第2話「尾鰭」

此の時期の金魚は水中に落ちる紅葉もみじばが無いとしても、落ちたようにに見えるのだから、奇しと思いつ、酒を呷る。

月が鋭くとよむというよりは、秋の月は照り乍らも鈍くとよむようである。世間は月餅の方に傾くが。

陽炎かぎろひが雲間から現れて、ささやかに寝室を濡らしていくのを未だれない眠気を枕に黒い枝垂れた髪を乱す。

簿冊の落書き程度の前書きは此処迄にして、本文に移ろう。


昔と云って、何の位が昔かと云うのか。鳥を飼って笑うようになったくらいか、若しくは物好ものずいだろうか。


と或る部屋に一つ、金魚鉢があった。その中に生きる金魚は揺蕩わせて、水中で尾を振って生きたい。至極此れ当然と思っていたし、品種は其の様に改造された血統である。然し、金魚の鰭は水に混じり気のあるものとして、溶けきっていた。

蝶蝶、喩えるならば揚羽の様な形の尾には斑模様が入っており、美しさを鼻に掛け、金魚の自慢話になっていた尾鰭はもう半分くらいが無い。金魚が泳ぐ度に激痛を伴っていたのだが、健気にも見ていた物たちに「如何か、わたくしの斑模様の尾鰭を見て下さい。お願い申し上げます。あさましいとは思うております。如何か!」と信じてもいないものへ願わずに、乞わずには居られなかった。其処迄駆り立てるのは金魚自身の血統であった。否、金魚の血統以外の数少ない誇りである。

上へ。上へ。水流を手繰り乍ら、染まず漂う鴨女のように金魚は今まで通りの振る舞いを続けていた。人間に恋をした人魚が、人間に恋した人間が焼け付くのと同じで、金魚は己が触れたるものに畢竟ひっきょう消ゆるのだ。

「金魚、隣近所の金魚らも舞うのが仕事で御座います。どの形でも当然なのです。」と金魚は隣のランチュウを見た。ランチュウは赤々と鱗の血を輝かせた。尾鰭が短いので、丸まった身体を泳がせて見せる他、ランチュウが美しきことをやるには何も無いのであった。

「ただ一介の金魚として云います。第一に我々は泳いでいなくては成りません。惜しみなく奪われると思うのです。誰にでも無く、斯くして泳ぐ事さえも。第二に「如何か!」と云って救われずとも。仕事なのですから。」とランチュウは金魚の尾鰭を見た。彼方此方に穴が開き、水に仄かな混じり気を遺して溶け合っている。

見知らぬ客が招いた跫音あしおとに向けて、金魚は溶けきっていた尾鰭や鱗を蠟燭に照らした。鱗の無い所々からは細い骨が丸見えに成っていた。其れでも金魚は見せきらなくては成らない。最期の最期に、金魚は舞った。激痛が、謳う毎に、尾を揮う毎に、走って仕舞うが涙はもう出なかった。金魚も知っている事だから、今更臆病になったとしてと云った具合である。

「我が生い立ちを、慰める事叶わず。我が名は、金魚。祖は何処いずこ。傍らにいること、許されざる。梓弓よ」と金魚は節を変えた。ランチュウの「嗚呼」や他の金魚の失望の声が聞こえるが、此の見知らぬ客に捧げている。

「生い立ちを、叶わず。」ともう一遍、最初に云った節を云った。金魚はきらきらした光をたなごころにそっと置くように、継ぎに己のように舞う金魚が居りますようにと願って、すっかり身から出ている柘榴の実を転がし乍ら横たわった。泡は無常にも婥約しゃくやくとしていた金魚を写していた。


その金魚の墓には、忘れられた頃に芍薬が植えられ、砂上の上に満天に微笑んでいた。


(了)

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