか」

 そう独り言つと、俺は削り終えた鋼材を作業机の上に置いてからエプロンを脱ぎ、工房を後にする。そして子犬のナノを背後に従えたままキッチンへと赴くと、昼食を拵える事にした。勿論朝食と同じで、手間暇なんかは掛けてはいられない。独身男の昼食なんて物は、スライスした二枚のライ麦パンに、やはりスライスしたチーズと豚の脂身の塩漬けであるサーラを挟んだだけの簡素なサンドイッチで充分だ。勿論サーラには、胡椒をたっぷりとまぶす事を忘れない。

「美味いか、ナノ」

 子犬のナノにもドッグフードとライ麦パンを与えながら、俺はむしゃむしゃとチーズとサーラのサンドイッチを食む。そして昼食を食べ終えて熱い紅茶を一杯飲めば時刻は既に正午を回っていたので、再び作業用のエプロンを纏って工房へと引き返した。

「さてと」

 午後の作業は、ヒルトの加工と成型から取り掛かるとしよう。ヒルトとはナイフのハンドルの一番先端の指を引っ掛ける部分、つまり日本刀なんかで言うところのつばの部分の事だ。

 今回の注文ではヒルトはステンレスで作ってくれと言う事だったで、厚さ2cmのステンレスの板を適当なサイズに切り出してから、ナイフ本体である鋼材を差し込むための幅5mmの溝をフライス盤でもって切って行く。そして溝が切れたらその溝に鋼材を差し込んで位置を合わせ、固定するためのかしめピンを打ち込む穴を鋼材ごと開けてから再びベルトサンダーを使って成型すれば、これでようやくヒルトの完成だ。

「ハンドル材は、デザートアイアンウッドっと……。今日のお客様は、なかなかいい趣味をしているな」

 デザートアイアンウッドはナイフや万年筆のハンドル材として人気が高い天然の木材であり、木目が美しいだけでなく硬く水に強いため、実用性も高い。そこでナイフ本体である鋼材を二枚のデザートアイアンウッドの板で挟み込んでから位置を合わせ、ヒルトと同じく固定するためのボルトを通す穴を鋼材ごと開けると、一旦全ての部品をバラす。そしてVG-10製の鋼材の熱処理を行うために、俺は工房の片隅に置かれた小型の電気炉の電源を入れた。

「VG-10の焼き入れ温度は、摂氏1050度から1100度っと……」

 工房の壁に貼られた各種鋼材の熱処理温度の一覧表を確認してから、切削加工と穴開けが完了した鋼材を電気炉の中にセットし、炉の温度を調節して熱処理を開始する。これから行うのは、熱処理の中でも俗に焼き入れと言われる工程だ。この焼き入れによって加工し易いように焼き鈍されていた鋼材がステンレス鋼本来の硬さを取り戻すと同時に、刃物としての使用に耐え得る靱性や耐摩耗性を獲得する。

「よし」

 高温の電気炉の中で熱され、淡いオレンジ色に輝き始める鋼材。その表面温度は、炉に内蔵された温度計によれば摂氏1080度ほど。そのまま暫く時間を置いて温度を安定させてから、俺は真っ赤になった鋼材をやっとこで素早く摘み上げるや、間髪を容れずに金属製の缶の中に溜められた液体に浸した。じゅうっと言う音と共に、液体が蒸発した事によって発生した湯気がもうもうと立ち上る。こうして急速冷却する事によって、ステンレス鋼の焼き入れは完了した。ちなみに液体の正体は只のサラダオイルなのだが、これは発火し難い油であれば特に種類を問わない。

 やがて手で触っても火傷しないほどにまで温度が下がった鋼材をサラダオイルの中から取り出すと、食器洗い用の中性洗剤でもって丹念に油分を洗い流す。すると刃物としての充分な硬度を獲得し、研げば鋭利な刃が付く見事な刀身がその姿を現した。これで焼き入れは完了したが、熱を加えた事によって鋼材の表面には薄い酸化皮膜、つまり錆の層が形成されてしまっているので、今度はこれを削り落とすと同時に紙やすりと研磨剤を使った磨きの作業が待っている。

 だがその前に、一旦手を休めて小休止だ。集中力も落ちて来たし、何よりも冬のロシアの日照時間は短い。陽が出ている昼間の内に、日課である子犬のナノの散歩を済ませておく事にしよう。

「ナノ、散歩に行くぞ」

 俺が声を掛けると電気ストーブの前で寝ていた子犬のナノは起き上がり、嬉しそうに尻尾を振りながら「ワン」と一声鳴いた。この生後四ヶ月の子犬が果たして人間の言葉を理解出来ているのか否かはともかく、とりあえず飼い主である俺に構ってもらえる事を喜んでいるのだけは間違い無い。

「ナノ、ほら、ジッとしてろ。……よーしよし、いい子だいい子だ」

 作業着から外出着であるモッズコートへと着替えた俺は、興奮してはしゃぎ回る子犬のナノの首輪にリードを繋ぐと、それを持って玄関扉を潜り戸外の空気に身を晒した。午前中にカーテンの隙間から窓の外をうかがった時と変わらず灰色一色の空からは小雪が舞い落ちていたが、どうやら吹雪くほどの天気の荒れ具合ではないので、傘や合羽を用意する必要は無いだろう。

「よし。それじゃあ行くぞ、ナノ」

 そう言った俺を先導するように、リードに繋がれた子犬のナノが嬉しそうに尻尾を振りながら歩き始めた。その足取りは生後四ヶ月の子犬らしく、未だたどたどしいと言うかよちよち歩きの赤ん坊の様で、今にも雪や氷で滑って転びそうで少しばかり危なっかしい。そして俺とナノの一人と一匹は、自宅から少しばかり離れた森や林の小道、それに平野に点在する複数の池や湖の畔をのんびりと散歩に励む。

 散歩の途中で立ち寄った松林の中で、暖炉の火を熾す際に火口ほくちになりそうな松ぼっくりを幾つか拾うと、モッズコートのポケットにそれらを突っ込んだ。ついでだったので、その松ぼっくりの一つを取り出して子犬のナノに匂いを嗅がせてから、少し離れた雪原に向かって「ほら、取って来い」と言いながら放り投げてやる。するとナノはそれを追って嬉しそうに駆け出し、やがて降り積もった雪の中から掘り出した松ぼっくりを口に咥えて、再びこちらへと駆け戻って来た。

「よーしよし、いい子だいい子だ。未だ小さいのに賢いな、お前は」

 俗にフェッチと呼ばれる芸当を見事にこなしてみせたナノの頭や喉や背中を激しく撫でてやると、ナノもまたきらきらとした純朴な眼差しで俺の醜い顔を見つめ返しながら、尻尾をぶんぶんと振って喜びを露にする。愛玩動物を飼育するのは子供の頃に捨て猫を拾って以来の事だが、こうして大人になってから改めて飼ってみると、父性本能を刺激されたせいか実に可愛いくて仕方が無い。ちなみに子供の頃に飼っていたその捨て猫は、ある日ふらりと家から出て行ってしまったきり帰って来なかった。

「そろそろ帰るか」

 やがて一時間ばかりの散歩を終えた俺とナノの一人と一匹は、一路帰還の途に就く。そして更にもう一時間ばかりも湖の畔の小道を歩き終えてから、ようやく自宅へと帰り着いた。

 地図にも載っていないような名も無き小さな湖の畔にぽつんと建つ、独身男性が一人で住むには少し広過ぎるくらいの俺の自宅。ロシア連邦に所属するカレリア共和国の首都ペトロザヴォーツクから車で半日ばかりの距離に栄えた小さな街を出て、更に車で一時間ばかりも山道を走った末にようやく辿り着けるこの小さな戸建て住宅は、元々は首都に住む年老いた成金爺が夏と冬の長期休暇中に利用するための別荘ダーチャとして建てた建築物だ。しかし今から数年前に、その成金爺が死んでこの別荘ダーチャも安く売りに出されていたため、人生の再出発を誓って新天地を探していた俺が格安の値段で買い取ってから一部を改装し、今に至る。

 それにしても、この自宅の前の所有者である成金爺が、インフラ整備を所轄する地元の国営企業にも顔が利く政権与党の有力者だったのは幸いだ。おかげでこんな辺鄙な土地に建てられた別荘ダーチャにもかかわらず上下水道が完備され、電気もインターネット回線も過不足無く利用出来ている。

 リードに繋がれた子犬のナノを連れた俺が、そんな事を考えながらうっすらと雪が降り積もった小道を歩いて自宅に歩み寄ると、玄関先のポーチに誰かが立っていた。そして俺は足を止め、その何者かに向かって忌々しそうに語り掛ける。

「畜生、またお前か」

 それは背が高くてやけに痩せ細った、全身が真っ黒な人影だった。しかし真っ黒とは言っても、黒い服を着ている訳ではないし、ましてや黒人と言う訳でもない。端的に言ってしまえば、その人影の正体はそもそも生きた人間ですらなく、全身が炭化して真っ黒になるまで焼け爛れた全裸の焼死体である。そしてその焼死体がやけに痩せ細って見えるのも、生きた人間ならば必要最低限は身に纏っている筈の筋肉や脂肪の殆どが焼け落ちているため、残されているのはほぼ骨格だけだからであった。

 焼死体の腹からは、やはり筋肉や脂肪と同じく真っ黒になるまで焼け爛れた内臓が腹膜を突き破って零れ落ち、その先端は雪が降り積もった地面にまで達している。そしてそれら筋肉や脂肪や内臓等とは違って、何故かそこだけが焼け落ちずに原形を留めている焼死体の左右の眼球が、瞼を失った眼窩の奥からジッとこちらを見つめていた。

「止めろ。そんな眼で俺を見るな」

 俺は焼死体に向かって訴えたが、その行為に意味が無い事はこの俺自身が一番よく知っている。何故ならば、俺が死神ボーク・スミェールチと呼んでいるこの焼死体の正体は、俺の脳味噌が生み出した只の幻覚に過ぎないからだ。その証拠に、リードに繋がれたまま俺の足元をうろちょろしている子犬のナノは突然立ち止まった飼い主の顔を不思議そうに見上げるばかりで、この死神ボーク・スミェールチが見えている様子は無い。そうとも、こいつは只の幻覚に過ぎないんだと、俺は自分に言い聞かせる。

「消えろ。頼むから、俺の眼の前から消えてくれ」

 そう独り言ちた俺はギュッと固く目を瞑ると、深呼吸と共に一から十まで数字を数えた。そしてゆっくりと息を吐いてから、瞑っていた眼を静かに開ける。すると真っ黒に焼け爛れた人影、すなわち死神ボーク・スミェールチは姿を消しており、うっすらと雪が降り積もった地面にもその痕跡は残されていない。

「ふう」

 俺はホッと安堵の溜息を漏らし、胸を撫で下ろした。もしも死神ボーク・スミェールチが消える事無く永遠に見え続けていたらと考えると、全身の血が凍りつくほどゾッとする。

「ナノ、家に入ろう」

 そう言って歩き始めた俺と一緒に、幻覚である死神ボーク・スミェールチが見えていなかったであろう子犬のナノは、何事も無かったかのように尻尾を振りながら玄関扉を潜って帰宅した。そして玄関から続くリビングに足を踏み入れると、部屋の隅に常備されたステンレス製の水飲み皿へと一目散に駆け寄り、散歩の疲れを癒すかのように皿の中の冷たい水ををぴちゃぴちゃと舐め始める。

「少し早いが、今日はもう晩飯にするか」

 久し振りに幻覚を見たせいか、なんだかやけに疲れてしまった俺がそう呟くと、水を飲んでいたナノがこちらを向いて「ワン」と一声鳴いた。その鳴き声をもってして同居人ならぬ同居犬の承諾を得たと判断した俺は、玄関と同じくリビングから一続きになったキッチンへと赴き、おもむろに冷凍庫を開ける。そして先週、街の大型スーパーマーケットまで行った際に大量に買い溜めしておいた冷凍のペリメニの袋を取り出すと、ホーロー引きの鍋に放り込んだその中身をたっぷりのお湯でもって茹で始めた。ちなみに、鍋に放り込んだペリメニの量は適当か、少し多いくらい。仮にちょっとばかり食べ過ぎたとしても、俺の様な男やもめが今更肥満を気にする必要も無いだろう。

「お前の分の晩飯も今すぐ用意してやるから、大人しく待ってろよ、ナノ」

 期待に満ちた眼差しでもってこちらをジッと見つめる子犬のナノにそう言うと、俺は空の餌皿にドッグフードを盛ってやってから、それを差し出した。すると待ってましたとばかりにナノは餌皿に突進し、がつがつとその中身を貪り喰い始める。

「よーしよし、美味いか? そうかそうか、良かったな、ナノ」

 未だ生後四ヶ月の子犬とは思えないほどの旺盛な食欲を発揮したナノは、あっと言う間に餌皿の中身を食べ尽くした。そして気付けば俺の分の晩飯であるペリメニも鍋の中で茹で上がっていたので、それらを皿に移してからたっぷりの黒胡椒をまぶし、更にスメタナと呼ばれるロシアでは一般的なサワークリームをスプーン二杯分ほど添える。

「いただきます」

 ペリメニが盛られた皿を持ってリビングへと移動した俺は、ソファに腰を下ろしてテレビを観ながらそれらを食べ始めた。冷凍食品として工場で大量生産されたペリメニも、まあそこそこに美味いし、何よりも安価で手軽に腹が膨れるので重宝している。それに栄養のバランスを考慮して肉のペリメニと野菜のペリメニを半々の量で食べているのだから、きっと今の俺は医者も驚くような健康優良児に違いない。

「ごちそうさま」

 やがてペリメニを食べ終えた俺は皿と鍋をキッチンの流し台で洗ってからリビングのソファに横になり、点けっぱなしのテレビの画面を観るともなしに観ながら、ノートPCを操作して自分のサイトに届いた注文を確認する。今日の注文は二件で、合衆国から一件と日本から一件だ。

「仕事は順調っと……」

 俺は注文を受諾した旨のメールを返信しながら呟くと、寝転がっていたソファから起き上がってテレビを消し、キッチンへと足を向ける。そして食器棚から取り出したショットグラスにアルコール度数63度のウォトカをなみなみと注いでから、それを一息に飲み干した。強烈なアルコールの味と香りが、食道と胃を焼く。

「そろそろ寝るぞ、ナノ」

 暖炉の前で寝転んでいた子犬のナノに向かってそう言った俺は、リビングの照明を落としてから寝室へと足を向けた。廊下を歩く俺の後ろを、ナノはいかにも子犬らしいちょこちょことした足取りでもってついて来る。そして寝室へと辿り着けば、俺は部屋の中央に置かれたダブルサイズのベッドにごろりと横になり、ナノもまた壁沿いに置かれた犬用のベッドの上で丸まって就寝の体勢に就いた。

「おやすみ」

 シャワーも浴びず歯も磨かないまま、俺はベッドの中でゆっくりと意識を混濁させる。


   ●


 気付けば俺は姿勢を低くして瓦礫の陰に身を隠し、姿の見えない敵を探していた。

 ここはチェチェン共和国の首都グロズヌイ。そしてカラシニコフ式自動小銃AK-74を構えた俺は、チェチェン独立派勢力を掃討しに来たロシア連邦軍の兵士である。

「敵はどこだ、オレグ?」

 やはり瓦礫の陰に身を隠したレフが、俺の名を呼びながら問うた。

「分からん。とにかく今は、慎重に行動しろ」

 特に内容の無い返答を返した俺は、瓦礫の陰からそっと顔を覗かせ、周囲の様子をうかがう。すると俺達の進行方向から見て左手側の、元はデパートであったらしいビルの残骸の陰で、何かがきらりと光るのが見えた。そして一拍の間を置いてから、俺と同じように周囲の様子をうかがっていたレフの頭部が被っていたヘルメットごと、まるでコンクリートの壁に向かって叩きつけたトマトの様に砕け散る。

「前方左手! デパートの残骸の陰だ!」

 声を限りに、俺は叫んだ。すると百名ばかりの兵士が手にした自動小銃と、十輌ばかりの装甲車輌に搭載された機銃から射出された銃弾が、まるで雨霰の如く敵が身を隠しているであろうビルの残骸に向かって一斉に掃射される。

「ダヴァイ! ダヴァイ! ダヴァイ!」

 進軍を意味する掛け語と共に、味方の援護を受けた兵士と装甲車輌がビルの残骸との距離を詰め始めた。

「迫撃砲!」

 おおよその見当をつけた敵の所在地に向かって、友軍の迫撃砲による砲撃も開始される。勿論この俺自身もまた瓦礫の陰に身を隠しつつ進軍し、倒すべき敵を求めて、銃弾が飛び交う戦場を駆け抜けた。

「Урааааааааааааа!」

 やがてビルの残骸の陰に複数の敵兵の姿を確認した俺は、自動小銃を構えながら仲間と共に突撃を敢行する。見たところ敵兵達は装備もバラバラだし動きにも統制が取れていないので、やはりまっとうな訓練を受けた正規軍ではなく、チェチェン独立派の民兵ゲリラに違いない。

「死ね! 死ね! 死ね!」

 乱射される、両陣営の自動小銃。宙を舞う手榴弾に迫撃砲弾。銃剣による刺突。市街地での戦闘は、いつだって凄惨だ。必然的に接近戦にならざるを得ないし、得てして突発的な遭遇戦から肉弾戦に発展しかねない。そうなれば殺すべき敵、もしくは殺されるべき敵を眼前に捉えながら戦う事になるので、生きていた筈の人間が物言わぬ死体へと変貌するその瞬間に立ち会わなければならない可能性が高く、その事実が兵士達の心に深い傷痕を残す。

「ダヴァイ……」

 気付けば戦場には静寂が訪れ、戦闘は終結していた。俺はぜえぜえと呼吸を荒げながら廃都市の中央で立ち尽くし、自動小銃を手にしたまま周囲を見渡す。どうやら待ち伏せを仕掛けて来たチェチェン独立派の民兵ゲリラの一団は壊滅したか、もしくは形勢不利と見てこの場から撤退したらしく、廃墟と化した市街地のそこかしこには民兵ゲリラどもの惨たらしい死体が点々と転がっていた。しかし当然の事ながら、不意の戦闘に勝利した我々ロシア連邦軍とても、決して無傷と言う訳ではない。開戦時に破壊されたBTR-80も含めて二輌の戦闘車輌が破壊され、およそ二十名ばかりの兵士が戦死した。勿論その二十名の中には、狙撃によって頭を吹き飛ばされて死んだレフも含まれている。

「糞! 糞! 畜生め!」

 俺はレフの死体を死体袋に詰めて回収しながら、誰にともなく悪態を吐いた。元はレフであった筈の肉片や骨片や脳漿が、真っ赤な鮮血と共に周囲一帯に飛び散っている。頑丈なアラミド繊維であるケブラー製のヘルメットごと首から上が跡形も無く吹き飛ばされている事から、おそらくは50口径か、もしくはそれ以上の口径のライフル銃なり機関砲なりで狙撃されたに違いない。生前のレフの、痘痕あばたの様なニキビの痕跡が頬一面に残された不細工な面構えが、今となっては懐かしく感じられる。

 そして仲間の兵士達と共に俺が死体袋を残された装甲車輌の中に運び入れていると、不意に誰かが怒鳴り散らすような声が耳に届いた。見ればどこから姿を現したのか、五歳くらいの小さな男の子を連れた一人の若い女性が、大声で何事かを喚きながらこちらへと歩み寄って来るのが眼に留まる。

「何だ?」

 俺は不穏な空気を感じ取りながらも、死体袋を運ぶ手を一旦休めて、事の推移を見守る事にした。その若い女性は白人だったが、イスラム教の戒律に従ってヒジャブで頭髪を隠している事から想像するに、おそらくは敬虔なムスリムなのだろう。そして俺達に向かって喚き散らしている彼女の言葉はチェチェン語なので、ロシア語と僅かな英語しか理解出来ない俺には、その意味するところは皆目検討がつかない。ただし、それがおそらくは怒りと侮蔑と怨嗟の言葉であろう事だけは、その激しくも感情的な語感から容易に想像出来た。

 すると俺達に食って掛かるその若い女性の元に、どうやらチェチェン語が理解出来るらしい友軍の兵士の一人が歩み寄って、なんとか彼女を宥めようと試み始める。相手が民兵ゲリラでさえなければ、軍の総意としても地元民との軋轢は可能な限り避けたいのだから、至極当然の対処と言える。

「何だあの女は? 面倒臭えから戦闘に巻き込まれた事にして、誰か撃ち殺しちまえよ」

「馬鹿な事を言うな。そんな事をしたら、軍法会議に掛けられるぞ」

 舌打ち交じりに不穏な事を言う同僚の一人を、俺は諌めた。しかしその間も、幼い子供を連れたムスリムの女性は応対している兵士に向かってチェチェン語で喚き散らしながら食って掛かり続けるばかりで、埒が明かない。おそらく彼女は、我々ロシア連邦軍の兵士達に対して、よほどの不平不満をその胸に抱いているのだろう。そして女性が一際大きな声で喚いた次の瞬間、彼女は唐突に、服の上から羽織っていた丈の長いケープの裾を捲り上げた。するとケープの下から、女性の腹に巻かれた大量のC4プラスチック爆弾と起爆装置がその姿を現す。

「爆弾だ! 逃げろ!」

 女性に応対していた兵士が、警告の言葉を大声で叫んだ。予想もしていなかった展開に虚を突かれる恰好となった俺は、呆気に取られてぽかんと口を開けたまま、その場に立ち尽くす。しかしハッと我に返ると身を翻し、女性に応対していた兵士と共に手近な装甲車輌の車体の陰へと急いで退避した。そして身を隠した俺は全身の筋肉を緊張させて爆発の瞬間に備えたが、何故か爆弾はなかなか起爆せず、辺りには一瞬の静寂が訪れる。

「……不発か?」

 爆弾が爆発する気配が無い事を訝しんだ俺は恐る恐る、身を隠した装甲車輌の陰から顔を半分だけ覗かせて状況を確認した。すると腹にC4プラスチック爆弾を巻いたムスリムの女性は起爆装置のボタンに指を掛けたまま視線を泳がせ、ガチガチと鳴るばかりの歯の根は合わず、蒼白に染まった顔面に大量の脂汗を浮かべて怯えながら逡巡している。どうやら潔くこの場で自爆攻撃を敢行したものか否かの決心にギリギリのところで揺らぎが生じ、最後の最後で起爆ボタンを押す事が出来ないでいるらしい。

「おい、止めろ! 止めるんだ! 自爆攻撃なんて馬鹿な事はするもんじゃない! そんな事をしたって誰も喜ばないし、何も解決はしないぞ!」

 俺は自爆を思い留まらせるために、貧困な語彙を総動員しての説得を試みた。しかし気が動転して我を失い、かと言ってここまで来てしまった以上は引くに引けず、完全に錯乱状態にあるらしいムスリムの女性の耳に俺の声は届かない。

「その子供はキミの子供か? ならばせめて、その子供だけでも安全な場所まで退避させてやってくれ! キミだって、そんな幼い子供を巻き込むのは本意ではないだろう? 違うか?」

 無駄な努力でしかないと理解しながらも、俺の説得は続く。少なくとも女性が連れたあの小さな男の子だけでも死の淵から救い出さねば、俺は一介の軍人として、また同時に一人の人間として、天に召された際に死んだ両親と神様に合わせる顔が無い。

「とにかく、頼むから自爆なんかしないでくれ! お願いだ! 頼む! せめて子供だけでも、助けてやってくれ!」

 喉を涸らして、俺は懇願した。すると不穏な空気を察知したのか、女性が連れていた男の子がまるで火が着いたかのようにぎゃあぎゃあと大声で泣き始める。すると俺ごときの説得が功を奏した訳でもあるまいに、子供の泣き声にようやく我に返ったのか、ムスリムの女性は自身の腹に巻かれた大量のC4爆弾の起爆スイッチに掛けていた指をゆっくりと離してから泣き始めた。嘆き悲しんでぼろぼろと涙を零す女性を、俺は必死で宥める。

「ようし、いいぞ! そうだ、そのまま両手を挙げてジッとしていてくれ! 今すぐに、爆発物処理班を呼んでやるからな!」

 俺の説得と懇願は尚も続き、どうやら自爆攻撃を思い留まってくれたらしいムスリムの女性は、膝を突いて泣き崩れたままその場から動かない。このまま起爆ボタンを押さないでいてくれれば、遠からず到着するであろう友軍の爆発物処理班が彼女の腹に巻かれたC4プラスチック爆弾の起爆装置と雷管を除去を行い、無力化される筈だ。そう確信した俺はホッと安堵の溜息を漏らし、胸を撫で下ろす。

 しかし安堵した俺の姿を嘲笑うかのように、次の瞬間、ムスリムの女性の腹に巻かれたC4プラスチック爆弾は轟音と共に爆発した。女性は起爆装置のボタンに指を掛けてはいなかったので、おそらくは彼女を扇動して俺達に接近させたチェチェン独立派の民兵ゲリラの指揮官なり何なりが、なかなか自爆攻撃を敢行しない女性に業を煮やして遠隔操作で起爆させたのだろう。そして当然の事ながら、爆心地となったムスリムの女性の身体は木っ端微塵の肉片や血飛沫となって爆散し、彼女が連れていた小さな男の子もまた一瞬にして吹き飛んだ。

「あっつ!」

 爆発と共に、装甲車輌の陰から半分だけ覗かせていた俺の顔面を、おそらくはC4プラスチック爆弾の中に大量に練り込まれていたのであろう釘や木ネジと言った鋭利な金属片と爆炎が襲う。金属片を爆弾に練り込むのはテロリストや民兵ゲリラの常套手段であり、決して珍しい事ではない。そしてそれら金属片と、C4プラスチック爆弾の主成分であるトリメチレントリニトロアミンの燃焼によって発生した爆炎により、俺の顔の左半分はズタズタに引き裂かれながら焼け爛れた。

「う……うああぁぁ……」

 顔面を負傷した俺は、地面に膝を突いて蹲る。あまりの激痛に神経が麻痺したのか、逆に痛みは感じず、とにかく焼け爛れた顔面が熱くて熱くて仕方が無い。それにどうやら左の眼球は潰れて瞼ごと抉り取られたらしく、視界の半分が完全に失われていた。

 だがそれでも、俺は生きている。装甲車輌の陰に身を隠していたおかげで、至近距離であれだけの量のC4プラスチック爆弾が爆発しながらも生き残ったのだ。この事実はまさに不幸中の幸い、地獄に仏、九死に一生を得たと言っても構わないだろう。とにかく、俺は運が良かった。

「皆、無事か?」

 俺はズタズタになった顔面に走る激痛に耐えながら、立ち上がって周囲の様子をうかがう。自爆したムスリムの女性が立っていた爆心地を中心にもうもうと白煙が立ち込め、よく見れば小さなクレーター状に、固い地面が抉られていた。しかしそんな惨状にもかかわらず、どうやら女性が自爆攻撃を躊躇してくれたおかげで、友軍の兵士達は全員安全圏まで退避する事が出来たらしい。この事実もまた、不幸中の幸いと言えるだろう。

 だがそこで、俺は自分の足元に転がっていた『何か』に気付いてしまった。そしてその『何か』の正体を悟った俺は、ハッと息を呑む。

「!」

 それは、自爆したムスリムの女性が連れていた五歳くらいの男の子の上半身だった。下半身と左腕はどこかに千切れ飛び、腹腔が剥き出しになって内臓がまろび出た胴体と頭蓋が割れて脳髄が露出した頭部、それと何故かそこだけが全くの無傷の右腕だけが残されている。しかもその男の子は、そんな見るも無残な状態にもかかわらず、未だ生きていた。信じられない事だがその小さな胸は依然として上下しながら荒い呼吸を繰り返し、こちらを見つめるその瞳には命の光が宿っている。

「え……衛生兵!」

 俺は声を張り上げて、衛生兵を呼んだ。大声を出すと、口を閉じていても歯が露出するほどにまで引き裂かれた唇が痛い。そして男の子の上半身を抱え上げて救命措置を施そうと試みたが、勿論俺も、この子がもう助からない事ぐらいは重々承知している。だがそれでも、風前の灯の様に今にも消えてしまいそうな小さな命を眼の前にして、黙って手を拱いて見ている訳にはいかなかったのだ。

「衛生兵! 早く! 早くしろ、衛生兵!」

 尚も俺は声を張り上げて衛生兵を呼ぶが、その間も俺の手に抱かれた瀕死の男の子の呼吸は荒くなって行くばかりで、最期の時が近い事を否応無しに実感させる。そして俺の残された右の瞳をジッと見つめながら、その眼をカッと見開いた男の子は一際大きく息を吸い込み、それを最後にして呼吸を止めた。剥き出しになった腹腔から覗く横隔膜も心臓も、もうそれ以上動く事は無い。

「死ぬな! おい! 畜生! 死ぬんじゃない! 糞! 死なないでくれ! 頼む! お願いだ!」

 俺は自分の顔面の痛みを忘れて慟哭の涙と共に絶叫したが、上半身だけとなった男の子が息を吹き返す事は無かった。ただゆっくりと、力無く抱きかかえられたその身体が冷たくなって行くばかりである。

「ああああぁぁぁぁ……」

 俺は男の子の亡骸を抱き締めたままその場に泣き崩れ、再び天に向かって慟哭するが、その叫びと祈りが天上に御座すであろう神様に届く事は無い。


   ●


 俺はビクッと身を震わせ、心臓をドクドクと脈打たせながら眼を覚ました。そして少しばかりの混乱の後に、ここがチェチェンの戦場ではなくペトロザヴォーツクの郊外に建つ自宅の寝室のベッドの中である事を確認し、ホッと安堵する。そして気付けば、俺の両の瞳からはぼろぼろと涙が零れ落ちていた。どうやら知らぬ間に、年甲斐も無く泣いていたらしい。ちなみに俺の左の眼球はC4プラスチック爆弾の爆発で潰れた後に外科手術でもって摘出されているが、下瞼の涙腺は残っているので、たとえ眼球が無くとも涙は零れ落ちる。

「畜生、またあの時の夢か……」

 俺は独り言ちながら、涙を拭った。今は随分とマシになったが、それでもチェチェンでの夢を見る度に、あの時ズタズタになった顔面の左半分の傷と眼球を失った眼窩の奥がズキズキと痛む。

 やがて動悸が治まった俺は窓の外に眼を遣り、戸外が未だ闇夜に包まれた夜半である事を確認すると、ベッドからのそりと起き上がった。壁沿いに置かれた犬用のベッドの上では、子犬のナノがすうすうと可愛らしい寝息を立てながら眠っている。そして俺はナノが眼を覚まさないように忍び足でもってキッチンへと移動すると、食器棚の中から取り出したショットグラスになみなみとウォトカを注ぎ、そのショットグラスを手に玄関扉を潜って冬の夜の空気に身を晒した。

 昼間は宙を舞っていた小雪は既に止み、雲一つ無い夜空には蒼褪めるほど真っ白な満月が浮かんでいる。そしてふと気付けば、自宅の前に広がる名も無き湖の凪いだ水面の上には幻覚の焼死体、すなわち死神ボーク・スミェールチが立っていた。その死神ボーク・スミェールチの、何故かそこだけが焼け落ちずに原形を留めている左右の眼球が、まるで俺を責め苛むかのようにジッとこちらを見据える。

「なあ、一体どうしたらお前は消えてくれるんだい?」

 幻覚に向かってそう呟くと、俺はショットグラスに注がれたウォトカを一息に飲み干してから、少し泣いた。

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