第14話

 ヒナはあれから徐々に元気を取り戻し、今では前とほとんど変わらない量の餌を食べられるようになった。相変わらず自分のことを鳥とは思っていない様子で、部屋の中を飛び回り、聡に見せるように旋回し、頭にとまったりした。以前より少し痩せたような印象もあったが、乾燥した餌をしっかり食べていたし、動きも機敏で頼もしい感じがした。くちばしの黄色い部分もほとんど見えなくなり、ぱっと見には、外を飛び回り子どもを育てている他の親鳥たちと見分けがつきにくくなってきた。

 巣立ちのトレーニングも再開していたが、雨の中で安全を確保できないヒナにとって、梅雨が間近に迫ったこの時期に無理に巣立たせることは命取りになる。むしろ今となっては、巣立ちの時期を遅らせる必要があった。巣立ちを焦らなくても良くなったので、聡はヒナの健康の回復に専念することができた。


 しかし、健康の問題とは関係なく、ヒナを敵意や憎悪の渦巻く学校に、もう連れて行くことはできないと思った。

 教頭から鳥のことで困ることがあったら相談するようにと、周辺では唯一の鳥を見てくれる獣医の連絡先を渡されていた。机の奥にしまわれていたメモを見つけだし、その獣医に連絡した。

 事情を話すと、突然の申し出にも関わらず、獣医は昼間ヒナを預かることを快く引き受けてくれた。聡は大人の助けを得なければならないことを情けなく感じた。しかし、かりに獣医が引き受けてくれなかったとしたら昼間のヒナの居場所について途方に暮れていただろう。「ありがとうございます」という言葉が、何の抵抗もなく、自分の気持ちとして口から出たことが不思議だった。それほど長い間、大人に対して感謝の気持ちを素直に表すということをしていなかったのだ。聡はお金を払うことを申し出たが、獣医は受け取ろうとしなかった。だが、獣医の善意をあてにして、これからずっと聡の代わりにヒナの面倒をみてもらうというわけにもいかなかった。


「竹夫、ヒナに名前つけたいって言ってただろ? お前、つけてくれないか」

 学校からの帰りに切り出した。

「えっ、何で? そんな急に言われても困っちゃうよ」

 と言いながら、竹夫がすでにウズウズしているのを感じた。

 ヒナを拾ってからすぐの頃、竹夫だけではなく何人かがヒナに名前をつけようと提案したが、それを聡が却下していたのだ。当然のことだが、ヒナが帰って行く自然界では名前などなくても仲間同士がお互いを認め助け合う。名前がなければ愛せないというのは、人間のあまりにも勝手な都合に感じたのだった。もちろん、聡の理屈を本当に理解し、支持してくれるような人間はいなかった。竹夫はどうして聡が反対するのか理解できずに驚いていたし、他の連中は明らかに反感を抱いていた。そのような強硬な態度をとったことについて聡自身も全く反省がないわけではない。自分が孤立したことについてはともかく、ヒナとクラスとの間に溝を作る一因となったことは後悔もしていた。

「じゃあ、ハリーってどうかな」

「ハリー?……他のじゃ、だめなのか?」聡は、竹夫がつけそうな名前をいくつか考えてはいたのだが、竹夫の趣味にそんなレパートリーが存在することをまるで予想していなかったのだ。

「母ちゃんが『ダーティ・ハリー』のファンでさ。よく、『ハリー、ぶっ殺せ!』って言いながら見てるんだ」

「おまえの母ちゃん……大丈夫か?」

「うん、母ちゃんが警察だったらハリーの倍は殺してる」

 深い理由もなくアウトローな刑事の名をもらうヒナのことは不憫だったが、他に考えた名前が、……バード鳥井、鳥羽捕獲、大雀喰太郎、米泥棒、農家之友など、あまりにもあんまりだったのと、特に実害はないはずなので、結局“ハリー”で決定した。

「じゃ、これでお前が名付け親だ。今日からハリーを頼むぞ」

 突然のことに呆気にとられている竹夫に、聡は今日からヒナの面倒を見て欲しいと頼み込んだ。

「聡君、いいの? ヒナを、ぼくに任せても」

「少しの間……来週のテストまで預ってもらえないか? 今度のテスト勉強ちょっと気合い入れないと、特待生から外されたりしてマズいんだ。タケのうち、母ちゃんもいるだろ? 何とかなんないかな?」

 本当のことを言えない疚しさが聡を饒舌にしていた。テストは竹夫も受けるのに、我が儘な言い分を押しつける自分に嫌気がさした。

「聡君に頼まれたんだから、ぼくが全部やるよ。ぼくがどうしてもできないときは……父ちゃんだな。家のことはみんな父ちゃんがするんだ。母ちゃんに頼まれたときなんか、三秒以内にするよ」

 竹夫は一度引き受けたことはしっかりやってくれる。それを聡は良く分かっていた。だから、竹夫が引き受けてくれたら、やり方さえしっかり伝えれば、安心して任せたらいいのだ。安心して良い、……だから、寂しかった。もちろん、こんなことを考えることも、勝手で申し訳ないことだと分かってはいた。でも、もし竹夫が「面倒なんか、みれないよ」と断ってくれていたら、聡は困った振りをして、美津子にもう少し抵抗できたかもしれない。でも、美津子はそんなに甘くないし、竹夫が聡の頼みを断ったりするわけがないのは最初から分かっていたことなのだ。そして、最後に聡が頼れるとしたら竹夫以外には考えられなかった。


 

 竹夫は聡が“いつもの聡”に戻って嬉しかった。 

 ヒナを盗られた日以降、以前のように話ができるようになったし、竹夫を見ても逃げなくなった。それだけでも十分だったが、なんだか前よりも聡から話しかけてくることが多くなった。そういった意味では“いつもの聡”ではなかったが、無視されたり、避けられたりすることのつらさに比べたら、多少の違和感など何でもなかった。

 ヒナの世話を頼まれたときも、まずは竹夫を頼ってくれたこと、しかも大切にしているヒナの世話を任せてくれたことに、自分に対する信頼を感じた。竹夫は、聡が非常に細やかにヒナの世話をするのを間近にみてきて、ヒナが聡にとってどれほど大切な存在であるかを身に染みて分かっていた。そのヒナを自分に任せるという。竹夫は期待に応えようと気合いを入れた。それに加え、今の自分には聡の荷物が二度と盗まれないように見張っておくという重要な務めもある。竹夫は自分が聡によって認められ、必要とされているという充実感ではちきれそうになっていた。

 

「これ、タケにやるよ」

 家に一旦帰った後、聡がヒナの入った鳥かごの次に持ってきたのは、参考書や問題集がぎっちりと詰まった段ボールだった。竹夫は最初「レベルたっけー」などと言いながら段ボールの中身を物珍しげに取り出して眺めていたが、その中に聡が受ける学校の過去問や使っていない問題集がたくさん入っているのを見つけて表情を曇らせた。

「聡くん、この問題集、もう使わないの?」

「……いいんだよ、俺違うことするから」

 竹夫は“最高水準”とか、“ハイレベル”などと書かれた分厚い背表紙を見て、聡にとってはこれでも物足りないのかと感心した。中には自分も持っているものがあったが、敢えてそのことにはふれず、自分が聡と同じ教材を持っていたことに幸福を感じた。

 竹夫は最近自分でも「頑張っている」と感じていた。聡の部屋の電気が消えるまで寝ないのも続けていたし、マンガやゲームは一切禁止して、家にいる時間のすべてを勉強につぎ込むようにしていた。トイレに張った暗記事項を座ってから三回ずつ唱えるまではウンコしないとか、眠気を覚ますために椅子に座らない“立ち勉”をしたり、顔を洗ったり、それでもダメなとき頭を壁に打ちつけて、その音に頭に来た母ちゃんが反対側から壁を叩いて拳の形に穴が開いたりしていた。でも、ウンコとか母ちゃんの拳はともかく、すべての時間を勉強につぎ込むことなんて、みんなやっていることだ。だから、何とかみんながしてないことをしようと、さらに知恵をしぼり、問題を解くまで息をしないと決めて目の前が暗くなったり、鉢巻きをきつく巻き過ぎて、外した後も坊主頭に紫色の鉢巻きをしているみたいになったり、迷走しながら工夫を続けていた。

 今回のことも、竹夫が最近頑張っていることを認めて、聡が応援してくれているのだと思った。その期待に応えて参考書や問題集を全部やったら、聡と同じ中学に行けるのではないか。竹夫は眼の前に積み上げた教材の山を見ながら、それをすべてやり終えた自分を想像した。それから、中でも一番難しそうな“難関校突破”と書かれた渋い緑色をした問題集を開きながら言った。

「ぼく、ぜったい大事に使うよ!」

 それに応えて、聡が俯きながら

「……大事にするな。どんどん書き込んで、汚したほうが頭に入る」

 竹夫は「そっかあ、深い! 深過ぎるなあ」と感嘆の声を上げながら“大事にするな!”と聡ノートに素早く書きこんだ。そして、もう一度“難関校突破”の本をなるべく乱暴に開いた後、しばらく眺めてから聡に聞かれないように呟いた。

「うーん、コレ……何語かな?」



 土曜日の夜遅く、今度は公衆電話から電話がかかってきた。

 その日は激しい雨が降っていた。

「聡くん、わたしが言った通りに家を出なさい。そして、あなたはみんなの前から姿を消すの。先生は遅くまで帰らない。交代の院長が夜中に帰るまで病院を出られないから。……それと、警察に言ってもムダよ。そりゃ誰かは捕まるかもしれないけど、わたし自身は痛くも痒くもないから」

 ……それと、おやつは五百円までですよ、か。

 冗談が言えるような余裕はなかったが、少なくともこの前よりは冷静だった。自分の平静を示すのに「バナナはおやつに入りますか?」とでも言ったほうが良かっただろうか? でも、このときの聡には他にどうしても聞いておきたいことがあった。

「俺が家を出るだけじゃ、だめなのか? どうしても家は燃やすのか?」

「言ったじゃない? 聡くんを守るために邪魔になるものはぜんぶ消えてもらうって。良く考えてよ、家があるってことは帰る場所が他にあるってことよ。そんなのだめよ、話にならないわ。これでも大目にみたつもりよ。本当はお母様にも病院の駐車場で死んでもらうはずだったんだから。あんまり我が儘言ったらだめよ?」

 父との思い出の詰まった家を守れそうにないことを、母に対して申し訳なく思った。父が元気だった頃には、お母さんと相談して便利になるようにこうしたとか、散々家の自慢話を聞かされたものだった。聡が大きくなったら、弟や妹がうまれたら、といった計画はぜんぶ無駄になってしまったが、当時は父の話を聞き、家の中が変化する様子を想像するのが楽しかった。

 願いを託した申し出が却下されてもなお、美津子の中に、まだ何か自分と共通の望みや怖れはないのか、今は眠っていても必死に訴えたら揺り起こすことのできる人間らしい感情は残っていないのか、聡は問いを重ねずにはいられなかった。

「おまえはこうして、本当に満足なのか? 俺がおまえと一緒にいて、閉じこもって一体どうするつもりなんだ?」 

「どうもしないわよ。それに、その気になればどうにでもなるわよ。あなたもすぐに、私に救われたことを喜ぶようになるわ。でも、質問が多すぎるのは感心しないわね。嫌われるわよ。嫌われてはいけない相手から」

 聡にはもう言うべきことも、言えることもなくなり、ただ電話の向こうにいるかつての友人、現在の主人に対して沈黙で屈服を伝えることしかできなかった。


 翌日の日曜日も雨は降り続き、聡の住む地域で梅雨入りが発表された。頭上は、かつてその向こうに青く澄み切った空があったことなど思い出せぬほど厚い雲に覆われ、一時間に五十ミリを越える激しい雨が降り続いた。

 授業が終わってから、これまで熱心に勉強を教えてくれた塾長に最後の挨拶をしようと、急なことを謝りつつ今日限りで塾をやめたいと告げた。最初は驚いていたものの、意外にも引き留められはしなかった。

「うちみたいな一人の教師が何教科も教えるような零細の塾じゃ、物足りないんじゃないかと思ってはいたんだが……これからも頑張ってくれ」

 塾長が寂しそうな表情を隠しきれないまま言った。

 理由を言いにくそうな様子を見て、聡が他の塾へ変わるのだと誤解したらしい。塾長は不器用だが彼なりのやり方で聡が気持ち良く塾を去ることができるように気を使っていた。聡はこの人を単に勉強を教えてくれる便利な存在としてしか見ていなかったことをすまなく思った。

 

 激しい雨は夕方には止んでいた。

 夜まで降り続いてくれれば、家を燃やされたときの延焼を最小限にできるかもしれないと期待していたのだが、塾から帰るときには傘も必要なくなっていた。今日の塾は選択授業で竹夫はいなかったので、帰りはひとりだった。

 塾の駐輪場に、房子がいた。

 彼女らしくない重苦しい雰囲気を纏い、トタン屋根の下の空いたスペースに佇んでいた。聡のほうから、なるべく軽い調子に聞こえるように「どうしたの? 奇遇だね」と声をかけた。

 房子は聡の方を伺うようにしながら遠慮がちな口調で応えた。

「ごめん、突然。ちょっと話したいことがあって……待ってたの」

「また、塾だってタケが言ったの?」

「あんたが行くところなんて、学校と塾くらいでしょ? すぐ分かるわよ」

 房子は傘を持っていたが、服がかなり濡れていた。

「おまえ、歩いて来たの?」

「うん……」

 聡の家から塾までは自転車でも十五分以上かかる。房子の家からはさらに倍近くの時間が必要だった。

「ちょっと、聡の家まで、歩きながら話をしてもいい?」

「いいけど、大事な話なら自転車を二人乗りして、俺の家に行ってからのほうがいいんじゃ……」

 房子は少し笑いながら「あんたと二人乗りなんて嫌よ」と言った後、「それに歩きながらのほうが話せそうだから」と小さな声で付け加えた。

 聡は自転車を押しながら房子の後をついていった。今日の房子の歩調はゆっくりで、ついていくのは楽だったが、何だかいつもより背中が小さく見えた。二人とも大通りから路地に入るまでの十分以上の間、黙ったままだった。人通りが少なくなってから房子が話し始めた。

「最近、美津子と会った?」

「いや……なんで?」聡は警戒しながら応えた。

「あの子、最近おかしいでしょ?」

「おかしいかどうか……全然学校も来てないし、分かんないよ」聡はできるだけ不自然にならないように注意しながら、何も知らないふりをした。

「実際、学校に行けないくらい体の調子が悪いのよ。それに、どんどん精神状態も悪くなってきてる」

「どっか病院とか行ったほうがいいじゃないの?」

「行ってるわよ。病院にも行って薬ももらってるし……それでも良くならないのよ」

「おまえ、美津子によく会いに行ってるのか?」

「うん、会いにも行ってるし、私なりにできるだけのことはしてきた。……でも、ごめんなさい。あなたにとっては、とてもつらいことになって……」。

「ごめんなさいって……。おまえ、美津子から何かきいてるのか?」

「何かって……おそらく全部じゃないかしら」

「……ちょっと、待ってくれ」

 聡は、動揺を隠せなかった。どういうことなのか、事態が全く飲み込めない。

 二人の話す様子がよほど深刻そうに見えたのか、通りがかりの男子高校生のグループが振り返った。「小学生の別れ話か? すげーな」などと言ってるのが聞こえた。

「最初、わたしはあなたを巻き込むのは反対したのよ。美津子が休んで、聡を連れて行ったときにも、本当はあんなことにはならないはずだった。美津子は本当に具合が悪くて、ただ聡に会いたいって、言ったのよ。でも結局あなたは美津子を放ってはおけなかった。たぶん美津子には確信があったから、お婆ちゃんのことをあなたに話したのね。美津子はあなたのことなら何でも知ってるから」

(これはいったい何の話なのだろう?)

 房子が美津子について語っていることは分かった。話の表層をなぞることもできた。

 今となっては現実にそんなことがあったのか、自分の妄想であるようにも思えたが、美津子が友人で、彼女だったら何でも分かち合えると思っていた時代のあったことを思い出した。まったく、素晴らしい能力だった。話さなくとも聡が伝えたいことを分かってくれた。彼女といれば世界と仲直りできたような気がした。今、彼女はあの美しい力を違う目的で使っているようだ。。

「磯生先生が訪問に来たときにも、竹夫に邪魔されそうにはなったけど、わざわざあなたに手伝わせたの」

 わたしには分かるの……美津子はあの時も祖母の代わりをする聡に向かってそう言った。あいつには本当に分かっていたのかも知れない。あいつは聡の心の支点と力点を理解し、巧みに荷重を行うことによって、最大の作用をもたらし、今の状況を作った。美津子には分かっていた。少なくともあいつが望むことを叶えるために必要な要素について、十分過ぎるほどの知識があった。

「美津子は最初からあなたに執着してた。先生の火事についての噂を流したのも、あなたの居場所をなくすための意味が大きかったんだと思う。私にも意図が分からないようなことでも、とにかくあの子がこうしたらこうなるという一つずつのことが、他の選択肢を徐々に削られて、まるでそうなるしかないように少しずつ本当になっていく。でも、今度のことで、美津子の描こうとしている絵が一応完成するんだと思う。あの子の中ではこれでひとまずは終わるはずなの」

 聡にはまだ、房子までこの事態に関わっていることを信じたくない気持ちがあった。何も信じられなくなり、恐慌に陥りそうになるのを必死にこらえた。できる限り平静を装い、会話を続けることしかできなかった。

「今度のことって、……俺が美津子と一緒に暮らすことか?」

「そして、あなたの家を燃やすこと。彼女にとってはあなたに自分の家はもうないって認めさせるための儀式なのよ」

「儀式って……そんなこと言われて、はいそうですかって言えると思うか?」

「あなたにとって納得できる話でないことは分かってる……でも、これだけは言っとかなければいけない。私よ、今晩聡の家に火をつけるのは」

 思わず歩くのを止めた。房子が振り返ってくれるのを待った。すぐに、「冗談よ」と言ってくれるはずだった。

 彼女との間に広がっていく地面がとても広く感じられた。彼女はどんどん行ってしまう。距離がさらに開いていく。いつのまにか、小雨が降り始め、地面を小さな雨粒が叩いていた。

 しばらくして、聡がいないことにやっと気づいて振り向いた彼女の顔にはどんな表情も浮かんでいなかった。まるで大きな穴のようだった。その穴に向かって雨は落ちていく。雨音さえ吸い込まれて何の甲斐もないように思えた。

 聡は、近づいてもう一度何と言ったのか聞き返そうかと思った。でも、耳の奥に残った残響があまりにも鮮明で、結局その必要がないことを悟った。房子に追いつき、息も整えぬまま、線虫のように湧いて出た理解できないものへの怒りを辛うじて吐き出した。

「おまえどうして、そんなことをするって決めたんだ? だめだろそんなこと……そんなこと許される訳ないだろ? おまえ分かってんのか? 自分が何をしようっていうのか分かって言ってんのか?」

 彼女の顔に開いた穴は、雨と一緒に聡の声も飲み込んでいった。どんな叫びもどんな震えも彼女の生身の感覚器には触れることはないようだった。表情を作るどのような筋肉も微動だにしなかった。 

「おまえ……本当に、するのか。俺の家に火をつけるのか? 儀式だかなんだか知らないが、誕生日ケーキのロウソクに火をつけるのとはわけが違うんだぞ」

 遠くで犬の怒り狂ったような吠え声が聞こえる。道ばたの草が風で大きく揺れている。

 房子の顔が、だんだん微笑みを浮かべているように見え始めた。

「おまえ……試されてるんだよ、美津子に。あいつおまえがどれくらい自分のいうことをきくか、忠犬ぶりを試そうとしてやがるんだ。いいのか、おまえ、そんなんで。このままじゃ、あいつの思うとおりに棒をくわえて取ってくる犬といっしょだぞ?」

「……そんなこと、どうでもいいの。それより、美津子は、本当はわたしの居場所もなくしたいのよ。今日、聡に会いに来たのもあの子知ってるわ。自分が火をつけるって、あの子が言えっていったのよ。おかしいわね。こんなにまでしてあげてるのに。あの子、まだわたしのことを疑ってるのよ。だから、聡に告白させて逃げ道がないことをわたしにも思い知らせたいのね」

 美津子が何を考えているのか、本当のところは全く分からない。

 私には分かるの……聡は慈悲を乞うような気持ちで、それが少しでもどんな意味においてでも良いから本当であることを願わずにはいられなかった。彼女がそれを自分の欲望を叶えるため、聡を弄ぶために使うのは構わない。ただ、少しでもこの疼きと絶望の深さを分かっていて欲しい。状況はそれによって全く変わらないのに、なぜだかそのほうがましだと思えるのだった。

「どうして……そこまでするんだ。そこまですることはないだろ? 何でおまえがあいつの言うことを聞かなくちゃならないんだ」

「わたし、聡はちゃんと知ってると思ってた。お父さんが亡くなってから、あなたは周りを見なくなったから分からないのよ。……私は、ずっと美津子が欲しかった。とにかくわたしは美津子がおかしくなり始めて、やっとあの子を手に入れたのよ。もう二度と手放すつもりはないの。彼女が少しでも躓きそうなら、小石でも全力で打ち砕いて、砂になるまで踏み潰すわ。彼女のためなら、見渡す限りの世界を焼き尽くしても構わないし、鳥が死のうが、人が死のうがそんなことはどうでも良い。わたし、あの三人を屋上から飛ばしたとき、紙飛行機を飛ばす時でももう少し手応えがあるんじゃないかと思った。何人でも何百人でも気が済むまで殺したいだけ、殺せばいいの。それであの子が喜ぶなら。最初、あなたが美津子と一緒に暮らすなんて許せなかったけど、今はそんなことどうでもいい。これであの子の思い描く家族が完成するのよ」

 聡は目の前に美津子がいるような錯覚に陥っていた。

 それは、今の房子の与える印象がおそろしく美津子のそれと似ているからだが、それは実は逆で、最近の美津子が房子によく似てきたのかもしれない。美津子はもともと勘は異常にするどい人間だったが、何かを計画したり、それにむかって実際に行動する力は弱いところがあった。彼女たちはそれぞれが欠けていたからこそ美しかった。それなのに、今はお互いがお互いを食い合うように一つの存在に変貌を遂げていた。今の二人はお互いの素質が醜く溶け合った双頭の怪物のように見えた。

「それから……今日は水無子ちゃんの誕生日なの。あなたが妹への誕生日プレゼントになるのよ。新しい家族が増えて、水無子ちゃん、きっと喜ぶわ。……今晩、自分の家が燃えるのを見たら美津子の家に行きなさい。絶望を抱えながら彼女の家族になりなさい。私は、あなたたち家族を丸ごと包みこむ。これがわたしの仕事なの」

 聡は、彼女が聡の家に火をつけたその足で美津子の家に行き、同じライターを使って誕生日ケーキのロウソクに火をつけるところを思い描いた。

「約束の時間になったら、わたしは聡の家に火をつける。火をつける前に、あなたが外に出たのかどうか確かめたりはしない。あなたは自分で選んで美津子の家族になるのよ。大丈夫、心配しなくても。あなたは間違いなく生き延びて美津子の家に行くわ。美津子があなたについて読みを間違えるわけはない」

 たのむ、たのむ、たのむ……。

 聡は房子の話を聞きながら、気が付くと小さな声で呪文のようにそうつぶやいていた。そして、不自然な間の後、その後に続く言葉をやっと口にすることができた。

「……たのむから、やめてくれ。他のことなら、何でもする。あいつが望むように何でもしてやるよ。妹のために踊れって言われりゃ踊るし、あいつのケツを背中にのせて椅子代わりにでも何でもなる。おまえがやるんだろ? おまえがやめれば、おれの家は燃えなくて済むんだ」

「悪いけど、あなたの願いを叶えることはできないわ。そんなことしたら、何もかも……ぜんぶ嘘になってしまうから」

 房子は聡の家の前まで来ると、別れも言わずに本降りになった雨の中を帰って行った。

 聡はその背中をじっと見ていた。

 房子が手に持った傘をさすことはなかった。

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