第12話 虎谷さん、犬を拾う
私の名前はカイ……犬だ。
つい先日までは野良犬だったが、今は虎谷スバルという少女の部屋で暮らしている。路地裏で衰弱して、雨に打たれているところを彼女に拾われたのだ。スバルはご主人様であると同時に、とても大切な命の恩人なのである。
スバルの留守を私は守っている。なぜだかは分からないが、彼女は太陽の出ている間、学校と呼ばれる場所に行っているらしい。そして、そこでは勉強というものに励んでいるのだという。生きていくために必要なことを教わっているのだとか。
改めて考えてみると、スバルはいたいけな少女である。毛並みは立派だが、あまり迫力というものがない。動きはすばしっこいので、獲物を仕留めるのは得意そうだけれど……縄張り争いになったら簡単に負けてしまいそうだ。
スバルの身は私が守らなければいけない。
今は留守しか守らせてもらえないけれど……。
「ただいまー」
ぬいぐるみを囓りながら待っていると、日没を過ぎてからスバルが帰ってきた。
熊のぬいぐるみを放りだして、私はスバルの体に飛びついた。
トレーを持っていた彼女は、とっさに万歳をして私のことを受け止める。
「わわわ、ちょっと待って! お盆だけ置かせて!」
私に押し倒されそうになりながら、スバルは夕食の載ったトレーを机に置いた。
それから、ベッドに仰向けで倒れ込む。
私はスバルの上にまたがると、彼女の顔をペロペロとなめ回した。
好き! 超好き!
私はスバルのモノだけど、スバルだって私のモノだ!
けれど、彼女の体にまとわりつく匂いを吸い込んで、私はケホケホとむせ返った。信じられないくらいに煙たい。焼却炉の灰でもかぶってきたのだろうか。鼻がムズムズとして、喉の奥がイガイガとする。
「ご、ごめんね、カイ。管理人さんとお話ししてたから……」
申し訳なさそうなスバル。
その管理人というやつが、彼女をこんなに煙たくした犯人なのだろうか? ……そうだとしたら、かなりの要注意人物だろう。好きこのんで煙たくなっているのだろうから、管理人というやつは正気の沙汰ではない。
煙たくなった服を脱いで、スバルはパパッと部屋着に着替えた。
それから、夕食の載ったトレーを床に下ろす。
炊きたてのご飯、具がたっぷりのおみそ汁、白身魚の煮たやつ。
ご飯におみそ汁をかけてもらい、私は茶碗に顔を突っ込んだ。ガツガツと食べる。スバルはその間に、白身魚に残っている小骨を取り払ってくれた。白身魚の煮たやつもありがたく食べる。ちょっと量が少ないけれど贅沢は言ってられない。
食事を食べ終わって、私はホッと一息つく。
お腹が空いていては守るモノも守れない。
私が口の周りをペロペロとなめていると、
「あーっ!」
スバルが唐突に大声を上げた。
振り向くと、彼女はベッドに座って熊のぬいぐるみを抱えていた。
「エドワードが怪我してる!」
スバルの言うとおり、ぬいぐるみの右肩がほつれてしまっている。そして、裂け目からは白い綿が飛び出ていた。
「カイがやったんでしょ! 歯形が付いてるし! よだれで濡れてるし!」
無論、私がやったのである。
たかが無生物のくせに、あのエドワードというやつはスバルの寵愛を受けすぎなのだ。犬とぬいぐるみ――どちらが高等な存在であるのかを、その柔らかボディに教えてやったに過ぎない。エドワードが傷を負ったのは当然の報いである。
これでスバルは完全に私のモノだ。
そう思っていたのに――
「こういうことしたら、ダメ! エドワードが可哀想でしょ! 私、怒るからね!」
スバルはすごい勢いで怒ってきた。
体がビクンとする。
彼女に怒られたことなんて一度もなかった。そのため、私は恐怖のあまりに全身から力が抜けてしまう。腰が抜けたというやつだ。
そして、ジョロジョロ……と。
怒り顔だったスバルが、驚いてピョンと飛び下がる。
「カイがお漏らししたーっ!」
彼女は必死になって、大量のティッシュで水たまりの広がりを防いだ。
私は小さくうずくまり、ただただ自分の失態を痛感していた。
……仕方のない話なのだ。
犬はビビると漏らす生き物なのだ(喜びすぎて漏らす時もあるけど)。
いつか、きっと、ビビッても漏らさない立派な犬になりたい。スバルを守りたいという気持ちもあるけれど……なんていうか、その、みっともないから。
「管理人さんから雑巾を借りてこなくちゃ……」
ぐったりとうなだれて、スバルは部屋から出て行くのだった。
×
ここ最近、スバルは日付が変わるまで勉強に勤しんでいる。とはいえ、獲物を仕留める練習をしているわけではなく、机に向かって必死に何かを記憶しているようだ。縄張り争いの基礎知識でも学んでいるのだろうか?
こっくりこっくりと、椅子の上で船を漕いでいるスバル。
一方、私は妙に元気が余っている。なにしろ、私はこの小さな部屋で一日を過ごしているのだ。大暴れしたら、私が匿われていることが周囲にバレてしまうだろう。そのため、なるべく大人しくする必要がある。
けれども、体を動かしたくなるのは犬の本能だ。縄張りをパトロールしたり、スバルの投げたフリスビーをキャッチしたり、可愛い子を追い回したりしたい。このままだと、生きていくために必要な野生も失われてしまう。
ソワソワと落ち着かず、私は部屋中をうろうろと歩き回る。
机に頭をぶつけて、スバルが「んみゃあ!」と変な声を出した。
「あぁー。私、寝ちゃってたかー」
それから、彼女は大きく背伸びをする。
「テスト勉強、つまんないなー」
スバルは開いている窓に目を向けた。
網戸越しに黄色い月が見える。リズミカルな蛙の声が聞こえてくる。季節は夏に近づきつつあって、今日もたっぷりと汗をかいてしまった。スバルも下敷きを使って、パタパタと自分を扇いでいる。
振り返ったスバルと目が合った。
「……いいところに連れて行ってあげるよ、カイ」
ニコッと笑顔になって、彼女はひょいとキャスター付きの椅子から降りる。
私は嬉しくなって、お尻をフリフリと振った。
×
お散歩にでも連れて行ってくれるのか思っていたが……実際に連れて行かれた場所は、タイル張りになっている湿っぽい小部屋だった。格子付きの小さい窓があるだけで、やたらと閉塞感がある。
なぜかは知らないけれど、スバルも服を脱いで裸になっていた。
彼女は細長いひものようなモノを掴むと、キュッと取っ手のようなモノをひねる。
途端、ひもの先端から水が噴き出してきた。
私は気づいた。これはシャワーというやつだ。スバルは毎晩、シャワーを浴びて体を綺麗にしたがるのだ。縄張りを主張するには体臭だって必要である。それなのに、スバルはやたらとシャワーを浴びたがる。謎だ。
ともあれ、水浴びなんぞしてはいられない。
シャワー室から出ようとすると、
「逃げちゃダメ!」
スバルが背後から私のことを羽交い締めにした。
どうにか振りほどこうとするが、彼女は私に足まで絡めてくる。それと、脱衣所に繋がるドアの開け方がよく分からない。なにこれ、押せば開くんじゃないの? さっき、スバルは押して開けてたよ?
「カイ、くさくなってる。洗ってあげるから、じっとして」
シャワーを押しつけてくるスバル。
原理は不明だが、シャワーからは水ではなくお湯が出るようになっていた。
お湯が体毛にしみ込んで、皮膚までじっとりと濡らしていく。その感覚が気持ち悪くて、私は思わず身震いしてしまった。
「……うわ、水が濁ってる」
仕方がない。シャワーなんて浴びたのは初めてなのだ。
それから、スバルは謎の白い固体をこすりつけて、私の体をあわあわのもこもこにした。シャワーで洗い流すと、体に染みついた汚れが剥がれ落ちていった。あの石けんと呼ばれている物体は、かなり強力な劇薬である気がする。
「カイが綺麗になったし、私も洗おうっと」
こんな劇薬を毎日使っていて大丈夫なのだろうか――そう思った矢先、スバルも石けんを使って体を洗い始めた。
……そんな劇薬に頼らなくても、汚れたところくらい舐めてあげるんだけどなぁ。
スバルは体のあわあわをシャワーで洗い落とす。すると、汗でジットリとしていた彼女の肌が、剥きたてのゆで卵(今日の朝食に出た)のようにツルツルになった。
可愛すぎる。
スバルが部屋の外で不良犬に襲われたりしないか、なおのこと不安になってきた……。
風呂場を出て(ドアは引かなければ開かなかった。全然、気づかなかった)、彼女は私の体をタオルで拭いてくれる。それから、ぐっしょりと濡れた毛をドライヤーで乾かしてくれた。ドライヤーの世話になるのは拾われた日以来だ。
「石けんで体を洗うと、いい匂いがするようになるでしょ?」
髪の毛を乾かしているスバル。
私は床に這いつくばって、足下から彼女の匂いを嗅いでいく。花畑にいるかのような心地よい匂いが、確かにスバルの全身から漂ってきていた。汗をかいたスバルの匂いも好きだが、こっちの匂いも悪くはない。
「……カイ、くすぐったい。顔、変なところに突っ込まないで」
鼻先でスバルの体をなぞる。
すると、彼女のお腹が唐突に大きな音を立てた。体の中に怪獣でも飼っているのではないかと疑いたくなるような音だ。
見上げると、スバルは恥ずかしげに顔を赤くしている。
その時になって、馬鹿な私は初めて気づいた。
私が食べている食事――あれはきっと、本来はスバルの分の食べ物なのだ。犬には犬らしい食べ物がある。そうでなくても、もっと食べ残しを持ってきました……という感じになるはずだ。だけど、あれは人間用の食事そのものだった。
スバルはまだ子供だ。狩りだって出来ない。それなのに、自分の食事を我慢してまで、私のために食べ物を譲ってくれるのだ。
だというのに、彼女は強がってエヘヘと笑顔を見せる。
私は決心した。
彼女のために食料を集めるのだ。
×
深夜、人間が深く寝静まった頃……寝たふりをしていた私はむくりと起きあがった。
スバルは部屋の電気を消して、ベッドでぬいぐるみを抱えながら眠っている。
電気を付ける必要はない。私は犬なので夜目が利くのだ。
彼女の部屋を出て、私は嗅覚に意識を集中させる。
この建物にはたくさんの少女が住んでいる。そして、人間の食事が毎日大量に作られているのだ。必ずどこかに食料の貯蔵庫があるはず。
得体の知れない匂いに混じって、私は食べ物の匂いをキャッチした。
匂いだけを頼りにして歩く。
周囲からは物音一つしない。明かり一つ付いていないのは好都合だ。人の気配も感じられない。万が一、姿を見られるようなことがあったら――その時には手段を選んではいられないだろう。
様々な匂いが集中を妨げようとしてくる。意識しなければ無視できるが、匂いに集中してると無駄な情報まで拾ってしまうのだ。かなり神経を使う。その点、スバルの部屋は心地よい。息をいっぱいに吸っても、スバルの匂いしかしないからだ。
開きっぱなしになった戸の隙間から、私はスッと体を滑り込ませる。
食べ物の匂いが集中している。おそらく、ここが人間たちの食事場所なのだろう。夕食に出た煮魚の匂いが残っている。
私は肉の匂いを感じ取って、部屋の隅にある大きな箱に歩み寄った。
白い縦長のモノで、ドアが二つも付いている。ブゥウウンと重低音を鳴らしており、得体の知れない恐怖を感じた。どことなく、周囲の空気が冷えているようにも感じられる。こんな物体は生まれて初めて見た。
ドアを押してみるが……開かない。
そこでピンと来た。押して開けるドアは、戻ってくるときは引いて開けるのだ。そうだとしたら、最初から引いて開けるドアも存在するのではないだろうか。
案の定、ドアは引っ張ってみると開いた。
白い箱の中は冬のように冷えている。そして、その中段に大きな肉のかたまりがドンと鎮座していた。寒い場所に肉を置いておけば、それだけ腐るのが遅くなる……素晴らしい人間の知恵に感動する。
この肉を食べさせてあげたら、きっとスバルはお腹いっぱいになるだろう。十分な栄養も補給できて、元気いっぱいに勉強できるはずだ。
肉の載ったトレーを口で引っ張る。
刹那、私は嗅ぎ覚えのある匂いをキャッチした。
この異常に煙たい匂い――管理人だ。燻臭い要注意人物だ。こちらに近づいてくる。
一生の不覚だ。肉の匂いに気を取られ、接近されるまで気づかなかった。
「氷結、残ってたかなぁ……あれ? 冷蔵庫が開いて、」
相手は私の存在にまだ気づいていない。
姿を見られる前に仕留めるしかない――私は意を決して管理人に飛びかかる。
身を伏せて滑るように回り込み、背後から羽交い締めに!
このまま締め落として――
「せいっ!」
と思ったら、次の瞬間……私の体が宙に浮いていた。
上下反転した視界に映ったのは、腰を深く落として構える管理人の姿である。
「摘み食いは許さんっ!」
そして、彼女のアッパーカットがみぞおちを捉えた。
「きゃんっ!」
私は今までに出したことのない変な悲鳴を上げる。それから、受け身を取る余裕もなく床に落下した。あとは猛烈な吐き気を我慢するだけで精一杯だ。諦めずに立ち上がるとか、足に食らいつくとか……そんなことは出来ない。
「私にこの技を使わせたのはあんたが初めてだよ……」
決めポーズを解いて、管理人が私の方に振り返る。
そして、彼女は小首をかしげた。
「――全裸の女の子? なんで?」
×
翌朝、私とスバルは食事場所に連れてこられていた。寝間着から着替えてない少女たちが、周囲にわんさかと集まっている。犬である私に興味津々なのか、代わる代わる見物に来ているのだ。
私の方は……なぜだか人間専用の洋服を着せられていた。スバルの洋服はサイズがピッタリだったけれど、常に体を触られているような感じで気持ち悪い。座らされている椅子というものにも慣れなかった。
先ほどから、人間たちはあれやこれやと話し合っている。あまりにも早口なせいで、私の耳では聞き取れない。スバルがゆっくりと話してくれたら、なんとなく意味を察することくらいなら出来るのだけど……。
「拾って来ちゃった!」
てへ、とするスバル。
管理人がガクッと肩を落とした。
「犬猫みたいに人間を拾ってくるなっての。まぁ、少女九龍城にはワケの分からないやつが勝手に住み込んでるから、今さら細かいことを言うつもりはないけど」
「ペットってことでいいんでないかの?」
赤くてだらしない格好をした少女が言う。
すると、管理人がそいつのつむじを指で押した。
「軽く人権無視するなっつーの!」
「あばば! つむじをプッシュするとか、わっちの人権はどうした!」
強烈な攻撃を受けて、赤くてだらしない格好の少女は一目散に逃げ出す。
フン、と管理人が鼻を鳴らした。
「ていうか、本当に自分を犬だと思ってるのかな? 犬の振りをして、タダ飯にありつこうって魂胆とか。うちに迷い込むような子だから、それくらいの変態である可能性は高いだろ。前にも色々あったし……」
周囲の少女たちが「うーん……」と複雑そうな表情で唸った。
その中の一人――地図にしか興味のなさそうな美少女が、とても苦々しい顔でボソリと意見を述べる。
「幼児退行を通り越して、前世の記憶が掘り起こされた――という感じでしょうか? 精神的なショックを受けると、そういうことが稀にあるって……テレビでやっていましたけど。本当にあるんでしょうかね」
「精神的なショックを受けた状態で、路地裏に裸で放り出されてるとか……いや、深く考えるのはやめておこう。そういうのは医者や警察の仕事だ」
視線を逸らす管理人。
彼女の体にスバルが飛びつく。
「アルバイトするから! 食費も入れるから飼ってもいいでしょ、お母さん!」
「誰がお母さんだ!?」
地図にしか興味のなさそうな美少女も、一緒になって頭を下げる。
「私からもお願いします、お母さん」
「違う! 私はそんな年齢じゃない!」
一方、赤くてだらしない格好の少女が、どこかから荷物を抱えて戻ってきた。
椅子に座っている私に馴れ馴れしく擦り寄ってくる。
「ビーフジャーキー食べるかの? 犬耳、付けるかの? 首輪、付けるかの?」
がぶり。
「噛んだ! こいつ、わっちのことを噛んだ!」
「お前は噛まれて当然だ!」
赤くてだらしない格好の少女が、再び管理人によって追い払われる。
……この頭と首に付いてるやつ、なんか取れないんだけど?
でも、この薄っぺらで乾燥した肉は美味しい。噛めば噛むほど味が出る。
私のことを見下ろして、管理人が深々と息を吐いた。
「わかった。身元がわかるまで、少女九龍城で預かることにする。スバルはその代わりに、ちゃんとカイの分の食費を入れろよ」
「ありがとう、お母さん!」
「……もういい。私は氷結を飲む。明日は日曜日だから」
去っていく管理人。
話の内容はよく分からなかったが、どうやら良い方向に進んだようである。
スバルが満面の笑みを浮かべて、拘束道具と格闘する私に抱きついた。今までで一番、強い力で私のことを抱きしめてくれた。おそらく、昨日の夜にシャワーで体を綺麗にしたからだろう。人間世界だと毎日のシャワーは必須なのだ。
お返しにスバルの顔をペロペロとなめる。
くすぐったいらしく、彼女は「にゃはは!」と声を上げて笑った。
瞬間、殺気を感じて私は振り返る。
「……どうしたの、カイ?」
振り向いた先――食事場所の隅っこに、三白眼の背の高い女が立っていた。幽霊もビビッて逃げ出すような眼光を私にぶつけてきたのである。スバルは気づいていないようだが、私には物理的な衝撃すら感じ取れた。
あいつとは長い戦いになりそうな気がする。
私は改めて、スバルを守る決意を固めるのだった。
(おしまい)
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