H.Pラヴクラフトの『セレファイス』がネット投稿小説だったら

タジ

短編

「あぁ、美しい」

 思わずそんな言葉を漏らした。

 谷間の都、その彼方へと見える海岸線、果てに連なる霊峰の山頂は雪で彩られ、そして港から旅立つのは黄金の太陽に彩られた空と海の境界を目指す、壮麗にして優美なガレー船だ。

 だが分かっている。

 この世界は永遠に続かない。

 次第に全てがぼやけ、輪郭を失っていく。

「待て! 待ってくれ! 頼む、消えないでくれ、俺はまだ!」

 手を伸ばす。

 だが、虚しく全てが霧散し、やがて視界に入ってくるのは、いつもの見慣れた天井だった。

「どうすれば、あの場所に行けるんだ……」

 それは夢の世界。

 幼い頃から夢に現れ続けた理想郷の情景だ。

 俺の名はクラネス。

 それが夢の世界での俺の名前。

 『現実』の名前は俺にとって何の意味も持たない。

「……行ってきます」

 いつもと変りなく、義務的に起き、登校する。

 だけど、俺にとってこの世界は、夢の世界と比べて余りにも歪で、余りにも無味乾燥としていて、余りにも醜かった。

 同級生が、教師が、親が、皆が俺の名前を呼ぶ。だけど俺にとってその名前は、何の現実感も持たないものだった。

 俺は夢の世界を、幾度となく文字に起こして小説サイトに投稿した。

 でもダメだった。

 余りにも考え方が違いすぎた。誰一人として俺の作品を、あの美しさを理解しようとはしなかった。


×××


 幼い頃、夢を見た。

 魅惑の丘陵や庭園を歩いた。陽光を浴びて歌う噴水を観た。雄大なる海が眼下に広がる黄金の断崖に立った。青銅と石でできた荘厳なる街並みを眺め、遥かに広がる緑の平原を駆け抜けた。そして、深い森を白馬に乗って進軍する、幻想を纏った偉大なる英雄達はいつも俺を守り、共に戦ってくれた。

 それはもしかしたら、絵本の中の世界から俺の無垢な頭脳が生み出した、理想郷という名の幻想なのかもしれない。

 時が経つにしたがって、あの頃の思い出は薄れていった。

 ――そのはずだった。

 ある日、俺は夢を見た。

 幼い日に見た、あの世界の夢だ。

 留まろうとしたが、どうしようもなく朝は訪れ、辿り着くよりも先に世界は消えてしまう。それを幾度となく繰り返した、ある日のことだった。


×××


 木々も、海も、山も、幼少の頃に見た夢の世界そのものだった。

 懐かしさを感じながらも、俺はただひたすらに歩き続けた。

「誰かが、……誰かが、俺を読んでいるんだ!」

 焦燥と衝動に駆られ、無我夢中に走り抜ける。

「……町だ!」

 だがそれを見た瞬間、俺の意識は目覚めてしまった。

見上げる先にあるのはいつもの天井。それでも、瞳の奥にはあの美しい情景が鮮明に焼き付いていた。

「……あの場所、タナール丘陵の彼方のオオス=ナルガイの谷、その場所にある町、……セレファイスだ!」

 セレファイス。

 かつて、幼い頃に夢見た場所。

 時間という悪魔が俺の魂を鈍らせ、消え去ろうとしていた幻の町だ。

 数日後、俺は眠りの中で再びセレファイスへと向かった。

「ようクラネス」

「クラネスさん、一ついかがですか?」

「たまにはアタシの店にも寄っていきなよ、クラネス」

「クラネス殿、また冒険の話を聞かせてください」

 ……何もかもが、あの頃のままだった。

 まるで時を止めたかのように、今ここにあるのは、幼少の頃訪れたセレファイスそのものだった。

 何もかもが温かい、あの頃のままだった。

 停泊するガレー船、爽やかな海風、アラン山を黄金に染め上げる銀杏の葉。オオス=ナルガイの谷、美しきセレファイスの都は、今まさに、この場所に存在した。

「でも、いったいどうして。最後にここを訪れたのは十年近く前の筈なのに」

 俺はトルコ石で作られた神殿に行き、そこで神官から話を聞いた。

「オオス=ナルガイには時間というものが存在しないのじゃ。すべてが永遠であり、常に理想の形を保って存在し続ける」

「じゃあ、町のみんなが俺のことを知っているのも、昔来た時と同じ姿なのも」

「うむ。それが最良だと、この世界が判断したからじゃ」

 神官の話を聞き終えた俺は港に向かった。

 昔感じた、あのガレー船に乗ってみたいという思いが、どこまでも高まっていたからだ。

 港で船長のアジフを見つけ出し声をかける。

「アジフ船長、覚えているか? その昔、俺を船に乗せてくれると約束したことを」

「ああ、もちろん覚えているとも」

「今日、今、乗せてくれるか?」

「いいぞ。さあ、ついてこい」

 俺はアジフ船長に連れられてガレー船に乗った。

 港を出たガレー船は、遥かなる水平線を目指して進んだ。やがて空と海が交わり溶け合うその場所にたどり着いたとき、ガレー船は海原を離れ、大空へと飛翔した。

「どうだ、すごいだろクラネス。セレネル海の水平線は大空につながっている。この、薔薇色の雲海と青空こそがこのガレー船の航路となる。向かう場所は天上の海岸、雲の都セラニアンの港だ」

 未知の冒険に鼓動が高鳴った。

 だが、そんな希望の高まりとは裏腹に、待ち受ける現実は残酷だった。

 どれほど必死に拒んでも、アジフ船長の言葉は遠のき、青空は薄らいでいく。

「――何故だ。どうして朝が着てしまう? どうしてこの場所に戻らなきゃいけない!?」

 目覚めだ。

 朝日と共に否応なく体は覚醒し、セレファイスは幻となって消えてしまった。


×××


 それからの俺は、夜が来るたびにひたすらあのガレー船を求めてセレファイスに向かった。だけど、アジフ船長も、ガレー船も、その姿を見つけることは出来なかった。草原を歩き、森を彷徨った。とても人間が作ったとは思えないような巨大な遺跡も発見した。

それどころか、タナール丘陵の彼方に位置するオオス=ナルガイを、セレファイスの町を見つけることすら出来なかった。

美しい華、険しい山脈、暗闇の洞窟……。数か月にわたる探求と冒険の果てに、多くの者と出会い、多くの物を見てきた。時には恐ろしい魔物と遭遇することもあったし、目も眩むような財宝を見つけ出すこともあった。凍てつく荒野のレン高原にある有史前の石造りの修道院を見つけ出したこともあった。

日を重ねるたび、夢を、夜を中断されることが煩わしく思えるようになってきた。

そして、その対策はすぐに思いついた。

平日は登校し、その後ひたすらアルバイトに励んだ。そして、その給料の全てを睡眠薬の購入に注ぎ、休日はただひたすらに眠り続けた。

しかし、分かってはいたことだが、俺の体は日に日にボロボロになっていった。

睡眠薬の効きは日を追うごとに弱くなり、その解決法は量を増やすほかになかった。そして購入の費用を稼ぐためにはアルバイトの量を増やす以外になかった。


×××


ある日の夏の夜。

最早思考することすらままならなくなっていた俺は、あてもなく外を彷徨い歩いていた。

海風が潮の香りを運んでくる。

決して好きになることのできない匂いだけど、今の俺はそれに対して嫌悪感を抱くことすら出来なくなっていた。

やがて自分が今どこを歩いているのか分からなくなった頃だ。

どこか優しさすら感じる白い霧が周囲を覆った。

そして、蹄が大地を踏みしめ、甲冑が揺れる音が、前方から俺の方に向かって進んできた。

「――」

 言葉を失った俺は、無意識のうちに両目から流れ落ちる涙を拭うことすら忘れたまま、呆然と立ち尽くしていた。

 甲冑の白馬に乗る騎士の隊列は、俺の前で停止した。

 先頭で隊を率いていた男が馬から降り、そして俺の前に膝魔づいて言った。

「クラネス様、お迎えに上がりました」

 ……思い出した。

彼は、かつて共に戦った事のある夢の世界の英雄の一人だった。

「クラネス様、貴方こそ夢の中でオオス=ナルガイを創造した者なのです。故に、貴方はオオス=ナルガイの主神となる定めにあるのです」

「俺が、オオス=ナルガイの神に?」

「左様です。さあ、共に行きましょう。永遠の理想郷、セレファイスへと」

 その言葉の直後、白馬が俺の前へと現れた。

 促されるまま、俺は馬に乗り手綱を握った。

 そして俺は、甲冑の英雄たちと共に進軍を開始した。

 馬がその一歩を踏み出すたびに、『時』が後ろへと遠ざかっていくのが理解できた。

「……そうか。セレファイスは、あのガレー船は、幼い頃の俺の心が生み出した夢。あの頃の心が失われてしまえば、永遠にセレファイスは失われてしまう。だから――」

 通り過ぎる『時』の中に、一人の少年の姿があった。

 心の底から笑い、世界には希望があると信じて疑わないその少年は余りにも眩しく、俺は思わず目を背けてしまった。

 やがて、それがかつての自分自身だと気が付いたが、俺は振り替えることなく時の果て、永遠の理想郷、セレファイスの玉座を目指し馬を走らせた。


×××


 クラネスはそれ以来、オオス=ナルガイとその近隣の夢の領域全てを支配した。

そして、セレファイスおよび雲の都セラニアンで交互に政務を執り行い統治した。

 今も支配を続け、その治世はいつまでも幸福に続くだろう。

 すべての民はクラネス王を創世の神と崇め、良き王として称えた。


×××


『――次のニュースです。本日早朝、海岸付近で水死体が打ち上げられているのが、漁港の関係者によって発見されました。現場付近では昨晩から一人の少年が行方不明となっており、警察では――』

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