「部屋」

灯燈鮟鱇

「部屋」

彼は鍵の掛かった部屋の中にいた。

彼の部屋は居心地が良かった。彼は常に自分のことだけを考えていればよかった。

しかし、この頃、彼は出処の分からない喋り声に悩まされるようになった。幻聴とも違う、何か、頭の中に語りかけてくるような囁きは彼に苛立ちを与えた。

彼は部屋の中から隣の部屋の住民に文句を言った。

「さっきからうるさいぞ、少しは静かにしてくれ。」

返事はない。聞こえていないのだろうかと思い、彼は部屋の鍵を開け、半身を乗り出して再び訊ねた。

「おい、聞こえているのか。「」

なお返事はなかった。隣の部屋のドア、あるいは壁は彼の部屋同様、固く閉ざされており、簡単には声が届かないようであった。彼は部屋を出た。

おい、聞こえていないのか。「」

なお返事はなかった。

彼の耳にはなお、やかましい声が共鳴していた。彼の機嫌は次第に悪くなっていった。

「ようし、それならこっちにも考えがある。」

彼は部屋に戻り、戸棚から工具を取り出した。黒い光沢のある大きなハマーである。彼は片手にハマーを携えて、再び部屋を出た。

おい、まだ聞こえないのか。「」

返事はない。

これ以上うるさくしたならお前の部屋のドア、あるいは壁をぶち破ってやるぞ。「」

なお返事はなかった。彼は息巻いてドア、あるいは壁めがけてハマーを振りかざした。

えいやあああ。わあああっ。」

ドア、あるいは壁は見事な音を立ててぶち破れ、彼は隣の部屋に転がり込んだ。

あいててて。なんですあなたは。

うるさい、お前がいくら言っても静かにしないのが悪いのだ、どけ。あいて。」

なんだこの邪魔くさいドア、あるいは壁は。ついでに壊してやろうか。」

彼はドア、あるいは壁をぶち破ったことを謝ることもせず、再びハマーを振りかざした。

えい。

彼のハマーはドアの反対側にあったドア、あるいは壁をもぶち破った。

まだ喋るか。ああ、うちのドア、あるいは壁が。これでは平地ではありませんか。いい気味だ。

どうしてこんなひどいことをするのです。お前の声がうるさかったからだ。

それは誤解です。私の部屋は完全に防音だったのです。音が漏れる訳がない。

なんだと。

考えてみれば、確かに変な話である。

まだ性懲りもなく喋りやがって、こいつ。いて。私じゃないですよ。

なんだと。では、さっきから聞こえている声は何者なんだ。

彼は混乱していた。

うるさいぞ。これは、上から聞こえてきているな。

彼は隣の部屋の住民に命令して、急遽はしごを用意させた。

   あともう少しだ。   

  やかましい。

 成敗してくれる。

うるさいやつめ。

彼はハマーを片手にはしお前がずっとやかましく喋っていた奴だな!ごを上った。(あるいは、はしごを下った。)

えい。(彼はハマーで声の主に殴りかかったが、突如その声の主は消えてしまった。)

こいつ、今度はこんなところに隠れやがったな。(彼の隣にはいつの間にやら丸いドア、あるいは壁が現れていた。)

えい。彼のハマーは丸いドア、あるいは壁をぶち破った。)

追い詰めたぞ、このやろう。彼は舌舐めずりをした。)

えい。)彼のハマーはしかし、空を切った。声の主はまたしても消えてしまった。

えいやあ。彼は腹を立ててもう一枚の丸いドア、あるいは壁をもぶち破った。

どこだ、どこにいる。『冬の夜ひとりの旅人が彼は声の主がどこにいるのか再び見失ってしまった。彼の目の前には隣の部屋の住民が途中まで読んで投げ出したと思われる薄汚い文庫本が転がっていた。』

『冬の夜ひとりの旅人がそこにいるな!』「イタロ・カルヴィーノ彼は文庫本めがけて踊りかかった。しかし、そこに声の主はいなかった。彼は再び隣に現れた鍵の掛かったドア、あるいは壁をぶち抜こうと試みた。」

『冬の夜ひとりの旅人がえい。」「イタロ・カルヴィーノしかし、今度のドア、あるいは壁は隣の部屋のものよりも分厚く、自慢のハンマーを一度振るっただけでは破れなかった」

『冬の夜ひとりの旅人がえいやあ。「イタロ・カルヴィーノ次の一振りで、ドア、あるいは壁はすっかり崩れ落ちた。しかし困ったことには、ドア、あるいは壁の向こうには再びもう一枚のドアが現れたのだった。」

『冬の夜ひとりの旅人がえい。イタロ・カルヴィーノ今度は簡単に破れた。そして嬉しいことに、彼の目的である声の主の姿は破られたドア、あるいは壁の向うにしっかりと見据えられたのだった。」

『冬の夜ひとりの旅人がイタロ・カルヴィーノ今度こそ捕まえてやるからな、覚悟をしろ。あれっ。おい、今度はどこへ行った」彼の目の前から再び声の主の姿が消えた。

『冬の夜ひとりの旅人がイタロ・カルヴィーノえい。もう何枚目か分からないドア、あるいは壁をぶち破ったとき、彼は声の主が文庫本の中の長く続く深淵へ落ち窪んでいくのを見た。深淵にはその流れを止めることのない大きなうねりがあった。彼の足が止まった。彼の頭の中にはこのまま声の主を追っていくべきかいかざるべきかという逡巡があった。もしこのまま壁の残骸を踏み越えてしまえば、長い旅路に誘われることになるだろうと彼は思った。彼にはその勇気がなかった。元来彼は自分が勝てると思われる戦にしか挑まないような人間だった。というのも彼は非常にプライドが高く、その性質は遺伝、そして右派の教育者であった父の影響もあったが、大学時代の恋愛沙汰における敗北が一種のトラウマとなっていたことは記述しておかなければなるまい。


うるさいぞ!


ダニエル・ポンキローリに


第一章


あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。おや、よもや本当にここまでついてくるとは思いませんでしたよ。さあ、くつろいで。黙れ黙れ、下手な饒舌で好き勝手なことばかり言いやがって。精神を集中して。では、あなたには私がこんな下手くそなおしゃべりを続けている理由がお分かりですか? 余計な考えはすっかり遠ざけて。知ったことか、これ以上おれの神経を逆撫でするようなら、二度と喋れないようにしてやる。そしてあなたのまわりの世界がおぼろにぼやけるにまかせなさい。ああ、そんな恐ろしい表情でハマーを振りかざすのはやめなさい。ドアは閉めておいた方がいい。うるさい、元はといえばお前が私の安寧を掻き乱したのが悪いのだ。向うの部屋ではいつもテレビがつけっぱなしだから。さっきからなんなんだ、このノイズは!《テレビは見たくないんだ!》と。むしろノイズはわれわれの方でしょう。連中に聞こえなければ、声を張り上げなさい。権利上の問題もありますからね、ここでお開きにしましょう。《本を読んでいるんだ、邪魔しないでくれ!》なにを訳の分からないことを言うのだ、えい。でもあんなにやかましい音では、あなたの声はおそらく連中に聞こえはしまい。危ない危ない、もしこのあたりにあるものを壊したら弁償じゃすみませんよ、あっ、いけません、そんなところに入り込んでは。そしたらもっと大きな声で怒鳴りなさい、知ったことか、えい。おれはイタロ・カルヴィーノの新しい小説を読もうとしているんだ!》と。


彼のハマーにカチンという馴染みのあるようなそうでないような感触が伝った。バラバラになったドア、あるいは壁を見つめ、彼は呆然と立ち尽くす。なるほど、どうやら彼は大切な《を壊してしまったようだった。バラバラになった《の残骸を彼は拾い集め、元通りに直さなければならない。これは重要な使命ですよ。さぼってはいけません。さあ拾え、拾うのです。どれだけ時間が掛かっても構わない。それはわれわれの生活に、何の影響も及ぼさないのですから。

さあ拾え。拾え。拾え。拾え。


……


もう何枚目か分からないドア、あるいは壁をぶち破ったとき、長いトンネルを抜け出したような開放感が彼の胸中に湧き上がった。彼はしばらく自身のハマーで壊した壁の残骸と、その先にあっけらかんと広がる空間をじっと眺めていた。彼は壁の残骸を踏み越え、外へ出た。

彼の身体にはインクがこびりついていた。シャワーを浴びなければならなかった。

だが、シャワーは一体どこにあるのか?

歩行の先に、彼は透明なドア、あるいは壁を見出した。彼はこれまで何千回何万回何億回と振るってきたハマーを振るい、ドア、あるいは壁を破ろうと試みた。これまで何千何万何億回と破られてきたドア、あるいは壁と同じようなドア、あるいは壁が、これまで何千何万何億回と破られてきたドア、あるいは壁と絶望的に異なるのはそれが全くびくともしない点だった。そしてそれはドアではなく間違いなく壁だった。彼は再びこれまで何千回何万回何億回と振るってきたハマーを振るい、ドア、あるいは壁を破ろうと試みた。これまで何千何万何億回と破られてきたドア、あるいは壁と同じようなドア、あるいは壁が、これまで何千何万何億回と破られてきたドア、あるいは壁と絶望的に異なるのはそれが全くびくともしない点だった。そしてそれはドアではなく間違いなく壁だった。彼は再びこれまで何千回何万回何億回と振るってきたハマーを振るい、ドア、あるいは壁を破ろうと試みた。これまで何千何万何億回と破られてきたドア、あるいは壁と同じようなドア、あるいは壁が、これまで何千何万何億回と破られてきたドア、あるいは壁と絶望的に異なるのはそれが全くびくともしない点だった。そしてそれはドアではなく間違いなく壁だった。

このやり取りがこれまで何千何万何億回と繰り返された末、ようやく彼はとてつもなく甚大で、とてつもなく遠くにある事実に気づいた。

その事実は彼を驚愕させ、同時に、彼を存在させる。

彼はハマーを置く。彼は再び鍵の掛かった部屋を探し始める。

やがて彼は彼の元あった鍵の掛かった部屋に辿り着く。

「」もぬけの殻となった鍵の掛かった部屋は外から見ると遥かに閉塞的で、つまらないものに見える。けれども、彼にはその部屋がとてつもなく魅力的なものに思える。


なぜならすべては鍵の掛かった部屋の中の出来事なのだから。(終)


《引用文献》

『冬の夜ひとりの旅人が』著:イタロ・カルヴィーノ 訳:脇功 白水Uブックス(2016)

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