少女九龍城
兎月竜之介
第1話 中庭の案内者
私――加納千鶴(かのう ちづる)が住んでいる女子寮は、おどろおどろしくも『少女九龍城』という通称で呼ばれている。
事実、その名に恥じない魔境であるとは私も思っている。部外者が足を踏み入れたら最後、壁を破ろうが、穴を掘ろうが出てこられないだろう。少女九龍城の奥の方には、遭難した少女が倒れているのかと想像すると……いいや、止めておこう。
なにしろ、少女九龍城の全容は管理人さんですら把握し切れていないのだ。原型は文明開化以前から存在したと言われており、住まう少女が増えるごとに増改築を繰り返してきた。地上何階建てで、地下が何階まであり、部屋数がいくつあるのか……あまつさえ誰が住んでいるのかもあやふやである。
犬猫が迷い込むどころの話ではない。家出少女が家賃も払わず、コッソリと住み着いていた――なんていう話はザラだ。私たちとは面識のない全く別のコミュニティが、別の管理人さんと一緒にどこかで生活していてもおかしくないだろう。
また、少女九龍城の拡大には住人である少女たちも一枚噛んでいる。
少女九龍城は迷宮のような構造をしている。そのため、内部で何が行われていても外部に漏れることがない。その極めて高い秘匿性を利用しようと、常識的ではない少女たちが住人としてやってくるのだ。少女九龍城は外界でも結構有名だ。
そうして、彼女たちは自分の秘密スペースを確保しようと、勝手に少女九龍城を改造してしまう。少女九龍城に隠し部屋や隠し通路、屋根裏や地下室が多いのはこのためだ。開かずの扉なんて両手では数え切れないくらい存在する。
ただ、少女九龍城の不思議はそれだけではない。
なぜかは知らないが、少女九龍城では不可思議な現象が多々起こる。
階段をのぼったのに地下室を彷徨っていたり、ちょっと席を外しているうちに一日経過していたり、常軌を逸した怪現象がたびたび発生する。幽霊やお化けの目撃例も多い。白昼夢を見ることだってあるらしい。巨大な迷宮構造に加えて、これらの怪現象に耐性がなければ、やはり少女九龍城では生きていけないのだ。
そんな魔境に住むようになった経緯はともかく――目下、私の目標は少女九龍城の地図を作り上げることだ。
宿題や試験勉強を除くと、放課後や休日はほとんど地図の作製に時間を費やしている。廊下の長さや部屋の広さを計測しては、方眼紙にチマチマと書き込んでいく地味な作業だ。
だが、少女九龍城の正確な間取りを知るにはこの方法しかない。目算で書けば確実に図がゆがむ。また、少女九龍城の奥に行けば行くほど、携帯端末やモバイルパソコンの調子が悪くなってしまう(これもまた怪現象の一つだろう)。故に私はレトロな手段を取るしかない。
そのため、私は親しい友人からもっぱら『チズちゃん』などと呼ばれているのだが、ここ最近はそこに『地図』の意味も加わってきている。
新しく入居した後輩たちなんかは、そもそも私の本名を知らず、地図を作っているからチズちゃんなのだと勘違いしているようだった。そんな名前で呼ばれ、自室で大量の方眼紙に囲まれていると、なんだか私自身まで自分の名前を誤解してしまいそうだ。
……まぁ、別にそれでもいい。私の名前が加納千鶴であろうとも加納地図であろうとも、本来の目的には何の支障も来さない。ただ、私の地図作製に邪魔が入らなければ、周りで何が起ころうとも関係ないのだ。
私が少女九龍城の地図を作っている本当の理由。
それはある一人の女性と再会するためである。
×
「チズちゃんって、地図じゃないと興奮できない体質なの?」
隣室に住まう少女――虎谷(こたに)スバルさんに問いかけられて、私は一瞬、マグカップの熱々コーヒーをひっかけてやりたい衝動に駆られた。だが、虎谷さんが私の書いた地図を眺めていたので、どうにかひっかけたい気持ちをどうにか抑え込む。
……そもそも、虎谷さんはどうして私の部屋に居座っているんだろう?
いや、深く考えることもあるまい。彼女は少女九龍城の中でも、特別に交友関係が広い少女だ。物怖じしない態度とざっくばらんな性格で、出会ってすぐに誰とでも仲良くなれる。人懐っこさも人一倍で、何はなくとも人と一緒に居たがる。
彼女に宿題を邪魔しようというつもりはない――が、今の発言は完全に作業妨害だ。それだけでなく、地図作製の障害になるような問いかけである。私が地図ちゃんなのはどうでもいいが、地図を眺めて一人遊びに励む変態少女だと思われては心外だ。
キャスター付きの椅子を回して、私は虎谷さんの方にくるりと振り返る。
フローリングに存在する数少ない足の踏み場に腰を下ろして、虎谷さんは束にしてまとめた地図をペラペラとめくっていた。
正直なところ、私は片づけが下手である。おまけに面倒くさがり屋である。そのため、脱ぎっぱなしの服や教科書のたぐいが部屋に散乱している。それらに加えて、方眼紙が山のように積み上がっていた。こんな場所に足を伸ばしてくれるのは、せいぜい虎谷さんくらいなものだろう。
悪い人ではないが、とにかく誤解だけは解かなくてはならない。
「……違います、虎谷さん。私はちゃんと人間を愛することが出来ます」
ハッキリと意思表示をする私。
けれども、納得がいかない感じに虎谷さんは首をかしげた。
「ふーん、そうなんだ。チズちゃんって、全然ファッションに気を配らないでしょう? だから、現実での恋を諦めちゃったのかと思ってた」
現実での恋を諦める?
それこそ完全な勘違いであるけれど、ファッションに気を配っていないのは確かだ。学校のジャージを着込み、その上にどてらを羽織っているという時点で、私の着飾る能力が皆無であることは明白だろう。そもそも私は私服というモノをほとんど持っていない。学生服と学校指定のジャージで全ては事足りる。
虎谷さんがぐるりと部屋を見回す。
「女の子の部屋に鏡がないっていうのもねー」
「必要ありませんから」
「そう? ちょっとお化粧すれば、すっごく綺麗になると思うんだけどなぁ……」
最後に鏡を覗いたのはいつのことだろうか……少なくとも少女九龍城に引っ越してくる前である。それも幼い頃、母親に髪を梳いてもらったときくらいだ。そうして梳いてもらった髪だって、伸ばすとくにゃくにゃに波打ってしまって可愛くない。だから、今は肩までしか髪を伸ばさないようにしている。
私のように生まれつき地味な人間が着飾ったところで、対して可愛くも美しくもなれないだろう。無意味に希望を抱くことは好きではない。実現不可能な夢を掲げるという行為は、ほとんどの場合は単なる逃避行動でしかないだろう。ふと正気に戻った瞬間、惨め極まりない気持ちになるはずだ。
だから、私が抱いている夢は本当にささやかなものである。近道も遠回りもなく、ただただ地味で地道な単純作業の繰り返しだ。必要なのは根気であり、天才的なセンスや生まれつきの美貌は不要である。
「それなら、どうして少女九龍城の地図を作ってるの?」
「それは……」
虎谷さんの質問に私は答えを詰まらせる。
ここで「趣味です」などと答えれば不自然だ。それこそ、地図にしか魅力を感じられない変態だろう。まぁ、そういう人が身の回りにいたところで、私はその人を嫌ったり蔑んだりするつもりはないが、やはり自分の隠れた趣味嗜好を開けっぴろげにするのは恥ずかしい。そもそも、そういったものを隠すための少女九龍城だ。
でも、虎谷さんなら話してもいいだろう。彼女は人の趣味を笑ったり、秘密をばらしたりするような子ではない。下手な嘘をついて変な空気になるよりも、正直にいきさつを説明した方が良いだろう。
「私はある人に会いたいんです」
「ある人?」
「……はい。少女九龍城で迷子になった私を、私の部屋まで送り届けてくれた人です」
出会いは半年ほど前のことだ。
少女九龍城での生活にも慣れて、私はこの迷宮のような女子寮を平気で歩き回れるようになっていた。ただ、それも玄関から自室、大浴場のような生活スペースまでの話である。少女九龍城の歩き方が分かった――などというのは全くの過信だったのだ。
案の定、私は迷った。
歩いても歩いても知っている廊下に出ない。明かりは古ぼけた電球が転々と灯っているだけで、足を踏み出すたびに黒ずんだ床が軋む。廊下に窓がないから奇妙な圧迫感がある。携帯電話は動きが悪くなって、とっくの昔に使用不能になっていた。
小学生のとき、三匹の野良犬に囲まれたときがあった。私はその時ぶりに号泣していた。私は薄情なくらいに涙のでない人間だが、実際のところ恐怖にはかなり弱い。ホラー映画は見ないし、ジェットコースターにも乗らない。
グズグズとセーラー服の袖をぬらしていると、不意に廊下の前方に光を見つけた。それは青白い月明かりだった。窓から光が差しているのかもしれない。最悪の場合、窓ガラスを割れば外へ出られるかもしれない。私は羽虫のごとく、ふらふらと光に吸い寄せられた。
廊下の角を曲がると……そこにはガラス張りの中庭があった。
広さは私の自室と変わらず、せいぜい六畳程度と言ったところ。四方を薄くて大きなガラスに囲われており、中は高い吹き抜けになっている。天井もガラス張りになっているようで、そこから一直線に月明かりが注いでいた。
中庭には一人の女性がいた。
レンガの敷き詰められた地面にしゃがみ、彼女は小さな花壇に水をあげている。花壇に生えているスミレは、しずくを受けて輝いていた。大きなガラスを隔てて、その光景はまるで一枚の絵画のように見えた。
頼れる人は彼女しかいない――私は両開きのドアを押し開けて、小さな中庭に足を踏み入れた。
女性は私のことに気づくと、じょうろを地面に置いて立ち上がった。
腰のあたりまで伸ばした真っ直ぐでツヤのある黒髪。やや伏し目がちな視線が、長いまつげを強調している。白い肌が月明かりを受けて、宝石の粉をまぶされたかのようにキラキラとしていた。そして、薄手のワンピースが体のラインをくっきりと浮かび上がらせていた。
彼女が私のことを見て微笑んだ瞬間、今までに感じたことのない痛みが私の胸を襲った。ズキンと痛んだ。だけど、それを苦しいとは思わなかった。先ほどまで子供のように涙を流していたのに、彼女と出会った途端、私は自分が恋に落ちたことを確信していた。一目惚れだ。出会って数秒、言葉を交わしたことすらないにもかかわらず。
『……迷子?』
『は、はい……』
『部屋まで送ってあげる』
彼女に手を引かれて、私は自室まで送り届けてもらった。結局、言葉を交わしたのはたったのそれだけで、私は始終黙りっぱなしを貫いた。彼女と会話するということすら、大それた行いであるように思えた。頭半分は背が高い彼女を見上げ、私は頬を上気させていた。
本当は手を繋いでいる程度ではイヤだった。私の体は彼女に向かって吸い寄せられていた。彼女の体に抱きつきたい。体温を感じてみたい。においを確かめてみたい。そして、同じように彼女にも私の存在を感じ取って欲しい。
だが、出会ったばかりの女性に暴挙を働く度胸は、幸か不幸か私にはなかった。
一直線に私を自室まで送り届け、女性は何も言わずに去っていった。私は何時間も迷い続けていたのに、帰るときは三分くらいで戻ってこられた。彼女は部屋を突っ切ったり、隠し通路を開いたり、とにかく少女九龍城の造りを把握していた。
そして、あまりにも一緒にいる時間が短すぎて……いや、私の勇気が足らないせいで、ついに彼女の名前を聞くことが出来なかった。自分の名前も告げられなかった。私たちが出会ったことは間違いで、全てなかったことにしようと神様が意地悪しているかのようだった。
「チズちゃんはその人にお礼が言いたいんだねー」
私の話を聞き終えて、虎谷さんはニコニコとした笑顔で言った。
ここで私の恋愛感情を察しない純粋さが、他の人にはない彼女の魅力だろう。普通の女の子は、とにもかくにも恋愛話につなげたがる。聞き手が虎谷さん以外なら、この話はもっとややこしくなる。私の本当の気持ちだって、最終的には掘り返されてしまうことだろう。
私はあの女性に恋をしている。彼女に会いたい気持ちは日に日に強くなり、昼間の私を地図作製へ誘った。そして、夜になると私を悶々とさせた。方眼紙の山の中で、私は彼女のことを想いながら自分の体を触った。声が押し殺せないくらいに気持ちが良かった。
……なんだか虎谷さんの前だというのに、いやらしい気分になってきてしまった。
ちょっと気まずい。
そんな私の変化には気づかず、虎谷さんが無邪気に提案する。
「とりあえず、管理人さんに聞いてみればいいよ」
「えっ……」
私にはなかった発想だ。私は今まで、ずっと独力で地図を作製していた。あの女性との出会い、私が抱いている想いを知られたくなかったからだ。実際、虎谷さんに話したのと同じ説明を管理人さんにしたら、私の本意を見透かされてしまうだろう。
だけど今になって思えば、彼女にお礼を言いたい――というのはなかなか出来た言い訳であるように思える。細かな事情を説明しなければ、ちょっと話を伺うくらいは大丈夫かもしれない。
管理人さんは若い女性で、少女九龍城に勤めはじめて三年くらいでしかないが、それでも私よりは長くここにいる。前管理人から話も色々聞いているだろうし、もしかしたら……あの女性のことも知っているかもしれない。
宿題のことなんてすっかり忘れて、私はキャスター付きの椅子から腰を上げる。
「私も行くよー」
女性の正体に興味津々という感じに、虎谷さんも一緒に部屋を出た。
×
私と虎谷さんが食堂に顔を出すと、思った通りに管理人さんがネイチャー系の番組を見ていた。六人掛けのテーブルが十個ほど並んでいる真ん中で、ぽつんと一人だけ椅子に腰掛けている。そして、テーブルにはいつものように缶ビールが並んでいた。
食堂に彼女しか居ないというのはなかなかの幸運だった。少女九龍城の住人には夜型の人間が割と多い。少女たちが食堂に集まり、延々とパジャマパーティしていることも多々ある。
管理人さんの向かい側に、私と虎谷さんは揃って椅子に腰掛けた。
「スバルはともかくとして、チズちゃんがこの時間に来るのは珍しい」
これでも食べなよ、と管理人さんが皿に盛られた枝豆を差し出す。茹でたばかりのようで、白い湯気がもうもうと立ち上っていた。私は歯を磨いてしまったので遠慮したが、虎谷さんは美味しそうに枝豆を食べていた。
「実は聞きたいことがあるんですが……」
それから、私は管理人さんにあの女性のことを説明した。
迷子になったことについて、彼女の容姿について、中庭について。
もちろん、地図を作っているのは「彼女にお礼を言うため」であると言っておいた。そのことに関しては、特に虎谷さんが全力で保証をしてくれた(今日だけで、ずいぶんと彼女と仲良くなった気がする)。
神妙に話を聞いていた管理人さんは、聞き終えた途端に言い放った。
「その女の人……たぶん、成長した未来のチズちゃんだな」
「えっ?」
どうして、そんな話になるというのか。
頭が混乱した。大体、どうして未来の自分と会ったりするのか。それに、あの女性と私は似ても似つかなかった。あの人が私であるわけがない。というか、私であってはならない。だって、私はあの人に恋をしていて、地図まで作っていて、とどめに夜な夜な彼女のことを想いながら方眼紙に埋もれて――
「いやいやいや、そんなことないですよ! 絶対にないですよ! ない過ぎますよ!」
「これは前の管理人さんから聞いたんだけどさ、」
そう前置きをして管理人さんが語り出す。
「少女九龍城のどこかに、未来の自分と会える中庭があるらしい。五年先か十年先か……あるいは五十年先かは分からない。でも、とにかく、月明かりの差し込むガラス張りの中庭というのは、同じような経験をした人たちの間で証言が共通している」
すると、
「あーっ! そういうことだったんだ!」
虎谷さんが大きな声をあげて、何かに気づいたようにポンと手を叩いた。
「その女の人って、一直線にチズちゃんの部屋まで案内したんでしょ? きっとその人が未来のチズちゃんだから、チズちゃんの部屋も分かるし、近道にだって詳しいんだよ。未来のチズちゃん、すごーい!」
「そ、そんなぁ……」
椅子から滑り落ちて、そのまま地面に沈みそうなくらいにショックを受けた。
私はテーブルに突っ伏せる。
「でも、あの人はすごく綺麗で、優しそうで、大人びていて、私とは全然、」
「なーにを言ってるんだか」
呆れた声を出す管理人さん。
そして、彼女は私の頭を軽くなでなでした。
「チズちゃんは綺麗になれるよ。とりあえず、アイロンでもストパーでもいいから髪をまっすぐにしてみな。それから前髪をあげること。二重だし、まつげが長いし、それだけで印象がずいぶんと変わるよ。私服の買い出しには、スバルが一緒に行ってあげな」
「了解しました!」
敬礼する虎谷さん。
私は毎夜の行いを思い返し、顔を伏せて小刻みに震えていた。
×
後日、虎谷さんに付き添われて私服を購入した。下着も可愛いやつを買った。アイロンも買って、好き勝手に跳ねる髪の毛を真っ直ぐに伸ばした。前髪はピンで留めた。管理人さんや虎谷さんの思惑通り、私はあっという間に美しくなった。
そして、最後に私は大きな姿見を購入した。
姿見に映った私には、確かにあの女性の面影があった。このまま成長していけば、おそらく十年後はあの姿になるだろう。日々、私は自分が成長するのを感じていた。そして、愛した女性の娘に欲情するような、とても歪んだ喜びすらも感じ取っていた。
夜な夜な、私は姿見を覗きながら自分の体に触れた。
あの人に触れられたような気がして、今まで以上にドキドキとした。
(おしまい)
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