第61話 私はキスが下手すぎる。あの子はアレが好きすぎる。

 先日、女の子に告白をした。

 私、米村風花(よねむら ふうか)にとって生まれて初めての告白だった。


 結論から言うと告白は大成功。

 私は少女九龍城の住人仲間であり、高校の同級生である夏目瑠璃(なつめ るり)と付き合うことになった。


 その結果に至るまで、私たちの間には青春小説にすると1冊分、少女漫画にすると3冊分はありそうなストーリーが展開された。


 今から4ヶ月前、私が高校進学にあたって少女九龍城へ引っ越してきたばかりの頃、ホームシックにかかっていた瑠璃を慰めてあげたのが全ての始まりだった。


 瑠璃はさる良家のお嬢様であるらしく、四六時中束縛される生活に嫌気が差して、実家から飛び出してきてしまったらしい。しかし、彼女は友達の家へ泊まりに行ったことすらないらしくて、あっという間にホームシックにかかってしまったのだ。

 私は数日にわたって瑠璃の部屋に泊まり込み、お母さんが小さな子供を寝かしつけてあげるかの如く、瑠璃を『よしよし』してあげたのである。


 それがきっかけとなり、瑠璃は自分が女の子を好きになるタイプであることを自覚して、私に恋心を抱くようになったらしい。

 ゴールデンウィーク明けに瑠璃は私に告白してきたが、女の子同士で付き合うなんて考えたことなかった私は告白の返事を保留した。


 瑠璃はそんな私を振り返らせるため、部活動の新体操で忙しい私のためにお弁当を作ってくれたり、宿題やテスト勉強を手伝ってくれたり、ときには体育の授業で飛んできたバスケットボールから身を挺して守ってくれたり……毎日のように私の生活を手助けしてくれた。


 こうなってくると私の方だって、瑠璃に何かをお返ししてあげたくなってくる。心の中では「私も女の子を好きになれたら……」と考えるようになっていて、改めて振り返ってみると私はその時点で瑠璃を好きになっていたのだろう。


 あの頃、1年生にして新体操部のレギュラーを勝ち取っていた私は、周りから嫉妬されて部の中で微妙な立ち位置になっていた。そのとき瑠璃に支えてもらえたことが本当に大きくて、私の心はいよいよ彼女の方へ傾いていった。


 しかし、私の心が瑠璃へ接近するのに反比例するようにして、瑠璃は私から距離を置くようになってしまった。全国大会出場を賭けた夏の県大会が迫り、瑠璃は自分の恋心が私の重荷にならないかと思い悩むようになってしまったらしい。そうしてついには「告白のことは忘れてください」とまで言うようになってしまった。


 県大会の当日、私は瑠璃に逆告白をした。


「私の心の中は瑠璃でいっぱいになってる。瑠璃を好きな気持ちでいっぱいになっていても、全国大会に出場できるって……最高の新体操ができるって証明してみせる! そして、もしも証明できたなら、どうか私と付き合ってください」


 私は宣言通り、団体と個人の二種目で全国大会出場を決めた。

 そうして、私と瑠璃は約束通り付き合い始めたのだが……。


 ×


「よし、いくよ……」

「……は、はい」


 少女九龍城によくあるタイプの六畳一間、瑠璃の部屋。

 ボロい部屋に似合わぬ高級布団の上に、私と瑠璃は向かい合って座り込んでいた。


 正面から手を繋いで、お互いの顔をそっと近づける。


 唇同士が触れ合った瞬間、グミキャンディーのような弾力を感じた。念入りにリップスティックを塗った私たちの唇はしっとりと潤っており、くっつけて離してを繰り返すたびに小鳥がついばむような小気味良い音を立てる。それに対して私たちの呼吸はこの時点で荒くなっており、お互いの呼気を吸い込み合うような有様になっていた。


 私たちはどちらからともなく舌をお互いに絡ませた。

 二人の唾液が混じり合い、私は脳が溶けるような快感に浸った。


 唾液にまみれたちょっとざらざらとした舌の感触が、絡ませれば絡ませるほど心地よさを増幅させる。奥へ奥へと舌を忍び込ませれば、舌の付け根のつるりとした感触や、瑠璃の整った歯並びすらも感じ取れた。


 口の周りが唾液でべたべたになるのお構いなしで、私たちは一心不乱に深いキスを交わし続けたのであるが――


「けほっけほっ!」


 キスの最中、瑠璃が唐突に咳き込んだ。

 私は反射的に彼女から体を離す。

 瑠璃はティッシュを手に取ると、唾液にまみれた口元を押さえた。


「ご、ごめんなさい……少し苦しくて……」

「大丈夫、瑠璃!?」


 初体験の気持ちよさに浸っていた私も一瞬で冷静になった。


「そ、そんなに息苦しかった?」

「それは……その……」


 瑠璃が言い辛そうに視線を逸らす。

 滝から流れ落ちた水の如く、彼女の長い黒髪が布団の上に広がっていた。


 私は新体操をしている都合上、あんまり髪を伸ばせない。そのため、私は瑠璃の女の子らしい長い髪に大きな憧れを抱いていた……というのはさておき、私は彼女を元気づけようと肩をぽんぽんと優しく叩いた。


「あのね、瑠璃。私、すごく気持ちよかったから! それは安心して! ね?」


 しかし、私の励ましは瑠璃には全く通じなかった。

 彼女は「そうではなくて……」と辛そうに首を横に振った。


「たぶん、私が悪いのだと思うのですけど……キスしている間、割と頻繁に前歯同士がカチカチぶつかりますし……密着するしているからまともに呼吸ができなくて息苦しいしですし……唾液が流れ込んでくるので常にむせそうになりますし……」

「そんなに苦しかったの!?」


 予想外の感想を聞かされて、私は目が点になってしまう。

 そのとき、脳裏に電流が走った。


 私はキスして気持ちよかったのに、瑠璃はキスして気持ちよくなかった……このケースはファッション誌のモノクロページに記載されていた『恋人と理想のキスをするために』という特集で読んだことがある。


 これはつまり……私のキスが下手だと言うことだ!!

 それを自覚した瞬間、私は床に体が沈み込むような感覚を覚えた。


「そうか、私……キスが下手なんだ……」

「ふ、風花さんっ!?」


 瑠璃があたふたし始める。

 付き合った女の子のキスがド下手クソなんて、彼女だって想定外だったに違いない。

 私だって瑠璃のキスが下手だったら、きっと動揺を隠せなかったと思う。


「きょ、今日はこの辺にしておこうか……」

「ま、待っください! 風花さん!」


 私はいたたまれなくなって、呼び止められたのを無視して瑠璃の部屋を出た。

 これは是が非でもキスの練習をしなければなるまい。

 自分自身のために……そして何より瑠璃のために!


 ×


 キスの練習といったら『さくらんぼのヘタ』である。


 誰が最初に言い出したのか、私自身どうやってこの知識を知ったのかも分からない。でも、口の中でさくらんぼのヘタを結べる人はキスが上手いらしいと誰もが知っている。というか、それ以外にキスの練習方法を知らない。


 私は空いた時間を利用して、さくらんぼのヘタを使ってキスの練習をするようになった。


 幸いにも学校へ向かう通り道には昔ながらの八百屋さんがあって、いつも新鮮なフルーツが入荷している。私はキスの練習をするために毎朝さくらんぼを買い求めるようになった。それからしばらくして、私は『商店街のさくらんぼ娘』と呼ばれるようになり、商店街のイメージアップキャンペーンになるのだが、それはそれとして……。


 キスの練習を始めてから1週間ほど経過したときのこと。

 少女九龍城の廊下を歩きながら、口の中でさくらんぼのヘタを結ぼうとしていると、廊下の角を曲がった瞬間に誰かと正面衝突してしまった。

 口の中に集中していたせいで前方不注意になっていた感は否めない。


「ごめんなさい!! 大丈夫ですかっ!?」


 私は尻餅をついてしまった誰かさんに手をさしのべる。


「いやあ、申し訳ない。そっちこそ転んだりしてないかのう?」

「え、ええ……体幹は鍛えてるので……」

「んーと、お主は今年の春に入居した瑠璃ちゃんじゃな?」


 私と正面衝突したのは名物住人の倉橋椿(くらはし つばき)さんだった。


 この座敷童にしか見えない年齢不詳の女の子は、学校に行ったり働いたりしている様子もなければ、朝っぱらから酒を飲んだり煙草を吸ったりとやりたい放題。さらには同性の恋人がいるにもかかわらず、あらゆる住人少女たちに手を出しているとか……。別世界の住人にしか思えなかったので、面と向かって話し合うのは今回が初めてだ。


「私の名前、知ってるんですか?」


 中学時代に全国大会ベスト8、新体操部のホープとして知られている学校内ならともかく、少女九龍城での私は完全なモブである。瑠璃とつきあい始めてちょっと名が知れたが、話題に上がったのはそれくらいだ。


 椿さんはニコニコとしながら答えてくれた。


「いつの間にか少女九龍城の長老みたいなポジションになってしまってのう……まあ、悪い気はしないから新入りちゃんの名前くらいは覚えておるんじゃよ。実際のところ、管理人さんの代わりにトラブル対応をすることもあるし……なかなか偉いじゃろう?」


 フンと鼻息を荒くして胸を張る椿さん。

 フリーダムな印象しかなかったものの、割とお茶目な人であるらしい。


「……ん、これは?」


 そんな椿さんが廊下に落ちていた何かを拾い上げる。

 それは私の口にあったはずのさくらんぼのヘタだった。

 どうやら、椿さんとぶつかった拍子に吐き出してしまったらしい。


 私は知らんぷりして顔を背けたものの、


「もうもう、瑠理ちゃんってば! こういうことならわっちにお任せじゃよ!」


 察しの良い椿さんには一発で見抜かれてしまった。

 背中からじわっと汗が滲んでくる。


「な、なんのことですかね……」

「よだれまみれのヘタが落ちてるのに今更誤魔化してもしかたないじゃろ? キスの有権者には心当たりがあるから、早速そいつのところへ行ってみよう。ほらほら、恥ずかしがってたら何も始まらないぞい?」

「キスの有識者ってなに!?」


 椿さんが私の手をつかんで歩き始める。

 強引に手を振り払おうとも思ったけど、1週間の訓練でキスが上達した実感はなく、これ以上キスが上手くなるためのとっかかりもない。

 私はわらにもすがる思いで、椿さんに引っ張られていった。


 食堂の片隅に連れて行かれて、有識者の到着を待つこと十数分。


「やあ、きみがキスの指南を受けたい子かい?」


 キス魔として有名な住人仲間、桃原杏子(ももはら きょうこ)がやってきた。


 すらりと身長が高くさっぱりとしたショートカット。

 鼻筋の通った顔立ちに自前の長い睫毛。


 バレー部にでもいそうな女子校でモテるタイプの見た目をしているが、彼女が通りかかった女の子全員の唇を狙うサイコパスであることを私は知っている。なんたって少女九龍城へ引っ越してきた当日に狙われた。あのとき、偶然通りかかった虎谷スバル(こたに すばる)さんに助けてもらえなかったらどうなっていたことか……。


「うわっ」

「そんなにドン引きされると傷つくんだけど……」

「それだけのことをしたじゃないですか」


 こなれた先輩住人たちならともかく、新入りの唇を狙うとは……私以外にもトラウマになりかけた子がいるに違いない。


 私と椿さんと杏子さんは食堂の隅っこのテーブルで顔を合わせる。

 周りの子たちからはどんな集まりだと思われているのだろうか。


「……で、杏子。この子にキスの極意を教えてやってはくれんかのう?」


 椿さんは加熱式の電子煙草をくゆらせている。

 杏子さんが「ふっふっふ……」と不敵な笑みを浮かべた。


「ずばり、キスは雰囲気が8割!!」

「私、恋人との初キスで失敗したんですけど……」

「…………」

「あなた、本当にキスガチ勢なんですか? キスエンジョイ勢なんじゃないですか?」

「うぐっ!?」


 うめき声を上げるなりテーブルに突っ伏してしまう杏子さん。

 これには助けを呼んだ椿さんも顔をしかめていた。


「お主、あんまり成長してないのう……本当にキス100人斬りしたんじゃろうな?」

「しましたよ! それにあの殺人鬼とも対決して修羅場もくぐりましたし!」

「殺人鬼と戦ってもキスは上手くならんじゃろ……」


 心の傷を的確に抉られたらしく、杏子さんが椅子から滑り落ちた。

 もはや立ち上がることもできないようで、彼女は這って食堂から出て行った。


 あの人、何しに来たんだろう……。


 椿さんが吸い終わった電子煙草をしまった。


「うーん、杏子が頼れないとなるとわっちが教えるしかないかぁ……」

「……あっ! もしかして、最初からそっちが目的ですね!」


 私はガタッと音を立てて椅子から立ち上がる。

 杏子さんがまともにアドバイスできないのは織り込み済みで、最初から自分がキスの指南役を買って出るつもりだったのだろう。


 くっ……油断した!

 危険な噂は何度も聞いていたのに、わらにもすがる思いでつい気を許してしまった。

 遠慮します!

 そう言って立ち去ろうとしたときだった。


「私の目の前でなーにナンパしてるんですか!」


 椿さんの背後に彼女の恋人、加納千鶴(かのう ちづる)さんが現れた。

 みんなからチズちゃんと呼ばれている彼女には私もお世話になったことがある。


 チズちゃんが椿さんの首根っこをつかんだ。


「ここ最近、火遊びが過ぎるんじゃないですか?」

「いやいや、これはチズちゃんにやきもちを焼かせたくてのう……」


 他人をダシにして恋人の気を引かないでいただきたい。


「そういうありきたりな言い訳は結構です。まあ、今回は地図作りで椿さんを数日ほったらかしていた私も悪いですから大目に見ますけど……とりあえず、このナンパの罰はきっちり体で払ってもらいますからね」

「んもーう、チズちゃんだって結局はヤりたいだけなんじゃろう?」

「椿さんにやってもらうのは地図の詰まった段ボールの整理です」

「うわーん! 年配者の腰をいたわれ!」


 椿さんは謎の訴えを叫びながらチズちゃんに引きずられていった。

 私は食堂から出て行こうとしたチズちゃんを呼び止める。


「あの! チズちゃんに聞きたいことが!」

「……はい、なんでしょう?」


 チズちゃんが不思議そうな顔をして振り返る。

 私が知っている女の子同士で付き合っている人で、しかも数少ない常識人……キスのコツを聞ける相手は彼女くらいしか思いつかなかった。


「私、キスがすごい下手なのでコツとかあったら……」

「キスのコツ、ですか?」


 聞かれて目を丸くするチズちゃん。

 彼女はうーんと唸って考え込んだあと、急に自信満々の顔をして答えた。


「キスは勢いが8割だと思います」


 あ、うん……この人、割と脳筋だな。


 チズちゃんは椿さんと引きずって、廊下の向こうへ去って行った。


 ×


 キスの練習を始めて2週間が過ぎた。

 キス上達のコツを誰からも聞けないし、さくらんぼのヘタを結ぶこともできないし、私はすっかり行き詰まってしまっていた。


 瑠璃は「キスだけが愛情表現じゃないから……」と慰めてくれたものの、この米村風花、一人の女としてキスで恋人をメロメロにしてみたい。独りよがりなキスを卒業しないで、一人で気持ちよくなってるような人間にはなりたくなかった。


 こうなったら、瑠璃の前に誰か別の人で練習を……。

 いやいや、そんなのは駄目だ! なんてことを考えてしまったんだ、私は!

 でも、私がキスの練習をしているうちに瑠璃の心が離れていったらどうしよう……。


 最近は少女九龍城でも学校でもあまり話せていない。いや、それは私が「今はキスの練習に集中したい」と言ってしまったからなのだが……というか、キスの練習に集中したいってなんなの? キスのプロアスリートなの?


 なんてことを考えながら、夕暮れの少女九龍城を歩いているときだった。

 夕日の届かない廊下の暗がりから、微かに瑠璃の小声が聞こえてきた。


 私は気になって暗がりを覗き込む。

 階段の裏側に隠れるようにして、自称ジャーナリストの二宮梢(にのみや こずえ)さんと瑠璃がコソコソと密会していた。二宮さんから7~8枚はある写真を受け取ると、瑠璃はそれを封筒にしまって廊下の奥の方へ去って行った。


「あのぅ……二宮さん?」

「うわ、びっくりした!?」


 眼鏡が浮き上がるほど驚く二宮さん。

 私は振り返った彼女の前へ歩み出た。


「さっき、瑠璃と話してましたよね?」

「話してたッスけど……」

「写真、何を買ったんですか?」


 二宮さんは壁新聞を発表している自称ジャーナリストであるものの、ぶっちゃけると本業は盗撮である。


 住人少女たちの赤裸々な私生活を盗撮して、それを同じく住人少女たちに売っているのである。盗撮写真というと悪いことに使われるイメージしかないが、住人少女たちはあくまで個人の楽しみだけにとどめているらしい。酒に煙草に不純異性交遊……常識や倫理観の欠片もない人たちの集まりなのに、どうしてそういうところだけしっかりしているのか。


「顧客情報は明かせないッス」


 二宮さんはすっぱりと断言した。


「というか、米村さんと夏目さんは恋人同士なんスから、回りくどいことしないで直接聞いたらいいじゃないッスか」

「それができたら……はっ!?」


 そのとき、私の脳裏に電流が走った。

 このシチュエーション、少女漫画で読んだことがある!


 男子たちが女の子の写真を売り買いしていらしいと聞いて急行すると、そこには気になる男の子くんの姿が! てっきり男の子くんもクラスで一番の美少女の写真を買ってるのかと思ったら、なんと彼が買い占めていたのは私の写真で、しかも「他のやつらにお前の写真を渡したくなかったんだよ」なんて言ってきて……。


 つまり、このパターンで考えると瑠璃が買っていたのは私の写真の可能性大!

 なーんだ、簡単な話じゃないか。

 それなら早速、瑠璃にコソコソしなくてもいいって教えてあげなくちゃ!


 私は二宮さんと別れて瑠璃の部屋へ向かった。


「瑠璃、入るよ~っ!」


 意気揚々とドアを押し開ける。

 その瞬間、


「きゃ――――――――――っ!?」


 これまで聞いたことのない切羽詰まった悲鳴が聞こえてきた。


 瑠璃はちゃぶ台の前で写真を眺めていたらしく、彼女の手から30枚はあろうかという写真が部屋中にばらまかれた。


 床に広がっていた彼女の黒髪がぶわりと逆立つ。

 瑠璃は顔を真っ赤にして、畳の上にばらまかれた写真をかき集め始めた。


「み、見ないでください! 風花さん、あっち向いててください!」

「隠さなくて大丈夫だよ、瑠璃。私は分かってるから……」


 私も一緒になって写真を拾い上げる。

 瞬間、予想外の出来事に全身が硬直した。


 写っていたのは私ではない……レオタード姿の住人少女たちだった。

 いわゆるコスプレ写真である。


 新体操、器械体操、バレエ、アイススケート……本格的なスポーツ用品にステージ衣装、それからエッチなコスプレ用に至るまで、多種多様なレオタードが揃っている。それらの中には思い切り『行為の真っ最中』の写真も少なくない。


 こ、こんなフェティッシュでエッチな写真をド清楚な瑠璃が……いや、それよりもっと気にするべきことがある。瑠璃がレオタードフェチであるとするなら、もしかして私と付き合ってくれた理由って――


「ち、違うんです! これは違うんです!」


 かき集めた写真を抱きしめるように隠しながら、瑠璃は目に大きな涙を浮かべていた。

 彼女の縮こまって涙ぐんでいる姿は、まるで母親に叱られている小さな子供のようだ。

 私は思い浮かんだ最悪の想像も忘れて、瑠璃の頬を伝う涙のしずくに見入っていた。


「ち、違うって……それは……」

「レオタードを好きになってしまったのは風花さんを好きになったあとなんです!」


 瑠璃はそれから一気にまくし立てた。


「それは神様に誓って確かなことです。風花さんの神聖なユニフォームを性的な目で見るのはいけないことだと思って……でも、胸の奥からあふれてくる邪な気持ちは押されられなくて……それならせめて、誰か別の方のレオタードで気持ちを誤魔化そうと……」

「は、はぁ……なるほど……」


 あまりの必死な物言いからして、言っていることが嘘でないのは直感で分かる。


 瑠璃は今時珍しい箱入り娘で、漫画もアニメもドラマもろくに知らなかった。そんな彼女にとって『レオタードというコスチュームにエロスを見出す』という体験は、私のような俗人には想像だにしない罪悪感を引き起こしたに違いない。


 今になって思うと、私は夏目瑠璃という少女を正しく見えていなかったのだろう。スポーツしか能のない私を優しくて気の利くパーフェクトガールの瑠璃が応援してくれる。でも、実際はそうじゃない。瑠璃にだって人には見せたくない……表現の仕方に困るが、いわゆる『闇』の部分が存在していたのだ。


 私は瑠璃に歩み寄って、そっと彼女を抱きしめる。

 そんな風にされるとは思っていなかったのだろう。

 瑠璃はビクッと背筋を震わせていた。


「風花さん、どうして……」

「むしろホッとしちゃったよ。ちょっとした弱点とか、ちょっとした偏りがあった方が、人間って人間らしいと思うじゃん? 瑠璃も私みたいな普通の人と変わらないんだって思えて、なんだか告白される前よりも親近感が湧いてきちゃった」

「赦していただけるんですか?」

「赦すも何も、私のレオタード姿でエッチなことしたいなら言ってくれたらいいのに! なんならシャワー浴びてないムレムレのまま駆けつけようか? あ、そういう汗フェチの要素はない? 試合用のユニフォームじゃなくて、コスプレ用のやつを着てもいいし……」

「待って! 待ってください!」


 熱くて仕方ないのか、瑠璃が顔の前で手をパタパタする。


「そんなに嬉しいことをいきなりたくさん言われても困ります!」

「あっ、ちゃんと嬉しいんだ……」


 瑠璃の心が私から離れていないと分かって、私も心の底から安堵する。

 安堵のため息をつきながら、瑠璃の膝枕に思い切り頭を預けた。

 なんだか一人で思い悩んでいた時間がバカみたいだ。


「ねえ、瑠璃。私のキスの練習に付き合ってくれない?」


 瑠璃に膝枕をされながら問いかける。

 こちらを見下ろしている彼女の黒髪がまるで天蓋のように私を包んだ。


「それはもちろんっ! もちろんお手伝いしますっ!」


 瑠璃が前のめり……ならぬ前屈みになる。

 さっきまで泣いていたのに今は太めの眉がきりりとしていた。


「風花さんからそう言ってもらえて本当によかったです! 私とキスをするのに練習なんていりません。私が誠心誠意を込めて、風花さんにキスをお教えします。それが風花さんの恋人である私の使命なのですから!」

「そ、そんな急に気合いを入れなくても……むぐっ!?」


 膝の上にのせていた私の頭を下ろして、押し倒すようにして瑠璃が迫ってくる。

 こうして突発的に私と瑠璃のキス練習が始まったのだった。


 ×


 翌日、食堂で朝食を食べている私たちの唇は、リップがたっぷりと塗られてぷるんぷるんになっていた。


 というのも、キスの練習をやり過ぎてしまったせいで、唇がヒリヒリするようになってしまったからである。それに加えて舌とあごもかなり疲れているため、私たちはわざわざキッチンを借りてお粥を作って食べていた。


「風花さん、まずは私のキスをひたすら受け身になって感じてください。口の中に入ってきた異物につい反応してしまうのは、赤ちゃんがママのおっぱいを吸うときと同じ反応なので、風花さんもついやってしまっているのでしょうが、今はとにかく私のキスの仕方を覚えてもらいます。いいですね?」

「わ、分かったよ……でも、反射的に舌を絡めちゃって……」

「もしかしたら、風花さんは口の中に異物が侵入してくることに抵抗感があって、それ故に私の舌を押し返そうとして反射的に舌を絡ませてしまうのかもしれません。実際、私に舌を入れられていたときはとても体をこわばらせていましたね」

「そういえば小学生のとき、口の中にアイスバーを突っ込まれて吐きそうになったことがあったなぁ……」

「それがトラウマになっているに違いありません。私がトラウマを払拭して差し上げます。恋人の舌は怖くありませんよ、風花さん? まずは私の舌を素直に受け入れるところから始めましょう。」


 キス上達の道のりは長く険しい。

 今日から毎晩、寝る前に1時間みっちりキス練習だ。


 新体操の全国大会で優勝する。キスも上手くなる。

 どっちもやらなくちゃいけないのが、瑠璃の恋人である私の責任だ。


 世の中にはせっかく大恋愛の末に結ばれたというのに、体の相性が悪すぎたり、相手が下手なのに言及できなかったりして別れてしまうカップルもいると聞く。そういう方々に比べてみたら、私はなんと恵まれていることだろうか。


 今晩はレオタードを着て、瑠璃の気分を盛り上げてあげよう。

 そのときの光景を想像して、私はちょっぴり背徳感を覚えてドキドキするのだった。


(おしまい)

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