死亡記録

星野 驟雨

死因

 神は死んだ。

 途端、私も死んだ。

 つまり私が神である。嘘だ


 世の中に神なんてものは、それこそ紙の上でしか存在を確認できない。それを見えない存在として崇拝するのが宗教であるが、生憎宗教に興味はない。

 妄信するほど神々は完全ではないし、その実とても人間的だから、それを超越的存在として扱ってしまうのは癪なのだ。盲信と妄信のハイブリッドほどひどいものはない。

 しかし、そんな人間様のカタチでどこかエロティックにさえ扱われる存在に縋ってみたくなることもある。神頼みというような後悔と同じくらい都合のいい行為だ。

 神頼みというのは実に多様性を持っていて、自身の実力を省みず、努力したことも投げ捨ててただ結果を託すという側面や、反対に自身のすべてをもってして生まれ来る結果を待つという側面がある。それこそ神様みたいなものだ。

 そう考えると私たちが神様というのはあながち間違いじゃないかもしれない。

 戦士は相手の慢心と自分たちの実力が生み出した逆転劇を神の御力と考えるし、ありとあらゆることの責任の所在を神に投げうって自身の実力を不透明なものにしてみたりするし、その様は様々変化する神様のようではないか。ご都合主義なところもだ。


 こんなことを考えているのは大学入試の試験中である。

 なぜそんなことを考えているかといえば、わからないからである。

 鉛筆を転がしてみるという可能性の帰結するところは運動法則とエネルギーだし、それを神に例えてみるのは実にディストピアチックであるし、どうしたものかと思案した結果がこれである。

 神は法則に、法律に、経験に、科学に、偶像に成り下がり、死んだ。

 そして私も模試のようにスラスラと解けるわけでなく、魔物に食われてしまった。

 神様に成り上がって世界を崩壊させてやろうかと思ったが、崩壊するのは内心の世界のみだったので、嘘という定義で人間に戻った。

 まったくこの世界には神が存在しない。神頼みするにしてもやりようがない。

 あの赤本を完璧に解けたのにどうして上手くいかないのか。

 そんな考えが解答用紙上に透明な字で答えを並べる。

 人間をみる神の気分もこんな感じだったのだろうか。

 

 鐘が鳴る。私も神も共倒れ。

 さあ、ここからは新時代――。嘘だ。何も始まらない。

 今のは終わりの鐘だから。

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死亡記録 星野 驟雨 @Tetsu

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