other side2:暗躍
「さて、影使い君から逃げてきたけど……どうやらそのまま帰るわけにもいかないみたいだ。向こうの方、風が少し騒がしい」
大きな絵筆を背負ったベレー帽の少女は、家々の屋根を渡り、とある公園に辿り着いた。
「あらら、いくら空間を隔離してるからって、こんな所で派手にやってくれちゃって……、ん?」
ベレー帽は空間の中へ遠くから干渉している存在の気配に気付く。そしてその気配のする方に近づいていった。そこには一人の少女が立っていた。
「あ、君どこかで……というか、何で直接空間に入らないのさ?」
ベレー帽の問いかけを無視する少女。その気持ちを察したのか、ベレー帽はそれ以上問いかけるのをやめた。
「じゃ、君の代わりにあの子たちを助けてきてあげようかな。ちょっと面倒だけど、まあ私にも助ける理由はあるしね」
溜め息を吐き出し、ベレー帽はゆっくりと絵筆を構える。そして、空中に素早く自らの影を描く。
「
すると、ベレー帽の周りの景色が歪み始める。数秒の後、彼女は再び公園に立っていた。しかしそれは先程までの静かな夕暮れの公園とは全く異なる色を映していた。
ベレー帽の目の前では、深い黒髪の少年が凍る手足を溶かしながら叫んでいた。
「へえー、まさか一日の内にこんなに仲間が増えるなんてねえ」
ベレー帽はクスクスと笑い声を立て、少女たちを眺める。そして、彼女たちに近づいていく。
その時、少年が何か喚いているのがベレー帽の耳に入った。おそらく外から彼の妨害をしている彼女に向けてのものだろう。
それに応えるように、ベレー帽は少年の前に立った。そして、遅れてやってきたヒーローのような台詞を吐き捨て、再び筆をとった。
こうして、隔離された空間の中に、さらに二人きりの隔離された空間が作り出された。そこはベレー帽の少女のパレットの上。混じりけのない混沌と、七色のモノクロが支配する世界。
「二重に空間を隔離だと……!お前一体何者だ!何をするつもりだ……」
ふふ、と不敵な笑みを浮かべ、ベレー帽はゆっくりと口を開く。
「それはこっちが聞きたいな。何で君は彼女らを襲ってるの?」
それを聞くと少年は貴様には関係ないだろうと言い、飢えた獣の如く、激しく睨み付ける。
「ふーん。まあ答えてくれないなら実力行使に出るしかないよね」
そう言ってベレー帽は筆を構える。彼女はその伸びた前髪の間から、少年の鋭い眼光をものともしないような、むしろ、嘲笑うかのような目付きで彼を見ていた。
「おい。俺の仕事を邪魔した以上貴様には名乗る義務がある。言え」
高圧的な態度を崩さない少年に、ベレー帽は面倒だと頭を掻きながらも、その笑みを崩さないまま答える。
「どうしようもなく気分屋な、ただの絵描きだよ」
絵描き……その言葉に少年は聞き覚えがあった。そして、少年は思い出した。自分を雇った男がしていた話の事を。
『絵描きには気を付けてくれ。彼女も私が雇ったエージェントだが、少々自由過ぎる所がある。君を雇ったのもそれが原因だ』
ああ、つまりそういうことか。少年は手に冷たい汗を握り、目の前の少女───"絵描き"を、睨み付ける。
「あれ、もしかして私の事知ってる?まあ、そうだよね。君もあのオジサンに雇われたんでしょ?」
少女は笑みを崩すことなく、また、全く戸惑う様子も見せず、少年に歩み寄っていく。少年は無意識に後ずさりした。だが、すぐに我に帰り、少女に向けて拳を構える。
「まったく、あのオジサンにも困っちゃうよね。私の知らないうちに勝手に別の作戦を立ててたなんてさ。急いだって仕方ないのになあ……」
少女は淡々と語りながら、距離を詰める。筆はずるずる地面に擦られながら引きずられている。少年には無防備であるように見えた。しかし、迂闊に自分から手を出す気にもなれなかった。
「あれ、何もしてこないんだ。じゃ、私からいくよ」
少女は素早く筆を構え、少年の背後に回り込む。そして、筆の先に白の絵の具を纏い、それを
「
すると、叩き付けられた絵の具は宙を舞う斬撃となり、少年に向かって飛ぶ。間一髪の所で少年はそれを避ける。斬撃はそのまま少年の横を通り過ぎ、地面に白い傷跡を刻み込む。
「くっ……やはり一筋縄ではいかないようだな。ならばこちらからもいかせてもらう」
少年が咆哮すると、隔離された空間が軋み、揺れ、亀裂が生じる。パレットの上の世界に、獣が現れたように、少年の全身から激しく深い漆黒の気が湧き出す。
「漆黒蹴
少年の全霊を込めて打ち出された蹴り技。それは空しくも、ベレー帽の横を通り過ぎていった。
「な……何だと?」
「あれ?当たらないねえ。どうしてかなあ」
道化じみた口調で言うベレー帽。それに怪しさと苛立ちを感じないはずもなく、少年はいきり立った声を抑え、ベレー帽に言う。
「貴様……何をした」
それに対してベレー帽は何もしてないよと答え、いかにも適当にやっているかのように筆を振り回す。そのでたらめな動きから生まれる白い刃を避けながら、少年はベレー帽の隙を探す。
今だ。少年はそう確信し、再び全力で蹴りを放つ。しかし、それはまた大きく軌道を反らし、ベレー帽には傷一つ付かない。
「何故だ……何故俺の攻撃が当たらない!」
少年はその後も、何度も何度も蹴りを繰り出すが、ベレー帽に当たることはなかった。
「いやー、なんか君が可哀想になってきちゃったなあ。種明かしをしよっか?といっても私は本当に何もしてないんだけど……」
ベレー帽はそう言うと筆を空高く掲げ、自分の頭上で何度か振り回した。
すると、少年の瞳に今まで見えなかったものが映し出される。ベレー帽の周りに、七色の光を放つ粒子が浮かんでいた。
「まさか……貴様、"魔法使い"なのか……!?」
ベレー帽はその言葉に答えず、ただ笑みを浮かべたまま、少年に向かって筆を振り下ろした。
次の瞬間、少年は消えた。
「バイバイ、名前も知らないエージェント君」
いつの間にか、隔離されていた空間は元に戻っていた。夕陽はもう既に沈み、藍色の世界が広がっていた。いつも通り、闇に溶け込んだ色の烏が鳴いていた。
「あー疲れた。今度こそ本当に帰れる」
そう呟くと、少女も闇に溶けていった。一羽の烏が、それに手を振っていた。
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