第10話
十
翌日。オレはいつもより幾分か早めに学校に来ていた。
昨日、高坂さんと別れてから彼女に謝罪とフォローのメールを何通か送った。謝罪と言ってもこの場合、オレが絶対に悪いというわけではないのだろうが、しかし彼女に誤解を与えるような言動をしてしまった以上、ここは謝るのがスジだと思ったのだ。
しかしメールの返信は一通も帰ってこなかった。
ここはもう一度、学校で直接会って、話した方が良いと思った。
「話す」なんて誤魔化さずもっとストレートに言うならば「振ろう」と思った。
お互いのために、だ。今まで高坂さんに言われるままに話に付き合っていたが、今日こそ潔くケリをつける。
「……はぁ」
何となく、高坂さんに罪悪感を覚えた。もてあそんでしまったような感じ。
胸に広がる苦いものを感じながらオレは下駄箱でスニーカーから上履きに履き替える。
教室へと続く階段を上ろうとしたところで。
陣内先輩に出くわした。
「…………」
「…………」
目がバッチシ合ってしまった。猛烈にきまじぃ。無視して行くか。けどそれはそれで厳しい。オレは無難に挨拶だけすることに決める。
「あ、おはようございます」
「……ふむ、おはよう」
良かった、ちゃんと返してくれた。無視されるのを覚悟で言ったのでちょっと安心した。さすが先輩、器量が大きい。ちょっとホっとして「それじゃ~」と先輩に言って階段を上ろうとした矢先。陣内先輩が口を開く。
「こんな朝早くから学校なんて一体どうしたのだ? 私にあそこまで言わしておきながら最後の最後で逃げ出してしまう性病チキン久我君」
「………………」
めちゃくちゃ根にもたれていた。いや、まあ当たり前か。
「あー、そうだ。私、今こんなものを持ち歩いているのだ」
先輩がワイシャツの胸ポケットから写真を取り出した。オレの顔写真(マジックでアフロ鼻毛落書き付)だ。それを先輩は大きい胸の前に突き出し。
おもむろに破り始めた。
ビリビリッ。きれいに二等分、四等分、八等分に写真が引きちぎられる。
「………………」
もう元の物体が写真だと判別不可能になるまで先輩は写真を細かくし続けた。そして今度は足元にまき、それを先輩の美脚で踏みにじる。
「一緒にどうだ、久我君? 楽しいぞ」
笑顔の先輩。
「いえ。遠慮しときます」
オレは引きつった笑顔を顔面に張り付けて答えた。
怖い、先輩マジ怖い。
「ふ~、少しせいせいした。時に久我君、君、彼女出来たそうじゃないか」
「ええ、と、まあ、はい」
「良かったじゃないか。私にあんな仕打ちをしておいて君は放課後に楽しくイチャイチャか。全く世の中ってのは公平だな、うん?」
「はっはっはっ」
笑うしかない。
「高坂さんとか言うのか。聞いてみれば君に盛大な告白をして、君も大声で『結婚します』と答えたんだって」
「うーん、ちょっと記憶にございませんね、ハイ」
すげー逃げたい。
「照れなくても良いんだ、久我君。君は青春を謳歌しているようで大変結構だ。まるで『スク○ルデイズ』の某主人公のようにバラ色じゃないか」
「……あの某主人公、ラストで刺されますよね」
……まさか先輩、今包丁持ってたりしないよね。
どっちかっていうと「tol◯veる」リトさんの方でお願したいな。
「良いね、全く、その高坂とか言う人は。……君の隣にいるのはこの私だったら良かったのに……」
先輩の声が少しかすれた。
「本当にすいませんでした、先輩」
オレは深々と頭を下げた。
「今からでも、だめか?」
オレは首をゆっくりとふった。
「好きな人ができたんです」
昨日、公園で考えて、結論がでた。
「そうか」
先輩は残念そうに俯く。
「そういえば、先輩に前会った時のこと思い出しました」
ずっと考えていた。そして高坂さんに傘を貸したように、先輩にもオレは何かしたのではないかと思った。
中二の夏。オレは一人で自転車に乗って海に行こうと思った。去年なら千寿も誘おうと思っただろうが、その年はそれをしようと思わなかった。
千寿に彼氏が出来たのだ。苦い思いだった。告白されて、あっさりオーケー。ショックだった。
実際は半年ほど付き合ってから別れたらしいのだが。当時のオレは無論そんなこと知るよしも無く。
まあ、しかし中学生になって、そういうことが起こるのは当たり前。そうやってオレは納得しようとしていた。海に沈む夕日でも見たら、何となく納得できるだろう。そんな軽い気持ちだった。チャリを走らせて錦川駅の踏切を超えたあたりで。
オレは陣内先輩を轢いた。
錦川駅の踏切を超えたあたりだった。
「大丈夫ですか! お怪我ないですか?」
轢いてしまった女の子は剣道着一式に身を包んでいた。
その女の子――恐らく年上――は泣きだしてしまったのだ。外見上怪我しているようには見えないが、しかし安心は出来なかった。
「どこか痛むんですか? 救急車呼びます?」
「……間に合わんのだ」
「え?」
「大事な引退試合なのに。あのアホの弟のせいで!」
「え、えーと」
「私が行かねば黒岩中は不戦敗で負けてしまう」
そう言いながらそのお姉さんは駆け出そうとして――転んだ。
「ちょっと待って。何か困っているなら、お助けしますよ」
見ていられなくて、ついオレはそう言った。別段いま急いでいるわけではないし。
まあ、お人好しのオレである。
「うぅっ……」
落ち着いたお姉さんから話を聞くと、自分たちの中三最後の試合――つまり一番大事な試合に遅れかけているらしい。
試合開始まであと約十五分。
「垂れを弟が隠したのだ。悪戯で! そのくせ自分がどこに隠したか忘れてしまったらしくて……」
「どこが試合会場なんですか?」
「野津町のスポセンだ」
「お金は?」
「持ってきていない。出るとき急いでいて」
「それじゃあ、タクシーも使えませんね……」
そもそもバスが一時間に一本しか出ていない。車が無いと生活できないのだ、この田舎町は。
お姉さんはオレに話をして少し落ち着いたらしい。息を少し整える。
「……すまない。君にこんな話をしても、迷惑なだけだろう。忘れてくれ。何、走ればギリギリセーフなはずだ。心配をかけてすまなかった」
オレはチラリと先輩が担ぐ竹刀袋と防具が入っているらしい背嚢を見やった。かなり重そうだ。
「野津町のスポーツセンターって言いましたよね。あそこまで走りは無茶ですよ。三十分はかかります」
良くもまああんなへんぴな場所を試合会場に選んだものだ。
「気合いでなんとかする」
「気合いって……」
オレはそっとため息をついた。先輩の防具入れを自転車のかごにいれる。
「何するんだ、君」
「良いから、後ろに乗って。竹刀は自分で持って。ちょっと痛いと思いますが我慢してください。自転車で全力疾走すれば二十分……いえ十五分で着きます」
「そんな、悪いから良いって……」
「こう、喋ってる時間が勿体ないんじゃないですか。速く乗って下さい」
オレはサドルに腰かけて先輩をリアキャリアに乗せた。
オレは立漕ぎでペダルに全体重をかける。
かなりきつい。
「君こそ、無茶だ。君の気持ちだけいただくから」
「気合いでなんとかします。それにもしあなたが走っていって間に合ったとしても戦えないでしょ、走った後じゃ」
「……それはそうかもしれないが」
オレは漕いだ。ただがむしゃらにペダルを漕いだ。緑色の山々の峰を臨みながら、きつい上り坂も木陰がない一本道もただひたすらに漕いだ。汗で視界がぼやけてくる。
手が後ろから伸びてくる。後ろの子が手にしたハンカチでオレの顔を優しくぬぐってくれた。
「あ、ありがとうございます」
「ねえ、君はさ」
ふと気になったように、彼女に尋ねらられた。
「なんで知らない他人に、そこまでのことが出来るんだい?」
聞かれてオレは少し考える。
「それは…………」
「そうか。思い出してくれたのか」
先輩はほんの少しだけ笑みを浮かべる。
「ええ。ギリギリ間に合ったんですよね」
「ああ。三十秒で防具つけて試合したんだ」
先輩はその後、勝ったんだっけ、負けたんだっけ。
「試合を終えて、君に礼をしようと思ったら、君はいなくなっていたな。ヒーローは名前を名乗らないわけか?」
「いえ、そんな。良く覚えてないですけど、多分ただ早く海を見に行きたかっただけだと思います」
「もし、あそこで君がいたら……。あの時既に君のこと好きになりかけてたんだぞ」
オレは考えてみる。あの時、この人を待っていたら。
案外、付き合っていたかもしれない。当時、千寿と疎遠になっていたオレで、尚且つ先輩は魅力的な人だから。そんなこともあり得たかもしれない。
「先輩はオレなんかより素敵な人と巡り合えますよ」
「そうだな。君なんかより、十倍イケメンで運動神経があって、優しくて頭脳明晰で芸術の才がある奴を見つけるよ。でもまあ、その前に」
陣内先輩がオレの頬にキスをした。
そうしてから先輩はくるりと背を向ける。
「邪魔したな。私は剣道場に忘れものを取りに行くから」
先輩はそう言って歩いていった。
「難しいものだな、好きだった人を嫌いになるのは……」
去り際、先輩がそう呟いた気がした。空耳かどうかは分からない。
オレは廊下に棒立ちになっていた。
顔面真っ赤。ユーコ先輩とは何回かしたことがあったけれど、何回やっても緊張するものだった。
「おい! 湊ッ、大変だ!」
だんだん、と荒々しい勢いで一人の男子生徒が駆けおりてきた。
「何、浩太郎?」
「すっげーケンカが起きてんだよ、お前のクラスで」
「ケンカ? 誰が」
「それが、なんか一年の女子が急にお前のクラスに入りこんでいって、怒鳴りはじめたんだ。お前の彼女なんだろ、高坂っていう子」
高坂さん!? どうしてオレのクラスに。
「お前の事で揉めてんだよ、太刀さんと」
千寿。
オレは一目散に階段を駆けあがって行った。
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