随筆 『考えるキカイ』

 しかし、コンピューターという物のなんと便利なことか。

 この四角い箱の中にいったい何が入っていて、どんな理屈でもって動いているかなどというのは皆目見当もつかないが、しかしこれは何にでもなるのだ。

 たとえば、いまこうして書き物をするに当たって、これは紙とペンの代わりになってくれている。それと同時に、ど忘れした漢字を調べるための辞書であったり、文章のお手本が欲しいときの、応急的な代替品にもなる。

 まあ、後者に関しては、コンピューターというよりもインターネットという部分の恩恵であるのだが、何にしろ、受信機器がなければどうしようもない。この際だから、この文章中においては、スマートフォンであったりタブレット端末であったり、そういった物も含めて「コンピューター」ということにしていただきたい。

 とにかく、ありとあらゆる情報がたやすく手に入る。それに加えて、こちらから情報を送り出すことも出来る。この点において(個人的に)もっとも便利だと思うのは、やはり買い物に使えるということだ。これはまあ、言うなれば電話の代わりということになるのだろうが、店屋物の出前を頼むことや、気になった本を注文したりするにも、やはりこちらの情報を伝えることが必須であるのだ。結局「何を、いつ、どこに」届けるのか分からなければ、売り手だって売りようがない。

 ところで閑話になるが、「店屋物」という言葉が死語になっているという説があるのに驚いた。べつになくなって困るような言葉ではないが、そうなると、いまは「出来合いの物」とか、単に「出前」とか、あるいは横文字で「デリバリー」という風に言うのだろうか。

 話を戻す。情報の受け取りと発信が思いどおりに出来るのは、上に記した。されど、このコンピューターという物の利便性は、まだまだ遥かに語りきれない。

 これがスマートフォンなら、写真を撮ったり、音楽を聴いたり、あるいは様々な情報のやり取りをするのに活用されているのだろう。タブレット端末というものはよく分からないが、最近では、催し物に際してパンフレットに活用されたり、何らかの申し込みを行う際の書類代わりなど、よりフットワークの軽いパソコン、というような位置取りになっているらしい。

 もはや、「コンピューター」に出来ないことなどないのかもしれない。

 そんな風に思う反面、では車の代わりに人を運べるか、湯を沸かすのに使えるか、せっけんのように汚れを落とすことは出来るのかといったような、意地悪な考えが、すきま風となって頭を横切る。

 恐ろしいのは、そのうち、もう百年も経つと、せっけんの代わりさえするのではないか、というほどの底知れなさ。それと、その見えない底に、足を付いて立たなければ生きられないという、自分自身の堕落への受容である。

 いまさら「コンピューター」を手放すことなど、私には出来ない。されど、それが「健康な身体」の代わりをしてくれるようになるまでは、ときにあらゆる画面から目を離し、精神と身体を休め、また鍛える時間というのを、しっかりと取るべきなのだろう。

 言うは易しであるけれど、こうして形にでもしなければ、私はそれを考えようともしない。ゆえに、ここに記し、残しておくことにする。

 いつかこれを見直したとき、私が、私自身の代わりを欲していないことを、心から願う。

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