14. 影に惑う
あの雨の日から一週間が過ぎた。
梅雨の間の晴れ間はどこかそわそわと行き過ぎる雲もまばらで、
洗いたての空気は澄んで心地いい。
国彦はいつものように屋上のベンチに腰掛けた。
昨日まで続いた雨のせいでベンチも湿っていたが国彦は気にせずどっかりと腰を下ろす。
空気が澄んでいるからか遠く海がきらめくのまではっきりと見えた。
ざっと強く風が吹いて国彦は目を閉じた。
その風が過ぎ去るのを待っていると背後で屋上入り口の扉が開く音がする。
「くにひこさん!」
聞き慣れた高めの声がして、振り向く間もなく背中にどんと衝撃があり、国彦は少し前に上体をかがめた。
「らっきーひっとりじめー!」
俯いた国彦の目線に赤いくせ毛が毀れるくらい、ぎゅっと抱きついてきたのは予想を裏切らず川瀬当人で
国彦の耳元でくすくすと笑う度、その柔らかい赤毛が目線横で揺れる。
そうしていつものように戯れていた川瀬は、急にその違和感に気づいた。
「ん?あれ、……え?……なんか」
そう言いながら、国彦の前に回り込み今度は胴回りにぎゅっと抱きついて、2、3度腕の位置を変えた。
「まさぐんな、…えっち」
「ちがくて」
「何」
「くにひこさん。何かあったでしょ変わった」
そう確信めいて言った川瀬の、お得意の上目遣いも今回は少しゆらゆら揺らいで動揺の色を帯びている。
「ホールド感が違うの。何か距離あるもん。もっとぎゅっとしてたんだもん」
「なんだよホールド感て…」
そう答えて国彦が笑うのを見て、川瀬はちぇーっと口を尖らせたが突然はっと我に返り自分のポケットを探り出した。
「そうだっ、ねえ」
「ん」
「これ知ってるの?クラスでめちゃくちゃ広まってるよ」
そう言いながら川瀬はいつもの様にベンチの隣に無遠慮にぎゅっと身を寄せて座ると、自らの携帯を国彦の目前に差し出した。
その画面には、梅雨の晴れ間にはそぐわない、モザイク処理された卑猥な映像が流れていた。
『ほらイッてる顔みんなにみてもらえよ…柏原』
そう無機質に響いた言葉だけ国彦の脳内に残った。
「動画と一緒にれーちゃんのクラスまで書いてある投稿もあってさ。なんか、ヤバイなって。雰囲気的にみんな面白半分だし、何か悪さしようなんて奴はいないとは思うけど」
川瀬がどこかフォローするように言った。国彦がそれでも表情を変えずに、いつもの飄々とした顔でその動画を見るので川瀬は恐る恐る聞きたかった本質を国彦に問うた。
「…ね、れーちゃんじゃ、ないんだよね、…これ」
「これれえに見えるか?」
「違うんだ」
「違うよ、全然」
国彦はそう言いながら、頭の中では(確かにそう見える奴がいてもおかしくない)とどこか冷静に考えていた。
一日の授業が全て終わり、国彦は礼のクラスに向かった。
バスケ部に所属している礼があの雨の日からこっちずっと部活に出ていないのは、てっきり自分のせいだとばかり思っていたがそうじゃなかったようだ。
点と線がひとつに繋がりつつあるのを感じながら国彦は、
あの雨の日、放課後の廊下で会ったあの男の嫌な笑みを思い出していた。
「れえ!」
「くにひこ」
ちょうど教室から出てきた礼を呼ぶと、礼の方は少しだけ驚いたように答えた。
しっかりと帰り支度を済ませている礼からは、今日も部活に出るような様子は感じられない。
「部活行かねえの?」
「……あぁ」
礼はそう小さく声を漏らすと、微かに表情を曇らせて俯いた。
それからあまり突っ込まれたくないのか、そのまま目線を合わせず言葉を続けた。
「もう辞めたんだ、部活」
あれほど、チビだの万年補欠だの、
マスコットのような、ある種礼自身が一番屈辱的な扱われ方をしても今まで辞めずに続けていたのは一重にバスケットボールが好きで
純粋に楽しんでいたからで
それをおそらく、辞めざるを得なくなった礼を思うと同調して国彦の胸も微かに締め付けられた。
「なら帰ろ」
国彦の言葉に礼はもう表情も見えぬ程うつむいている。
「?嫌か」
そう聞くと礼は少し顔をあげ、首を横にふった。
寮までの道のりを二人、特に言葉もなく歩きながら国彦はそっと隣を歩く礼を見た。
礼も気付いた様だが、目線を国彦とは反対の方にそらした。
そのせいで見えるうなじが、白くてきれいで
髪の毛が柔らかくさらさら揺れるその首筋が健気で儚い。
国彦がしばらく見ていると、礼が目線を感じて耐えられないのか背を震わせはじめた。
それが楽しくて、国彦がもうわざとらしいくらい身を乗り出して礼をじっと見続ける。
「お前わざとだろ!!見てんな!」
「照れた」
「照れるかよ、バカ」
いつもの礼だ。
どこか少し安心して歩を進めた。
寮部屋に着いて、お互い背を向けて制服を脱ぎながら国彦は静かに礼に言った。
「れえ、湯河原の動画見た」
礼から言葉はなくて、国彦は礼の方を振り向いた。
その背は少し動揺したように、それでもさとられまいと着替えを続けているように国彦には見えた。国彦は自分の着替えを中途のままで礼に続けて言った。
「撮してる奴あの先輩なんだろ。こないだの廊下の」
振り向いた礼は国彦が想像していたより冷静でどこか覚悟を決めたような表情だった。
「くには関わんな、俺がなんとかするから」
「なんとかつってもお前」
「部活も辞めたし、もう会うことないから」
「なあ、れえ」
そう呼んで国彦が礼の手を引き、相対して見つめると
礼はもう、たったここ数日のせいで、どこか自動的にそのスイッチが入ってしまったように力が抜けた。
「…れえ」
「……、…な、に」
冷静に話していたのに、礼のそのあまりの健気さにぐらりと欲望がもたげてきたが国彦はどうにかそれを抑え込むと、礼を静かにベッドに腰かけさせて、
その手首を握ったまま自分は床に腰をおろして目線を合わせた。
「明日からは帰り、今日みたいに待ってるから一人で帰るなよ。あと、昼も一人になんな、一人になるときは俺にメールして、な」
しばらくは、ほかの誰でもないあの男が
礼に近づくのをただ避けたかった。
そう思って言った言葉だったが、国彦の言葉に礼は首を縦にはふらない。
「やだ」
「やだじゃねえだろ、何で」
ぽろりと、我慢していた礼の瞳から涙が零れた。ひとつ溢れたら続けてポロポロと落ちてくる。
それを国彦がぬぐってやると、礼はその手のひらに額をゆったりともたれさせた。
「くに、」
「ん?」
「俺、変なんだ…」
「……何」
「がっこ、いるときもどうしたらいか、わかんねくらい」
「……」
「すき、くに」
「……」
「どうしよ、おれ、……止まんな」
あまりに不憫で愛おしくて、国彦は乱暴になるくらい強く礼を抱き寄せた。
すぐぎゅっと抱きついて応える礼の手のひらと弱々しい声が、また国彦を切なくさせた。
「今もよゆう、なくていっぱいいっぱいなんだ」
「俺も」
「……うそつけ」
「俺もだよ、なぁ、わかる?」
「わ…かんね……」
礼の身体は白くて、上気した体温でところどころほんのりと赤らんで
それどころか今日の礼はもはや従順と言えるほど国彦の行動を受け止めていた。
繋がる前から、鼓動と呼吸が重なってまるで
一つの身体に戻っていくような感覚がした。
突き入れた瞬間、礼の身体がこれまでと全く別のもののようで
快感などと言う言葉では収まらないほど、溶け合わさるような幸福感に国彦は思わず吐息を溢した。
「なんで、れえ噛むなよ腕、声聞かせろ」
「や…ら」
「何、」
「……変な、声出る……から……んッ」
「変じゃねえから、もっと聴かせて」
堪えるような礼の吐息が、聴いたことない甘さで掠れる度、幸福感が更に増していく。
うっすら恐怖すら感じるほど
まるで依存性の高い薬物みたいな危険な恍惚だった。
「ああ、お前どうすんの・・・んなになっちまって、」
罪悪感と背徳感が、国彦のそんな言葉に紛れて沸き上がってくる。互いの境のわけがわからなくなるまで、強く揺さぶる。
「き……すきだよ、くにひこ」
礼がうわごとみたいに言った。
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