「蚯蚓譚」「尾鰭」
東和中波
第1話 「蚯蚓譚」
山に、河に、月。美麗なものの翔りを辿り、結局着くのは月餅の味。胡桃の味がもう一個、もう一個と手招いている。
寒空はもうすぐに雪の白しを降らせるだろう。りん、りん、と鈴虫の聲が身体を摩り抜ける。
山は今や唐紅。天ぷらの錦は抹茶塩で頂こう。河は冷たく顔を覗き込む。河原で食らう御田には一度何も付けずに出汁でのみ転がす。
狂い女を如何に踊っていても、目の前の甘い食物には勝てまい。涙の数ばかりが、ぶんと谺する。尊いと流しては口頭の文を崩すのみ。心迄もは蕩けさせずじまいであるから、狂い女は焦りに焦って籠の中に恋するものの首を置かざるを得ない。
「私だって上手く舞いたいのよ」「涙に如何して」と口速に云うのだが、取り扱い説明書を用いなくては月でも見て心を潤す方が気が楽に違いないのだった。
実につまらない、雑観の抒情的もどきの前置きは此処迄で、本文に移るとする。
蚯蚓は数舜ばかり休めるオアシスも、何らも無かった。干涸びて進まない世間体に揉まれながら生きているのが実情である。見た目は麗しの、喩えるなら水の様な青年であったが、蚯蚓という名前は自身が付けた訳でもなく、所詮管轄が違っているだけである。
いっさいの醜悪さを元にして、道化と空の気配を伺い、くすぐるように彼はそのように生きるしか無い。道化が華に生きるなら、蚯蚓はその土の中をせわしく泳ぎ回って、華が肥えゆくようにするのみに生きるだけであった。
何を彼にそうさせたか。恥を肯定しても往かない空気なのか、頑是のない物事なのか。想像する余地は大量にある。
彼にとって「愉しみ」とは各所々を這いずり回り乍ら単なる一日を過ごしてゆくのみで欲張りではなかった。蚯蚓は自身を「よくも無く、有り丈の才もない」と云っていた。彼をよく知らぬ人々には都度に因って云わなければ成らないし、種々な人々にも云ってはいた。
暮らしも相応であったので、彼を良く知る人物は別にして、その他に焦点を向けると「如何しようか、卑屈な野郎」だの「あの人物の足を地に戻さなきゃ、如何かお願い致します」だの云っては来ない。肯定も去れないし、しないのだ。故に否定も去れなければ、しないのである。無関心に近い状態やも知らまいが、蚯蚓にとっては安息を得る場のようだった。
蚯蚓は設けられた酒の席にて、酔っ払いの勢いで「真人間だ云々は疲れたよ。お前等も然う思わないかい。用を云わなければ「実が無い、ヒョロイ」だの何が欲しいんだい。何もかも自然的健康をこう迄やられるだなんて」と本音を零した。胡乱気に彼は上司を見た。彼にとっての上司評はよくない。
上司は気付かずに蚯蚓を哀れに見るが、蚯蚓はその視線に対して胡乱気にそして反抗心をちらつかせていた。
珍奇な清貧を語るや否や、元の勢いでがぶと呑むと、衣服が皺を寄せて蚯蚓は小さな男の子に成ってしまった。上司は蚯蚓の本名(花の名前か、御仏を捩った名前であるらしい。少なくとも三文字である)を呼ぶのだが、蚯蚓はそれに答えずに拒絶を露わにした。この男の子は蚯蚓という名前を忘れ、貴人のように気楽に振る舞った。
このように東西で至るところで若返るほど、蚯蚓は本名のように潤いを戻していくのであった。
その後の蚯蚓は誰も預かり知らぬ所で生きては居るだろう。若返り乍ら、忘れ往く己の陋習と未練に気付かずに。一応の幸せだと胸を張って云えるだろう。「その後」のこれはただ、噺家の憶測でしかないのだからカネは要らないよ。
「また、来まっさ。」
ちん、と寂しく風鈴が鳴った。
(了)
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