鍛冶師オレグ

大竹久和

プロローグ


プロローグ



 建物の外壁から剥がれ落ちて今は瓦礫と化した、かつては由緒正しいイスラム様式の歴史的建造物の一部だった筈の幾何学模様のレリーフやタイルを、分厚い合成ゴムに覆われた装甲車輌のタイヤが轢き潰してばらばらに踏み砕いた。街道を挟んで立ち並ぶ高層ビル郡はその大半が既に崩れ落ち、文字通りビルの骸骨の様な骨組みの一部だけがかろうじて残され、逆光の空に浮かび上がるそのシルエットは薄気味悪くも退廃的な美しさを主張して止まない。

 度重なる空爆と砲撃によって見るも無残に破壊し尽くされ、都市機能だけでなく生活インフラまでもが完全に失われた、チェチェン共和国の首都グロズヌイ。その中心部から少し外れた区画であるこの辺り一帯に住民の気配は無く、まさに廃都市と呼ぶに相応しい様相を呈している。そしてそんな廃都市の中央を南北に縦断する、シェリポヴァ通り。その通り沿いをゆっくりと行軍しながら、俺を乗せたロシア連邦軍の装甲車輌BTR-80は次なる目的地を目指して移動を続けていた。傍から見ると、俺が乗っているのも含めた十台ばかりの装甲車輌がぞろぞろと連なって廃都市の中心部を行軍するさまは、まるで文明の死を惜しむ趣味の悪い葬列の様にも見える。実際の葬儀に赴く葬列と異なる点は、俺達が着ているのが黒い礼服や喪服ではなく、カーキ色の迷彩服とボディアーマーだと言う点くらいのものだろうか。

 余談だが、俺が装甲車輌に乗っていると言っても、車輌の内部の操縦席なり兵員室なりのちゃんとした座席に腰を下ろしている訳ではない。分厚い装甲版で覆われた装甲車輌の屋根の上に文字通り乗っかり、楽して行軍するために、言わば相乗りさせてもらっているような状況だ。

「なあ、オレグ」

 隣に座っていた同僚で戦友のレフが、曇天の空に向かってタバコの煙を吐き出しながら俺の名を呼んだ。このレフと言う男は少しばかり肥満気味で、思春期の頃に患った酷いニキビの痕跡がまるで痘痕あばたの様に頬一面に残っており、残念ながらお世辞にも美男子とは言えない。

「何だ、レフ?」

 問い返すと、レフは俺がボディアーマーのベルトに吊るしている小型ラジオを指差しながら要請する。

「そのラジオなんだが、聴いてねえなら電源を落としてもらってもいいか? 歌詞の内容はさっぱり分からねえが、なんだかその歌は、聴いていると無性にムカついて来て仕方が無え」

「我慢しろよ、レフ。俺もムカついて来て仕方が無えが、次はいい歌が流れるかもしれねえからな。こう言う時は、ジッと我慢さ」

 そう言った俺もレフと同じく、曇天の空に向かってタバコの煙を吐き出した。すると装甲車輌のタイヤが大きな瓦礫を踏み越えたので、車体が大きくがたんと揺れる。そしてその間も、俺の小型ラジオからはエミネムとか言う名の若いアメ公のくだらない与太話が聞こえて来るばかりで、レフの言う通り無性に腹が立って来て仕方が無い。ラップだかなんだか知らないが、個人の不平不満や口汚い罵詈雑言を書き連ねただけの出来の悪い作文を歌だと言い張って公共の電波で垂れ流すのは、それを聴かされる身としてはウンザリするばかりだ。

 そして聴きたくもないエミネムのラップをBGMにして、俺を含めたおよそ百名ばかりの兵士達が、十輌ばかりの装甲車輌と共に廃都市の中心を淡々と行軍し続ける。ほぼ全ての兵士達は心身共に著しく疲弊し、口数は少なく焦燥感に駆られ、顔色も冴えない。するとようやく胸糞悪いエミネムのラップが終わったかと思えば、次はラジオ局のDJ曰く連合王国の最新ヒットチャートでトップに輝いたばかりの、ジェイムス・ブラントとか言う新人歌手の『You're Beautiful』なる歌が小型ラジオから流れ始めた。

「ほら見ろ、レフ。今度はイカす歌が流れて来たじゃねえか。だから言ったろ、こう言う時はジッと我慢した方が勝ちなのさ」

 勝ち誇ったかのようにそう言った俺は、小型ラジオのツマミを回し、音量を上げる。優しくも官能的な男性ボーカルの澄んだ歌声が、耳に心地良い。

「なあオレグ、お前、英語の歌詞の意味が理解出来るのか?」

「いいや、学の無い俺に理解出来るのは、せいぜい半分程度だ。だがそれでも、恥ずかしげもなく「あなたは美しい《You're Beautiful》」なんて歌ってるんだから、きっと綺麗で優しい歌に決まっているさ」

 レフの問いに答えた俺はそっと目を瞑ると、小型ラジオから聴こえて来る歌に暫し聴き惚れた。周囲を歩き続ける他の兵士達もまた俺と同様に、どこの誰とも知らないジェイムス・ブラントとか言う歌手の歌声に魅了されていて、それはとても穏やかな光景にも見える。

「あなたは美しい、か……」

 俺はそう独り言つと、再び曇天の空に向かってタバコの煙を吐き出した。今この一瞬ばかりは、ここが死と破壊に満ちた血生臭い戦場である事を忘れられそうな気すらして、平穏と安らぎが胸を満たす。

 だがしかし、安息の時間はそう長くは続かない。小型ラジオから聴こえて来る歌声に聴き惚れている俺達を嘲笑うかのように、不意にひゅうっと言う空を切り裂く飛翔音が耳に届いたかと思えば、俺が乗っている車輌の三台前の装甲車輌が轟音と共に爆発した。天に向かって噴き上がる爆炎と黒煙と共に完装重量十四tにも達するBTR-80の車体が宙を舞い、再びの轟音と共に地面に落着する。どうやら俺達は、携帯式の対戦車擲弾による襲撃を受けたらしい。

「敵襲! 敵襲!」

 俺も含めた兵士達は一斉に叫び、装甲車輌から地面へと飛び降りて瓦礫や車輌の陰に身を隠すと、支給されたカラシニコフ式自動小銃AK-74を構えながら襲撃して来た敵の姿を探した。おそらくは、俺達ロシア連邦軍と対立するチェチェン独立派勢力の民兵ゲリラによる待ち伏せだろう。

「敵の姿は見えたか、レフ?」

「いや、見えない。なあオレグ、俺達はどこから攻撃された? 敵の数は? 敵の装備は? こちらの損害は? 誰か死んだのか?」

「落ち着けよ、レフ。落ち着いて姿勢を低くし、敵を探すんだ」

 俺はレフに忠告し、一刻も早く平静さを取り戻すように促した。彼と一緒に瓦礫の陰から敵の姿を探す俺の小型ラジオからは、ジェイムス・ブラントの優しくも官能的な歌声が流れ続けている。

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