第11話 俺達は自殺しない
太陽がじりじりと人間だった尊厳を奪っていく。
小校生くらいのカップルの死体が橋台の根本で手をつないで倒れていた。肉が腐ったことにより死してなお彼らの手は一つにくっついている。うわんうわんとその周りを飛ぶ蝿は子供の叫びのようだ。そのそばには
腐れた死体の悪臭が数メートル離れた鼻先まで届く。彼氏は歯を食いしばって吐き気をこらえた。こんな場所でセックスをするような図太い精神は持ち合わせていない。彼氏は道を引き返し、待たせておいた妹に首を横に振った。
「駄目だ。二つも腐った死体がある。」
「やっぱり。行かなくてよかった。」
妹はスカートのポケットからスマートフォンを取り出す。
「写真でも撮るのか?」
「は? 馬鹿じゃないの。」
妹は冷たいまなざしを向けながら電話をかける。
「死体処理課に電話するんだよ。腐った死体を放置とか気分悪いじゃん。」
妹は事務的に死体処理課に死体の所在を告げ、通話を終える。それを確認した彼氏は青い顔で歩き出した。
「早く行こうぜ。気分悪い。」
そう、と頷いてから妹は珍しく会話を続ける。
「そんな酷かったの?」
「ガキの死体だった。ぐずぐずに腐って蛆が湧いてて最悪だわ。」
「あんたってそういうの平気だと思ってた。」
「馬鹿言え。俺は繊細な男子なんだ。」
「どこがだよ。」
言い捨てる妹の唇はほんの微かに緩まる。
「……ねえ、私達とその子達って何が違ったのかな?」
「俺達は自殺しない。理由はどうあれそれだけだろ。」
彼氏は青い顔のまま舌打ちをする。
「今日は萎えた。セックスする日じゃない。普通にデートしようぜ。」
「勝手にすれば。」
悪阻のような妊娠にまつわる一般的な不調はあったものの、総じて彼女の経過は予想より良好だった。通院は必要だが入院まではせずに日々を過ごす。
小さな命により彼女の腹は膨らんでいく。それをそばで見ていた兄の頭にはもう一度明るい未来とやらが描かれていった。
「君に似ているといいな。」
兄は彼女の腹をさわる。ぴくりと中の胎児が動いたのがわかった。検査によると胎児は女の子らしい。彼女に似た子供の姿を想像して、兄の唇がゆるやかな弧を描く。
「そう? まあそうなったら女性優位の家族になることが決定付けられるね。」
彼女のにやにやとした薄ら笑いに、兄の笑みに苦いものが混じる。とは言ってもそれはまだまだ充分に甘かった。
「原始、女性は太陽であった。そして現在、私が太陽であるってね。安心しなよ、たとえ男の子でも私がいる限り女性優位であることは揺らがないから。」
「その言葉のどこに安心を見出せばよいのか小一時間くらい問いつめたい。」
「全てにさ。別に君の問答に付き合ってあげてもいいけど、そうすると遅れちゃうからね。やめておこう。」
窓の外には夏の気配がたちこめ始めている。二人は手をつないでマンションを出た。今日も世界のどこかで誰かが自殺している。けれど、世界のどこかで誰かが幸せだと笑っている。今日も。明日だって。
新居から兄の実家までは電車に乗っていく。時刻は夕方だというのに夏の日は長く、未だ世界は明るかった。
「なんか懐かしいな。ちょっと前まではこの駅から大学に通っていたのに。」
「やっぱり生活ががらっと変化したからじゃない?」
「そうかもなあ。」
過去を確かめるようにして実家までの道を歩く。カラスがわめいているものの相変わらずなんの変哲もない住宅街だった。トラックが殺人可能なスピードで走り抜けるので、兄は彼女をそっと道の端に寄せる。
二人はトラックの排気ガスを追いかけて歩く。排気ガスの尻尾は捕まえる前に大気に混じり消えてしまった。
「ただいま。」
「おじゃましまーす。」
兄は玄関を開ける。かつての箱庭の守護者は今やこうして箱庭を訪れる身となった。それでも家は以前と何も変わっていない。母親の掃除が行き届いた清潔な小世界だ。
勝手知ったる我が家とばかりにリビングまで行くと母親が下着姿でソファに寝そべっていた。
「どうもお
「あー、いいよいいよ。そんなかしこまらなくて。どうせ名ばかりの母親だからね。というか母親である気もないし。」
「血がつながっていなくても家族である気なかったとしても、それでも家族は家族です。」
「ふうん。ま、そういう言い方もできるかもね。」
よっと、と声を出して母親は起きあがる。
「まあ一応お客様だしちょっと着替えてくる。適当に座って適当に冷蔵庫開けて適当になんか飲んだりしてて。」
兄は言われたとおり、適当に彼女を座らせて適当に冷蔵庫を開けて適当に麦茶を出して二人分コップに入れる。
「ありがと。」
麦茶を飲む彼女ののどが鳴る。その白い細さを兄はぼんやりと眺めていた。
「妹ちゃんいないね。」
「この時間はデートでしょ。そろそろ帰って来るんじゃない?」
「あー。あったね、そういうのー。」
彼女が自分の高校時代に思いをはせていると、申し訳程度の薄着を着た母親がリビングに再登場する。
「あの子ならもう帰ってくるよ。」
「どうしてわかるの?」
「窓から見えた。男に送ってもらうなんて中々やるね。」
がちゃり、と玄関の開く音がした。続けて「ただいま。」と妹の声が聞こえる。
「久しぶり。」
リビングに来た妹に彼女はにこやかに手を振る。妹はそっけなく頷いた。
兄が妹に言う。
「彼氏に送ってもらったんだって? 前は嫌いみたいなこと言ってたけど仲良くなったんだね。」
「別にそういうわけじゃない。今日はたまたま。」
妹はこれ見よがしに顔をしかめる。
「それより私着替えてくるから。」
妹はそう言って自分の部屋に消えた。
「相変わらず素直じゃないなあ。ま、そこが可愛いけど。」
彼女はにやにやと苦笑し、ゆっくりと立ち上がる。
「さ、そろそろ晩御飯作りますか。」
「そうしてくれるなら私は楽だけど駄目ならやるよ。元々私の仕事だし。」
母親は煙草に手をのばし、途中で止める。
「今日は調子いいですし大丈夫です。私の料理を食べてもらいたいですし。あ、でも調理具の場所だけ教えてもらえると。」
「ああ、そうだね。ついでだし少しくらい手伝うよ。」
「ありがとうございます。」
二人はキッチンに行き、まるで家族のように料理を始めた。
彼女は料理が上手だ。ちなみに母親はもっと上手だ。そんな二人が作った料理がまずいはずがなかった。
それを確信しつつも彼女は妹に尋ねる。
「晩御飯どうだった?」
「……美味しかったです。」
「よかった。」
妹の評価に彼女は相好を崩す。妹は仏頂面で敗北の味を反芻することになった。
リビングには妹と彼女しかいない。兄が皿洗いをしている水音がリビングまで響く。それはテレビの音声とあいまって、生活音という証明になった。
「三人家族になってどう? やっぱ寂しい。」
「まあ全く寂しくないと言えば嘘になります。」
「だよね。」
二人の会話が途切れると、急にテレビが自己主張しだす。夜のニュースが全国に向けて淡々と報じられていった。
「あの……」
妹がおずおずと口を開く。
「お腹、さわらせてもらえませんか。」
「もちろん。」
妹は彼女の膨らんだ腹をさわる。それは壊れかけの硝子細工にふれるような繊細な手つきだった。妹は手のひらで小さな命の胎動を感じ取る。
「本当に動いてる。赤ちゃんがいるんですね。」
「うん、女の子なんだ。この子が産まれたら君は叔母さんだよ。だってこの子は君のお兄さんの娘なんだから。」
「もう叔母さんかあ。」
ふわふわと呟く妹の顔を見て彼女は微笑む。
「ねえ、知ってた? 私はあなたのお兄さんを盗ってしまったけれど、私とあなたは家族になったんだよ。」
妹は呼吸を止め、彼女へ顔を向ける。そうして二人は見つめ合うことになる。
「だからこの子もあなたの家族になるの。仲良くしてくれると嬉しいな。」
「……わかりました。」
妹はそれから何度も続きを言いかけてはやめを繰り返し、ようやく言葉にする。
「その……、お、お
「ありがとう。よろしくね。」
それは新しい家族の承認だった。
妹の顔にも笑みが浮かぶ。それから二人はまるで本当に姉妹のように互いのことを話し合った。
お風呂からリビングに戻ってくると、彼女と妹により仲睦まじい世界が形成されていた。母親は怪訝そうに問う。
「何かあったの?」
「ちょっと仲良くなった。」
「ああ、そう。それはよかった。」
妹の返答に母親はあっさりとテレビのニュースに関心を向け、盛大に眉を寄せる。
「っと、これはやばいかも。」
「何がです?」
ニュースでは春に騒ぎになった大手製薬会社の不祥事が再燃していた。自殺志願者に蔓延っている青い薬の製造に関与している疑惑が発覚したのだ。
「我が家の父親様はさ、ここに勤めてるんだよね。」
妹は春頃から父親の顔をほとんど見ていないことに気がついた。
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