アルタ群島(26)「ハサーシャ・Ⅰ」
~これまでのおはなし~
帰宅途中のサラリーマンでごったがえす新橋。「チクショーチクショー」通い慣れた飲み屋の中で、誰かがクダを巻いている声が聞こえる。この時間を一日で最も尊いものとしている彼はちょっと眉を潜めた。この店は出してくれる酒と肴もさることながら、客層の穏やかさも彼の好みだったのである。「クソッタレェ」響く悪態に、少し静かにしてくれないかなと思いながら箸を操る。ネギマ串のネギと肉を丁寧に小皿の上に分解し、ネギだけを頬張る。「うまっ」奥歯で噛みしめると染み出したネギの甘みが口中に広がった。相変わらず大将の焼き加減は絶妙である。若干気分が持ち直したので、彼はカバンから愛用のタブレットを取り出し、この時間いつもそうするように、カキョムというサイトを覗きはじめた。一杯やりながら、異世界へ行こう。ところがそんな彼の思索を遮るようにまた酔漢の声がする。「クソッ、クソックソッ、アソレ、クソッタレ♪」なんじゃそりゃ、とツッコミを内心入れてるお前は本当誰なんだよ。帰れ。
(怪しい男の次は、怪しい女か……。
じろぉ~っと俺を見上げてくる、髪間の単眼。
どこか眠そうな目だった。
俺は思った。
(今日はなんだか、ハードボイルドな一日になる予感がするぜ)
ニヒルに決めたが、「ハードボイルド」の意味は今ひとつよくわかっていない。
不意にトチ狂っただけである。
だが、外見からして盗人丸出しだった男と異なり、少女の容姿はおとなしげな文系微ロリ。
ならば、どう見てもワシントン条約違反のケモノコートに半分埋まってるからと言って、悪人扱いするのは時期尚早であろう。
依怙贔屓が過ぎるだろうか? でも、蠱惑的にちらりと覗くタンクトップの胸元が、俺を不思議と優しい気持ちにさせるからしょうがないよ。ぼくおとこのこ。
ゴクリ……。(唾液腺分泌液を嚥下する音)
「ねえ。誰、って聞いてる」
「えっ!? 俺?」
「しか、いないし」
(ハッ!?)
突然閃いた。
この店の名前は……『ワスプ婆さんの店』。
このふわふわ髪の子がいるのは、店員が座るカウンターの席。
わ、わかった!
「そういう君は、まさかのワスプ婆――……」
「なわけない」
ぴしゃっ、と遮られた。
「ワスプおばあは、用があってマリー達と一緒に朝市行ってる」
「朝市……?」
「あたしはその間、店番してるだけ。で、誰?」
「俺は、ショウ・サトウだ。マリーのおっぱ……ここに武器を卸してるウスカさんに用があって来たんだ」
「え? ああ……アンタがサィトウ」
いや発音。
サ・ト・ウ。
お前もか。
「……って、俺のこと知ってんの?」
すると謎の少女は、不敵な笑みを浮かべた。
ふっ、とか鼻を鳴らしとるよ。
「二週間後に分かるよ」
ええ……なにそれ。
そして、急にトーンダウン。
「ウスカも、もうじき一緒に帰ってくる」とだけ言って、あっさり書物に視線を戻した。
俺への興味を完全に失ったらしい。
いや、結局お前は誰なんだよ。
俺は名乗ったのに、そっちは名前教えてくれないのかよ。
結構
ふわふわ髪の読書少女とか、明らかに天然ぽわぽわ系の外見しときながら、なんだよこのギャップ。ちくしょー騙された。
なんか腹立つぅ。
心ささくれだった俺は、少女の胸元を好き勝手眺めることにした。
本に集中してるのをいいことに、微ロリの胸チラ見まくり祭。魅惑の隙間である。秘密の先端が見えそうで見えないのがなんとももどかしい。
よく、女子の太股のうち、オーバーニーソックスとスカートとの間の部分を指して「絶対領域」なんて言ったりするが、この胸チラ夢空間にも何か名前をつけた方がいいのでは……。
「……」
ところが少女は、そんな俺の不埒な抵抗さえ気にした風ではない。
肩を丸めて無表情に指先を繰り、辺りに聞こえるのは時折ページをめくる紙の音ばかりで、ユキヒョウの死体はだらりと手足垂れるまま。
くそっ。なんかこうがっつりシカトされると腹立つな。突然男性器取り出して、本読んでる顔の真横至近距離からぶっかけてやりたくなるな。今、唐突に時間停止AV専用スキルに目覚めないかなあ。スキルポイント残り全部使ってもいいから。
そんな、精神異常者の発想はさておき、少女の名前である。
気にしなくても良さそうなものだが、教えてくれないなら、逆に知りたくなるのもまた人情。
だが、無言の拒絶を理解できる程度には空気読めるつもりである。
「ヘイ、Siri」と気さくに呼びかけて、「うるさい読書中に話しかけてくんな陰獣」とかドSにあしらわれたら、死ねる。ショックでdickがfullにerectionした上で、死ねる。
再度話しかけるにはきっかけが必要そうである。
(そうだ。メムに何か食べ物をお土産として買っていってやるか)
幸い、読書娘は今ここの店員。
買い物客に対してまで、辛辣な態度を貫くことはないだろう。
俺は踵を返すと、店内の散策を開始した。
手頃価格の美味しい物を探したい。
何が良いだろうか。
うーん、全然わからんぞ。
店内には様々な商品が並んでいるが、俺が知ってるのは、せいぜい昨日カリオテが異常な執着を見せていた瓶詰めくらいである。
……ま、それでいいか?
味が気になったりはしてたしな。
瓶詰めのある棚に足を向けると、予想以上に色々な種類の小瓶が並んでいた。
蜂蜜やジャムのようなものから、カリオテが買っていた果実漬け、野菜漬け、加工肉、加工魚と思われる物もあった。
なんかどれも結構美味しそう。
で、その内、棚の小瓶の半分くらいの商品に共通する特徴があることに気付く。
蓋にトレードマークらしき特徴的な印が入っている。
兜をかぶった犬の男の子(獣人?)が、ペロリと舌を出していた。
まさかこれら全て、同じ会社(?)が作っている瓶詰めなのだろうか。
現代日本のように、瓶の横にラベル印字の類は無いとはいえ、蓋に凹凸で刻まれたその犬のマークは割と精巧なもので、ろくに文明が発達しておらず、転生者が内政チートしまくり、という俺のファンタジー観を打ち砕く力があった。
いや、でも、そうだよな。
ここはかなり田舎の島、ってことだったけど、紙やガラスがそれなりに普及してる気配もあって、そこまでひどい印象は無いんだよな。
一般にヨーロッパの「中世」と呼ばれる時代は千年くらいあるけど、それも初期と後期とではかなり文明発達の度合いが異なる。
地球には無い「魔法」という特別な技術が、文明の後押しをしていることを考慮すると、意外と進歩した世界なのかも。
「俺もアプリコットでいいか」
カリオテがあれだけ買ってたんだし、不味いってことはないだろう。
杏漬けの瓶をカウンターまで持って行き、少女の目の前に置いた。
「ほい。これくれ」
「……」
ゆっくりとこちらを見上げる少女。
眠そうな目に見えるのは、どうやら睡眠不足なのではなく、生来の目つきの悪さによるものであるようである。
「二百リーア」
金額を言われて絶句。
そ、それ幾ら?
今までの買い物で、貨幣単位言われたことなんてなかったよ。
ずっと「運賃? 大銅貨一枚こっきりだよ」とか「借金は金貨三十五枚」とか「メモの商品全部まとめて小金貨二枚ですね」とかだったのに。
しかし、俺は慌てず騒がず、自分の手持ちの中で一番大きな貨幣である銀貨をそっと置いた。
ユキヒョウ毛皮娘はそれを受け取ると、無事に小銀貨を八枚返してくる。
なるほど……瓶詰め一個、俺感覚で二百円ね。
一リーア(ここの金銭単位?)、イコール、一円と、ご都合主義的にうまいことできてるらしいな。ありがたい。
「アスター・ヨーの瓶詰めはオマケつき。ちょっと待って」
と、少女が言った。
椅子から立ち上がるのが面倒くさいのか、座ったまま背後に手を伸ばす危なっかしい体勢で棚から一枚の紙を抜き取ると、俺の購入した瓶詰めの蓋を熱心に眺めはじめた。手にした紙としきりに見比べている。
何が書いてあるのだろう。
「三百二番ね。……じゃあ、はいこれ」
「え。なにこれ」
鉄でできた大きな貨幣のようなものを手渡される。
「アスター・ヨーのメダルだけど」
表面には厳ついおっさんの顔のアップが、裏面には剣を振るってドラゴンと戦う隻腕の戦士が描かれていた。
なかなか雰囲気あるメダルだな。
アン……アンバーって文字が書いてあるね。名前かな?
「ふーん……」
「メダルに興味無いのにそれ買ったの? なら、下の段にある奴にしとけば良かったのに。そっちのワスプおばあ自家製の奴の方が量多くて美味しい」
「そ、そうなんだ」
「当然。変える?」
「いや、まあいいや。一応これ食べてみるよ。もう一方も今度試して、自分で食べ比べてみることにする」
「あっそ……」
「いや、何、あれだ。結局こういうのは自分の舌が一番っつーか、ほら、蛇の道は蛇、ポランジの道はポランジ、って言うじゃん?」
「………………………………………………………………」
ウ、ウワァー。
眉間に寄った皺がハンパねぇー。
大事故だー。
ポランジ、なんか言っちゃいけないものだったっぽいー。しくったー。
「ハァ……食べ終わった後、空き瓶持って来たら買い取るから」
「へー。そういうのもやってんのか。手広くやってんだな」
「え? どこでもやってるでしょ、それくらい……」
前髪をかき上げる少女。
一瞬だけ、髪に隠れていたもう一方の瞳が露わになった。
目つきに癖はあるが……悔しいかな、なかなかの美少女だった。
「サィトウって、本当に何も知らないんだね。聞いてた通りだ」
「……へ?」
聞き捨てならないことを言う。
「なあ、お前……」
「お買い上げ、ありがとうございまーす」
やる気が無いのを一切隠す気の無い棒読みでそれだけ言うと、プイッ、またしても書物に目を落とし、シッシッ、手を振って俺を追い払う小娘。
速攻で鎖国してしまった。
って、いかん。名前また聞き逃したぞ。
「あ、あのー……」
「(シッシッ)」
うう……。
自分より一回りくらい年下と思われる女の子にあしらわれ、果物の浮かんだ小瓶を掴んで立ち尽くす俺、二十六歳。
前から思ってたけど、悲しすぎるだろ、俺の異世界転生物語……。
クロー! クロやーい! 俺を癒してくれよォい!
メムー! メムー! なでなでしてくれェい!
「あれ、サトウさんじゃないですか」
しかし捨てる神あれば拾う神あり。
背後から、女神の声がする。
「おはようございますっ」
朗らかな声。
太陽のような笑顔。
溌剌と揺れる奇跡の乳袋。
「おはようマリー。……って、なんかすごいな」
店に入って来たマリーは、でっかいリュックサックを背負っていた。
山ガールかな?
「えへへ。朝から大変だったんですよー? 急に、今日店で売る予定だった物がダメになっちゃったとかで、みんなで市に行ってきたんです」
「た、確かにだいぶ大変……みたいだな」
マリーの体の前面では、ショルダーストラップが食い込むせいで、いつも以上に乳袋が危険なことになっていた。
(き……、今日もスゴかとです……)
俺は謎の訛りを伴いつつ、少年のように顔を赤らめ、俯いた。
「しょうがないから市で果物出してる人に交渉して、まとめてお安く売ってもらってきたんです。多分それでも今日は赤字確定ですけど、店頭に出す物が無いってわけにもいかないですしねー」
「な、なるほど……」
「あれ? どうしたんです、サトウさん?」
いや、どうしたもこうしたも、そんなにお胸の兵器をこちらに向けられましても、長衣姿の佐藤は腕組み前傾姿勢で唸ることしかできませんぞ。
しかし本当に神がかった乳袋だな。
もしマリーのおっぱいをモデルにした『VR乳袋』ってソフトがあったら、上から下から、俺一日中眺めてそう。
揺らしたり伸ばしたり集めたり圧迫したりで、うひょー。いい。すごくいい。
「……こいつぁ忙しくなってきやがったぜ!」
「おはようございます、サトウさん。なんの話ですか?」
子供っぽい声が俺の夢想を断ち切った。
「ん? ああ。カリオテも一緒にいたのか」
栗色マロンカラーの髪をした騎士見習いも、やはりデカいリュックを背負ってのご帰還である。
昨日とは異なり、普通に冒険者風の服を着ていた。
茶と深緑の着心地良さそうなチュニックに、剣帯だけをつけているラフな格好だ。
「いやあ。食べる物を見に市に行ってたら、ウスカさんに偶然会ってそのまま人手として駆り出されまして……って、なんですか? じろじろ見て。私の顔に何かついてますか?」
「いや、鎧を着てない姿を見るのは初めてだなと思って」
「わー。なんか恥ずかしいですね」
困ったように、手を振った。
しかし、鎧を着ているというより、鎧に着られてる感があったカリオテだけに、下手したらこっちの方がちゃんとした戦士に見えるかも。
「ここの朝市ってどんな感じの場所なんだ? そこまで大きくはなさそうだけど」
「いえ、オビ島以外の島の人達も来てて、意外と活気がありましたよ。やっぱり海産物のお店が多かったですねー。巻き貝を小さな鉄板で焼いてたのをその場で食べさせてもらいましたけど、物凄くおいしくて、ああ私生きてますぅ、って、島に来て良かったなあ、って」
こいついっつも何か食ってんな。
雇用主が失踪して、半分無職に足突っ込んでるというのに危機感ゼロだよ、この子は。
とかやってると、ウスカさんが入ってきて、「おい、カリオテ。奥に荷物運んでくれ」と言った。
「おっ。サトウ来たか。ちょっと待っててくれよな。色々話はあるが、先にこいつを片付けちまうからよ」
そして、冒険者ギルドのマスターである狐獣人、軽く片目でフォックスウインク。
朝から嫌味じゃない伊達男っぷりである。
俺は思った。
(ハードボイルドだなあ……)
繰り返すが、「ハードボイルド」の意味はよくわかっていない。大学時代バイト先で知り合った美上さんが「わたしハードボイルド小説好きなんだよね。佐藤君読んだりしないの?」と言うので帰りに古本屋で一冊なんか買ってみようとしたものの、ジャンル知識が全く無かったせいでどれがいいのか分からなくなり、とりあえず背表紙に「ハードボイルド」って書いてある小説ならなんでもいいか……と買って帰ったのが、火浦功・著『ハードボイルドでいこう』という奇書だったせいである。素直に大沢在昌辺りにしとけば良かったのに。
(スペースコブラばりに格好良いよな、このキツネ)
……と、思ったのだが。
「わー! キツネさーん!」
「キツネさん、だいすきー!」
今日は何故か、ウスカの後ろに、街の子供達がついてきていた。
テーマパークの着ぐるみ人形感のあるウスカさん。
男の子も女の子も、ゆらゆらと揺れる彼の尻尾をつかまえようと大はしゃぎだ。
「……」
ウスカさん(デブ専素人童貞)は、恥ずかしそうに鼻の頭をペロリと舐めた。
「ったくぅ、締まンねえなァ……」
結局キザな口調でボヤくと、ぽりぽり頬を掻いていた。
「マリー」
と、その横、先ほどまでカウンター席に陣取っていたユキヒョウ毛皮娘がやって来る。
読んでいた本を大事な宝物のように小脇に抱えていた。
「じゃ、あたし帰るね」
「あ、うん。店番ありがとう、ハサーシャ」
「ううん。この本、借りてくけど、いい?」
「分かった。お金は今度でいいよ」
「ん」
「またね」
そして、ハサーシャと呼ばれた女の子は、ちら、と俺の顔を見ると、
「……」
いや、そこで何も言わないんかい……戸口から出て行った。
「ハサーシャって言うのか、あの子」
消える背中を見ながらそう俺が呟けば、マリーは意外そうな顔をした。
「初対面だったんですか? 私が帰ってきた時、『人見知りのハサーシャがちゃんと相手してる』って驚いたのに」
そんな奴を臨時の店員にするなよ……。
「私の一番の友達です」
「へえ……何やってる子なんだ? てっきりここの関係者かと思ったけど、そうじゃないみたいだな」
「ハサーシャはアルタ群島に住んでるわけじゃないですしね。家はエルスラッドです。割と頻繁に会いに来てくれますけど」
「そうなのか」
島の外の人間……ね。
「ただ、そうですね……何をやってる子かというと難しいですねえ……うーんと……強いて言えばですけど、賞金稼ぎでしょうか」
「え」
なんか、受ける印象から一番遠いかもしれない肩書きが飛び出していた。
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