4:崩れていく日々(千草)

千草はチラシを配り終え、その足で喫茶店へと戻るその途中だった。

「――あの男に寄るのはヤメてください」見慣れないメイド服の少女。

見た目が中学生ぐらいの少女は、睨め付けるように千草に目線を向けている。

口調とは正反対に、可愛らしく、淑やかな少女は、黒白のフリルのついたゴシック服を着ていた。服装でどこの喫茶店の子か分かるハズもなく、なんとなくで、その理由を尋ねてみた。

「どうして、ですか?」

その言葉には少女は苦しそうに口を歪ませる。

少女は、千草の袖に手をやり、何度も上下へ振る姿には、恐ろしさより可愛さが誇っていた。必死な少女の行動は裏腹に、少しだけ癒された。こんな少女を雇うなんて賢いなぁ……ではなくて、警察に通告されても仕方がない行動を行っている喫茶店はどこなんだろうと、彼女はそれなりにこの街を心配した。そして、少女の目線を合わせるため、背を屈ませた。

少女は一歩引きさがり、目が力んでいる。

千草には、あの男には覚えがあった。おそらくは、少女の言う『あの男』とは……小島居さんのことだろうか? そう思ったのは、今まで千草は彼と話をしていたからだ。少女と小島居の接点を考えると、まさか少女は常連客の小島居さんを取られたと奮起しているのでは? だけど、さすがに小島居さんも、ここの境界は御持ちであろうに……。あ! もしかしたら、彼はロリコン? ……それより、少女の名前を聞くのが先だろうと考えられ、まずは自己紹介をしてみた。

「私は、この街の喫茶店エンジェルのチェルシーです。アナタは、この街の方ですか?」

『この街の方』というのは、この街で働いているという意味での遠回しのつもりだった。チェルシーはこの街での源氏名ではあるが、このメイド服でいる限り、こちらを教えるのが妥当と考えた。

「私は……雪乃と言います。一応、そうです。」

そう語る雪乃ちゃんは、臆病な兎か猫のように震えている。千草はどうすれば、危害のない人間と伝わるか、掌を頬に充てて唸った。

「雪乃なんて、ゴシックな服装なワリには、なんか和風な源氏名だね」と、会話を繋げてみよう。

「……本名です」って、まさかの本名ですか?

少し驚いたが、その気に合わせてか、雪乃は言葉を繋げる。

「あの男を……好きになる自信はありますか? 永遠に愛せますか? あの人は病気なんです。変な希望を与えないでください」と、そんなことを早口で発言した。

言い終わると、スタスタとこの場を去っていく。旋毛風のようだった。雪乃の放った言葉を返そうとしたときには、千草の前にはいなかった。

「待って……」というセリフを口から出るときはふわふわした嵐のような女の子はそのまま姿を暗ました。あまりに千草は鈍感。雪乃ちゃんはいったい何を言いたかったのだろうか? いろんな想像が頭の中へ浮かぶ。顧客説、知り合い説、兄妹説など様々なシチュエーションが想像できた。

考えている暇なんてなく、千草もメイド喫茶へ帰っていった。平日は客も少ない。接客は他の子に任せられると思った瞬間、心が少し和らげた。千草の仕事は、毎日午後四時と十九時にポップなアニメソングやオリジナル曲を歌うことだ。そのときばかしは、自身の欠点や汚点を考える暇なんてない。ヤルといったらヤルしかない。それでどうにか半年の間、この店の盛り上げ役としてやらせて頂いていた。

客が見えない裏側で、今日のセットリストを確認していると、後ろから何人かの友人が話しかけてくれた。曖昧な返事を返しては、黙々と振付の確認をする。時間だけが刻々と迫ってきている。そして、それ以上はなにも考えないと踏ん切りと付けて、一人で勝手に冷蔵庫の飲み物を漁って栄養ドリンクを飲んでいた。

時間になると、部屋の照明が暗くなる。スポットライトに当てられたステージ。進行役のメイドがいつもの気が抜けるご挨拶で雰囲気を盛り上げてくれている。そして、千草もいつものように恐る恐るカーテンから首を出して客を確認すると、まわりの数人がそれに気が付いて手を振ってくれた。そんなギャグが当たり前だった。

「今日の歌い手は、このエンジェルの看板娘、チェルシーちゃん。一曲目は彼女のテーマソング……『you get me』です!!」と、締めくくられたと同時に、スピーカーから大音量で千草のオリジナルソングが流し始める。

流れた瞬間、千草はステージへ飛び出した。小さな舞台で客に手を振り続ける。いつもの客の他に何人か知らない顔がいる。知らない人の前というのはちょっぴり緊張するが、そんなことを忘れて、大声で「喫茶店エンジェルへ、ようこそ!」と叫ぶと、まわりから黄色い声援が響き渡る。

ライブ中は、叫ばないと気がどうにかなりそうだ。千草は不安や苛立ち、弱い自分をどうにか震え上がらせて、この場に立っている。そうだ、私が主役なのだと心に言い聞かせていると、何もかも怖い出来事が嘘みたいになくなっていくのが分かった。

千草は歌い始める。女性をふんだんに使った声を絞り上げて、男たちを虜にしていく。ライブが終わると千草は裏側へ一旦戻り、残っていた栄養ドリンクに口をつけた。冷房がかかっているとはいえ、息切れと同時に汗が首筋に流れる。

「お疲れさま」と、専務がタオルを千草の首元に置いてくれた。

「ありがとう」と受け取って汗を拭いていると、専務は千草の隣へ腰を降ろした。

千草は久しぶりに店長へ呼び出された。何で呼ばれたか理由は知らない。

店長は面接以降あまり話しておらず、もしかしたら給料アップ? などと淡い考えを持っていたのがバカだった。

彼が語った言葉。彼女にとって一番言われたくない台詞。

「ウチとしては歌える子よりかは、接客ができる子を優先させたいんだよね。それで悪いんだけど、優先してあげていた給料なんだけど普通の子と同じにしたいんだ。特に、千草ちゃんはそんなこと言いたくないけど、耳が聞こえなくて接客ができないじゃん? こちらとしてはデメリットでしかない。俺も、そんなこと言いたくないけど、他の子と同じとだけで、平等ってことにできないか?」

それは、彼女にとって侮辱的な話だった。

「――それだったら、私はこんなバイト辞めます」

「そういうことじゃないだよ……」

「じゃあ、なんですか? 人を道具みたいに扱うのが、大人のやり方ですか? 弱点がなんですか? 耳が聞こえなくても、歌と踊りができれば良いって言ってくれたのはあなたじゃないですか? こんなところ、辞めます。」

 そんなことを言って、即座に職場を後にしてしまった。

千草はふと何をしているのか考えた。


それは、今までのいつもだった。気づいたら、チラシ配りをして、喫茶店へ帰って知らない男たちと他愛のない会話。注文を受けると、それに似合ったサービスをお客(ご主人様)に向けて表現した。千草は特に舞台に立ち、曲を歌うメイドをしていた。接客業もしないワケではない。というか、しなくて済むならしたくはなかった。

コミュニケーションが苦手だった。

片方の耳の聞こえないというのは、聴覚だけでなく視界も悪くする。なにより、接客と言った分野に対して、最も不利なことは言うまでもない。愛想笑いで誤魔化して、聞き入るように客の声を耳にした。時間になると、千草の歌を聴くために来てくださる客も何人かいた。小さなステージはライトアップされると、千草は唯一の主人公になれる。そのときばかりは、いつものゆっくりな性格を捨てる事ができた。千草は心が躍動する中、それに応えるように喉の渇きを潤すと、片耳に耳栓を付けて前へと跳ねていく。

そんな夢のような日々が続いていたのに……

千草は帰宅すると、すぐに蛇口を捻って、風呂桶へとお湯を注いだ湯気の匂いが好きだ。いっぱいになると裸になり、暖かいお湯に身体を付けた後、口元まで潜った。蒸気の匂いを嗅ぎながら、口から空気を漏らすとプクプクって、まるでマグマみたいに膨れ上がっては鼻に触れるのだ。鼻にあたるとちょっと呼吸がしにくくなる。髪の毛を濯いで、浴室を出ると痛まないうちに髪の毛をタオルで当て、数十分はドライヤーで乾かした。ドライヤーをしないと、匂いが付くだけでなく、痒くなる。なんて、女性なんて面倒な性別に生まれてきてしまったのだろうと、考えることがあった。それでも、女性で生まれたから、楽をしていると思う場面もいくつか数えることができた。今の仕事だって、女性ではなくてはできない特権なのだ。

徳偶にそんな仕事をしていることが人としての弱みに感じることがあって、ひどく胸を痛くした。実はというと、今も痛い。女性を遣って、生きていくしかない人間的弱さの中には、越えられない壁が存在する。学力社会、縦社会、中卒、思い思いに考えたくもない単語が頭の中へと浮かんでは消え、浮かんでは消えて、徐々に千草を女でしか無くしてしまった。

この街で暮らせば何か変わるかもしれないと、去年の夏ごろにこの街へ逃げてきてから一年が経過する。でも、冴えない頭ではそれが限界だった。

何も変わってはいない。

沈んでは浮かんで、沈んでは浮かんで、それは波に揺れる浮のように、沈むように寝ては起き上がり、この街のメイドで在りつづけた。知る人ぞ知る有名人のようにいつも大通りで娼婦と変わらない笑みを見せた。そんなことを考えていると、目尻から水滴が流れ出すのが分かる。結局、私は何を考えていたのだろう。

――将来やりたいこと……

それを考えるたび、千草は失ってきた時間を責めるように、歯を食い絞めた。自分自身が悔しい。なりたかった自分というのは考える暇もないといったら嘘になる。将来、何かやりたいことが思い浮かばないうちに高校を退学、このアパート暮らしが始まった。仕事をしていると、それが普通になり、それ以上何かを望むこともなくなった。社畜という言葉は、痛いぐらいに理解ができた。その言葉通り、仕事以外なにも見出せない人間になってしまっていた。

涙には他に理由があった。千草の本当の夢は、自身の身体的理由で叶えられないと知っていた。


高校生の時だった。

とあるバンドオーディションに参加していた千草は、運よく最終予選まで勝ち上がることができた。彼女はただメンバーを上を目指しているつもりだった。だが、メンバーの一人の男の子が放課後、千草を他の教室へと呼び出した。

「オ……俺と付き合ってみないか?」

 そんなことを言ったかもしれない。

 だが、千草にとって、メンバーとは自分の一部であって、それ以上でもそれ以下でもない存在。付き合うとかそういうことは一切考えていなかった。だから、千草は、「ごめんなさい……」としか、いえない。だが、それが彼と会う最後だった。

 彼はこの日、踏切で砕け散った。自殺か事故か不明。分かっていたのはその日、千草に告白して、彼女はそれを断ったことだけだった。

そういう理由で、千草は周りから悪口を聞いた。片思いをした男性メンバーの死。夢だとかそういうことさえ考えられなかった。それ以来、男女には友情や信頼なんてないんだと知った。あるのは異性という柵。千草が彼を傷つけてしまった罪悪。

「アナタが死ねばよかった」それは、その通りだと思えてしまった。

気づいた時、手には美術の彫刻刀が握られていた。喉を切って、死のうした、一瞬の気の迷いだった。薄い皮膚を切るとそこからは芸術的な赤が施す。こんな汚い私でも、こうやって赤くキレイになれるのはとても嬉しかった。

そこで、こんなことを思いついた。

嫌な感情を吹き渡らせるこの耳さえなければ、もっと素直に生きられるのではないかって。

そう思った時には千草の袖は丸ごとあの手首の赤より鮮明な赤がそこら中に広がっていた。

あぁなんて世界はキレイなんでしょうって思っていると、千草の世界は目の前から消えていった。痛みさえも快楽に感じるあの血の温かみを忘れたことがない。今思うと、それが夢の終着点だった。

医者からは、この耳が聞こえることはないと言われた。鼓膜が破れた耳へ血は漏れて、ぐちゅぐちゅに腐っているみたいだった。見舞に来た母からはビンタを食らい、それから今まで一度も話すことはない。千草に甘かった父親は女性の千草を抱いて、知らないけど謝ってくれた。だから、千草は父のために泣いた。こんな子供でごめんなさい。謝ることしかできなかった。学校にはそれっきりいけなくなってしまった。最初、片耳を失った身体を動かすというのは、そこまで大変だとは思わなかったが、慣れればなんでもできた。そして、家の中で、聞こえない左耳にまでイヤホンを付けて音楽を聴いた。やっぱり、なにも聞こえなかった。

学校を辞めた後に一度、近くのコンビニでバイトをしていた。

偶然会った友達が言う。『自分でチャンスを捨てる人間には夢をつかむチャンスなんて二度とこないわ』この言葉にはなんも胸が痛まなかった。だって、夢を諦めたわけじゃない。いや、麻痺して気づかなかっただけで、本当は今現在もすべてを捨てて、こんな場所にいるのかもしれない。

そんなとき、彼の言葉が頭を過る。この台詞は、秋葉原の中道通りでいつも本を読んでいる謎の少年の言葉だった。

『人間は生まれた時から病気なのだ』という言葉を信じると少しだけ、気が楽になるようだった。生は病。それは、人間がセックスという病気でこの世に存在するという意味で、それで生まれた私たちもまた病気なのだ。病気というのは心が弱くいても良い証拠だから、私はこの街でこのハンデを持って生きていくしかないのだ。千草にとって性の病気だけでなく、身体的な欠陥もあった。そのせいで、夢を捨てるしかなかった。でも、彼のその言葉が精神薬のように体中に染み込んでいくと、自然と吐き気は収まるようだった。

そして、現実が麻痺を起こした脳内でやっと透視してみることができる。

このままじゃいけない。わかっている。わかっている。そんなことを考えていると、一つの答えが浮かんできた。

「もう、家に帰ろうかな。」

それは、諦めの言葉の他なかった。金銭面を考えても、彼女の定収入では一ヵ月も暮らすことができないし、それ以外に方法を考えることができなかった。

でも、なにか一つ証拠を残して、この街から消えてやろう。なんでもいい。一矢報いた証拠が欲しかった。病気な自分が一矢報いた証拠をこの街に残してやりたい。月夜で照らされた部屋で、千草は大粒の涙を掌で頬へと擦りつけた。時期にひとつの考えがまとまると、頭が軽くなり、救われるような気持ちが千草を包む。

そして、そのためには、いかなる犠牲も止む負えないと、考えた。


その日の夢を見る。あの日の走馬灯。千草は夢を見ていた。

そして、目を覚ますと、いつもの一日、何もない。千草はここでまた現実を観る。

でも、いつもと違う明日を望んで、カーテンを開けた。千草は喫茶店の一人の女性にあることを相談することにした。手には携帯電話を持っていた。

「……おねがいがあるの」

それは、今まで考えたことのない仕返しだった。

その作戦を聞いた友人は驚いていたが、時期に呆れながらも黙々と千草の戯言に耳を向けた。そして、電話の向こうで、考え込む。

『創業祭に、ゲリラライブねぇ……』

その作戦には裏があった。喫茶店の売り上げの貢献だとか、そういうのはどうでもよかった。千草はこの街で生きた証を刻みたい。それと、自身のファンに対しての別れが言いたかった。二度とこのような場所に訪れることのないように、裏切りの言葉を彼らに向かって言わなければならない。

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