第15話

家に帰ってからずっと算数の勉強をしていた。何も考えずひたすら問題を解いた。いつも通り丁寧に隙がないように、一題一題最善の解法を求める。他に何も入り込ませない。この時間はまだ、聡のものであるはずだ。今やっているこの行為がどこにつながるのかも考える必要はない。テキストは“大事に”せず、足りないことを書き込んでいく。どんなに詳しいテキストでも足りないことは山ほどあった。提示された知識を自分のものにするために関連する大切な項目を、保存されるべきひらめきを、行間に、余白に、ゆっくり確かめながら詰め込んでいく。ノートには思考の道すじを、洗練される前の内容も含めて、漏れがないように記載する。回り道があれば意味のある回り道か吟味することも怠らず、経験として得られるものがあればたとえそれが最速の方法でなくとも確実に記憶に残るよう足跡を残す。当たり前と思ってやってきたことを今日も当たり前に、ごく普通のこととしてよそ見をせずただ淡々と行う。


「ふざけるな!」

 大声で叫んで立ち上がってみた。現実の声のような気がしなかった。

 ばからしい、こんなことはあり得ない……そのあとの言葉は何でも良かった。もう少し何か言葉をつなぎたかった。でも、声が出なかった。立っていることができずに、ただ座った。


 目の前の壁にはテストや授業の予定が書かれたカレンダー、年表や世界地図、前回の模試の結果が貼ってある。大きな年表は、貼ったときは破れそうなほど張りつめていたのに、今では湿気を吸い壁の上でだらだらとした線を描いて波打っていた。金閣や銀閣、平等院鳳凰堂の写真は色あせ、犬養毅首相の顔からも覇気が失われていた。世界地図の上ではメルカトル図法で描かれたロシアやグリーンランドが異様に大きく世界を威圧し、太平洋の真ん中に引かれた日付変更線はどこまでも不自然で、航空路を示す頼りない放射線は遠慮がちに巣を張った蜘蛛の糸のようだった。

 前回の模試は全国での総合順位が二桁に転落した悔しい結果だったので、敢えて忘れないために順位にマーカーを引いて貼っておいた。テストの結果を指さしている大手進学教室のマスコットキャラクターが、その順位を指さして憎たらしく笑っているように見えるのが悔しさを倍増させる良い効果を出していた。カレンダーには来週の公開テストの日付に大きな赤丸がつけられている。前回のテストが終わってからその日に照準を合わせて綿密に組まれたスケジュールが授業や学習内容、進捗状況も含めて事細かに書いてある。それを見ると弓を引き絞るようにしてためられたエネルギーがそのテストで発散されるように仕組まれてることが良く分かる。そのカレンダーは単なる日付の書かれた紙切れではなく、努力の方向を示す海図のような意味を持っていた。それらをしばらくぼんやりと眺めてから、一枚ずつ、はがしていった。裏に隠されていた広い壁が現れた。その白さが目に痛かった。


 久しぶりに父の部屋に入った。黴と埃と本の匂いで咽せそうになる。この部屋のすべてが埃を被ったまま放置されているのは、もはやノスタルジックな意味よりもこの部屋の物に敢えて触れることの不自然さを示しているに過ぎなかった。

 机の下は、昔よりかなり窮屈だったが、身を屈めて入れば体を納めることができた。膝を抱え目を閉じてみた。別に良い思い出などない。今でも悪態をつきながら自分を捜す父の声が聞こえたし、口から吐物を流しながら転がっている父の姿が見えた。

 結局ここに帰ってきた。どこに行きたかったのだろう。ずっとここにいれは良かった。そうすれば誰も捕まえに来ることなどなかった。もともとどこに行く必要もなかったのだ。

 本棚の、机の下から見える低い位置にファーブル昆虫記が並んでいる。あの頃と同じように、埃だらけの床の上を這って行き、一冊を取り出して読んでみる。

 砂岩でできた黄土色の崖が目の前に広がった。そこにあいた無数の穴にハチたちがひっきりなしに出入りしている。よく見るとゲンセイという昆虫の小さな幼虫が、親バチの背中にしっかりとつかまっていて、ハチの幼虫を食うために、巣の中の小部屋へ潜り込もうとしている。自分の子を食らうゲンセイの幼虫を自らの体で運びこんでしまう親バチの行為について考えた。そこには残酷さなどという人間の評価を受けつけぬ、ただ生き物が成長し子孫を残すための精巧な仕掛けが存在した。

 誰かが食い、誰かが食われる。そこに感情や価値観の入り込む余地などない。時が経ち、歯車が回り、針が動く。動力源がある限り、仕掛けは動き続けるだろう。悲しいからといって仕掛けは止まらない。嬉しいからといって先を急いだりしない。純粋なシステムは淡々とその原理に従って進行を維持するだけなのだ。もうすぐだ。もうすぐ、この家は燃やされ、自分は新たな仕掛けの一部になる。果たして、それは悲しいことだろうか?

 疲れていた。いくら勉強しても、どれほど体を動かしても感じたことのない疲れだ。体が重い。机の下で、膝を抱えたまま体を横たえた。目の前にはさっきまで読んでいたファーブル昆虫記の背表紙が見える。平和な水色をしている。すべての生き物たちによる喧噪が終わった後に広がる海の色だ。この部屋で死んだとき、父は最後にいったい何を見たのだろう。

 ……ここは海の底みたいだ。


 

 聡はまだ、机の下にいた。野焼きをした時のような強い焦げの臭いがする。ここにとどまっていたい。外の世界は見たくない。もう十分だ。これで終わりにしよう。

 私には分かるの……何が分かっているのか、見せてもらおう。俺について何も知らなかったことを最後の最後に思い知るがいい。美津子は自分の予想が裏切られ歯噛みするだろうか。いや、いくら想像力を働かせたところで、どうしても彼女のそんな姿を思い描くことはできなかった。自分が焼け死んだところで彼女が悔しがるとは思えなかった。どんな選択も彼女の手の内ではないかという恐怖が頭をかすめる。この逡巡すらあいつの読みの中にあるとしたら……どんな必死の選択もあいつの作った柵の中での遊戯に過ぎなかったら……そう考えると生きることも、死ぬこともどちらも等価にばかばかしく、情けなかった。聡はこの状況になってやっと理解した。これはきっとテストなのだ。最後に死ぬよりも屈服して美津子の家族という名の家畜になることを自ら選ぶかどうか試されている。どちらを選んでも俺は負けるようにできている。これは勝負ではない。価値判断でもない。ただどちらの地獄を選ぶのか等価の選択肢が投げ出されているだけだ。「好きなほうを選びなさい。どちらでもわたしは困らない」あいつの声が聞こえたような気がした。この世界で何を望むのか。生きることも、死ぬこともここではそんなに大差がない。望めることも少ない。しかし、そんなことに関係なくどちらかを選ばなくてはならない。

 父はそんな地獄の中で死ぬことを選んだのだろう。父が何を望み、何を怖れたのか、どんな苦しみをどれほど苦しんだのか、今までどうでも良かったことが今は気になってしかたない。

 煙がうっすらと漂い始めている。想像よりずっと火が回るのが速い。もうここが安全でないことは分かっている。 


 俺の家。俺の家族。帰る場所。父の仕事部屋。俺の避難場所。机の下。俺の安全地帯。


 自分はここを出なければならない。逃げなければならない。良いことなんかなくてもここを出なければならない。たとえ外が地獄でも、その地獄を見るためにここを出なくてはならない。そして、自分は美津子の家に行き、美津子の妹の誕生日を一緒に祝うのだ。歌えと言われれば歌うかもしれない。踊れと言われたら踊るだろう。それでも生きる。奴隷でも家畜でも構わない。醜態をさらしても、生き延びる。 

 

 人の足音とともに突然扉が開いて、どす黒い煙が部屋の中に流れ込んできた。一瞬の間の後、足音は遠ざかっていった。声を出すために息を吸おうとしたが、咳が出て声にならない。どこにこんな大量の煙が充満していたのか。今まで密閉された部屋の中にいて気づかなかった。空気の流れにそって、のたうちまわる黒い獣のような煙が室内に流れ込んでくる。重い煙が濃密なプラスチックや木材の焦げる臭いとともに鼻から喉元を滑ろうとしたとき、無数の針で刺されたような刺激に耐えきれず吐くほどむせ込んだ。喉頭の粘膜が毒を含んだ気体を肺へ進入させないよう全力で拒絶しているのだ。喉をかきむしるような刺激が怖くて息ができない。一回の呼吸をするのでさえ本能的に恐ろしい。

 激しいむせ込みが聞こえたのか、濃い煙の向こうにもう一度人影が現れた。きっと母が予定より早く帰ってきたのだ。ここに母が来たのでは自分が守ろうとした意味がなくなってしまう。この状況では母も自分も焼け死んでしまうかもしれない。たとえ生き延びたとしても美津子はあの三人を殺したように母を殺すだろう。

 机の下から見えるファーブル昆虫記の背表紙、立ちこめる黒い煙、バキバキと家中が爆ぜる音……あの日の不器用に新聞紙で包まれた大きな弁当箱、それを渡す父の手、反吐を垂れ流して床に倒れている父の姿。何もかも、すべてのものが、現実も、非現実も混ざり合いながら渦を巻いて遠のいていく。はっきり目の前のものを見ようと思うのに目の焦点が合わない。


「タケ……おまえ何やってんだ?」

 差し出された手の向こうには見慣れた友のべそをかいた顔があった。こいつはいじめられると良くこういう顔をしていたなと思い出す。竹夫はオォーと雄叫びのような声を上げると聡に抱きついた。(何をやってるんだこいつは)自分が受けている圧迫の意味が理解できなかった。聡の頭の中は靄がかかったように濁っている。さっき部屋に入ってきたのはやっぱり母親だったような気がして、竹夫に抱きしめられながら母親はどこにいったのかと不思議に思っていた。竹夫に引きずられてやっと立ち上がると、少しずつ目の前の状況が現実のものとして迫ってきた。

 逃げなければならない。逃げて生き延びるのだ。

 竹夫は「さとしくん、さとしくん」とぶつぶつ言ったり咳をしたりしながら、聡の腕を肩で担いで窓の近くへと連れて行った。「タケ、大丈夫か?」聡は自分が支えられながら、竹夫の様子が心配になり尋ねた。竹夫はそれには応えず、やはり聡の名を呼び続けて、時々ゼーゼーと変な息をしていた。そういえば竹夫は低学年の頃まで、今と同じような息をしながら体育のときもよく休んでいた。聡はまだ半ば意識がもうろうとしていて昔のことばかりを思い出した。

 竹夫がアルミサッシの鍵を外し、窓を開けようとした。聡を支えながら、いくら力を入れても、叩いても窓はビクともしなかった。竹夫は泣きべそをかきながら狂ったように窓枠を叩き続けた。焦ってやり方を間違えているわけではない。家が変形したため圧力がかかっているのだ。

 聡の意識はさらに混沌として、もうしゃべることすら難しかった。「もういいから、置いて行けよ」そう言って、竹夫の肩から腕を外して逃れようとするが、手首をがっちりつかまれていて離れることができなかった。「行けよ」何度繰り返しても竹夫から返事はなく、そう言うごとにかえって手首をつかむ力が強くなり、皮膚に爪が食い込んだ。

 竹夫は体中の水分を眼球から絞り出すかのように泣き続けている。竹夫がしゃくり上げるのに合わせて聡の体も上下して、そのたびに油切れの機械のように節々がギシギシと音を立てた。別にどこかぶつけたわけではないのに、体中が熱っぽくひどく痛んだ。ガタがきている、俺の体はもう使えない。まだ、体が燃やされたわけじゃないのに、使い物にならない。聡はそんなことをうつらうつらしながら考えていた。

 竹夫が聡をつかんでいた手を突然放した。やっと拘束から解放され、床に放置された。聡が「これで良い。早く逃げてくれ」と思った途端に、竹夫の強烈な一振りがガラス窓を割った。とらわれの者たちを開放したかのようにいっせいに煙が出口を求めて這い出していった。何度も椅子が振るわれ、そのたびにいびつな形の出口は大きくなった。煙の向こうには暗い夜空があり、ここ以外にもまだ世界が存在することを示していた。

 竹夫は自分よりも大柄な聡を抱え、空調の室外機を台にしながら窓枠を這うようにして越え、ガラスの破片だらけのベランダに躍り出た。聡は落下し、臀部を強打した。服ごしにガラスが突き刺さった。ふらつきながらも自力で立ち上がろうとして手を突くと、さらに皮膚が引き裂かれた。先に立ち上がっ竹夫の足下をみると裸足だった。きらきら光る大量のガラスを踏みしめながら聡に近づいてくる。「もういい!大丈夫だ。もういいから!」痛みと外の酸素のおかげで聡の脳の働きは多少良くなっていた。しかし、落下のダメージもあって、体の自由はあまりきかない。自分がこんなだから竹夫が無理をするのだと歯がゆかった。

 聡は竹夫を手で制してから、ガラスの破片を引きずりながら這い進んだ。ベランダの端にたどり着き、柵につかまりながら立ち上がった。炎の勢いが振動とともに伝わってくる。折れる音。爆ぜる音。倒れる音。多分、家が建てられてから一番賑やかなのが、今だ。階下から上ってくる煙はどんどん勢いを増し、背後からはじかに熱気が迫っていた。

 聡は柵につかまり前方の屋根を見た。ぼんやりした頭でスズメのヒナが巣立つ様子を思い出した。彼らは決して初めから上手に飛ぶわけではない。最初は落ちるのだ。不器用にボタリと音を立て、みっともなく落ちるものもいる。それはお世辞にも飛び立つと言えるようなものではない。どんなに不器用なやり方であっても、彼らはとにかく外に出る。きっとその後どうなるかなど考えもしない。

 自分が最初に逃げなければ竹夫は逃げられない。聡が逃げれば、竹夫は絶対についてくる。竹夫が聡のあとをついてこなかったことなど一度もない。聡は竹夫のほうを一瞥してからベランダの柵を乗り越えた。屋根の先端まで行く。前方にはよく茂ったキンモクセイの木が見える。何も考えずほとんど落ちるようにして飛んだ。

 枝にしがみつくつもりがバリバリと音をさせてそのまま地面に落下し、腰をしたたかに打ちつけた。しかし後に続く竹夫のことを考えるとその場でじっとしいるわけにはいかない。這いつくばって木の下を逃れると、うつ伏せのまま芝生の上で力つきた。スズメたちの糞が雨に濡れて強い臭いを放っている。土砂降りに近い雨が聡の頬を打っていた。聡よりは上手く着地した竹夫が聡の近くに走り寄ってきた。荒っぽく揺さぶりながら「生きてる? 生きてる?」とまだ息をヒューヒュー言わせながらしゃがれた声で叫ぶように問い続けている。遠くから聞こえる消防車のサイレンに合わせて近所の犬が遠吠えをしていた。

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