第3話 予想通りの結果
その夜のことだった。
カーテンの向こうから森下さんが苦しむ声が聞こえる。
ナースコールに応じて、看護師が飛んできた。
「森下さん、どうされました!?」
「お腹が……すごく……痛い……」
「すぐに先生呼んで!」
「すぐ先生が来ますからね、大丈夫ですよ」
「はい……」
当直の医師が病室に駆け込んできた。
「バイタルは?」
「血圧100の60、体温37,4℃、脈拍105で、嘔吐も見られます」
「わかった。森下さん、お腹がどう痛い?」
「キリキリします……」
「今日お通じは?」
「……ありません」
「今からお腹をちょっと押して、パッと離します。
このとき痛むかもしれない。少しでも痛かったら言ってね」
「はい……うわ、痛いです……」
「……うん、ポータブルX線を今すぐ持ってきて。あと腹部エコーとCT、大至急オーダー」
「それから補液。ルートから乳酸リンゲル500ml。IVHの準備も」
「森下さん。もしかしたらお腹が詰まっちゃったのかもしれない。
今からやる検査でそれが分かるんだけど、そうだったら手術しなきゃいけない」
「お願い……します……」
それから森下さんはストレッチャーで運ばれ、翌朝も戻ってこなかった。
1日、2日。
森下さんは病室に戻ってこない。
一週間が経った頃、彼女は戻ってきた。
頬はこけ、髪のつやもくすんでいる、
「なんとかなったみたいです」
「とりあえず良かった……」
「けど、しばらく歩けません。せっかく用意は出来たのにね」
壁には用意したワンピースと麦わら帽子が掛けられていた。
「これ、私が一番好きな服なんです。女の子らしいでしょ?」
森下さんはそう言って微笑んだが、俺は同じ気持ちにはなれなかった。
入院からひと月が過ぎた。
説明室で俺は医師から病状を聞いていた。
「うん、これなら問題ないでしょう。今週末で退院してください」
「ただし月に一度は検査と薬を取りに通院してくださいね」
「わかりました」
「不謹慎かもしれないけど、良い結果で本当に良かったです。
薬が効かなかった場合、今の医学だと力が及ばないんです」
「……そうですか。薬を飲めばそれなりに日常生活は送れると」
「はい、でもあまり無理はなさらないでください」
「はい、養生しながら生きていきます」
一礼して病室に戻る。
森下さんはリハビリの甲斐もあり、点滴棒を支えに歩けるようになっていた。
「どうでしたか?」
「今週末で退院だそうです」
「それはおめでとうございます! あの、あの日の計画、退院の日にやりませんか?」
もっと夏らしい服で写真を撮りたい。
そして、覚えていて欲しい。
「良いですね、でも中庭まで行けますかね」
「先生に頼んで許可を取りました」
「なら……やりましょうか」
そして幾日かが過ぎ、退院の日はやってきた。
それまでの間、森下さんとは多くの話をした。
初めて失恋して一晩中泣いたこと。
逃げた彼氏を恨んでなどいないこと。
特別楽しい人生でもなかったが、不幸ではなかったこと。
明らかにつらそうなのに、森下さんはどうしても話したがった。
私のこと、忘れないでください。そんな思いが伝わってきた。
「どうでしょう。私のこれまで、普通でしょう?」
「そうですね、良いことも悪いこともありましたね」
「でもそういう経験からか、私からはすごく魅力的な女性に見えます。本当ですよ」
「付き合ってみたいですか?」
いたずらっぽく笑いながら彼女はすっと身を寄せてきた。
「はい、付き合って欲しいです」
「月島さん、ちゃんと言えたじゃないですか」
森下さんはそう言って、俺の胸に顔を埋めてきた。
やさしい香りがした。
小さい顔、大きな目。長い髪、長くない命。
なんとはかない人なのだろう。
「今しかチャンスはないと思うと勇気が出ました」
「わぁ……嬉しいです。ありがとうございます」
「はい。言えて良かった」
「写真を撮りましょう。約束したあの写真を」
「はい」
カーテンが閉じられ、しばらくすると白ワンピースに麦わら帽子の森下さんが出てきた。
看護師が押す車椅子で中庭まで向かう途中、多くの医療スタッフが微笑みかけてくれた。
俺はこれで退院だからだ。そして、あの約束をみんな知っていたのだ。
特別に一時、点滴も外した。
ヒマワリは今を盛りと咲き誇り、夏の真っ青な空の下、太陽を向いて輝くようだった。
ふらついた足取りだが、森下さんはヒマワリの下に立った。
「何か緊張するな」
「前みたいに無邪気に遊んでください」
「前みたいに……よ~し」
彼女は両手を大きく広げヒマワリに負けないぐらいの笑顔を見せてくれた。
俺はスマホのカメラでその様子を何枚も撮った。
涙と汗でぐしゃぐしゃになっていく顔も気にせず、ただ何枚も。
「こんなものですかね」
息を切らせて森下さんは戻ってきた。
「その写真、できればずっと取っておいてください」
「処分するものですか。忘れませんよ。約束します」
「月島さん、そんなに泣かないで」
「はい、すみません……でも、その、ちょっと……」
「私はもう大丈夫です。月島さんが私のことを忘れないでいてくれるから」
「……そうですか」
俺は荷物をまとめた大袋を持ち上げて、「それじゃあ、お大事に」と告げた。
森下さんは微笑んでいた。いっそう白くなってしまったはかない笑顔で。
看護師も手を振って見送ってくれた。
外はまだまだ夏本番。
95%と限りなく0%の境界が病院の正門にあった。
俺の姿が見えなくなるまで、森下さんと看護師は見送ってくれた。
たくさん撮った写真の中で一番笑顔をまぶしかった写真を森下さんにメールした。
『素敵に撮れてて嬉しい! もう使い道は考えてあります』
使い道。
そう待つこともなく、使われるのだろう。
95%の命は、その重みをいやがおうにでも実感させた。
それから俺は復職し、黄土色の錠剤を飲みながら5年後を考えた。
まだ5年間、生きていられる。
時間制限は、生き物なら何にだってついている。
5年間。
まずは葛西さんや森下さんの病気をもっと知ろう。
医者でもなんでもないから出来ることは少ないかもしれない。
でも、知っていれば出来ることだってあるかもしれない。
それが葛西さんや……やがていなくなる森下さんに出来ることの一歩だ。
キーを叩いてみれば、どれだけ致死的な病気だったかはよく分かった。
現代医学では彼らを救うことはほぼ不可能であった。
運河沿いの道を、森下さんを見舞いに行く。
会う度に確実にその瞬間が近づいているをみるのはつらかった。
でも俺は最後まで、そう、その時まで想い続けることにした。
日に一度はメールを交わし、時折自撮りも来た。
しかし、ぱったりと。
本当にぱったりと連絡が途絶えた。
夏も盛りを過ぎ、夕暮れの運河を眺めながら、病院に向かう。
月に一度の通院だ。
「もしかして」。
そんな思いばかりが巡りながら、診察を終えた。
西病棟961号室へ向かおうとしたが、ナースステーションで止められた。
「……森下さんは、先週……」
重い口どりで看護師は告げた。
「……そうですか…………」
何を感じたら、何を考えたら良いのだろう。
ただあふれ出そうになる涙をこらえながら、俺は逃げ去るように病院を出た。
森下潮見。享年24歳。
美しい人だった。
どこをどう走ったかは覚えていない。
怒りにも似た感情がどこまでも俺を走らせた。
やがて着いた運河の橋の下で、人目をはばかるように俺は泣いた。
限りなくの0%は、いっそ事務的にその数字通りの結果を出した。
好きだった。
もうすぐいなくなるとしても、思いが通じつつも途絶えることも。
覚悟していたつもりだったのに、ただただ涙が止まらない。
悔しい。
コンクリートの壁を思わず殴った。
皮膚は裂け、血が滴った。
血が出る。俺は今、生きている。
俺だけは生きているのに、どうして他はそうじゃないんだよ。
彼女が助からないことは知ってたのに。
覚悟だってしてたのに。
「うぅ……うわぁああああああ……」
嗚咽が止まらない。
時は進む。事実は重なる。そして、それはもう戻らない。
東京には人があふれている。
男も女も。子供も老人も。健康な人も、病気の人も。
彼女が病気でなかったら会わなかったし、
でも彼女は夏を越せないことがもう分かってて……。
どうか、どうか天国がありますように。
祈るような気持ちで座り込んだ。
そうして、夏は終わった。
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