第13話 "こたえ"

「リョウ、ダメじゃない!もう七時近くよ!いくら日が長いからって沈むまで遊んでちゃいけません……って、ちょっと、ただいまくらい言いなさい!」

 

母の怒鳴り声で、リョウははっと我に返った。慌ててただいまと言い、一呼吸おいてごめんなさいと謝った。

 

「もう、これからは早く帰ってくるのよ?」

 

しかし次の瞬間には、また母の声はリョウの耳をすり抜けていってしまう。

 

それくらい今のリョウは混乱していた。いや、それも違う。彼はただ呆然としていた。何年も放置された自転車の、錆び付いたチェーンのように、彼の思考はただ固定されていて、本来あるべき回転という機能をすっかり忘れてしまっていた。

 

次に自分の意識にはっきりと気づいたときには、リョウは自室のベッドの上にいた。何も考えられないのに、腹は減ってしまうもので、夕食は既に済ませていた。だがそれも美味しくはなかった。いつもは温かく感じる母の料理が、今日だけは冷えきったものに感じられた。


どうする?リョウ。

何を?何を、どうするっていうのさ。


いくら自らを問い詰めようとも、返ってくるのは何の解決にもならない幼稚な答えばかりだ。そりゃあそうだ。だって僕は何者でもない、ただの小学生五年生だ。リョウはそうやって、自嘲気味になると、枕へと顔を埋める。

 

こんなことになるなんて思っていなかった。月曜日まで、確かに僕たちは普通に暮らしていた。何事もなく、ただ流されるように、平和な世界で生きていた。

 

そして、気がついてみたら、流れ着いたのはどうしようもなく広大で、果てしなく暗い闇の世界、深海。

  

そこには光はない。どちらが上か下かももうわからない。ただもがいてみても、的外れな方向に進むだけかもしれない。光からより遠ざかっていくだけかもしれない。

 

少年の豊かな想像力は、今はただ少年を絶望に陥らせる不治の病でしかなかった。考えを止めようとも、逃げ道はどこにもなかった。

 


 

少年を光の差す現実に引き戻したのは、トントントンと部屋の扉を軽く叩いたノック音だった。

 

「おーい、リョウ。いるんだろ?開けてくれよ」

 

そう明るい声で話しかけてきたのは、他でもないリョウの父だった。リョウはベッドから体を起こし、背を曲げたまま部屋の扉を引く。

 

「ま、ちょっと話があってな。別に今日遅く帰って来たのを怒るわけじゃないぞ。気分を悪くしないでくれ」

 

そんな風に言ってリョウの父は部屋に入ってきた。リョウはなんだか不思議に思った。と言うのも、父と二人っきりで話すのも大分久しぶりに思えたからだ。急に何しに来たのかと、不思議に思わずにはいられなかった。

 

「えっと、何しに来たのさ」


その声を聞いて、何かを感じたのか、リョウの父は彼をじっと見つめた。それもやはりリョウには何だかおかしく感じられた。そんな困惑の表情を浮かべるリョウに父は真剣な面持ちで話しかけた。

 

「いや、リョウ、最近何だか元気無いと思ってな。何か学校で嫌なことでもあったか?」

 

その通りだとリョウは言いたかった。しかし、父の心配している"学校で嫌なことがあった"はそういう事ではないということにもすぐ気づいてしまってた。確かに学校で嫌なことはあった。でもそれは喧嘩とか仲間はずれとかそういうベクトルのものではない。もっと現実から離れた、真逆のベクトルを持つものだ。

 

「いや、何にもないよ」

 

そう言った少年の声は明らかに沈んでいた。

 

「何にもないとは思えないけどな。だけど別に、お前が言いたくないなら、無理して言わなくても良いんだ」

 

リョウの父はそう言うと、少しの間黙っていたが、やがて溜め息をつくとリョウの方を向き直し口を開いた。

 

「リョウくらいの年だった頃、父さんにもいろいろ悩み事はあったさ。それこそ抱えきれないくらいのな。でもそんな時、友達や親や先生がその悩みを聞いてくれた」

  

父はそのまま、穏やかな口調で話を続けた。

 

「リョウ、一人じゃ重すぎて立つことも出来ないようなものだって、二人で分ければ立ち上がれるようになる。三人で分ければ前に進める。四人で分ければ走り出せる。そして"こたえ"にたどり着く。そうやって人は何でも分け合ってくもんなんだ。だから辛いときは無理しないで何でも話してくれよ」

 

父の優しい声が、言葉が、リョウの閉ざされた夜の世界に光を注いでいく。少しの間の後、リョウは笑顔で父に言った。

 

「ありがと、お父さん」

 

それを聞くと、父は顔をくしゃっと歪ませ、照れくさそうに笑った。

 

「ふっ、まあ父さんもたまには父親らしいアドバイスくらいするさ。ま、今日は早く寝ろ。何かあった時は寝るってことも大事だ。頭がスッキリするからな」 

 

じゃ、と手を振って父はリョウの部屋から出ていった。リョウはその後ろ姿をじっと見つめていた。



 

六月の雨雲は段々と姿を消し始めていた。少年の部屋のカーテンからは、月明かりが差し込んでいる。次の季節の足音が、蝉の声が、遠くで聞こえる。もうすぐ、夏が来る。

 

その夜、少年は考えていた。

これからのこと。

それはユウカのこと。

それはレクとダイキのこと。

そしてそれは、自分のこと。


皆いなくなってしまうのだろうか。いや、きっと始めにいなくなるのは自分だ。野球帽の少年は狙われているのは僕だと言っていた。ならやはり、自分が犠牲になれば良いだけの話なのではないか?

 

何が正しいかはわからない。それを見分ける力なんか自分にはないことくらいわかってる。

 

でも、今知っている限りでは、これが一番正しい"こたえ"だ。

 

 

 

少年は覚悟を決めた。

 

「僕がここからいなくなる、それだけの話だ」


そして同じ頃、二人の少年もまた、彼らの"こたえ"を見つけていた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る