アルタ群島(33)「ハンティンググラウンド・Ⅵ」
~これまでのおはなし~
遡ること十三年前、俺、佐藤翔(13)は、父親の「これは基礎教養として読んでおきなさい漫画リスト」に従い、新井英樹・著『ザ・ワールド・イズ・マイン』を読んでいた。思い返せばこの時期は日本の名作漫画と呼ばれる作品群を沢山読み耽った「俺の漫画時代」だったのだが、その中でも中学一年生には一際衝撃的だった作品がこれだった。そのあまりの内容に俺は圧倒され、読みながら実際に体が震えた。読んでいない時も、脳裏を常に暴力の残影が嵐となって吹き荒れ、ポルノとしての価値など欠片もない性描写が何故か忘れられなかった。読み終えた時、俺は作家のイマジネーションによって連れて来られた場所から見る光景にただぼんやりしていた。思えば遠くへ来たものだ。そして目眩と感動とを差し置いて、中一は思うのだ。『熊、こええよ』。俺は学校の教室で、隣の席の川添さんがハチミツを舐めている愛らしい熊の人形を鞄につけてるのを見て言った。「よくそんな残虐非道極悪猛獣の人形つけてられるね」痛い子扱いされました。
日本人にとって熊は特別な生き物である。
ツンデレ……というと語弊があるが、恐らく日本人は多面的な顔を持つものが好きである。
そして熊ほど極端な二面性を伴って捉えられている動物はなかなかいない。
日本列島における、最も危険な地上生物であるという顔。
北から南まで地域問わず、様々にキャラクター化され愛されるマスコット動物であるという顔。
近くて遠い場所に住む彼ら。
日本人は本物の熊を見ると、「可愛い」と「恐ろしい」をほぼ同時に感じる。
老若男女問わず、子供であっても、大人であっても、そう。
そこに恐らく理由はない。
世界の中ではさほどの標高を誇るわけではないと理解していても、富士山の姿を目の当たりにすれば、日本人なら誰しも特別な感情を抱かされるのと、同じ。
日本人の文化的遺伝子……ジャパニーズ・ミームが俺達にそれを強いるのだ。
(なんだよ……これ)
だが、日本人である筈の俺は、それを見た時に「可愛い」と思わなかった。
(なんなんだ……!?)
故に、それは熊ではない。
「おおおおおおおおんんんんんんんんん……!」
鼓膜を刺激するものがある。
睫毛を凍り付かせるものがある。
俺の顔面に皮膚があることを「ある」といちいち指摘してくるものがある。
首筋を粟立てるものがある。
腰裏にも冷や汗をかくのだと発見させるものがある。
男性器を死ぬほど萎縮させるものがある。
膝を笑わせるものがある。
足首から下の感覚を消失させるものがある。
風圧。
砂塵。
森林の緑を呑み込むほどの影。
地響きと共に、巨塊が這い出してくる。
サイズの調整に失敗した、ただひたすらにデカい
「っ……!」
俺は、ほとんど小走りになりながら、パーティーメンバーの居る場所まで後じさる。
何故なら、灰色熊の生物学上の亜種小名は……「
「やべえぞ。このデカさ……キングだ」
パーティーの面々も、皆一様に色を失っていた。
ウスカさんが乾いた声で囁く。
「オビ島のフォレスト・ベアの中に、一匹だけいるっていう特別な野郎だ」
「も、森の主、とかですか?」
カリオテがひきつった声で聞いた。
「多分な。普通のフォレスト・ベアでも厄介だが、こいつは別格だ」
「み、見れば分かりますよっ、それは!」
声が裏返らないように必死なのが、聞いていて分かった。
「どうかな。以前、倒そうとした奴が剣を手に飛びかかっていったが、アイツが倒れかかってきただけで静かになった、なんて聞いたことがある。あの毛玉のどこかに、今も潰れた虫みたいになってくっついてるだろう、って」
恐るべきモコモコ具合である。
なんか危険度高すぎて笑えてきた。
「ハハ……。ウスカさん、勝てます?」
自分の声が、他人のもののように聞こえるのは何故だろうか。
「馬鹿野郎。逃げ切れたらこっちの勝ち、って相手だよ」
「じ、じゃあなんで、俺達は一目散に走って逃げてないんです」
俺が問うと、ウスカさんはいつになく弱気な様子で言った。
「お前と一緒だよ。一瞬でもこいつから目を離したら死ぬんじゃないか、って気にさせられてんだ。背中向けたが最後、即座に殺されるんじゃないか、ってな」
光を失った瞳孔無き眼球。
スチームのように吐き出される鼻息は、獣臭を極端にしたようなひどい悪臭にまみれている。
だが既に、熊の形をした小山は、俺達全員を標的下に収めている。
底の無い黒い目が、俺達を見ている。
いつ殺すか。どう殺すか。
もしかしたら、それすら考えていないかもしれない。
人間が食事をする時、皿の上の食べ物をどうするか、考えるだろうか?
口に放り込むだけの話なのに。
「……でも、逃げないわけにはいかないですよね?」
「もちろんだ。よし。エキストラ。閃光魔法を頼む」
ウスカさんの指示に、エキストラさんが詠唱をはじめる。
『――エスリーカ アナ フェーヴォライヒ
瞳にて聴け 潰えぬ炎
九つの刻 果つるまで その身を燃やせ――……』
ひどくたどたどしく、力無い。
そもそも存在感の薄い人だが、声は震え、虚ろだった。
恐怖が滲み出している。
「みんな。エキストラの魔法が発動したら、一斉に逃げるぞ。走り出したら、安全だと思っても止まったり、振り返ったりするな。体の限界まで走り続けろ。俺達の数十歩がこいつの一歩だぞ」
身じろぎするだけで轟音を立てる生き物。
辺りはひどくやかましい。
それなのに、じゃり、と自分の足の裏で起こるほんの僅かな音が耳障りである。
誰かの息づかいが手に取るように分かる。
喉が鳴る。
『――ロディア ヴォック
ラド ラム ―――― リー=ザグルト!』
ぽっ、と浮かぶ、光点でできた、小さな螺旋。
回転。膨張。
急上昇。
そして爆発。
唐突に、世界の輝きを集めたような眩い球体が俺達の頭上に出現した。
小太陽。
あまりの光に影さえもが消える。
激しさに、体が痛みを錯覚するほどの眩しさ。
「走れぇぇーーっ……!」
ウスカさんの叫びに、地を蹴った。
<強走>スキルのスイッチを入れる。
無我夢中である。
だが、望外のスタートを切った。
学生時代の体育祭でもこんなに綺麗に走り出せたことは無いのではないだろうか。よーいどん大成功。
そう思った。
うぉんおんおんおおおおんんんんんん。
だから突然、ほんのすぐ後ろで異音が起こって、俺は総毛立つ。
今し方俺がいた場所で、マフラー改造バイクのような騒音がしている。
それがまさか生き物の出した音であるとは、瞬時には理解できなかった。
怒号だった。
憤りの叫び声。
吹けば飛ぶような小動物が、己を欺こうとしたことへの憤激に満ちている。
そしてそれは同時に布告である。
即ち、畜群に対し、上位者が繰り出す、屠殺への宣言書だ。
不埒な存在への制裁の声明。
時代劇なら「おのれ小癪な!」と見栄を切る場面で、歳を取らない漫画家なら「ナメやがってドグサレ小僧がァーーッ!」とフキダシを埋めるタイミングで、しかし生憎、俺のいる異世界において在るのは深淵から響くような咆吼のみである。
実に残酷。
趣の欠片もない。
(クソが! かまってられるかよ!)
無論、殺される側のドグサレ小僧としては、逃げの一手だ。
スピードを上げる。
振り返っている暇は無い。
だが不意に嫌な記憶がよぎった。
『ザ・ワールド・イズ・マイン』に影響されて、日本史上最悪の獣害事件である『
犬の嗅覚が優れていることは広く知られている。
が、熊はその上をいく。
犬のおよそ七倍。
匂いの希薄になりがちな寒冷地にあって、しかし鼻の力だけで獲物を見つけ出す。
代わりに目は元々、あまり良い動物ではなく……つまり……。
がいん。
左手後方から、金属のひしゃげる嫌な音がした。
ミケランジェロというふざけた名前の熊の雄叫びの大きさからすると、ひどく小さな
それなのに、胸が一息にざわめいた。
何故なら俺は、以前にもそっくりの音を聞いたことがある。
ブラックヘイズの詰所前の路上、巨漢が振り回した両手用戦鎚。
あの時ついた鎧のへこみは、今もまだ修復されていない。
「カリオテーッ……!」
気付いた時には、俺は、振り返ってしまっていた。
光球輝く下、もうもうと立ちこめる砂煙。
ひび割れ、揺れる地面。横たわる銀色の
既に距離は遠いというのに、兜の奥、額を流れる血が克明に見えてしまった。
俺はそれを、奇妙に赤いと感じる。
意識を失っている。
【名前】ヴァイオレット・カリオテ
【HP】2/20
その向こう、猛る暴力の権化がある。
エキストラさんが放った光の奔流の中、灰色の体毛が燃え盛る炎のように揺らめいていた。
傲慢な胃袋に続く、奈落の入り口。
(っ……!)
そこに近づくのは、竜巻の中に飛び込むのと等しい勇気が必要で、俺は一瞬の衝動に逆らえず立ち止まる。
躊躇の欲求。
体が強張る。
だがその瞬間、俺よりも早く走る小柄な人影があった。
メムネア・イルミンスール。
心優しき忌み少女。
破壊の権化を目の前にして、尚、音も無く駆ける。
迷い無き足取り。
マントを翻すと、隆起する地面を飛び跳ね、一息にカリオテの元へと辿り着いていた。
「んんんーーーーっ!」
力の指輪の威によってだろう、カリオテを必死で背負うと、再び逃げようとする。
しかし、その歩みは遅い。
絶望的な速度。
俺の家主たる少女の真後ろ、暴れ狂う重機のような存在が迫る。
(ヤバい……!)
今度こそ、俺は走り始める。
振り絞った覚悟によって恐怖を従え、<火かき棒>を高く掲げる。
「こっちだ、デカブツ!」
俺は叫ぶ。
「どこ見てんだウスノロ! 運動不足のピザメタボ!」
脳味噌にある理性の、その更に真ん中にある芯の部分を、無理矢理麻痺させる。
「やーい! お前のかーちゃん、課金兵ー!」
無謀とは、はかりごとを持たないという意味の言葉である。
無策とは、作戦が無いという意味の言葉である。
無謀、無策に突っ込んだ。
かつて、もこもこに押しつぶされ消えた戦士。
その
どうせならと熊の顔面を目指し真っ直ぐに突っ走れば、俺の罵詈雑言リクエストに応え、早くも巨大な前足は、メムとカリオテから俺へと標的を変えている。
俺は<強健10>を発動する。
忽ち、俺は平均的成人男性の六倍のスピードを手に入れる。
目測を誤った化け物の片腕。
タッチの差で俺は巨大な鉤爪の真下をかいくぐることに成功する。ぶぅーん、と高速道路のトンネルを抜ける時のような反響音がした。
我が頭上を通り過ぎた熊の前足は、大地にしっかりと根を張っていた大木をポッキーかプリッツみたいに薙ぎ払った。
この木なんの木気になる木。
長命を誇る大木の生を嘲笑うように、それは無思慮無慈悲である。
森の粗暴犯。
「メムッ! 早く!」
俺の言葉に顔を上げたメム。
仮面で隠されて見えない表情が、それでも喜んだように思えた。
閃光の呪文が効力を失い始めたのか、彼女の全身の紋様が無駄によく見える。
俺はそのまま、化け物熊の中心目掛けて突き進み、
「ショウくん! 上っ……!」
不意にメムが叫んだ。
刹那、天地が逆転した。
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