第2話 3
いつもは心地よく感じる島を吹き抜ける潮風が、今日は纏わり付いてくるようで気持ち悪い。
家まで数メートルのところで、風景を反射するほど磨かれた、見慣れた黒いベンツが停まっているのに気付いた。
今日はなんだかツいてない。
親父が仕事から帰ってきていると察して、裏口に回った。
顔を合わせてしまえば、こんな時間に家にいることを問い詰められるに決まっている。
親父の生まれるずっと前から建てられた日本家屋は、開放されていてとても風通しがいい。広々として住みやすいけれど、その分人の気配は察しやすい。
音を立てないように、そっと勝手口を開ける。台所には、誰もいない。平日だけ来る通いの家政婦も、まだ着いていないようだ。
そろそろと上ると、脱いだ靴を手にしようとしゃがんだ。誰も来ないうちに部屋へ逃げ込もうと思った。
が、
「初」
底から響くような太い声。
親父が背後から、立ち上がろうとしたオレを見下ろしていた。
――ああ、今日はホントにツいてない。
去年、身長は越したものの、親父の鎧のような筋肉をまとう体を見ていると、自分の体はまだ貧弱そうに見える。巌を彷彿とさせる背中を追いながら、居間へと向かう。尊敬すると同時に、今でも幼い頃から根付いた畏怖が頭をもたげる。
親父が立ち止まると、タイミングよく襖が開いた。添えられた母さんの白い指が、すっと中へと消える。それを追うように親父が入った。オレは一呼吸待ってから、入ると、入り口の横に正座した。
「かしこまらなくていい、先生から話は聞いている。――転校生が来たそうだな」
黒く艶のある座卓には、母さんが淹れてくれた煎茶が並ぶ。オレは座布団に移ると足を崩させてもらった。
「桃太郎の子孫だそうです」
親父は表情ひとつ変えず肯いた。
「そうか」
「それだけ、ですか」
親父が口を利けば、島から追い出すこともできるのではないだろうか。親父はこの異常な事態を何とも思わないのか。
今なら、日常を取り返せるのではないか。
「なにかあったのか」
「なにか……? あんなヤツがこの島にいるだけで異常じゃねぇか!!」
勢いよく拳を振り落とす。年代物の座卓はびくともしなかったが、傍に置かれていた品のいい湯のみは倒れて、淹れたてのお茶が零れた。
「まあ」
母さんは、着ている淡いグレーの着物の袖を汚さないようにして、広がってしまったお茶を布巾で丁寧に拭いていく。そしてお手拭を渡されて、オレの拳にもお茶がかかっていたことに気付いた。
「初」
そう呼びかけた親父の声が、目が、やさしい。でもそれは、優しさではなくて憐れみではないのか。感情にブレーキができないオレに向かっての、憐れみ。
居ても立ってもいられなくて、オレはその場から逃げ出した。
教室から出て行ったときの、オレを呼ぶ桃子の声が、また耳に蘇ってきた。
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