第10話 熟した林檎が落ちていく

 朝のニュースは大手製薬会社の不祥事を騒ぎ立てていた。


 妹はそれを聞き流しながらシリアルに牛乳をかける。ニュースをリビングに垂れ流すのは時計代わりでしかない。それは妹がひとりで朝食を取るようになってからも惰性となって続いていた。


 冬が死に絶え春になったというのに、妹しかいないリビングは寒々しい。テレビの騒音とシリアルを咀嚼する音だけが響く。


 朝のニュースは妹が食べ終えてもまだ製薬会社の不祥事を取り上げている。少女の自殺も前の父親の自殺も彼らが自殺した日から今日に至るまでなんのニュースにもなることはなかった。だけど今日も誰かが自殺している。


 妹が朝食の片づけをしている時になって、ようやく母親がリビングに現れる。


「おはよう。ああ、洗い物は別にしなくていいよ。後でまとめてやっておくから。」

「わかった。ありがと。」

「あと今日の夜何食べたい? なんかアイディア切れって感じだからリクエストあるなら検討するけど。」

「……ビーフシチュー。」

「ビーフシチューかあ。まあいいよ。それにするか。」


 母親はあくびをして、テレビに視線をやる。ちょうどCMに切り替わったところだった。うるさいのでテレビを消す。


 それから妹は登校の準備を整えてひとりで家を出てった。


 母親は妹にならいシリアルで軽めの朝食を取る。そして一通りの家事をしながら、今日家に来る相手にビーフシチューの材料を買ってくるよう細かく指定したメールを送った。


 微睡むくらい生ぬるい時間が経過してから、母親の待ち人がやってくる。大学生くらいの男だ。整髪料で固めた髪形に小洒落た服装をしている。ファッション雑誌に載っていそうないでたちだ。その手にさげられたスーパーマーケットのビニール袋がミスマッチでしかない。


 母親はビニール袋を受け取って冷蔵庫に材料をつめていく。


「ねえ、急にこんなもの買ってこいなんてどうしたの?」

「娘がビーフシチュー食べたいって言うから。」

「へえ、なんかまともな母親っぽい。」

「そう? セックスフレンドに夕食の材料を買ってこさせる母親がまともとか、私はそうは思えないけど。」

「そうじゃなくて娘のリクエストに応えようってとこがだよ。なんか興奮するわ。」


 男は母親の背後からやわらかな肉体に密着して、服越しに胸や尻にさわる。その乱暴な愛撫にも母親の肉体はその意思とは関係なく反応し、じわりと熱を帯びていく。


「ちょっと、早いっての。ここキッチン。」

「いいじゃん。今日はここでしようよ。料理作りながら裸エプロンとかしちゃってさ。たまにはそういうプレイもありでしょ。」


 男は母親の顔をのぞきこみ、深いキスをする。


 ビーフシチューの仕込みなら早いうちにするにこしたことはない。さっさとキッチンで致すのはむしろ母親に好都合とも言えた。


 そんな言い訳を唾液と一緒に飲みこめば、母親の理性は肉欲にあぶられてすぐに溶けて消えてしまった。




 夢のような幸福は夢のように終わる。それはきっと熟した林檎が枝から落ちることくらいには自然なことだ。


 彼女の体調が悪化していったのは新居に引っ越してから数ヶ月経った頃だった。頑なに大丈夫と笑う彼女を無理やり病院に引っ張って診察をしてもらう。


 一通りの検査を終えて診察室に入ると、産婦人科の医師が難しい顔でカルテを読んでいた。兄はごくりと唾を飲みこむ。段々と重たくなっていた胃がさら重たくなった。


「あまり良くない状況です。」


 銀縁眼鏡のつるをさわりながら医者が口を開く。


「それって……」


 兄が自分の声が震えていることに気づいた。


「それってどういうことですか。」


 医師は磨かれた石材のような滑らかさをもって説明していく。

 曰く、彼女の身体は遺伝的特性により出産に向いていない。このまま出産を敢行するのであれば母子の生命にも危険が及ぶ恐れがある。医師としては堕胎も選択肢の一つとして検討してほしい。現代には試験管生殖や人口配分課による子供の配給もあるから必ずしも出産にこだわらなくてもよい。云々。


 医師の一言一言が兄の描いていた未来に突き刺さり、息の根を止めようとしていく。


「先生。」


 しかし彼女は診察室に入った時から毅然とした態度を崩すことはなかった。


「この子を殺さないためには産むしかないのですか。」

「そうなります。帝王切開や未熟児の時点で出産するなどの手段の違いはありますが産むしかありません。」

「じゃあ私産みます。」


 彼女ははっきりとそう告げた。その姿は紛れもなく母の姿だった。




「ごめん、実はこうなるかもなって思ってた。」


 彼女はベッドの中で謝罪する。子供を産むと宣言した時と比べてその表情はずっと弱々しいものだった。兄は彼女が消えてしまわないようにそっと抱きしめる。確かな手触りと温もりが伝わる。


「私の家って両親めっちゃ仲いいでしょ。」

「うん、まだラブラブなのってレベル。」

「でも子供は私しかいないよね。産めばちゃんと補助してもらえるご時世だよ。不思議に思わなかった?」

「言われてみればそうだね。気づかなかった。」

「私のお母さんも子供を産むのは厳しいって言われてたの。それでもお母さんは私を産んでくれた。でも二人目は駄目だった。だから私しかいないんだ。」


 彼女は兄の胸に顔をうずめ、少しずつ膨らんできた腹をなでる。そこには兄と彼女の遺伝子を引き継いだ子供が入っている。


「もし私がこの子を見捨てたら、私のお母さんが私を産んでくれた覚悟を、努力を否定することになっちゃう。君の子供を殺すことになっちゃう。ねえ、やっぱり命は重いよ。自分が死ぬって怖さと天秤にかけてみても傾くのは命のほうだ。」


「僕は……」


 兄はゆっくりと言うべき言葉を探す。


「僕は君に死んでほしくない。ごめん、きっと僕は薄情で想像力のない冷たい人間なのだろう。人の命は平等じゃない。いや、まっさらな人間だけを見るならその命は平等なのかもしれない。けれど人は社会の中で生活し、意味づけされて生きていく。その意味づけはそれを読む人によって内容も価値も異なる。僕にとって、大切なのは目の前にいる君で、僕らの子供はその次なんだ。」

「つまり、産むのは反対ってこと?」

「反対したい。」


 兄は彼女の瞳を見つめた。現実と向かい合う兄の目から涙が零れる。


「でも、反対したって君は自分の意見を変えないだろうし、僕だって、僕だってわかってる……! 僕らは家族になろうとした。子供を見捨てるのは僕らの自殺だ……」


 兄はゆっくりと嗚咽を漏らした。やがてそれは明白な泣き声に変わる。


 兄の腕は彼女の体をいっそうきつくかき抱く。過去にあったように。今ここから消えないように。そして未来で失わないように。


 彼女も目の縁に涙をためながら最愛を抱きしめ返した。


「ありがとう。」

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