第21話 少しだけさようなら
大聖堂の鐘の音を、アナスタージアは辻馬車の中で聞いていた。バートは御者に急げと声をかける。
マダム・ステイシーの宿を去る間際に、バートはあの花の咲く美しい庭でもう一度アナスタージアに求婚した。必ず夫婦になろうと。そして、アナスタージアのハンカチを受け取って、嬉しそうに胸ポケットにしまったのだった。
そうこうしているうちに時間が過ぎ、少々遅刻してしまったのだった。
辻馬車は大聖堂の裏口に止まり、素早く降りたバートが、自分たちを待っていたらしい聖堂の下働きの男にチップを与える。
そして、アナスタージアはバートと共に、男に案内されて大聖堂の中へと入っていったのだった。
神との対話をする部屋で、身代わりの者たちとまた入れ替わるのだと、馬車の中で説明されている。上手くやらなくてはいけない。
しかし、ヨアンナの前に立った時、どんな顔をしたら良いのだろうと、アナスタージアは緊張と恥ずかしさで身を固くしていた。バートとのことを知られないように、いつも通りに振る舞えるかと不安だった。
さあと急かされるのだか、足がもつれて前に進めなかった。
自分の身体が自分のものでないような、不思議な感じだった。身体中にまだバートの手や唇の甘く痺れるような感触が残っていて、歩くと体の奥が疼くようで足が震えてしまうのだ。今は手を握られているだけなのに、またジンジンと熱が蘇ってきてしまう。
「バ、バート……待って。歩けないの……」
恥ずかしくて声が震えてしまった。
さっきから、まともに彼の顔が見られない。昼日中から、あられもない姿を晒し、はしたなくも嬌声を上げてしまったのだ。たまらなく恥ずかしかった。赤面して、顔を上げることもできないでいる。
バートはもう仮面をつけていなかったが、アナスタージアは二人分の仮面を手に持ってずっと顔を隠していた。
クスリと笑うバートの声が聞こえた。
「俺のせいだな。じゃあ、抱っこしてあげよう」
言った時にはもう、ふわりと抱え上げられていた。仮面をずらして、バートが頬に軽く口づけする。アナスタージアはキュッと身を縮めて、彼の胸にもたれ掛かるのだった。
「バート……」
彼の胸に唇を頬を寄せて、熱い息をハアと吐く。このまま時間が止まってしまえばいいのにと思う。叶わぬなら、せめてもう少しだけ、夢見心地を味わっていたい。
横抱きにされたまま、聖堂の中の細い通路を進んでゆく。途中で下働きの男は、この先ですと言い残して去っていった。
そして、いくつか扉が並んでいる通路に来たところで、突然一つの扉が開いた。
白い衣装を着けた、仮面の男が出てきた。
「あ!」
男は大きな声を出しそうになって慌てて止め、こちらに向かってずんずんと勢いよく歩いてくる。アナスタージアは、また仮面で顔を隠す。こんな真っ赤な顔、誰にも見られたくなかった。
「へい……あ、いや……お、遅いです!」
「すまんすまん」
バートがワハハと笑うと、男はさっと仮面を外し、ムッとした顔で部屋を指さした。白い衣装の女も出てきた。
「早くおはいり下さい! 一応バレていないと思います。しかし、侍女にはかなり反感を持たれています。お嬢様に近づくなって顔で何度も睨まれました。しかし、あれは多分私のせいではないと思いますが!」
「分かった。ありがとう、感謝するよ」
「……い、いえ」
バートに礼を言われて、男は少し居心地悪そうな顔になる。そして、アナスタージアをじっと見つめた。
「この方ですか……」
仮面に隠れながら、アナスタージアは恐る恐る男を観察していた。バートは友人と言っていたが、対等な者同士の話し方では無かった。同じ国境警備兵なのだとしてもバートが先輩でこの男は後輩、そんな感じがした。
そしてじっと自分を見る目が、少し鋭く見えてしまって不安になる。彼は身代わりを引き受けはしたが、自分たちのことはあまり良く思っていないのではないだろうか。バートが妙な女に振り回されていると、警戒しているのではないだろうか。
そんなことを思って、アナスタージアは不安になるのだが、バートは終始上機嫌でニコニコと笑っている。
「そう、直に俺の妻になる人だ。また後で詳しいことは話すが、お前にはマダム・ステイシーの宿の常連になってもらうことになるから、宜しく頼むぞ」
「は?」
「馬車で待ってろ」
バートは男の肩をパシンと叩いて、小部屋に向かった。そして身代わり役の二人は、深々と頭を下げてから去っていく。
部屋に入ると、バートはアナスタージアを椅子に座らせ、大丈夫だよというように頭を撫でてくれた。
「心配ない。彼は信用できる男だから」
椅子を寄せて座り、アナスタージアの肩を抱き寄せた。
次に会える時までは、密かに手紙のやり取りをしようと決めたが、バート側の配達人は今の男になるようだ。それなら、こちらはヨアンナに頼むことにしようかしらとアナスタージアは思うのだった。
それにしても、もうすぐバートと別れなければならないことが、胸を重くしている。彼はこの後仕事があるらしいのだ。
「バート、気を付けて頂戴ね……二度と怪我などないように……」
「嬉しいね。君が心配してくれるなんて。でも大丈夫さ、エレバスが戦場になるわけでは無いし、俺は君が思うよりもきっと強いぞ」
それなら良いのだけど、と困ったような笑みを浮かべてアナスタージアは、彼の額の傷を指でなぞった。
リンザールに戻ったらすぐにでも、戦に備えて動き出さなくてはならない。
エルシオンがあの夏の戦闘から今まで反撃してこなかったのは、宗教的慣習から収穫祭を乱さない為だったのであって、いつだって戦闘開始できたのだから。
これまでは双方ともにエレバスを巻き込むことは無かったし、リンザールいやアナスタージアもそのつもりでいる。
しかし、エルシオンがいつまでエレバスを中立と認めて、戦の外に置くかは分からない。司教を通じて、シヴァンとも繋がりを持ったことから、自軍への協力を強制することもあるのではないだろうか。
――エレバスの兵団が、バートが、リンザールと敵対するかもしれない。
悪夢のような話だ。アナスタージアの個人的な恋情にとっても、リンザール王国にとっても。決してそのようなことにさせてはならない。
アナスタージアは俯いて、弱々しく頭を振った。
「どうした、何がそんなに不安なんだ?」
優しい手つきで髪を撫でてくれるバートに、胸の内を話せないのが苦しい。できるだけ嘘はつきたくないのに。
「……次はいつ会えるのかしらって……」
「何度も言ったろう? 戦が終われば会えるさ……。君のお父上に、マクミラン子爵に挨拶に行くんだから」
「そう……ね」
髪を撫でる彼の手に、そっと握った。また嘘を重ねてしまったと、心苦しかった。
アナスタージアたちは、エレバスに来るにあたって、教皇領の南東の隅に小さな所領を持つ貴族、マクミラン子爵の名を無断拝借していた。
実在の人物であるので、あまりこの名を使わぬようにと、マルセルから言われていたが、求婚されて遂に家名を聞かれてしまっては、言わざるを得なかったのだ。リンザールの王女であるとは、決して言えないのだから。
「心配しなくていい。きっと直ぐだ」
「ええ、きっと……きっとね」
見つめ合い、どちらからともなく唇を合わせた。
と、コンコンと音がして、慌ててアナスタージアは身を引いた。
苛立ちを含むヨアンナの声がノックに続く。
「あの、そろそろよろしいでしょうか」
「ええ、もう行くわ……」
小さな声で答えると、失礼しますとの声と共に、扉が開いた。そしてヨアンナが顔を覗かせた。仮面を取り素顔を晒しているアナスタージアを見て、彼女は驚きの声を上げた。
「まあ! アナ……アンナ様、赤いお顔をなさって、どうなさったのですか? 具合でも悪いのですか?」
「い、いいえ、大丈夫よ。……ヨ、ジョアンだって真っ赤よ?」
「ええ? そ、そうですか?」
ヨアンナは目をパチパチ瞬いて、自分の頬に手を当てた。そして、隣のハリーが確かに赤いですと耳打ちしてくるのを、肘鉄で返していた。
「ずっと仮面をつけていたから、火照ってしまったんじゃないのか?」
くすくすと笑うバートと共に部屋を出た。もう二人きりの時間は終わってしまったのね、アナスタージアはチクンと鳴る胸を押さえてバートを見上げた。
彼は微笑みで応えてくれた。
もう、ここでお別れなのだ。大聖堂を出たら、離れ離れにならなければならない。
「アンナ様、大聖堂の入り口前での待ち合わせと伝言に書いたのですから、そろそろ行きませんとマーカスと合流できませんわ。さあ」
「……ええ」
アナスタージアは頷きながらも、重いため息をついた。その耳に、バートの小さな小さな囁きが聞こえた。
『別れるんじゃない。始まるんだ』
ハッと彼をふり返る。やはりバートは微笑んでいる。
アナスタージアは彼の袖を引っ張り、小さく頷いた。自分たちの恋は今動き出したのだ。どうなるのかなんて、まだ分からない。でも、求めあう気持ちを抑えることはもう出来ないのだ。
また会う日の為に、今は少しだけさようならなのだ。
「アンナ様?」
「ああ、そうだ。俺はやはりもう少し、神と話をして行こうと思う。素晴らしい今日という日を感謝しなくちゃな……。この後、俺は仕事もあるし、ここでお開きにしようか」
「そうですか、分かりました。今日は道案内をどうもありがとうございました。ではごきげんよう」
ヨアンナには欠片ほどの愛想もななかった。そして、さあ行きましょうとアナスタージアを誘うのだった。
「バート……元気で」
「ああ、君も……」
後ろ髪をひかれつつ、アナスタージアは歩き出した。
バートが手を振って見送るのを何度も振り返りながら歩き、そして彼が扉の向こうに消えるのを見ると、ついに涙がこぼれてしまった。両手で顔を覆う。
「ど、どうなさいました?」
「ああ、ヨアンナ……何でもないの。何でもないのよ」
ヨアンナは、軽くため息をついて声を潜めた。
「……お忘れくださいとは言いませんわ。でもお気持ちは抑えて下さいませ……このような事しか申し上げられなくて、本当に申し訳ありません」
優しい声だったが、アナスタージアには辛い言葉だった。そして彼女は頷くしかなかった。
大聖堂の外に出た途端、マルセルが猛烈な勢いで走り寄って来た。そして、この役立たずめと怒声を上げて、ハリーの襟首を掴むと腹に膝を一発お見舞いしたのだった。ぐえっと呻いてハリーは地に這いつくばった。
「マ、マルセル? ど、どうしたの? ハリーが可哀想だわ」
驚き、立ちすくんでしまったアナスタージアを見ながら、マルセルはゼーゼーと荒い息を吐く。全力疾走してきたのだろう。そして、ガックリと肩を落として首を振るのだった。
「アナスタージア様……あれほどご自重くださいと……」
「一人歩きなんてしてないわ。ヨアンナもハリーも一緒だったのよ」
「『バート』もでしょう! 何者かも知れないというのに! で、ヨアンナ! お前もお前だ! 『バート』は何処だ。いや、なんだその恰好は?!」
ようやく、皆の仮装に気が付いたようだ。
思わずアナスタージアとヨアンナは顔を見合わせて、クスリと笑ってしまう。申し訳ありませんと軽く頭を下げてから、ヨアンナは言った。
「その者は、聖堂の中におりますわ。神と話がしたいという事で対話室に。で、ここでお別れしたのです」
「神と対話?」
「ええ、意外と信心深いようですね。それに私の見たところでは、我々の正体には気づいていないようでしたし、スパイの類でもないと思われますわ。ただの国境警備兵でしょう。難点としては、アナスタージアに懸想を……」
「懸想だと!?」
マルセルがクワッと目を剥いた。
ヨアンナは、どう説明しようかと少し悩む気配を見せたが、アナスタージアが彼女を見つめると、微かに頷いて見せてくれた。
「そのように見えたと言うだけで、不埒な真似はなさりませんでしたわ。そうでございましょう? アナスタージア様」
「…………え、ええ、ま、まあ」
アナスタージアも彼に思いを寄せていることは、ヨアンナにはもう分かっているはずなのに、ありがたい事にそれは伏せてくれた。少し後ろめたい気持ちなってしまうのだが。
「我々がここを去れば、もう会うことも無いのですから、諦めることでしょう」
マルセルは大きく舌打ちをした。
ヨアンナの言う通り、リンザールに戻れば縁は切れるのだからと思ってくれたらしく、不機嫌ながらも戻るぞとハリーに命令するのだった。
ただし、宿に戻ったらまたお説教をされそうな雰囲気ではあったのだが。
「もうよろしいでしょうか」
女もののハンカチを握りしめ、四人の男女を乗せて去ってゆく辻馬車を眺めていた主に、御者が声を掛けた。
声もなく主が頷くと、紋章を隠された貴人用の馬車が静かに走り出す。
二台の馬車はそれぞれ反対の方角へと、離れてゆくのだった。
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