第3話
家の鍵を開けるなり俺を押しのけて詩織は一番乗りで家に入った。どうやら掃除の時間を与えてくれる云々の話は嘘だったようだ。別に困らないからいいんだけど、つまらないと後で文句を言われるかもしれない。それこそ知ったことじゃないが。ただし、
「おい、走るな。下の人に怒られる」
廊下をペタペタと走ってリビングに向かう詩織に一応注意する。が、当の詩織はどこ吹く風でテレビの前に置いてあるソファに飛び込んだ。俺の部屋の安寧は守られたようだ。しかしまあ、よくもそこまで他人の家でリラックスできるものだと呆れを通り越して感心してしまう。涼介は詩織の靴まで揃えてスリッパを履き俺の部屋に入っていく。
「っておい、ちょっと待て。なんで部屋に入ろうとしてんだ」
「え?そういう話だったろ?」
涼介はさも当たり前の常識を確認するかのようにそう言った。安寧がまたも脅かされそうになっている。
「いやいや、リビングでいいだろう。もうくつろぎ始めてるし」
詩織は二人座りのソファを占領するように横になっている。とてもスカートを履いている女子とは思えない格好だった。勝手にブルーレイを起動していて、もうテコでも動きそうにない。この状態の詩織を動かせるのは彼女の母親か涼介かうちの姉くらいのものだろう。
「そーそー。それにわざわざそんな狭いところに三人で入らなくてもいいでしょう」
「別に一人で使う分にはいいだろ、四畳半」
「一人でも狭いよ。だって、ベッドと本棚を置いただけでほとんどのスペースを使っちゃってるじゃない」
確かにそれは事実だった。ベッドは二段ベッドの下段ベッドがないような構造でベッドの下のスペースに机や棚を置いている。くつろぐ用の机や人をダメにするソファはたとえ小さいものでも置けないだろう。寝っ転がれるスペースだってない。
反論するのが面倒くさくなった、もとい、言い返せることがなくなったので俺は会話を切り上げてコーヒーを淹れるために台所に向かった。
◆◆◆◆◆
着々と買ってきたお菓子が減っていく中、ドアが開く音がした。
「ただいまー」
バイトのはずなんだけど、今日は早番だったのだろうか。姉が帰ってきた。
この声を聞いた詩織はソファに横になって乱れた制服を整えて、リビングから玄関につながる廊下のドアに駆け寄る。
「走るんじゃねえよ」という俺の声は多分届いた上で無視された。
「おかえりなさーい」
「わー、詩織ちゃん。来てたの⁉︎言ってくれればもっと早く帰って来たのにー」
姉はすり足で廊下を走ると詩織の少し手前から飛びつくように抱きついた。抱きつかれた詩織は一瞬苦悶の声を上げたが、上機嫌な笑顔を保っている。
姉はパッと詩織から離れると詩織を上から下まで見回して「新しい制服も似合ってて可愛いね」と言った。褒めることに照れがないのは男女の違いなのかそれとも人間性の違いなのか。
褒められた詩織はこっちを向いてふっと得意げに笑った。イラっとする仕草だった。
「愛莉さん。お邪魔してます」
姉がリビングと廊下を隔てる戸まで来たときに涼介は立ち上がって声をかけた。硬い声だった。
「ああ、涼介もいたのね。ちょっと荷物置いてくる」
姉は涼介の挨拶を適当に流して部屋に戻っていった。野郎の制服姿には微塵も興味がないのだろうか。その気持ちはわからなくもないが、それにしても冷たい対応だ。
場の空気が一気に気まずくなった。少し煩わしい電子機器の小さな音がいつもより気にかかる。なんの音かもわからない音が頭に入ってくる。姿勢を変える時の床のミシッという音。
「コーヒー飲む?」
「飲む」
姉の分のコーヒーを淹れることを口実に俺はその場から撤退した。戦略的でもなんでもない、ただの敗残兵の姿である。
手動のミルで豆を挽いてペーパードリップでコーヒーを淹れる。姉の分とついでに高校生組のお代わり分。四人分は正直面倒だった。
「和樹カフェ、金とってもいいくらいだぜ」
「三十円?」
ハッハー。詩織さん、値段設定がシビアですね。
「和樹カフェ、アンバサダーは募集してないです」
別に豆は親が買ってるし、ガス代だって親が払ってるから三十円でも十分利益が出るんだけど。せめて百円くらい欲しいかな。コンビニに勝ちたい和樹カフェです。
「学校には馴染めそう?」
机の上のお菓子をつまみながら姉が話題を振る。
「まだ始まったばかりだからわからんな」
実際話をしたのは周辺の席の人らだけだ。会話をしていない人の方が多い。涼介と詩織は積極的に会話をしていたが、会話の持つ意味合いはだいぶ違うだろう。涼介の方は単純に親睦を深めている感じだったが、詩織の方は壮絶な腹の探り合いと牽制だった。あれで仲良く行動とかできるんだろうか。まあ、涼介がマジカルパワーでなんとかしちゃうのかもしれない。
◆◆◆◆◆
その後、適当に雑談をした。何を話したのかは覚えていない。まあ、雑談というのはそういうものだ。雑談しているうちに冷めてしまったコーヒーを飲み干して、詩織と涼介は帰っていった。
外はすっかり暗くなって、そろそろ夕飯時である。母親はまだ帰ってきてないから夕飯まで後一時間くらいだろうか。そこまでお腹は空いていない。お菓子食べてお腹いっぱいなんて言ったら母親にぶっ飛ばされるので、ある程度お腹を空かせなきゃなあ、と思って俺は散歩に出かけた。
この辺りには、何もない。何もないなんてことは実際にはなくて、本当は所狭しというほどじゃないにせよ家があって、マンションがあって、アパートがあって、学校があって、スーパーがあって、個人経営の店々があって、薬局があって、病院があって、ファストフード店があって、ファミレスがあって、涼介の家があって、詩織の家がある。何でもはなくても何にもなくはない。そもそも何もない街なんて街とは言わないんだぞ東京人、と俺は頭の中にもやもやと浮かんでくる架空の人種に文句を言った。テレビに映るあいつらは好き勝手にいうが、あいつらはキリスト教が教えるところの隣人愛を知らないに違いない。熱心なキリスト教徒ではない、むしろ無神論者の俺でも知ってることを奴らは知らないのだ。知っていて無視してるならなおタチが悪い。たまたま生まれた場所が東京だったやつらが、地方から東京に引っ越してきたやつらがうちの県をとやかくいうんじゃねえ。この県に引っ越してきたやつらのことは知らねえが、この県生まれのやつらはちゃんと郷土愛があるんだよ。ああもうこの県っていうのめんどくさいな。埼玉だよ。埼玉。郷土愛ランキング最下位とかいちいち言うんじゃねえよ。ぶっ飛ばすぞ。
あっ、架空の人に言ってるんで、気にしないでくださいね。
何があるわけでもなく、何かがある街を歩き続ける。ぼんやりと、当て所もなく。ふらふらと。途中に何人か知り合いとすれ違ったが話しかけなかった。向こうも話しかけてはこなかった。目があったので間違いなく認識していたはずだ。それでも話しかけなかったのは涼介がいなかったからだ。俺にとって涼介と詩織は友達で、それ以外は友達の友達だ。友達の友達は友達!なんて馬鹿なことを言う奴もいるがそんなわけはない。友達の友達が友達ならそんな迂遠な表現はせずに、ただ単に友達と言えばいいんだ。それをしないってことはそれは友達じゃないんだろう。友達の友達は良くて知り合い、大半は他人。それが普通。それが日常。見かけても挨拶もせずに──会釈くらいはするかもしれないが──すれ違うのが普通だ。よっ友なんて言葉も最近はあるようだが、そんなものは友達とは言わない。友達っていうのはだから、涼介と詩織のことで……。
こうして思考は堂々巡りを繰り返す。
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