22. 揺さぶる刃・前篇


国彦が訓練に行ってしまってから、3日経った日の放課後、礼の姿は学校から程近い老舗の喫茶店にあった。

白髪のマスターは履歴書と礼の顔を交互に見て、それから優しくにっこり微笑んだ。


「なにより学業優先。それを守れるなら、来週から手伝いにきてくれますか?」

「…はい!!お願いします!」

差し出されたマスターの手を礼はぎゅっと握った。

生まれてはじめてのバイト面接と、一歩踏み出した事への胸の高鳴りに、駆け出したい気持ちになりながら店を出る。


そんな浮き上がった心持で歩き出した礼の視界が、いきなり大柄な男の背中に遮られた。

慌てて見上げると、いかにもガラの悪い男の不機嫌な顔があった。

「おう、兄ちゃん、わりィな」


道の真ん中をふさいでいた男はそう礼に謝ると少しだけ端に身を寄せ、また礼に背を向けた。

5、6人の黒スーツの男が立ち止まって何やら揉めているようだった。

見るつもりもなかったが、その集団を通り過ぎる時、その男達の中心にいる男と目が合った。

それは、なにもかも諦め脱力したようにぐったりした篠原だった。

随分痛めつけられたか、生気のないその表情は、礼と目が合った瞬間はっとして、それから不敵ににやりとだらしなくゆるんだ。

その頬を強く男に打たれながら、それでも篠原は礼をぼんやりうつろに眺めていた。


礼は、それから目を反らすと、一目散に走った。


もう男たちが見えなくなるところまで走り、立ち止まった礼は、荒くなった息を整えるために大きく深呼吸した。

何があったか知らないが、篠原がどうなろうと知った事ではない。

いくらか見過ごそうと思ったが、それでも結局放っておく事ができず、礼は近くの交番に今見た一切を伝えた。


その翌日から篠原は学校には訪れず、とある噂だけが部活の仲間だった佐々づてに礼の耳に届いた。

篠原が卒業を目前に学校をやめることになった事。

母親に多額の借金があり、自身も幼いころから犯罪組織と身近であり、関係が深かった事。

これまで逃れてきていた悪行が全て明るみに出た事。


バスケ部の同期達は声をひそめてそんなどこまでが本当かわからない話をしたが、礼はその噂話の輪から早々に離れた。



そんな事も、思い出してゆっくりと考える暇も無いほど

バイトを始めた礼はとにかく毎日が忙しくなった。

慣れぬウエイター仕事は、最初こそぎこちなく過ぎていったが、

それでも二三日も通うと、礼本来の人懐っこい性格と、誰にも分け隔てない気遣いと距離感が客の心にすんなりと受け入れられ、礼特有の人好きのするその性質が段々と店にも定着し始めた。

二週目の初めにはもう、喫茶店の常連である年配の客からまるで孫のように「礼ちゃん」と呼ばれる程になった。

バイトに出始めてから10日経った日の夜、自信が出てきた礼は、まだ何も知らせていない国彦に電話報告をすることにした。


寮部屋のベッドに腰掛け携帯電話を手にとると、何故だか少しだけ緊張しているのに気付く。

声を聞くのは2週間ぶりだ。通話ボタンを押し携帯電話を耳に押し当てる。

発信音が途切れた。


礼は大きく息を吸い込んで言った。

「よお」


『おー…』

「…?」

『何か変な感じだな。れえの声が携帯から聞こえんの』


照れくさくて、それでも久々に聞いた国彦の声に礼は幸せでぎゅっと一瞬目をつぶった。


『大丈夫か、何かあったか?』


心配げに問う国彦の声に礼は自信満々に答えた。

「バイト始めたんだ」

『え、…マジで。どこ』

「駅前の喫茶店」

『すげーじゃん。何、どした…何か買いたいもんあんの、れえ』

「…貯める」

『わかった。新作だろ来月出るあのプレステ…』

「ちげーよ」

『……?』

「………、…くに」

『ん?』


礼は少しだけ言葉につまってしまった。

国彦が帰ってきてから話そうと思っていた、バイトを始めたその理由を

もう今話してしまいたくなったからだった。

それでもそれを我慢して堪えると、礼はおずおずと聞いた。



「けが、してない?」



あんまり健気に響いて、電話越しに吹き出した国彦は

可愛くてしかたないというような声で答えた。


『なー…れえ、どんな顔で言ってんのソレ』

「…心配、してんのに。はぐらかすな」

『しょっぱなに左腕ちょっと食われたけど』

「食わ…!?…だ、だ、だいじょ」

『ちょ、れえ(可愛すぎるから)』


そうして国彦が笑うのに、当の礼は心配で声を震わせて「……くに」とその名を呼んだ。


『なんでそんな声なんの』

弱々しく今にも泣きそうな声がたまらなくて、国彦は優しく言ったが礼からはそれ以上言葉が出てこない。

心配させまいと、明るい声で国彦は続けた。


『大したことなかったし、もう訓練復帰したから』

「……」

『れえ』


優しく呼ばれても礼は

これからこんなに…いやこれ以上に、心配な事が増えていくんだろうと思うともう想いが溢れだしてきそうだった。

それでも必死に声を絞り出して言った。


「な…俺いっしょ、いたくて…」

『ん』

「卒業しても、今みたいに…お前、と」


今度は国彦から、言葉が聞こえなくなった。

その少しの沈黙が礼の湧きあがった熱をほんの微かに冷ました。

何の返答も返ってこないのが怖くて礼は急いで口を開いた。


「……わけ、わかんねえな。ごめん。も、切る」


『わかるよ。つか、わかった。なあれえ』

焦って切ろうとした礼の耳に国彦が強い口調でそれをさえぎるように言った。

その声にさっきの笑いは無く、ごく真剣な声だった。


『バイト…その為に始めたんだよな』


言葉が足りないと自覚しているのに、それでもなぜ通じてしまうのか

そんな幸福感の中で、礼はもう堪え切れずに言った。


「くに…すき。もう、会いたいよ」


国彦は大きくため息をつくと、力が抜けたような声で答えた。

『…、…んな、声出すな。…来週午後休とれるから、』


国彦の言葉の途中で何かサイレンのような音が聞こえて、受話器越しにもわかる位電話越しの国彦の周りが騒がしくなった。


『…っと、…集合かかった…行かねえと。こっちからかけるから…バイト頑張れ、れえ』

「うん。くに、気をつけてな」


電話が切れてしまっても、その余韻から礼はしばらく動き出す事が出来なかった。




翌日の昼休憩、礼は校庭近くのベンチに一人で腰掛け、携帯で物件情報を眺めていた。


学校を出たら、2人で部屋を借りて暮らす。


今はまだ夢のような話だ。

自分の未来すらはっきりと定まっていないのに、こんな事を夢想しているなんて礼自身ばかばかしいと自覚してはいたが、それでも、くすぐったいような幸福感で何度も何度もその夢の切れ端を眺めてしまう。


あまりに熱中してみていた礼は

その背後に篠原が近づいてきている事に気付く事ができなかった。


「同棲でもすんのか?」


そのひややかな声に振り向くと、右頬に保護テープを張った篠原が冷たい笑みを浮かべて立っていた。

街ですれ違ったあの時以来の再会だった。


「カレシすげーじゃん。将来は幹部候補決定?」


そう軽く嘲るように笑いながら、篠原は礼の座るベンチの隣にゆっくりと座る。


「一緒に住んで、働く旦那さんの為にそのかわいー顔と体でご奉仕する気なんだ。健気すぎて、マジ腹筋崩壊するわ」

「……言ってろ」


言い放って立ちあがった礼は腕を強く引かれて、篠原に抱き込まれるようにまたベンチに腰を落とした。

何が起こったかわからず、また立ちあがろうとする礼の耳元で篠原が囁いた。


「あの時、お前が通報しなきゃ俺死んでたんだけど」

「……離せ」

「なんで俺を助けた?」

「助けてない」

「はっ…めんどくせ、どうでもいいけど」


そう吐き捨てるように嗤った篠原は、それでもまだ気だるげに座ったまま、逃さぬようただ礼の手首を握って、今度はさっきより真剣な眼差しで礼を見据えた。

今までに見た事の無いようなまっすぐな瞳だった。


「あいつより絶対良くしてやるから俺のもんになれ」



そんな、命令口調に礼は握られた腕を大きく振って背を向けようとした。それでも篠原はまたその腕をとってその場に礼を引き止めた。


「五嶋が1カ月なんて長い間、純粋にお前だけを想って、節操保つって信じてるのか?そうゆうとこほんと可愛いよなお前は」



そう言って篠原は自分の携帯を礼の目前に差し出した。


その携帯には、街なかを川瀬と国彦が並んで歩いている画像が映っていた。


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