第16話
「俺を美津子の家に連れて行ってくれないか?」
普通に考えれば、これ以上竹夫に頼みごとをするなんてあり得ない。でも、竹夫以外に頼れる人間なんて誰ひとりいなかった。
「明日じゃだめなの? 体が治ってからにしよう。今日はもう無理だよ」
泣きべそが少しマシになった程度の顔で、竹夫はめずらしく強く聡に逆らった。
「行かないと困ったことになるんだ。頼めるやつはおまえしかいない。俺を美津子の家に連れて行ってくれ。俺は本当に何もかもなくすことになる。俺は絶対に今すぐ美津子の家に行かなくちゃならないんだ!」
納得しない竹夫に、ぼやけた頭を振り絞って説明した。「困るんだ」「殺される」など時間軸も乱れたまま支離滅裂に言葉を並べた。分かってもらえる自信はない。人間の言葉になっているかも分からない。竹夫だから何かが伝わる。竹夫なら何とかしてくれる。ひたすら話し続けた。
「ごめん……聡くん、ぼくは頭が悪くて全部は、良く分からない。でも、これだけは、ぼくに教えて。今日聡くんの家が燃えちゃったのは、美津子ちゃんのせいなんだね?」
竹夫が聡の目をまっすぐ見ていた。ごまかしはきかない。竹夫の顔はもうさっきまでの情けない顔ではない。必死に自分のやるべきことを考える人間の顔だ。聡が目を逸らさずにゆっくりと頷くと、竹夫は掠れてはいるがしっかりした声で「わかった」とだけ言った。
竹夫の母ちゃんが傘と毛布を持ってきてくれた。視界の端で母ちゃんが泣きながら竹夫をひっぱたいたのが見えた。聡はまだ、早く美津子の家に行かなければと譫言のように言っていたが、間もなく毛布に包まれながら苦しそうな顔をして眠りに落ちた。竹夫は拳を強くにぎりしめながらその様子をじっと見ていた。
竹夫が火事に気づいたのはいつものように聡の部屋の明かりを確かめたときだった。
あれっ……明かりがこんな時間に消えていることは今までに一度もなかった。その代わり、昼間でもカーテンが閉まっている反対側の部屋から明かりが洩れていた。それに照らされてうすぼんやり帯のようなものが見えた。最初は雨のせいだと思った。しかしどうみてもそれは水しぶきではなく、煙のようだった。
とにかく何が起こっているのか確かめなくてはならない。既に眠っていた家族には何も告げず裸足のままサンダルを履いて出ていった。
呼び鈴を何度押しても返事がなかった。一応玄関を開けてみると鍵はかかっていない。大人を呼びに行こうかとも思ったが、大げさなことを嫌う聡に嫌われてしまうと考えたらできなかった。やっと最近話をしてくれるようになったのに、ここで下手なことをしたらまた元通りになってしまうかもしれない。
中を覗くと薄く煙がたちこめていた。何かが燃えている。火元を探して聡と一緒に消せば大ごとにならずに済むし、聡も喜ぶはずだ。まずは大声で聡を呼びながら、出火場所を探すつもりで一階を駆け回った。
いくら呼んでも聡の返事はない。煙はどんどん濃くなっていくのに、肝心の火元は見つからなかった。煙の量が急激に増えていく。自分たちだけで消せるような火ではない。竹夫は追いつめられた。せめて聡だけでも見つけ出さなくてはならない。
呼吸が苦しくなってきた。口を服でおおい、二階へ駆け上がった。運動と煙が呼吸をさらに悪化させる。声を出そうとしても息を吸うのさえ難しく、声にならない。煙の様子もさっきまでの白い靄から、黒々とした質量のある状態に変わっている。視界も悪い。まず、明かりが点いている部屋を開けてみた。壁一面の本と大きな机が目に入っただけで人はいない。きっと寝ているのだと思い、明かりの消えた聡の部屋を調べたがベッドは空だった。他の部屋も調べたがどこにも誰もいない。そうしている間にも煙が押し寄せて来る。パニックに陥った。どうしていいのか分からなくなり、やみくもに走り回った。そのとき、咳と嘔吐が混じった苦しそうな声を聞いた。それは学校のトイレで聞き慣れた聡の嘔吐だった。間違いない、聡がいる。あの部屋のどこかにいる。最初に調べた明かりの洩れていた部屋に駆け込んで、死角になっていた机の下に倒れている聡を見つけた。手を伸ばして助け起こそうとしたとき、聡が不思議なものを見るような目をして言った。
「タケ……おまえ何やってんだ?」
竹夫は思わず叫びながら聡に抱きついた。
聡の家から逃れた後、母にぶたれた。
親から手を上げられたのはそれが初めてだった。母は全身を震わせていた。人のそれほど深い悲しみをみたのも、それほど激しい怒りをみたのも初めてのことだった。父は何も言わず、母の背中に手をあて、支えるようにしてそばに立っていた。
聡が眠ったのを見届けると母に後ろから「ごめん、ちょっと行ってくる」と声をかけ、自分の家に走って行った。
家の中に入ると、まっすぐ台所へ向かった。竹夫が通ったあとには血の足跡がべっとりと残った。引き出しから、一番刃渡りの長いパン切りナイフを持ち出した。母がサンドイッチを作るとき、そのナイフでパンを切る姿を思い出した。誰もいない台所でもう一度「ごめん」と謝った。
刃物が目立たぬよう上着で包み、傘もささずに家から飛び出した。途中、火事を見に来た近所の人たちに何度もぶつかりながら、振り返らずに走り続けた。足の裏からの出血がひどく、靴の中がぬるぬるしたが痛みは感じなかった。
雷が鳴っていた。それに指揮されるように雨足が強まった。
「僕はもう、聡くんをほっておかない」
美津子の家の前に立った。
まるで服のまま泳いできたばかりのようにずぶ濡れだった。シャツもパンツも皮膚に貼り付いていた。ナイフを包み込んだ上着は水を吸って鉛のように重い。水滴を垂らしている布から鋭い刃先がのぞいていた。
屋根の向こうで、枯れ枝を逆さ吊りにしたような光が走る。数秒遅れて地響きをともなった低い雷鳴が起こった。
ぬかるんだ地面を一歩ずつ踏みしめる度に血液の充満した靴がズブズブと音をたてた。美津子の祖母が埋まっている土の上には大きな釣り鐘型の物体があった。その前でガラス瓶が倒れ、花びらを散らした菊が雨に打たれていた。暖簾がわりの洗濯物の列をくぐり、明かりの点いている美津子の部屋に近づく。体を寄せ窓を叩こうとしたとき、突然ガラス戸が勢い良く開いた。
美津子が満面の笑みを浮かべて立っていた。
しかし、その笑顔が竹夫を見て急速にしぼんでいく。「どうしたの……」言葉を聞き終わる前にナイフの柄を痛いほど強くにぎりしめ、刃の突端を美津子の腹部に深々と押し込んだ。美津子の口からは濁音混じりの大きな吐息が洩れ、顔を歪めて抗議するように竹夫を睨みつけた。ナイフを刺したまま美津子の体を押すようにして部屋の中へ踏み込んだ。美津子はバランスを崩し、後ずさりしながら後方に倒れていく。一瞬、背後のテーブルの上に丸いショートケーキと色とりどりのロウソクが見えた。その向こうには妹の水無子が座っている。美津子の頭が長い髪を大きな翼のように広げながら落下していく。そのまま、背中でケーキを押しつぶして、テーブルの上に倒れ込んだ。目の前に倒れてきた姉をじっと見たまま、水無子は一歩も退こうとはしない。美津子は首をねじりながら「逃げなさい!」と声を絞り出した。
水無子は竹夫のほうを見据えながら立ち上がると突然駆け出した。玄関を乱暴に開ける音がして、靴音があっという間に遠ざかっていく。
ナイフを引き抜こうとしたが、美津子が刀身を両手でがっちりと握りしめていて、無理だった。美津子の腹を蹴りつけ、靴裏を強く押しつけたまま、大根を土壌から引きぬく要領で一気にナイフを抜去した。手の指は引き裂かれ、栓を抜かれた腹部からの出血で、明るい空色のブラウスに鮮やかな紅の地図が現れた。そのブラウスは美津子が学校行事などに着てくるお気に入りの服だった。血液は、心臓の拍動とともにみるみる版図を広げ、ブラウスの前面が真っ赤に染まるのに五秒とかからなかった。
引き抜いたナイフを高く振り上げ胸めがけて振り下ろす。
「よくも聡くんをっ」
ザクッ
「……苦しめたなっ、たなっ、たなっ、たなっ、たなっ」
美津子は最初の一突きのときだけ「やめてっ」と美しい声で叫んだが、あとは金魚のように口をぱくぱくしながら風が吹くときのような音を喉から洩らすだけだった。
ザクッ、ザクッ、ザクッ……骨を削る音、肉を裂く音が響いた。哀願するように見つめていた目から意志の光が消え、徐々にドロリと膜が張ったようになった。
ザクッ、ザクッ、ザクッ……四人で庭に穴を掘った時のことを思い出した。聡に怒られるから言わなかったがあの時はすごく楽しかった。人を埋めるのは怖かったが、みんながいっしょだった。でも今回は違う。ナイフを振り下ろす度にだんだん自分が独りになっていくのが分かった。みんながいるところからどんどん自分だけ離れていってしまう。
開け放たれたままの窓から激しい風雨が吹き込んでいた。薄いピンク色のカーテンが風に翻弄され、激しく踊っている。光の瞬きが起こったのとほとんど同時に世界が壊れたような音がした。
聡はガラスの容器に入れられた。シューと高い音が続いている。耳が痛い。何の拷問だろう。
美津子は家を燃やしただけでは飽きたらずこんな毒壷に自分を閉じこめ、昆虫のように殺して標本にでもするのだろうか。待て、家は本当に燃えたのか……煙が満ちている部屋の様子や竹夫の泣き顔がちらちらと頭に浮かぶが、とても現実とは思われない。そもそもなぜこんなに自分は焦っているのだろう。しなければいけないこと、行かなければいけない場所があったはずなのに思い出せない。
「眠かったら眠ってもいいんですよう」
腰の位置にあるスピーカーから耳障りな声が聞こえた。白衣を着た気持ち悪いくらいに色白の男が作り笑顔でこちらを覗き込んでいる。
(ばかを言うな。眠ったらおまえらの思うつぼだろう)
ガラス壁を通して内側から部屋の中を見ると、異様に大きな空間に白い壁と天井が広がっていて、何かの実験施設のように見えた。やはり自分は捕らえられたのだ。もう二度と出られないかもしれない。局面を描くガラスの壁を押してみたがビクともしない。何度叩いてみても低い音が容器いっぱいに響くだけで同じことだった。
「やめてくださあい!」最初慇懃な口調だったのが、命令口調に、最後には「こら!やめろ!」と怒声に変わった。それに構わず力いっぱいガラス壁を叩き続けた。大きなブザーのような音が鳴り、シューという高い音が止んだかと思うと今度は地鳴りのような低い音が連続して聞こえ始めた。頭上で扉の開く音がして、引きずり出された。床屋のような白い服を着た二人の男に手と足を押さえられ、寝台の上に叩きつけるように寝かされた。腰を浮かせ体全体で跳ねるように抵抗したが、腕を押さえていた男に無理やりうつ伏せに寝かされ、背中に乗られたら動けなくなった。
下着を下ろされると、色白の男が尻に針を刺した。「殺されるう! やめろぅ!」何度も叫んだ。今度は仰向けにされ、手足を帯のようなもので縛り付けられた。色白の男が聡の耳から詰め物を外そうとしたとき、 目の前にきた腕に噛みついた。噛みつかれた色白男は悲鳴を上げ、何度も聡の顔を叩いた。引き離された腕の白衣には赤いシミが広がっていた。歯茎と顔面の叩かれたところがジンジンと痛んだ。
眠くなってきたが聡はぎりぎりまで眠気に抵抗した。ここで眠ったら間違いなく殺される。それしか考えられなかった。やがてどんなに叫ぼうとしても舌がもつれ言葉にならなくなってきた。縛られた腕に力を入れようにも重たくていうことをきかなくなった。
周囲の人間たちは敵意に満ちていた。何を話しかけられてもすべて罵声に聞こえた。自由を奪われていることが心底恐ろしかった。なぜ世界はこんなに恐ろしいことで満ちているのだろう。聡は恐怖に耐えながら夢の入り口で、嘗てあったはずの優しかったものの感触を思い出そうとしてみた。しかしどんなに必死に探してみてもそれは見つからなかった。
聡は一酸化炭素中毒の症状があったため高圧で酸素を投与する大型のカプセルに入る必要があった。入院当初認められた歩行や意志疎通の困難、興奮、衝動性の高さ等の症状は概ね改善したが、軽度の記憶障害が残った。火事の記憶は断片的だったが、それが現実であったと認識できるようにはなった。見舞いに来ていた母親は全くその話をしようとしなかったので、聡は何度もしつこく尋ねて話を引き出さねばならなかった。病室から一人で外に出ることも、テレビもラジオも禁止されていた。なぜそこまで厳しく行動を制限されるのか理解できなかった。主治医であるという色白の男に尋ねても明確な返事は返ってこなかった。
気がかりなことはたくさんあった。
火事のとき一緒にいた竹夫はどうなったのか。美津子は聡が入院したために計画を断念したのだろうか。母は殺されずに済むのだろうか。火事の原因はどのように考えられているのか。周りの家に燃え移ったりしなかったのか。ヒナはもう巣立ったのだろうか。
そのうち、火事の被害についてだけは、延焼はなく自宅が全焼しただけで済んだことが分かった。母は現在ホテルで生活しているが、聡が退院するまでにはアパートかマンションを借りる予定だと言った。
母は毎日面会に来た。聡がいくら来る必要がないと言っても変わらずにやって来た。以前は日付が変わってから帰ることも多かったが、今は仕事を無理に調整して消灯時刻の九時前には面会にやって来る。それでも面会時間は本来七時までだから、それを過ぎての面会を、個室での対応を条件に許可してもらっていた。
七月中旬、次週に退院の予定をひかえていた。その日も母はいつも通りの時刻にやって来てベッドの近くに座った。憔悴し切っているように見えた。いつものように聡の調子を尋ねてきたが、その声にためらいを感じた。行動制限や看護師たちの様子からも、自分に伝えたくない何かがあることは以前から察しがついていた。
「聡……退院したら、しばらく学校は休んで引っ越ししよう」
「引っ越しって、家は焼けちゃったんだからそうするしか……」
「いや、そういう意味じゃなくて、すごく遠くに引っ越そう」
「すごく」のところが強く耳に残った。「どういうこと?」聡が聞き返してもしばらく答えがなかった。目を逸らして言葉を探している。一体、隠すべきどんなことがあるというのだろう。聡は自分が、多少のことで驚いたりするとは思えなかった。今日こそはすべてを聞き出そうと、母に強引に迫った。理由が分からなければ提案に従うことはできないと言った。自分には聞く権利があるとも言った。みんな大した理由もなく相手が子どもだというだけで情報を制限しているのだと高をくくっていた。
「竹夫くんが人を殺したのよ」
消灯時刻を伝える放送があり、廊下の電気が消えた。
「殺されたのは同じクラスの美津子ちゃんよ」
冷房が良くきいている。少し温度を上げたほうが良い。ここは少し寒すぎる。
「それは誰から聞いたの? 最近学校で変な噂が多いんだよ」
「噂じゃない。本当のことなの。本当に起こってしまったことなのよ」
おかしい。急に体が震えてきた。背中の辺りが妙に寒く、全身が緊張している。
「ねえ、竹夫に言ってよ。見舞いくらい来いって。もう、いいだろ? 面会ぐらい」
「竹夫くんは今鑑別所というところにいるの。会えるのは弁護士さんと家族だけ」
「ねえ、お母さん。竹夫って、知ってるよね。あの竹夫だよ。おかしいよ、それ」
「そうよ……あの竹夫くんよ」
「なんで、竹夫が美津子を殺すの?」
「なぜかは分からない。竹夫くんは何も言わない」
「ちょっと、待ってよ」
「ごめんなさい。ずっと隠しておくことはできないって分かってた。竹夫くんはあの夜突然家を出て彼女を殺したの。裁判所はあなたが何か知ってると思ってる。退院したらきっと調べにくるわ。そしたら……」
「待てって言ってるだろ!」
母は聡をじっと見ていた。
なんでそんな目で見るんだ。自分の子どもをそんな目で見ないでくれ。俺はあんたの患者じゃない。何を探してるんだ。俺の中のいったい何を見たいんだ。
「……ごめん、大きな声出して」
体の震えを止めようと両腕で自分の体を押さえつけようとした。
「あの、ちょっと寒くて……冷房切ってくれる?」
母が立ち上がった。聡はその隙に布団を頭まで被った。
「ねえ、違うんだろ? 本当は。ねえ、母さん。違うんだろ」
「……ごめん。違うって言ってあげられない」
「ねえ、母さん。それは違うよ。それは正しい答えじゃない。間違ってるよ。だめじゃないか。間違えたら」
正しい答えは一つだけなのに、間違った解答はとても多い。きっとたくさんの狂った答えがあって、母が言ってるのはその一つにすぎない。
「おっかしいなあ、それは。きっと違うよ」
廊下から足音が近づいてきた。ノックが聞こえ、ゆっくりとドアが開いた。
「お変わりないですかあ?」
巡回の看護師が明るい声で問うた。
「はい、変わりありません」
母が当然のように、正しい答えをした。
聡は布団の中で、声を殺して泣いていた。
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