第2-1話 0%の覚悟

一週間が過ぎた頃、病院内を自由に歩いて良い許可が出た。


試しに中庭に出てみると、南風がヒマワリを揺らしていた。


俺は四季の中では夏が一番好きだ。

木や動物や、虫があふれて一番生命を感じる季節だからだ。


寒さは着込めば耐えられるから冬の方がマシ、という友人もいたが、

曇天が続くシンとした沈黙は死を思わせる。


木陰のベンチで空を眺めていると、点滴を下げた中年の男が歩いてきた。

その顔には見覚えがあった。俺と同室の男だ。


「こんにちは」


男は微笑みながら声を掛けてきた。


「どうも」


「隣に座っても?」


「どうぞ」


男は点滴を下げた棒を支えにして俺の隣に座った。


「いや、今日も暑いですね」


「そうですね、俺は今日初めて病室を出たんで夏だったことを今思いだしました」


「はは、そういえばずっと向かいに寝ていらしたようですね」


「ええ、何か入院するほどの病気には思えないのですが」


「へぇ……私はもうすぐ死ぬんですけどね」


「……え?」


男は空を見ながらやけにあっさりとそう言った。

あまりにさらっと告げられたので真偽をはかりかねるほどだった。



「突然こんなことを申し上げて何か申し訳ない」


男は俺を見てそう言った。


「ただなんというか、せめて一人でも多くの方の頭の片隅には残っていたくて」


どうも本当のことらしい。

冗談にしては重すぎるし、目線を合わせて男を見つめれば、

死期が近いことを見て取れた。


「あなたは一体何の病気で?」


男は世間話でもするように聞いてきた。


「……白血病です。今薬を飲んでいます」


「それはそれは……お互い大変ですね、風邪以外の病気はなかなかかかるものじゃない」


「……あの」


「なんでしょうか」


「こう言っては失礼なんですが、その、本当なんですか」


「私が死ぬかどうかということですか?」


「……ええ」


「本当です。明日死んでもおかしくない」


「………………」


「さっきも申し上げたとおり、なんとなくですか、

 人の記憶ぐらいには残っておきたいかなと」


「月島といいます。お名前をお伺いできますか」


「葛西と申します。どうかよろしくお願いします」


「……忘れようにも忘れそうにないですね、これは」


「はは、だまし討ちのようなやり方で申し訳ない」


「葛西さん。忘れませんよ」


「そう言ってくださるとありがたいです」


庭師が撒く水がきらめき、時折虹を作るのを見ていると

木々のざわめきが暑気を一瞬払った。




それから3日後。

葛西さんは本当に亡くなってしまった。


苦しむ様子もなく、ただ眠るように。


葛西さんの家族は静かに涙を流していた。



空きベッドをなんとなく眺めながら、出された黄土色の錠剤に目を移す。


乗るか、反るか。


その後何度か検査が行なわれ、医師に説明室に呼ばれた。


「月島さんの病状はいい経過です。薬も良く効いていて、

 『寛解』という状態に持って行けそうです」


「かんかい?」


「白血病は血液のがんです。異常な細胞がたくさん増えてしまって

 正常な細胞の仕事を邪魔したり、殺してしまう」

「そんな悪い細胞が顕微鏡を見ても見えない状態を寛解といいます」

「月島さんが飲んでいるお薬は悪い細胞が無限に増えるのを抑えるものですが、

 悪い細胞が出来る原因そのものが良くなったわけではないですから、

 薬を飲み続ける必要はありますが、悪いやつが見当たらない状態を寛解といいます」


「95%に入った、ということですか」


「はい。もう少し様子を見たら退院して薬を飲んでもらえば良いでしょう」


「……そうですか」


あと5年は生きていられそうだと分かって、ほっとしたような気もしたが、

じゃ6年後はどうなんだという思いもあった。


5年生きたら俺は何をするんだろう。


退院して仕事に戻り、黄土色の錠剤を飲み、

時には愚痴をこぼしながら居酒屋で同僚とふざけあうのか。


……5年なんて何もしないままあっという間じゃないか。


人生そんなものなのか。


誰でも出来ることをたまたま俺がして、金をもらい、

ただ日々を過ごすのか。

黄土色の錠剤を見る度に人より死に瀕していることを思いながら。


「通院して検査して、薬を飲めば良いんですね」


「はい、良かったです。薬が良く効くタイプでした」


「……先生。先日亡くなった葛西さんのことなんですが」


「ええ」


「どうしてあんなに死が近いのに元気に見えたんでしょうか」


「葛西さんがなぜ、ということをご説明するわけにはいかないんですが、

 ここはそういう病棟なんです」


「………………」


「その瞬間までしっかり生きる。痛み、特に心の痛みも取りながら、

 最後の時間を過ごすための病棟です」


「……ホスピスとか緩和ケアとかいうやつですよね。

 なんで私がそこに入院してるんでしょうか」


「月島さんの場合は本当は血液内科の病棟に入るはずだったんですが、

 有り体に言ってそちらに空きがなかったんで入ってもらったんですよ」


「……葛西さんはせめて誰かの記憶には残りたかったそうです。

 そういう病棟って、いたらつらいです」


「血液内科もまた結構なくなる方が多い病棟ですよ」


「私とは違う白血病の人たちがたくさんいるんですね」


「はい。だからドラマみたいに無菌室に入っている患者さんを目にすることになります」

「私は正直、このまま退院まで961号室で過ごしていただきたいです。

 せめて穏やかだから……」


向こうの方がド派手に苦しんで息絶える様子を目にするぞ、ということか。


「……わかりました」


説明を聞き終えて、説明室から病室に戻る。


葛西さんがいたベッドに新しい患者がやってきたようだ。


まだ若い女性だった。


つやつやした黒髪をポニーテールにまとめて、

家族と談笑していた。


ふと目が合った彼女は俺に声を掛けてきた。


「どうもこんにちは。森下潮見といいます。

 今日からこの部屋で入院しますのでよろしくお願いします」


森下と名乗った女性はぺこりと頭を下げた。


「月島といいます。どうぞよろしく」


葛西さんのあとは綺麗な女性か。


部屋が華やぐだろうな、とまで思ったところで、

さっきの医師の言葉を思いだした。


ここは、その瞬間まで笑って過ごすためのところ。


森下さんも遠くない死を待っているのか?


理不尽なものを感じながら、それでも病気があることは認めざるを得ない。


人は大抵なにか病気が原因で死ぬ。


森下さんはこれからどうなるのだろう。

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