第8話 最後のサムライ少女

 私の名前はキャサリン・クラフト――俗に言うアメリカ人だ。

 虎谷さんの部屋でマリオUSAをやったとき、ピンク色をした怪生物がキャサリンという名前だと知って、少なからずショックを受けた。以来、女子寮の住人には『キャシー』と呼ぶように徹底している。


 私の朝は一に洗顔、二に歯磨き、三に素振り千本だ。

 少女九龍城の庭に出て、ラジオ体操を済ませてから木刀を振る。ここに住むようになってから、一日も欠かさず続けている日課だ。サムライは一日にして成るものではない。日々の積み重ねが重要なのだ。


 朝の訓練を終えて、私は朝食を取りに食堂へ向かった。

 食堂には寝ぼけまなこの少女たちが集まっている。とはいえ、これでも私より起きるのが一時間以上も遅い。規則正しい生活を送っている人間が、日本人には多いのだと思っていたが……ここに住んでいる少女たちは違うようだ。

 中央のテーブルでは、住人仲間の加納千鶴さんがぐったりと伏せっていた。


「おはよう、千鶴さん」


 私が挨拶すると、彼女はゾンビのような挙動で顔を上げる。


「……おはようございます、キャシーさん」

「ずいぶんとツラそうだけど、大丈夫?」

「テスト勉強をしなくちゃいけないのに、ついつい地図作りに夢中になっちゃいまして。それで、今日にしわ寄せが来てしまいました」


 彼女は地図作りに欲情するという難儀な性癖なのだ(と、椿さんが言っていた)。


 千鶴さんの健康を祈りつつ、私は台所まで朝食を取りに行く。

 ご飯、みそ汁、納豆で朝食は十分。

 千鶴さんと同じテーブルまで戻ってきて、私はブラウン管テレビの電源を入れる。すると、時代劇の再放送が映った。上様を乗せた白馬が浜辺を駆けている。あんな立派なサラブレッドが江戸時代にいるはずはないのだが。


「相変わらず、うなじが舐めたいくらい綺麗じゃの?」


 私が白米を咀嚼していると、いつの間にか倉橋椿さんが食堂に来ていた。

 彼女は常に赤襦袢を着ている不思議な少女だ。少女九龍城の中で、もっとも日本的な格好をしていると言えばそうなのだが……何か釈然としない。


「金髪のポニーテールも素敵じゃ。思わずモフモフしたくなる」

「誉めてもらうのは嬉しいんだけど、そろそろ黒に染めようかなって……」

「なんと、もったいない」


 もったいないと言われても、私が目指しているのはサムライなのだ。金髪碧眼のサムライがどこにいるというのか。将来的には髪を黒く染めるだけでなく、黒いカラーコンタクトを付けるつもりだ。

 椅子に腰掛けながら、椿さんがくわえた煙草に火を付ける。


「とはいえ、姿形だけサムライになっても仕方がない。なにしろ、今の日本に武士はいないからのう……」

「それは分かってるよ。この時代劇が作り物だってことも、日本刀を持ち歩いたら法律違反だってことも。でも、ちゃんとサムライはいるんでしょ?」

「「えっ?」」


 椿さんと千鶴さんが同時にキョトン顔になった。

 二人の反応に、逆に私が驚かされる。

 言葉が足らなかったのだろうか。


「……いや、だから、いかにもサムライって格好のサムライはいなくなったけど、それでも本当のサムライはいるんでしょ? 剣術道場とかいっぱいあるし、居合い抜きのビデオとか見たことあるし、タランティーノも映画で日本刀を使ってるし、」

「「…………」」


 煙草の灰がテーブルの灰皿に落ちる。

 先ほどまで眠そうだったのに、千鶴さんは完全に目が覚めたようだ。


「……キャシーさん。あの、なんというか、武士という身分は明治時代に廃止されています。サムライの魂を持っている人がいたとしても、それはもはや自称サムライ。だから、正確な意味でのサムライは、もうどこにも――」

「う、うそだっ!」


 テレビの中の上様が、悪党を相手に見得を切った。


「サムライがいないだなんて、私は絶対に信じない!」

「……ついでに言うと忍者もいません」

「う、う、うそだーっ!」


 私は椅子から転げ落ちる。

 這いつくばる食堂の床は、思っていたよりもかなり冷たい。

 そして、その冷たさが私に厳しい現実を思い知らせる。彼女の言葉は嘘ではないのだ。嘘だとしたら、これほどまで胸に突き刺さることはないだろう。


「じゃあ、私が日本に来た意味は何なのーっ!」


 私の叫びに答えてくれる人はいなかった。当然のことだ。

 サムライや忍者が日本に残っていない――その事実を知らないのは、この少女九龍城で私だけだったのだ。たぶん、私だけがそのことを知らなかったのだろう。あまりにも当然のことすぎで、今まで誰も口にしなかったのだ。


 ポンポンと肩を叩かれる。

 私に手をさしのべてくれたのは――虎谷スバルさんだった。


「今日は私の部屋で、サムスピと月華やろう」

「うん……ありがとう、虎谷さん」


 彼女の手を掴んで、私はどうにか立ち上がる。

 あまりにもショックが大きすぎる。今日のところは深く考えることをやめて、大好きなサムライの世界に没入しよう。現実にはサムライも忍者もいないけど、私の頭の中にいる彼らが心を癒してくれるはずだ。

 虎谷さんに手を握られながら、私はメソメソと食堂を後にするのだった。


 ×


 サムライスピリッツと月華の剣士によって、私はどうにか平生を取り戻すことが出来た。貴重な休日を割いてもらって、虎谷さんには多大な迷惑を掛けてしまった。いくら感謝しても足らないところだ。


 ただ、これで一件落着ではない。サムライが存在しないという事実は、私にとってあまりにも衝撃的過ぎた。正面から向き合うのは、もっと先のことになるだろう。とりあえずは目を背けながら、チラチラと現実をチラ見していくことになる。


 分かっている。

 こんなこと、サムライらしくないことは分かっている。

 私が一人前の武士道を心得るものならば、サムライが存在しないという現実を受け入れるべきなのだ。あたふたと動じることなどもってのほかだ。でも、ちょっと、日本に留学までしたのにこのオチはキツイ。


「はぁ……カリフォルニアに帰ろうかな」


 ここに残っていても、地元の友人から「日本の漫画本を送れ!」とせっつかれるだけだ。楽しい日本留学は可能だが、何より私自身が許せない。ただ楽しむために海を渡ってきたわけではない。


 夜の素振り千本を終えて、私は大浴場で汗を流した。

 みんなで一緒に大きなお風呂に入る、入水する前にバストサイズを申告する、背中は密着して洗ってあげる……などなど、日本のトラディショナルな文化にも慣れてきた。これらのルールを教えてくれた椿さんにも感謝しなければいけない。


 寝間着代わりの浴衣に着替え、素振り用の木刀をひっさげて歩く。

 月が高く昇り、窓から青い光が差し込んでいるのだが――なんだか今日は眠くなかった。格闘ゲームに熱中して、昼の稽古を忘れてしまったせいだろう。まだまだ、動き足りなくて体力が余っているのである。


 今から庭に出て、追加で素振りをやってくるべきか……いや、それでは翌朝の稽古に響いてしまう。それなら、自室で筋トレでもすればいいか。最近、週三ペースでラーメンを食べているせいで、お腹が少しぷにぷにしてきた。

 ……などと考え事をしていたら、


「おろ?」


 いつの間にか自室前を通り過ぎて、もっと奥の方まで来てしまっていた。


 自室前の廊下――いわゆるメインストリートの向こう側には、あまり足を踏み入れたことがない。先輩住人たちは平気で奥にも行っているようだが、まだまだ住人歴の浅い私にとっては魔境も同然だ。

 なにしろ、この少女九龍城と呼ばれる女子寮は複雑怪奇である。迷路のように入り組んだ構造と、不可思議な超常現象で住人たちを惑わせる。下手な好奇心を起こして、先に進んだりしない方がいいだろう。


 そう考えて、くるりと方向転換したときである。

 視界の端に少女の姿が映った。

 黒い髪のポニーテール、濃紺色の着流し、首元に巻かれたマフラー。

 そして、腰から提げられている日本刀。

 私はその場で踏みとどまり、再びくるりときびすを返した。


 こんな人……少女九龍城に住んでいただろうか? 少なくとも食堂では見かけない。とはいえ、この女子寮にどれだけの少女が住んでいるのか、管理人さんでも把握し切れていないらしい。こんな不思議な出会い方もあるのだろう。


 けれど、そんなことより、なにより。

 彼女の格好――明らかにサムライだ(しかも、素浪人って感じだ)。


 私も諦めの悪い女である。この期に及んで、彼女が本物のサムライではないかと希望を持っているのだ。これで単なるコスプレイヤーだったりしたら泣ける。その時は、今度こそ一切の希望を捨てることにしよう。


「そこの女……む、異人の娘か」


 先に話しかけてきたのはサムライ少女の方だった。

 近づいてきた彼女は、顔立ちからして私より一つか二つ年上といった感じである。


「大和の言葉は分かるのか? 少々、道に迷ってしまってな。玄関までの道のりは分かるのだが、そこまで戻っては手間だ」

「え、あ、はい?」


 予想以上のサムライっぽい物言いに驚く私。

 彼女は品定めするように、私の姿を上から下まで眺める。


「……まぁ、お前でいい。この際だから、異人の娘を抱いてみるのも悪くないか」

「だ、だ、抱くっ?」


 それって、つまり私のことをベッドでファックするってことでしょっ?

 うろたえる私を見て、サムライ少女は怪訝そうな表情をした。


「さては、お前……単なる雑用係だな? 格好も地味だし。というか、その木刀は何だ。夜の見回りか?」

「いや、雑用係でもないというか、そもそも……ここは変なお店じゃなくて、」

「む? ここは九龍堂ではないのか?」


 いぶかしげなサムライ少女。

 オドオドとしながら私は答える。


「住人からは少女九龍城と呼ばれてるけど」

「……まぁいい。さっさと女のいるところまで案内してくれないか? こんな格好をしてはいるが、これでも一応は客なんだぞ」

「本当のサムライ……なの?」

「お前、私のことを浪人風情と疑っているな。これが竹光に見えるか?」


 サムライ少女が日本刀の柄を引いてみせる。

 鞘から抜き出た刀身が、月明かりを跳ね返してぬらりと輝いた。今にも油がしたたり落ちてきそうな本物の輝きだ。目の当たりにしたのはほんの一瞬だが、鮮やかな波紋が網膜に焼き付いて離れない。

 そして、次の瞬間――私はサムライ少女の手を取っていた。


「サムライさん! 私に稽古を付けてよ!」

「……は?」


 今度は彼女の困惑する番だった。


 ×


 私は一度部屋に戻って、サムライ少女のために木刀をもう一本持ってきた。ちょうど、すぐ近くに板の間があったので、そこを練習場所とすることにした。天井も高くて、実に剣術の稽古にもってこいだ。


「えーと、サムライさんは……」

「新藤だ。新藤ひばり。下の名前で呼ぶなよ。なよなよして嫌いなんだ」

「あ、じゃあ、私のことはキャシーって呼んで」

「キャシーか。異人らしい変わった名前だな」


 それから二時間近くにわたって、サムライ少女の新藤さんは私に稽古を付けてくれた。見ず知らずの外国人少女を相手に、いきなり言われて稽古を付けてくれるのだから、彼女はきっとサムライの中でもトップクラスに優しい人である。


 新藤さんの剣術には安定感があった。私はまだまだ木刀に振り回されているが、彼女はどっしりと落ち着きがある。まるで、市井に出向いては悪党を打つ上様と同じだ。私と同じような体格なのに、どこにそんな差があるのだろう……。

 彼女曰く、特に流派というものはないらしい。様々な剣術道場に出入りして、そこで各流派のいいとこ取りをしたのだとか。彼女は「摘み食いをしただけだ」と言っていたが、私にはそうは見えない。どれも形になっている。


 稽古の終わりに、私は新藤さんと模擬試合を行った。結果は散々なもので、私は何度も壁まで吹っ飛ばされたあげく、最後は手持ちの木刀をはじかれてしまった。足腰がブルブルと震えてしまって、しばらく立ち上がることも出来なかった。

 ただ、立ち上がれないほどの疲れとは裏腹に、私は今まで生きてきた中で一番の満足感を得ていた。現代に生きる本物のサムライから、直々に剣術の稽古を付けてもらったのである。わざわざ日本に留学した甲斐があったものだ。


 私の持ってきたタオルで、新藤さんは額に浮かんだ汗を拭き取る。


「……こんな店まで来て、私は何をやっているんだ」


 それから、壁にもたれている私に目を向けた。


「やはり、さっきの赤襦袢の娘にしておけばよかったか。どうにも煙たいから、別の娘にしようと思ってしまったが……」


 彼女は腰の刀を鞘ごと抜いて、その場にのっそりと腰を下ろす。


「しかし、どうして異人の娘が剣術を学びたがるのだ?」

「どうしてって……それはもう、格好いいからというか、サムライになりたいというか、」


 常日頃から思っていることだが、言葉にするのが思ったより難しくて口を噤む。

 最初にサムライに憧れたのはいつの頃だったか――物心付いた頃には、もうサムライになろうと心に決めていた気がする。ただ強いだけでなく、存在のあり方が格好いいというか、求道的な姿勢がストイックというか……。

 どうだか、と新藤さんは笑う。


「格好いいサムライだなんて、なかなか少なくなってきたと思うがね。まぁ、私のような小娘の言えることではないか」

「そんな、新藤さんは……。でも、サムライが減っていることは本当か。前に友達から言われたの。物語に出てくるようなサムライは実在しない。そうでなくても、本物のサムライだっていなくなっちゃったって」


 とはいえ、私は新藤さんと出会うことが出来たのだから幸運だ。

 彼女は法で裁けぬ悪を裁くタイプではないけど、それでも本物のサムライである。


「それは手厳しいな」


 自嘲気味に新藤さんは微笑んだ。


「本物のサムライがいない。確かにそうだ。長く続いた太平の世が、いよいよ乱れようとしているこの時に、真の意味でサムライをやっている人間は数少ない。ほとんどの武士は、野良犬が刀を提げているような有様だ」

「でも、新藤さんは違うよね?」


 私の問いかけに、彼女は曖昧な表情で答える。


「私も今は単なる野良犬だ。道場破りで少々金子が入り、景気づけに女を買いに来ただけのことさ。だが、私は単なる野良犬で終わるつもりはない。この大和を正しい明日に導くため、戦い抜こうと心に決めている」

「……でも、どこで戦うの? 日本は戦争なんてやってないよ?」

「?」


 新藤さんが頭上に疑問符を浮かべた。


「やってるではないか、大和を二分する大きな戦が。私はまだまだ勉強不足だからな……これから京に上って、そこで今後の大和を見極めるつもりでいる。そこの結果次第では、場合によってはお前と敵同士になるのかもしれない」

「それって、その……」


 話が噛み合っていない。

 新藤さんは現代に生き残ったサムライではなかったのだろうか。でも、そうではないような気がしてきた。彼女の口ぶりは、学校で習っている日本史の授業に似ている。まるで、昔のことを今見たように語っているではないか。

 いや、もしかしたら……。


「幕府側に付くか、朝廷側に付くか――ってこと?」

「おおざっぱに言えば、そういうことだろうな。果たして私の剣が役に立つのだろうか……今は鉄砲隊の編成が進んでいるという噂だ。おそらく、大規模な戦闘では鉄砲や大筒が使われることだろう。けれども、局所的な戦いではまだまだサムライが必要なはず。鉄砲を担いで足軽に混ざるようなことは、出来ることならしたくはないが……」


 新藤さんが提げている日本刀の輝きを思い出す。

 あれが不要になる日がいつかやってくる。それはとても悲しいことのような気がする。

 気が付くと、私は彼女の手を握っていた。


「新藤さんならきっと大丈夫。きっと……」

「そうか? おもしろいやつだな、お前は。攘夷が叫ばれている時世で、お前だって自分の身が危ういはずだろう。それなのに、幕府に付くとも朝廷に付くとも分からない浪人を応援するだなんてな」

「私はただ、どっち側に付くとかじゃなくて、格好いいサムライの味方だから」

「……それなら、私は期待に応えて格好いいサムライになるしかないな」


 新藤さんが立ち上がり、腰に日本刀を差し直す。


「女を買いに来たわけだが、それよりも良い思いが出来た気がするよ。気合いが入った。大和が再び平和になったら、また会いに来るから……それまで待っていてくれるか?」

「はい……その、ご武運を」


 うむ、と頷く新藤さん。

 彼女は小さく手を振って、道場代わりの板の間から出て行く。

 私の手のひらには、彼女の体温が今も残っていた。


 ×


 待てど暮らせど、新藤さんが戻ってくることはなかった。道場代わりの板の間で、私は朝昼晩と稽古に励んでいるのだけれど、あのサムライ少女は姿を現してくれないのだ。木刀の素振りする音だけが響いている。


 その後、私は何度も歴史的な資料を調べてみた。けれども、幕末に活躍した新藤ひばりというサムライ少女の存在は、どこにも残されていないのだった。彼女は幕末の動乱に飲み込まれて、足軽になって鉄砲を担いだのだろうか。


 半年ほど経過したときのことだった。

 私が冷たい板の間で稽古をしていると、「キャシー宛の荷物が発見された」と住人仲間から連絡を受けた。


 発見?


 食堂に向かった私を待っていたのは……一振りの日本刀だった。それは細長い桐箱に収められていた。長い年月が経過しているようで、箱はホコリまみれで黒ずんでいる。そして、箱をとじている紐には一枚の手紙が挟まれていた。

 私はそれを開いて読む。


 ――九龍堂のキャシーへ。

 ――あなたに再び会うことは出来なかったが、どこかで元気に生きていることだろう。

 ――今の私には不要なものだが、きっと君には必要だと思って愛刀をここに残す。

 ――キャシーが格好いいサムライになれることを祈る。


 桐の箱を開けると、あの日に見た日本刀が確かに収められていた。けれども、柄の部分はかすれて、鞘は傷だらけになっている。新藤さんが幕末の世を駆け抜けた証だ。手にとって鞘から引き抜いてみると、油に濡れたような刀身はあの時のように輝いていた。


 新藤さんをまねて、私は日本刀を腰に差してみる。

 体が傾きそうなほど重い。

 私が格好いいサムライになれるまで、まだまだ稽古が必要なようだ。



(おしまい)

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