第17話

 その日の晩、母は病院に泊まった。聡が大丈夫だから帰るように何度促しても譲らなかった。

「母さん。退院したら俺のところに、誰かが調べに来るんだよね?」

「うん……嫌なら、引き延ばすことはできるかもしれないけど、いつかは応えなくちゃならないわね。何度も連絡が来てるから」

「それなら、聞いておきたいことがあるんだ」

「何?」

「美津子のことなんだけど、あいつはお母さんの患者だったんだろ?」

 ソファベッドに寝ていた母が急に上半身を起こした。

「どうして、それを……誰から聞いたの?」

「本人からだよ。あいつ、患者だから二人っきりになるし、母さんのスケジュールも全部知ってるって……だから、殺すこともできるって、俺にそう言ったんだ」

「いったい何なの、その話は。どういうこと?」

 母が動揺を隠せず、切迫した調子で尋ねた。

「俺に家族になれって、俺を救うにはそれしかないって……美津子が言う『救う』っていうのがどういうことなのか俺には結局分からなかったけど、磯生先生に気をつけろとか、お父さんを殺したのは磯生先生だとか言って、どういうことなのか聞こうとしたけど『私には分かるの』とか言って、滅裂でついていけなかった」

「ちょっと待って……最近美津子ちゃんが滅裂なのはお母さんも知ってたけど、『家族になれ』っ何なの?」

「美津子が望んでたのは家が燃えて、俺があいつと一緒に暮らすようになるっていうことだったみたいだけど」

「聡は、家を燃やしたのが美津子ちゃんだっていうの?」

「本当にそうなんだよ。信じてもらえないかも知れないけど、あいつが家に火をつけさせたんだ。俺は美津子の言うことをきかないと母さんが殺されると思ってた。あいつならやりかねない。いや、絶対にやるって思ってた。前に携帯が無くなったろ? あれはあいつが盗んだんだよ。実際あいつは母さんに何でもできたんだ」

「それも、あの娘が言ったの?」

「あいつから電話があったんだ。お母さんの携帯から」

 母は顎に手を当てて、考え込んでいるように見えた。しばらくそうしてから、聡のほうに向き直って言った。

「ごめんなさい。あなたの言ったことはもちろん全部信じたいんだけど、お母さんには分かりづらいところがあって……でも、あの子が望んでいたことは、何となくだけど少し理解できたような気がするわ」

「美津子が望んでいたことって、何? 正直な話、俺には美津子が本当に望んでいたのが何だったかピンと来なくて……もう少し、俺にあいつのことを教えてほしい。言えないこともあるっていうのは分かってるけど、このままじゃ、理解できないことが多すぎて、自分に起こったことについてどう考えていいかも全く分からないんだ」

 母は目をつぶると瞼に手をあてて、こするようなしぐさをした。おそらく疲労と混乱とで限界が近いのだ。でも、どうしても美津子のことを聞かなくてはならない。聡には美津子のことをもう考えたくないという逃げの気持ちもあったが、竹夫まで巻き込んでしまった「このこと」を正しく理解するとしたら今しかチャンスがない気がした。

「患者さんのことだから、病状の詳しいことまでは言えないけど……どうしてあなたを苦しめるようなことになってしまったのか……それはきっと担当医としてのお母さんにも責任があると思う。あなたにとって必要なら、あの子のことを少しだけ話すわ」

 ゆっくり深呼吸すると母は語り始めた。

「あの子はお母さんの患者になる前には長い間お父さんの患者だったの。美津子ちゃんが小学二年生の時、児童相談所という所に妹さんといっしょに保護されて……お父さんはそこの嘱託医をしてたから、そこで初めて彼女たちを診たの。それからは別の施設やお婆ちゃんのところに行ってからもずっとお父さんが主治医をしてた。とにかく美津子ちゃんのお父さんへの依存はすごかったわ。もともとやさしいお父さんに憧れがあったのね。診察が終わってもずっとお父さんのこと待ってたり、家までついて来ちゃったりして大変だった。

 その時の美津子ちゃんの担任が磯生先生で……先生も新任だったからそんな生徒を持つのが不安で、お父さんに頻繁に相談するようになったのね。あなたにお父さんのこういうことを言うのはつらいんだけど……お父さんと磯生先生は短い間だけど恋人どうしだったみたい。本当は良くないかもしれないけど、お母さん、お父さんの日記、見ちゃった。だって、表紙に仕事のメモみたいなこと書いてあって、はじめは実際仕事のことが書いてあったのに、途中から先生のことばかりになって……お母さん読んでて笑っちゃった。なんてしょうもないんだろ、この人はって。このことは誰にも内緒よ。相手の先生もお母さんが知ってるなんて思ってないと思うから」

 母はここで深くため息をついた。

「お母さんも初めは憎くてしかたなかったけど、もう終わったことだから。それにお父さんにいたってはもう死んでしまって、どう責めたらいいか分からないし……。お父さんは人間としては分からないけど、精神科のお医者さんとしてはみんなから結構頼りにされてた。でもね、美津子ちゃんのときはすごく振り回されちゃってね。しかも担任の先生とも恋人になって、距離がとれなくなっちゃったのよ。ある意味自分でどんどん罠にはまっていったの。お父さんがあんなふうに病気になったのは美津子ちゃんのせいでもないし、磯生先生のせいでもない。きっとお父さん自身のせいなの。お父さんには申し訳ないけど、お母さんはそう思う。誰のせいでもない。病気のせいなんて嘘。……お父さんが全部悪いとお母さんは思う。そして、今ではそんなふうに責められることをお父さんも望んでると思う」

 聡は母の目に浮かぶ涙を見ないようにして、何でもないことを聞いているふりを続けた。父の知らない側面を知ってしまったということよりは、母に残酷なことを強いたということを強く感じた。知りたいと思っていたことだが、それを母の口から言わせたことはやはり申し訳なく思った。

 死ぬ前数年間の父は、昼間から寝てばかりで起きれば家族に怒鳴りちらすような生活を送っていた。 聡にとっての父親というのは、そういう感情の起伏の激しいだらしのない人間だった。お父さんは病気だから仕方がないのよ、あるいはお父さんは悪くないのよ等、母から聞かされ続けていた建前も、ほとんど信じてはいなかった。ただ、そこに今、女性関係に嵌まってもがく父親という像が加わっただけで、何となく父の生や死が、さらに情けなく滑稽なものに思えるのは妙なものだった。まだ自分は父を悲劇の登場人物として、かわいそうな被害者として見ていたことに改めて気づかされる。父は自分にこの種のことを知られたくはなかったろうか? しかし、これについても母と同じで、聡には、父が自分を飾って少しでも美しく覚えていて欲しいなどとはもう考えておらず、情けなければ情けないそのままの父を見るように望んでいるような気がしていた。

「美津子ちゃんは異常に勘のするどい子だったから、磯生先生とお父さんとのことに気づいちゃったのね。ほら、お父さんって嘘が下手な人でしょ? そういうこと、隠せないのよ。美津子ちゃんじゃなくても、気づいたかもしれない……気づかなかったのはお母さんだけ。結局、お母さんもあの人のことをちゃんと見ていなかったのかもしれない。……とにかく、お父さんが医者をやめる直前には、美津子ちゃんの先生に対するやきもちがすごくて困ってたみたいよ」

 母は笑うしぐさを見せたが、すぐにまた真剣な表情にもどった。

「でも、それがどうして聡を脅すようなことになったのかは分からない。美津子ちゃんは、度が過ぎたところはあったけど、純粋にお父さんのことを頼りにしてたし、磯生先生のことはお父さんをとられるから嫌ってたかもしれないけど、決してひどいことをするような子じゃなかった。確かに最近は診察中、妄想的で考えにまとまりがつかないところがあったけど、少なくとも人を陥れるような策をめぐらす子には思えなかった。……でも、これはお母さんが良く診られてなかったということだけかもしれない」

 聡は一番知りたかったことをもう一度尋ねた。

「さっき母さんが言ってた美津子が望んでいたことって何?」

「うん、それは……最近病院に来たときにもよく言ってたのよ。家族がどうの、妹にも父親が必要とか何とか、まあ私は美津子ちゃんには悪いけどそれほど本気で取り合ってなかったの。だって、患者さんの中で新しい家族を勝手に作るみたいな話をする人は多いのよ。でも、かなり本気で考えてたみたいね。聡にとっては奇妙な話かもしれないけど、あなたをお父さんのかわりに、父親として迎えたかったんだと思う。一度思いこんだら一途な子だから妄想的なところも手伝って、お父さんのときより過激になっちゃったのかもしれないわね」

「過激になっちゃったって……そんなに軽いもんじゃないよ」

「ごめんなさい。でも、そういうことはよくあることなの。たとえ自分の息子を脅されたり家を燃やされたりしても、そうとしか言えない」

 聡は自分を殺そうと計画されても、それをよくあることのように話す気持ちが理解できなかった。しかし母の顔には、言葉に反してやり切れなさが滲んでいるような気がした。それは平静さを保とうとすると余計に目立ってしまう類のもので、正視するのがつらかった。

「聡は自分に起こったことを警察とか裁判所の人に全部話してみるつもりなの?」

「うん……俺が全部話さないと、たぶん竹夫も何も話せないから」

 母はそれ以上何も聞かなかった。とにかく疲れていてもう眠りたかったのではないだろうか。仮に話す内容の全部を聞かれたとしても聡はどう説明して良いか分からなかった。特に、自分を脅迫した美津子とそれを殺した竹夫と火をつけた房子で、一ヶ月前にみんなで仲良く美津子のお婆ちゃんを埋めましたという話などは、どんなに真剣に話したとしても冗談にしか聞こえないような気がした。

 しかし、話さなくてはならない。どんなに冗談に聞こえたとしても、これは冗談ではなく、本当に起こってしまったことなのだ。他にやりようがあったとしても、真剣に選んでやった結果なのだから。


 

 退院を直前に控えて母親以外との面会が許可されてから、竹夫の母が来た。

 彼女は以前見たときよりよりかなり痩せたようだった。聡が元気そうに見えると喜んでくれた。竹夫の様子を尋ねた。少なくとも見た目は元気そうで、聡やハリーのことをしきりに気にしているが、事件のことになると一切口をつぐんで話さなくなるという。

「あの子は、変に強情なところがあって……ばかなくせに気をつかうから」

 そして、しばらく黙った後、こう言った。

「きっと、頭の中で色々考えてるのかもしれないけど、考えてるうちに次から次へと忘れるような子だから……あの子にとっては大き過ぎるものを抱え込んで、にっちもさっちも行かなくなってるのかも。本当に、どうなっちゃってるんだろうって、こっちが考え込んじゃうわ。単純なようで、良く分からない子だったけど、余計分からないようになってしまって……聡君にも迷惑かけてごめんね。せっかく、友達になってくれたのに。今は、おばちゃん、あの子がやったことはもちろん絶対いけないことだと思ってるんだけど、それでも、それをしなくちゃならない何か理由があったような気がして、仕方がないのよ。どうして、あの子があんなことをしたんだろう。どんなことを考えてるんだろう。人を殺している間どんな気持ちだったんだろう。毎日、そんなことばっかりで頭がいっぱいなの。今は何にも言ってくれないけど、いつかは何もかも話してくれるとずっと信じてる」

 聡はなんと言って良いか分からず、気がつくと「すみません」とひたすら謝っていた。

「聡君が謝ることなんか何一つない。ただ一つだけお願いできれば……これからも友達でいてやってください」

 竹夫の母は目に涙をため、笑いながらそう言った。

 竹夫の母親が帰った後、しばらく病室に竹夫がいるような親密な気配が漂っていた。


 そして、退院の前日、房子が来た。

「ひさしぶりね……生きてて良かったわね」

 房子がソファに座り、部屋全体を見回した。

「良い部屋ね。美津子もここで家族ごっこするくらいで我慢しとけば良かったのに」

 房子に会ったら、話さなければいけないことがあったのに、それをなかなか思い出せなかった。頭の中を引っ掻き回してやっとそれが何か思い出したのに、今度はどんな顔して話せばいいのか分からなかった。

「……ここを出たら、美津子のことやおまえのことを話すと思うけど、良いか?」

「うん、全然構わないわ。こっちからお願いしようと思ってたくらい。だって、もう意味がないもの。あの子がいなくなって表面上は平和だけど、張り合いがないのよ。最近全く生きてる気がしないわ。……でもね、嘘だけは言わないで、本当にあったことなら何を言っても構わない。逃げも隠れもしないわよ。でも、美津子のことで嘘をつかれるのだけは耐えられない」

「頼まれたって嘘なんかつかない」

 房子は今日初めて少しだけ微笑んだ。

「おまえ、水無子の誕生日がどうのって言ってたろ? 妹はどうなったんだ?」

「水無子ちゃんはね……お母さんのところに引き取られたわ。施設かどっちか揉めたらしいけど、結局親が引き取りを希望したのと、あれほど嫌がってたのに水無子ちゃんも行くって言って、決まりになったみたい。美津子は新しい家族を作るとか言ってたけど、結局水無子ちゃんは元のお母さんが良かったっていうところかしら。なんだかそう考えると私も気が抜けちゃった。あの子が聡を手に入れたかったのは自分の願望もあったかもしれないけど、水無子ちゃんのためっていうのが大きかったから……まあこれが本来の姿なんでしょうけど、なんだか味気ないわ。悪の片棒を担いでた人間としては」

 言い方こそ冗談めかしていたが、房子の目は暗く、絶望の色を浮かべていた。

「でも、なんか美津子が全部悪者みたいになってるけど……まあ実際そうなんでしょうけど、私はあの子の言うことのすべてが、ゴミみたいな想像の産物とか、笑えない冗談だとは思わない」

「……意味が良く分かんないな。美津子は『私には分かる』とかって予知みたいなことを言ったり、俺の父親の死んだのは磯生先生のせいだとか、俺が危ないから救うとか……おまえ、直接聞いていないからそんなこと言うんじゃないのか?」

「わたしも実は詳しくは知らないの。美津子、最近は秘密主義みたいになって、わたしにも本当のことを言わなくなったから。私は洗いざらい全部見せてこの身を捧げているのに不公平ったらありゃしないわ。でも仕方ない。本当に世の中は不公平にできてるんだから。とにかく、あの子は確実に何かをわたしに隠してた。……すごく怯えてたのよ、あの子。誰かの罰が怖いみたいに。最初はひどくなった妄想の一つかと思ってたけど、なんだか違うの。具体的には言わないんだけど、怯え方がすごくそこだけリアルなのよ。他の被害的な思いこみとは全然違って、恐れてることが絞り込めてるというか、明らかに誰かの言いつけを守らないといけないみたいな。そうね……もう昔のことではっきりとは覚えてないけど、あの子がお母さんと暮らしてたときの感じに近いわ。私には、美津子が言ってたあなたを救うっていう話、あれはあの子の妄想やエゴだけから出た話じゃない気がするの」

 美津子が母親と一緒に暮らしていた時期と言えば、小学校一年か二年の時だ。体の痣を隠すために夏でも長袖だった。聡が、服装についてわずかに疑問を感じる程度だった時に、房子はもっと感情の質的な部分を記憶していたことになる。聡は房子の美津子に対する思いの深さを感じずにはいられなかった。

 房子のことは自宅に火をつけられた今でもなお、信用していた。いや、おかしな話だが火を点けられた後のほうが信用が深まったと言って良かった。でも、房子への信頼と美津子の妄言のリアリティを信じることとは別の問題だった。

「まあ、とにかくあなたに会うのもこれが最後になりそうな気がしたから今日来たの。今までありがとね。本当に楽しかった。死ぬほど」


 房子はその晩、右頸動脈をカッターで切って自殺を図った。家族の発見が早く、すぐに救急搬送され、多量の出血にも関わらず一命をとりとめた。

 近くにあった遺書と思われるノートには、美津子の名前だけが、数十ページにわたって紙面が破れるほどの筆圧で書き込まれていた。


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